
甲運橋を渡って石和宿を抜けると、国道411号線の現道を川田町、和戸町とまっすぐに通り、約4㎞ほどで中央本線「酒折駅」を過ぎて酒折地区に入ったところで、地名ともなった「酒折宮」(上段写真)へ立ち寄ることにします。
ここは景行天皇14年、日本武尊が東夷を平定したその帰途に滞在した跡。
日本武尊がここで詠んだ、
「新治(にいばり) 筑波を過ぎて 幾夜が寝つる
かがなべて 夜は九夜 日には十日を」
が、我国初の連歌とされています。
また、江戸中期の公家歌人冷泉為綱は、
「くれぬ間に 嵐はたひて酒折に 枕から夜の 雨になるおと」
の句を残しています。
酒折宮を過ぎるとすぐに善光寺地区となり、今度は「甲州 善光寺」へ立ち寄ることに。

川中島の合戦で信濃の善光寺が類焼することを恐れた武田信玄が、永禄年間に本尊の阿弥陀如来像を始め寺物の殆どをこの地に移したのが始まりで、江戸時代になってからも代々の国主たちの篤い信仰を受けていました。
しかし、宝暦4年(1754年)に門前の農家からの出火で全焼、42年後の寛政8年(1796年)に再建されたのが、現在の金堂。
神社のような丹塗りの柱や梁が印象的です。
戻りがけに参道から東方向を見ると、頂きに白雪を載せた富士山が。

ここは景行天皇14年、日本武尊が東夷を平定したその帰途に滞在した跡。
日本武尊がここで詠んだ、
「新治(にいばり) 筑波を過ぎて 幾夜が寝つる
かがなべて 夜は九夜 日には十日を」
が、我国初の連歌とされています。
また、江戸中期の公家歌人冷泉為綱は、
「くれぬ間に 嵐はたひて酒折に 枕から夜の 雨になるおと」
の句を残しています。
酒折宮を過ぎるとすぐに善光寺地区となり、今度は「甲州 善光寺」へ立ち寄ることに。

川中島の合戦で信濃の善光寺が類焼することを恐れた武田信玄が、永禄年間に本尊の阿弥陀如来像を始め寺物の殆どをこの地に移したのが始まりで、江戸時代になってからも代々の国主たちの篤い信仰を受けていました。
しかし、宝暦4年(1754年)に門前の農家からの出火で全焼、42年後の寛政8年(1796年)に再建されたのが、現在の金堂。
神社のような丹塗りの柱や梁が印象的です。
戻りがけに参道から東方向を見ると、頂きに白雪を載せた富士山が。
