アメリカン・ブルーです。
月山公園線は今日で閉山になったようです。
来年の初夏まで、この日常を超えた、遥かな景色は見られなくなります。
今日・・・月山・弥陀ヶ原を夫とルナと歩きながら、父を見送りました。

一週間ほど、お休みをしていましたので、
皆さまには、きっと、ご心配をおかけしていた事と思います。
ちょうど、東根への引っ越しが終わった直後から、実家の父の容態が悪くなり、
10月17日、日付が変わった頃に、父は86歳の生涯を終えました。
今日は、初七日でした。
仏教の世界では、故人が三途の川のほとりに到着する日とされています。
故人が激流か急流か緩流かのいずれを渡るかがお裁きで決まる大切な日で、
緩流を渡れるように法要をするのだそうです。

七日ごとの法要を35日まで済ませて来たので、
一昨日、仙台に、昨日、東根の家にと戻り、
今日は、天国に近そうな空を仰ぎながら、父が暖流の橋を渡れますように・・・・
大空へ向かって、大きく手をふって来ました。

私の父は、工業高校の教師でした。
退職後、岩手大学付属中学校の非常勤講師を10年勤めておりました。
父の葬儀で、和尚様が代替わりをしたと聞いておりましたが、供養して頂いた36歳の若い和尚様。
なんと・・・・父の教え子だったそうで、
お通夜の法要の後に、その頃の想い出話をたくさんしてくださって、
私たち家族の知らなかった父の話を聞く機会を得て、
とても嬉しく、涙がこぼれました。
当時、和尚様は中学3年だったそうで、
「技術」の授業にスペシャリストの先生が来られると聞いて、
どんなにバリバリとした先生がやってくるのかと期待していたら、
「おじいちゃん先生」だった(笑)とのこと。
しかしながら、その「おじいちゃん先生」に最敬礼をしていた担当教諭の姿を何度も見た・・・・と。
エンジンを作る作業では、どうしてもできなくて、みんなで手を貸してもらって、
いつも優しい先生で、時間があれば、自転車を直してもらったりもした・・・そうです。
あだ名は、「もとじい」「ともぞう先生」
ちびまるこちゃんの「おじいちゃん」に雰囲気が似ているからです。

私は、父に叱られた記憶がほとんどありません。
父が穏やかな人であったことと、
例えば、「勉強しろ!」と言う言葉では無くて、
「さて、学問をしようかな・・・・・」
そう言って、本を開くのでした。
そのひと言で、私も姉も、そそくさと部屋へ戻って、
一応、本を開かなければならなかった子供の頃を思い出します。
そんな父の得意技は、
TVで野球観戦をしながら、耳にはラジオの解説の方がいいからとイヤホンが付けてあって、
目の前には、新聞が広げられて、
左手には囲碁の本を持ち、右手には碁盤が置いてあるのです。
「聖徳太子みたいなことをして居ないで、どれか一つにしなさい!」
いつも母に叱られておりました(笑)

父との一番の想い出と言えば、ちょうど今頃の季節です。
盛岡の家から、当時、まだ我が家に車が無かったので、父と二人でバイクに乗って、
八幡平へ紅葉を見に行きました。
途中から、寒さ厳しくなって、山の上に着く頃には、小雪が舞い始めて、
気軽に出て来た私は相当な寒さに震えていると、
父は、どこからか新聞紙を探して来て、私の胸と背中に入れてくれました。
新聞紙が、風よけとなって、信じられないくらい、寒さが遠のきました。
父とは、有り難いものだと思ったものでした。
紅葉を見に行くたびにそのことを思い出します。

実年齢では86歳でしたが、88歳の数え年を頂いて、
少し笑ったような、とても穏やかな寝顔のまま・・・・長い眠りにつきました。




また、明日から、ルナが登場します。
よろしくお願いいたします。