駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

呉服町五丁目(ごふくちょう ごちょうめ)

2008年10月19日 15時15分15秒 | 駿府96か町のいま
▽五丁目のオブジェ
「かんざし」をモチーフにしたベンチ、歩道は赤色の御影石を使って「格子織」を表現しているとか・・・

▽3・4階に統一されている商店街のなかで、9階建ての“ふしみや”のビルが目立つ。
(この場所は70年ごろまで三菱銀行があった。ふしみやは現在の静岡谷島屋のB館(向って左側)のところにあった。)


「旧 呉服町五丁目」は、呉服町通り沿いのうち、下石町通り(現青葉通り)との交差地点から玄南通りとの交差地点までの1丁(約108m)の町(いわゆる両側町)でした。

呉服町通りでは老舗の和菓子屋などがなくなり、ドラッグストアなどが増えているとはいえ、この五丁目には今でもかなりの老舗があります。
1607年創業の伏見屋(ふしみや)
1687年創業の三保原屋
1781年創業の竹茗堂(江戸期は七間町だったようだ)
等が代表格でしょうか。

なお、1945年の静岡大火を受け、耐火建築促進法(現:防災建築街区造成法)の適用により
呉服町通りの不燃化が積極的に進められましたが
この五丁目の南側のブロック(三保原屋・竹茗堂・タカラ堂がある側)の不燃化が
1957(S32)年に最も早く完成しています。


【1927(S2)年発行の地図、旧呉服町四丁目・五丁目・六丁目あたり】
 一丁目、二丁目、三丁目同様、銀行と呉服屋が目立つ。
また、北側は用水路を境に武家地だった場所(現:市庁舎等)には戦前まで御用邸があった。
(呉服町に接する追手町が必ずしも碁盤の目状になっていないのは武家地であったため)


橙枠:現在もある店
黄枠:現在は別の場所にある、又は最近(10数年以内)まであった店。
<1927(S2)年発行「大日本職業明細図之内静岡市」木谷佐一編、東京交通社発行(静岡市立図書館蔵)>


▽間口狭小・奥行長大の城下の典型的な店構えの三保原屋
(余談ながら、よく「静岡の商店は殿様商売で愛想が悪い」などと言う人がいるのですが、この三保原屋の接客態度などみると一概にそうばかりではないと思うのですが)

▽五丁目の街並み(南側)



旧呉服町五丁目を現在の町名で言うと・・・呉服町二丁目3番地、4番地、5番地(町名変更は1945年)


アクセント
「呉服町」の伝統的地元アクセントは、「低高高低低」です。(「チョウ」が東京の有楽町と同じシラフ))
呉服町は、静岡市の代表的繁華街ということもあり、放送などで取り上げられることも多いのですが、
最近は地元放送局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、
ゴフクチョウを「低高高高高」と「チョウ」を大福帳のようなアクセントで読むことが多いようです。
そのせいか、最近は若い世代を中心に「低高高高高」というアクセントで話す「大福帳病」が蔓延(?)しており、
伝統的地名アクセントの破壊が進行しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

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