駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

再び「 くまたかばし の 碑 」

2018年10月07日 07時07分07秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽ 葵 区・追手町(おうてまち)・2番




 2008年に
こちらでとりあげた「くまたかばしの碑」
たまたま通りかかった際
以前と少々違うような気がしたので近づいてみると
説明板が設置されていました。

どういう経緯で取り付けられたのか分かりませんが
こういうことに無頓着な静岡市にしては
粋な計らいですね。
(静岡市が設置したのかどうかは未確認ですが・・・・)




徳川慶喜公(よしのぶこう)屋敷跡の碑

2017年08月20日 17時14分56秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽ 葵区・西草深町・15番

西草深町の静岡環状線(県道354号)沿いのポケットパークに慶喜公屋敷跡の碑があります。
 もちろん、ここが屋敷跡というより大きな屋敷の敷地の一部がこの土地だというにすぎません。



▽ 浅間神社向い側にある西草深公園(葵区・西草深町・27番)に設置の徳川慶喜公屋敷についての説明板にある地図

▽ 同、説明板に掲載の写真 (写真の山の位置からすると長谷通り沿いだと思われる)

慶喜公屋敷跡というと、屋敷跡が結婚式場・浮月楼として保存されている
静岡駅近くの紺屋町11番地にあるものが有名で
西草深町の方は屋敷跡が跡形もなくなくなってしまっているためか
紺屋町のそれより知られていないのかもしれません。

 慶喜公は、1889
(M22)年に
 東海道線が静岡まで開通することによる騒音
(当然のことながら当時は電車ではなく蒸気機関車)を嫌い
 1888
(M21)年に紺屋町から西草深町へ転居し
 東京へ戻る1897
(M30)年まで市井の人として西草深町で過ごしたと言われています。

西草深町は、戦後の土地区画整理と都市計画街路 静岡環状線の貫通で
当時とは全く区画が変ってしまったのですが
屋敷跡の位置は、現在の住居表示による街区符号で言うと
概ね14番、15番、29・30番の東半分、31~34番に該当するようです。

なお、慶喜公が東京へ戻った後の屋敷は
「葵ホテル」として活用され、さらに日露戦争の捕虜収容所として活用されたものの
 1905
(M38)年、失火により焼失してしまったそうです。




静岡御用邸跡の碑の説明板が設置されました

2017年08月12日 10時00分00秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽ 葵区・追手町(おうてまち)・5番


静岡御用邸跡の碑については、すでにこちら(2015年7月17日付けブログ)で取り上げました。
その際、せっかくの碑なのに説明板と明治天皇の歌碑の文字が読めないことを指摘しました。






数日前、この前を通りがかったところ
なんと説明板が設置され
さらに歌碑の文字がきれいに復元されていました。

もちろん、拙ブログを見て設置されたということはありえないとは思いますが
 同じ思いの人がいたということなのでしょう。

※ 追 記
この説明板は葵区自治会連合会の寄付によるものだということです。



 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

里程元標址の碑

2015年08月08日 08時08分08秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽ 札之辻にある里程元票跡の碑


▽ 裏側にある日付は見づらいが「昭和弐拾五年拾月吉日」とあるようだ


江戸期には主要街道の起点や終点には道路元票が設置され
今でも江戸の日本橋は五街道の起点として有名です。

明治になると各府県に元票・里程標を設置させることになり
 静岡県では静岡の札之辻に設置されました。
(このときの札之辻を起点にした江戸・日本橋までの里程は46里13丁、後に46里10丁に改め)

札之辻に設置されたのは
京方面からの東海道が札之辻町
(ふだのつじちょう:現七間町の一部)から
呉服町四丁目
(現呉服町二丁目の一部)へ直角に右折する箇所で
 ここが静岡の中心であったからでしょう。
(当時、鉄道は未開通)

その後大正時代になると
各市町村に道路元票を設置することが
法令により定められて
多くは市町村役場前などに設置されたようです。

戦後の1952年制定の道路法では道路元票・道路里程標は
道路の単なる附属物とされているだけで
義務化はされていないようです。

そのためか、由緒ある地点のものを除き
次第に被災や工事などで滅失したものが多いようです。

この札之辻にあったという里程元票はどのような経緯で
失われたものかは分かりませんが
 この「里程元票址」の碑に刻まれた日付が
昭和25(1950)となっていることから
それ以前に失われていたのでしょう。

それはともかく
 静岡市のこの類
(たぐい)の碑等は
歩道の建物側でなく車道寄りに設置した場合も
車道側に表を向けて設置されていますが
これでは歩行者からは何の碑か分かりません。

車両が少なかった時代ならともかく
歩行者から見える側に向けるべきだと
思うのですが・・・・

静岡御用邸跡の碑

2015年07月17日 17時17分17秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽ 静岡御用邸跡の碑


静岡市庁舎新館前のバス停前にある
静岡御用邸跡の碑です。

 静岡御用邸の開設は1900
(M33)年で
明治天皇が関西方面等に旅行される際には
現在より格段に交通事情が悪かったためか
しばしば宿泊されたということです。

 用途廃止は1930
(S5)年で
1932年には静岡市へ移管されて
 永久保存の対象とされて大切に扱われてきたそうです。


静岡大火(1940年1月15日)の際は
周囲がほとんど焼けてしまったのにもかかわらず
懸命の消火作業により類焼をまぬがれたものの
 太平洋戦争のアメリカ軍による静岡大空襲
(1945年6月19日夜~20日未明)の際の
10万発の焼夷弾による無差別爆撃には なすすべもなく焼失してしまったということです。  


余談ながら静岡市のこの種の記念碑には
何の説明板もないのが通例ですが
この碑も目立たない位置になんの説明板もなく
昔からあるから仕方なく設置してあるかのようです。

京都市などでは、公設や民設にかかわらず
 ていねいな説明板を設置しているのと対照的です。



▽ 並立されている明治天皇の歌碑(肉眼でも読みづらい)


明治天皇が御用邸の2階から富士山を見て詠まれたものです。

はるかなる
ものと思いし
富士の根を
のきはにあふぐ
静岡のさと


▽ 静岡御用邸の位置(御幸通りは開通前、しずおか信用金庫前から静岡駅までの御幸通りの開通は1934年)


 ▽ おおむね 静岡市庁舎新館・NTT追手町ビル・しずおか信用金庫追手町支店がある辺り


◆ 関連記事は こちら


「電電ビル前横断歩道設置」 と 「江川町の碑の移設」

2015年06月29日 06時29分00秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
【2015年7月14日、誤字等訂正】

関連の記事はこちら → 2012年11月17日のブログ



江川町交差点の横断歩道設置工事のメインとも言うべき
電電ビル前の横断歩道設置は
準備工事がほぼ終了し
7月11日から横断可能となるようです。

ここに地下道が設置されて
歩行者の横断が禁止されたのは
1966年11月ですから
およそ半世紀ぶりに地上の横断が
できることになります。



それはともかく
今まで御幸通り側にあった
旧江川町の碑が
工事に合わせて横断歩道横に
移設されたようです。

江川町というのは
現在のおおむね江川町交差点から
 両替町通りまでの道路
(いわゆる江川町通り) 沿いに付けられていた町名です。
 

一方、御幸通りは
都市計画道路第1号として
1930年に開通した道路です。

昔はなかった道路沿いに旧町名の碑が設置されたことは
全く不可解だったのですが
一般市民はもちろん、市職員・議員の誰も疑問に思う人は
いなかったようで
長い間御幸通り側に設置されたままでした。

今回の移設は
単に、工事の都合からなのかもしれませんが
江川町通りの中ほどではなく
端に近い交差点であるとは言え
結果としては改善と言えるでしょう。




▽ 江川町と御幸町の関係

赤線の道路沿い(いわゆる江川町通り)が「旧江川町」で江川町=御幸町ではありません。
(緑線は新設された道路、御幸通りの「しずおか信用前~江川町交差点~静岡駅」はありませんでした。
また、直角に交わっていた旧東海道は交差点に接続されて五差路となりました。)




▽ 御幸町の町域 (2010年5月31日のブログの再掲)

・御幸町は1940年の静岡大火後の町名整理(施行は1945年)で御幸通り沿いに新設された町名です。

・橙色の線で囲まれた地域が御幸町です。

 ・赤数字は親地番
(一見、住居表示の街区附号のようですが、区画整理後の地番を1筆ごとに
 1番地、2番地、3番地、4番地・・・という従前の地番割は採用されず、街区に親地番を振り、
 そのなかの1筆ごとに枝番を振る「回廊式地番割」が採用されたためで、住居表示の街区附号とは違います。
なお、町の界が道路となっていないことからも分かるように御幸町は現在のところ住居表示は実施されていません。
 もし、実施されれば町境を道路や水路等の恒久的施設としなければならないため、伝馬町・栄町・紺屋町等に
 吸収されてなくなってしまうことでしょう。)
 また、御幸町1番地と2番地(旧江川町の一部で、現在の追手町1番・2番街区のうち江川町通りに面した側)は、1966年に追手町が住居表示された際、追手町に編入されました。

・緑色の線は御幸通りが開設された際、廃止された駿府城下の道路
 江川町通りと直角に交わっていた旧東海道は、江川町交差点と5差路で交わるように付け替えられ
 城下の碁盤の目地区を形成していた北東の一角が破壊されてしまいました。 

 ・青色の線は旧東海道




7月9日追記
▽ 横断歩道の準備が完了し、信号機の点灯を待つだけとなった。



7月11日追記
▽ 半世紀ぶりに地上を横断する人々


 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

駿府薬園跡の碑 (いしぶみ)

2013年06月10日 23時59分59秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
A=駿府薬園、 B=一加番、 C=二加番、 D=三加番、
  E=町奉行所、 F=宝台院、  橙線=東海道



 ▽ 静清(せいしん)信用金庫 安東支店

 
▽ 駿府薬園跡の碑


 ▽ くたびれた住居表示の「街区符号板」



 駿府城の北、 安東一丁目22番街区の長谷通りに面した側
(静清信用金庫安東支店前)
 駿府薬園跡
(薬園=薬の原料となる薬草木を栽培)の碑があります。

駿府薬園は、家康公が大御所として駿府城に在城したころ開園し
4000坪の規模であったものの
家康公が没したのち、次第に衰退したと言われています。

 その後、三代将軍家光の時代に江戸の麻布・大塚
(のち小石川、駒場に統廃合)
幕府による御薬園が開設され
以後、江戸以外にも京都、長崎などの主要地に御薬園が設けられ
その際、駿府の薬園も復活したもののようです。

江戸中期以後はほぼ各藩に薬園が設けられるようになったということですが
駿府は幕府による薬園のさきがけの地であったと言えるかも知れません。

なかなか興味深い碑だと思われるのですが
残念ながら静岡市は文化財に指定されているもの以外には
説明板などを設けることには非常に消極的で
ここも例外ではなく
碑以外には何もないのはちょいとさびしいです。

この種の碑は必ずしも市で設置したものばかりでないのでしょうが
 もう少し積極的に静岡をアピールする姿勢があってもよさそうに思えてなりません。
(静岡市立静岡病院前にある「戸田茂睡生誕之地の碑」など
説明板がないのでほとんどの人が存在さえ気がつかないようです。) 


参考:長崎大学薬学部HPほか


 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

「やぶきた茶 発祥の地」 の碑(いしぶみ)

2013年04月23日 18時00分00秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽ やってきた電車はお茶ならぬ、午後の紅茶のラッピング(笑)


▽ 津島神社(駿河区中吉田(なかよしだ)41番)


今年は3月の気候が良好だったため
お茶の生育が例年より1週間ほど早いようで
早くも市内のお茶の小売店では新茶を売り始めました。

ここは静岡鉄道・県立美術館前駅近くにある津嶋神社
それほど大きな神社ではありませんが
実は、お茶の品種のひとつである
「やぶきた茶」発祥の地なのです。

現在栽培されているお茶の品種のうち
 最も多いのは「やぶきた」という品種ですが

(全国で生産されるお茶の7割以上、県内では9割が「やぶきた」だと言われています。)
この「やぶきた」というチャノキは
 現駿河区中吉田の篤農家杉山彦三郎
(1857 - 1941年)氏が
竹やぶを切り開いて栽培していた茶園の北側のものから選抜した優良品種です。

つまり、現在、全国で見られるお茶畑のチャノキのほとんどは
 ここがルーツというわけです。



▽ 「やぶきた茶発祥の地」の碑(いしぶみ)


▽ 「やぶきた茶88年の記録誌」を刻んだ碑



この神社の鳥居の向かい側あたりに
その茶園があったということですが
 静岡鉄道の線路と幹線道路
(南幹線)に挟まれた地域であるため
宅地化が進んでしまった現在、その面影は全くありません。

そんな環境ゆえに
神社の道路沿いに建てられた「やぶきた茶発祥の地」の碑が
かえって誇らしく自己主張しているように思えてきます。

また、同地には
「やぶきた88年の記録誌」の碑もあり
こちらは「発祥の地」の碑よりも前の
やぶきた茶が選抜されてから88年目の
 平成8年
(1996年)8月8日の日付が刻まれ
 どこまでも88夜にちなんだ「8」にこだわりを見せています。
(笑)

なお、やぶきたの原樹(原木)
県立美術館への道路沿いに移植され
 保存されています。


▽ やぶきた原樹 (駿河区谷田(やだ)24番)




大里村役場跡の碑(いしぶみ)

2013年03月04日 05時06分07秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽ 「安倍郡大里村役場跡」 と刻まれているが肉眼でも見づらい。(駿河区・馬渕一丁目・3番街区先)





1889年(M22年)の市町村制度発足に伴い
 それ以前の多くの村
(藩制度に基づく村)
整理、統合されて市町村制度における村が発足しました。

現静岡駅から見て南西方面の村々も統合されて
 「有渡郡 大里村
(うどぐん おおざとむら)」が発足しました。
(1896年、有渡郡は、全域が安倍郡へ編入され「安倍郡 大里村」に)

大里村となった旧体制時代からの村は次の17か村です。
弥勒町
(みろくちょう=いわば村相当の町)
川辺村(現在の川辺町一、二丁目・吉野町・桜木町・清閑町・新川一丁目など)
稲川村
中田村
安倍川村(現在の南安倍町・駒形通六丁目の一部、清閑町の一部など)
中原村
石田村
高松村
西島村
西脇村
下島村
中島村
見瀬村
中村
馬淵村
中野新田(新田には村が付かない)
南安東村の一部(おおむね南安東村西側の現静岡駅周辺地域、東側は豊田村となった)

市町村制度の村たる「大里村」発足に伴い、それまでの藩制度の村は「大字(おおあざ)」となり
 「大里村 ◯◯ ××番地」のように、住所
(所在地)の村の下位区分を表す単位として使われるようになりました。
(県外では「大字◯◯」のように「大字」を付けて使われるところも多かったようですが
 県内では、「大字」の更に下位区分の「小字(こあざ)」は登記以外の住所・所在地を表す際には使われなかったためか「大字」の表記は省略するのが一般的だったようです。)

大里村は、1929年(S4年)3月1日に静岡市に合併
 (南安東のうち、現 泉町などの静岡駅周辺地区は、それ以前の1915年11月に静岡市に編入)して
 40年の歴史の幕を閉じ、「大里」の名称は消滅してしまいました。

( 大里村内の大字は、「大里村中原」を「静岡市中原」のようにそのまま静岡市の町名として採用され、
近年の住居表示制度の施行で変更された地域以外は今でもほぼ当時の範囲のまま使われています。)

「大里」の名称は、現在、小・中学校の校名として残っているものの
公式なものとしてはなくなってしまっていますので
この碑は、数少ない「大里」の名を偲ぶものとなっています。

また、旧静岡市内には他の旧村役場の位置を示すものは見当たらないので
そういう意味でもめずらしい碑なのかもしれません。


▽ 大里村以前は、馬淵村の事務取扱所(村役場という概念はなかった)でもあったため、馬淵村についての掲示もある。 


▽ あざれあ(静岡県男女共同参画センター)からJR線を越えて徒歩数分の馬渕緑地内にある。(


駿府の白梅と婦系図(おんなけいず)の碑 

2013年02月01日 18時19分20秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽ 駿府の白梅も咲き始めました。(駿府城公園)


▽ 田丸屋本店前の婦系図の碑(葵区 紺屋町 6番地の7)
 まあ、まだ一時間にもならないのね。半日ばかり待ってたようよ。途中でどこを見てきました。
 大東館のじきこっちの大きな山葵(わさび)の看板を見ましたか、
 郵便局は、あの右の手の広小路の正面に、レンガの建物があったでしょう。
 県庁よ。お城の中だわ。(原文は歴史的かな遣い)



紺屋町(こうやまち)のワサビ漬けで有名な田丸屋本店前にある文学碑です。

田丸屋本店前というより
田丸屋ビルに入っているパルコ前と言った方が
分かりやすいのかもしれません。

それはともかく
 泉鏡花(1873~1939)の婦系図といえば
 「湯島の白梅」で湯島天神(文京区湯島三丁目)が有名ですが
 実は原作には湯島天神の場面は出てきません。


 
これは新派の舞台向けの脚色で湯島天神の場面が設定されて
これが評判となり婦系図と言えば「湯島の白梅」ということになったようです。

湯島天神の場面が有名すぎて
かえって、後半は静岡が舞台となっていることは
意外と知られていないのかもしれません。

この碑の文章にある大東館などのほか
 札の辻の扇子屋
(おうぎや)の饅頭とか草深町などの地名などが
 出てきて興味深いです。



▽ 文学碑の文章に出てくる施設等の位置(当然ながら御幸通りや静清国道はなかった)
 A=静岡駅 B=大東館(旅館) C=田丸屋 D=郵便局  E=静岡県庁


 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

「戸田茂睡生誕之地」の碑

2009年12月01日 10時00分00秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
ここは、追手町(おうてまち)10番街区、駿府城四ツ足御門跡のすぐ裏手
と言うより、早い話が新中町ビルの裏手の
旧静岡市中央保健所跡(現在は市立静岡病院の敷地内)です。

ここに1940年に建てられた「戸田茂睡生誕之地」という碑(いしぶみ)があります。


ここにあることは、以前から気が付いていたのですが
「戸田茂睡(とだ もすい)」という人を知りませんでしたので
(だいたいが「茂睡」の読み方さえ分りませんでした。)
格別関心を持つことなくやりすごしていました。

それが、図書館で静岡新聞社発行の「静岡県歴史人物事典」を
たまたま見ていたところ戸田茂睡が目にとまり
江戸初期の歌人として存外有名な人だと分ったしだいです。

それによる要旨は
駿府城主徳川忠長の家臣、渡辺監物の第6子として1629年駿府で生まれ
忠長が改易された際、父子ともども下野国、黒羽に流され
後に放免されて伯父である江戸の戸田藤右衛門の養子となり
戸田家を継ぎ和歌を好み風雅を愛した。
近世和歌の改革運動に先鞭をつけ
近世随筆文学の先覚者としても有名
「紫の一本」「若紫」「隠家百首」「梨本集」などを著し
 1706年に亡くなり、墓は台東区浅草二丁目の浅草寺奥山庭苑内にある。
と言うことです。

今までやり過ごしていた碑も
そういうことが分った後であらためて見てみると
なにやらありがたいものに見えてきます。(笑)
また、もし忠長が改易されなかったら
駿府で一生をすごしたのかもしれませんね。

   ↑
こちらは、近くの新中町ビル横のフウの木です。
やはり大概は緑のままか、単なる枯葉状態のいずれかですが
一枝だけやや赤くなっているものがありました。
暖かい静岡の市街地ではこの程度が限界なのかもしれません。

「横内川跡」 の碑

2009年05月25日 07時00分00秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽横内川跡を記念する“いしぶみ”
(しずおか信用金庫横内支店前:葵区 太田町33番地)



▽太田町は・・・
市町村制度ができる前:有渡郡南安東村太田切
市町村制度発足(1889年):安倍郡豊田村南安東太田切
1908年10月静岡市に合併:静岡市南安東(太田切)
1915年11月町名変更:静岡市太田町(現葵区)



現在は道路下の暗渠(あんきょ:地下埋設の水路)となってしまって
その姿を全く確認することができませんが
かつて、北街道(きたかいどう:県道静岡清水線)沿いの
水落町(みずおちちょう)から上土(あげつち)の巴川まで横内川が流れていました。

現在の水落町交差点附近では
駿府城のお堀の水が文字どおり横内川に落ちていたということです。


▽PKの「街道ぶらり旅(08年10月09日放送)」から(戦前の風景だと思われる。)


上記の写真のように横内町(よこうちちょう)、太田町(おおたまち)、銭座町(ぜんざまち)あたりでは
北街道の真中を横内川が流れていて生活用水としても利用されていたようです。

さすがにこの風景は知らないのですが
さらにその先の沓谷(くつのや)から上土(あげつち)にかけて
現在の道路幅の南半分を占めるほどの大規模な川となって流れていた記憶はあります。

大昔はともかく
当時('60年代はじめ)は、お世辞にもきれいな川とは言えないような状態でしたので
けっして、いい印象ではありませんでしたが
もし道路の幅員を36mぐらいにして真中を浄化された川が流れていたりしたら潤いのあるいい通りになったかもしれません。



久能街道口

2009年03月26日 20時11分40秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
こちらでちょいと取り上げた久能街道の駿府側の起点です。
 (葵区伝馬町23番地附近から国道1号方面を臨む。)
 
東海道を下る大名たちは
ここから東海道を離れて久能街道へと進み
家康が祀られている久能山東照宮へ参拝してから
江戸を目指したといわれています。
 
静岡大火(1940年1月15日)後に、
並行する都市計画道路(つつじどおり)が開通したことにより
現在はすっかり裏通りの様相です。
 
しかもこの街道は
区画整理の結果、国道1号で行きどまりとなっていて
駿河区八幡一丁目2番附近まで道路自体が消滅してしまっています。
 
残っているこの街道入口附近(伝馬町~国道1号)
昔の街道に比べると
このように一直線ではなく位置が微妙にずれているのではないかと思われます。
 
 
▽ 碑(いしぶみ)が、入口に当る伝馬町通りに数年前建てられたようです。
 
▽ 説明は歩道側にはない。(下部は地図)
 (まったくの余談ながら、向い側右手角のつつじ通りに面したところにあった
    三井生命ビルが撤去されて更地となっていました。
    見た目、500坪以上ありそうです。) 
 
▽ 静岡市内にあるこの種のものは、
 車道側に表を向けているものが多いのですが、ちと疑問です。
 歩行者は車道に出ないかぎり説明をよめないし、
   かと言って車上から読む人もいないでしょうし・・・・
 ただっただけの自己満足でいいならそれもいいとは思いますが・・・
 
▽ ピンク色=久能街道、 黄色=旧東海道
 
 
 ↑ 静岡県情報の人気ランキング

東照宮300年祭の祈念塔

2009年03月21日 03時15分11秒 | 路傍のいしぶみ (碑)

同じような趣旨の塔が静岡駅南口にもある。
当初(1915年)は、旧東海道から久能方面への分岐点である上八幡町(かみやはたちょう:現伝馬町の一部)の久能街道の静岡側起点あたりに設置されたらしい。

▽ 当初あったと思われる場所
(旧久能街道は国道1号から八幡一丁目2番あたりまでは途切れている。)

1925年ごろの久能街道口


その後、静岡大火(1940年)後の区画整理に伴い、
宝台橋の北側昇り口左側歩道脇に移設されたようだ。
(さすがに伝馬町時代は知らないが、宝台橋にあったのは記憶にある。)

▽ かつての宝台橋の位置

ここが安住の地かと思いきや
国鉄高架化による宝台橋の撤去に伴い
1979年ごろ現在の静岡駅南口へ再度移設された。

▽ 静岡駅南口に鎮座している。(従是 弐里拾壱町(これより 2里11町・町=丁)の文字が見える)
 日付は大正4年(1915年)4月17日

(ちょいとまねをして)
2里11丁をキロメートルに換算して見ると
3.9273×2+109.09×11÷1000≒12. 078km
まあ、伝馬町でも静岡駅南口でも
久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう:家康が最初に祀られたところ)までの距離は
ほとんど変わらないのだろうが
やはり久能街道起点にあった方がふさわしいようにも感じる。

それと現在の設置場所は
静岡駅南口を出てすぐのところにあるのだが
静岡駅構内が禁煙となっているため
多くの人がこの塔の周囲に群がって喫煙している。
カッコウの喫煙コーナーと言ったところか・・・
(喫煙するのにも、心理的になんらかの拠り所がほしくなってしまうのだろうか)

そのため、いつも周囲に吸いがらが散乱していて
あまり感じがよいものではない。
(おしゃれな女性も、男どものまねをして平気で吸いがらを捨てていく。
 心のおしゃれまではできないようだ。)

追 記
北口広場は従来から禁煙でしたが
南口広場も2012年から全面的に禁煙とされました.

くまたかばし

2008年07月21日 17時54分56秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽ 交差点にぽつんとたたずむ





江川町交差点北側の安藤建設静岡支店ビル(葵区追手町2番12号)前に
なにやら昔の墓石のようなものがあります。
道行く人はだれも気にもとめず、脇を通り抜けていきます。

石をよく見るとどうやら「くまたかばし」と刻まれているようです。

実はここにはその昔川が流れていて、
その川に架けられていた橋が“くまたかばし”というわけです。

(なまって“くがたか橋”とも言われるようです。)

“くまたか”は、角鷹、熊鷹、鵰 などと書きますが、ようするに鷹狩りに使用する鷹のことです。

安藤建設ビルと新静岡センターの間の交差点は土地がやや高くなっていますが、
その昔、川が流れていた名残
(川は暗渠となって流れている?)なのではと想像されます。

橋の名の由来は、クマタカを飼っていた鷹匠
(たかじょう)
このあたりに住んでいたことに由来するようです。

(橋自体は今川時代からあったようです。)

今では川はおろか橋のあったことも想像できず、
この墓石のような碑
(いしぶみ)だけがその名残をとどめています。


サイト「静岡見て歩き(竹千代の人質時代)」に昔の川の様子がでています。


にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 静岡県情報へにほんブログ村
 ↑ 静岡県情報の人気ランキング