新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

明智光秀公産湯の井戸がある…明智光秀公生誕地かも知れない…「土岐明智城」(「多羅砦」「落合砦」)に行く!!

2023-01-29 05:56:45 | 歴史史跡

明智光秀公の出生地と伝わっている

「土岐明智城」(「多羅砦」とも「落合砦」とも呼ばれているところ)に行く!!

 

あれれれ、明智光秀公の出生地は、

可児市にある明智城(明智長山城)じゃないんかい???

私が、明智城(明智長山城)に行ったときのブログにも

明智光秀は11歳で明智城(明智長山城)の城主となり
斎藤義龍に攻められ落城するまでの30年近くをこの城で過ごしていたとか…

と綴っているじゃないか!!

「麒麟がくる」前に…笑…明智光秀の生誕地…明智城と天龍寺と…

確かに、諸説いろいろある中で、可児市にある明智城(明智長山城)の生誕説が強いみたいだけど、はっきりとしたことは、あの世にいってしまった明智光秀しか、知らないことなのでしょう…

 

というのは、ここ恵那市明智町を訪ねれば…

私は、ああ、ここで、明智光秀は生まれ育ったのね…とそんな気になってくるのである…

だって、そばにある平山城、明知城(白鷹城)には、光秀公学問所(天神神社)もあるし…

いや、確かに可児市にある明智城(明智長山城)に行ったときにも、ああ、ここで、明智光秀は生まれ育ったのね…とそんな気になった…

 

ここは、私が明智光秀の生誕場所について常々思っていた新たな私の持論を、思い切って発表したい!!!

 

明智光秀は二人いたんだな…(笑)…明智城(明智長山城)と「土岐明智城」(「多羅砦」「落合砦」)の他にも、明智光秀生誕説の場所があれば…そこにも…

要は明智光秀は複数いたといった、どう、誰も思いつかなかっただろう、この私の新たな説…(笑)

 

でね…そのどちらかが、あの本能寺の変をもおこした歴史上に名を刻んだ人物で、他の明智光秀は同姓同名だけど、無名のまま…足軽のまま、一生を終えてたりして…

 

どう??この説であれば、明智光秀生誕場所の伝えられている場所がいくつもあってもおかしくないでしょう???

 

さてさて、

明智光秀公の出生地と伝わっている

「土岐明智城」(「多羅砦」「落合砦」)

明知城(白鷹城)が1247年に築城される前から、西南の方角に当たるこの千畳敷台地に砦が築かれたと伝えられているようです…

出丸からの見晴らしがよく、敵の動きをいち早くとらえることができる絶好の場所で

織田軍、武田軍の攻防戦がここで繰り広げられたことでしょう??

実に歴史の感じる…昭和に掲げられたっぽい案内図

そう、ここは千畳敷公園として整備されており、城址(砦址)そのままの形では残ってはいませんが、本丸と出丸は残っていて、本丸には、桝形、虎口、武者走り、などが残っているよう
見晴らしのいい出丸(二の曲輪)は狼煙を上げる場所だったらしい…

 

では早速、本丸から攻城!!…

「多羅砦」(土岐明智城)主郭の方向へ…

あ、平山城(砦)ですが、本丸の近くまで、軽四で一気に登っているので、ひぃひぃふぅふぅしちゃうことはありません!!

 

もう、こののぼりが目に入るごとに、ああ、ここで明智光秀は生まれたんだなって、心から思えちゃいます…

その方が、有名なあの方か、同姓同名の無名な方かはわかりませんが…苦笑

まあ、強いていうなら、桔梗の家紋はどうなのかと…でも、無名の方でも明智家(長山家かと遠山家か知らんけど…)の血を引いていれば問題はないか…苦笑

 

この冠木門は、最近移築したらしく、もともとは、「日本大正村」の「大正ロマン館」が大河ドラマ館だったときに、造られたものを、大河ドラマ館閉館後にここに移築したようで…

冠木門をくぐって、本丸(主郭)へと

はい、方向音痴の私でも、全く迷いません!実に親切な迷いようもない方向を示す看板が…いたるところに…

この緑色の方向案内表示は、以前からあったものかもしれないな…

青色の表示の方が、ウンと新しい

こんな山道をちょいと登りつつ、下方を見下ろせば

明智光秀公産湯の井戸がみえる!みえる!!

これをみれば、ああ、ここで明智光秀は生まれたんだなって、心から思えちゃいます…

その方が、有名なあの方か、同姓同名の無名な方かはわかりませんが…苦笑

すぐに本丸(主郭)に到着…

東屋(休憩所)がまるで、天守のように…(笑)

 

明智光秀公産湯の井戸が下方に、垣間見える…

切岸などの遺構がはっきりと感じられます…

 

 

本丸…

 

 

説明看板には「落合砦跡」で(土岐明智城・多羅砦)の表示は小さくなっていました…

ここへ来るときの方向案内表示には「落合砦跡」の文字は一切なかったのに…

これらの案内板や案内表示はバラバラで、「落合砦跡」推しなのか「土岐明智城」推しなのか「多羅砦」推しなのか…さっぱりわかりません!!

まあ、どの呼び名でも構わないといった感じでしょうか

 

さてさて、この「落合砦跡」(土岐明智城・多羅砦)は、1573年には串原遠山氏の遠山経景が落合砦に入城したようで
明知城が武田氏に奪取されるまでは遠山氏の持ち城だったことが想像できます…

祠が一つあって、恵比寿神社

 

「虎口 大手通り」や「出丸」など本丸においても、方向表示が親切です…

でも、この案内表示のメインは「土岐明智城」…かっこ書きで「多羅砦」…「落合砦」とは一切かかれていない…(笑)

 

北東に段状に延びる小郭…遺構らしきものが残ってて、城址マニアである私は、それなりに大満足…

 

というのは、千畳敷公園に整備されてるときいていたから、もう、こんな当時のままの感じでは残ってないんじゃないかな…なんて思っていたので…

 

前方600メートル先に、大光坊跡があったようで…

この手前の鉄塔…???600メートルって、こんなものかな…

他にも奥の方に鉄塔が三つ並んでて

 

ここは、写真入りの表示が欲しかったぞ???…

(おそらく手前の鉄塔の左側でしょうけど…)

…とか言いながら、正直いえば、大光坊跡の位置はまったく興味はないんですけど…苦笑

 

それよりも、この看板の→(矢印)

えー??土岐明智城(多羅岩)は前方600メートル先、大光坊跡のあたりにあったの???と勘違いする人がいてるかも…

だって、本丸の案内看板は「落合砦跡」推し???なので…(笑)

 

さてさて、本丸から降りて、先ほど見下ろした

明智光秀公産湯の井戸へと大接近!!

 

もう、ここへ来れば、間違いなくここで、明智光秀が生まれた場所であるに違いない…歴史上の人物なのかそうでないのかは別にして…

ここは「三の曲輪」と呼ばれる場所

 

井戸の手前には、「光秀ききょう」が季節のタイミングが合うと咲くようで…

 

井戸からは、弥生時代の石器や、恵比寿の宝寿等が出土したそうで
かつては井戸の水は満ち満ちていたらしいのですが、千畳敷グラウンドの建設の影響を受けて、水量が減ってしまったようで

深さは16mもあるそうな…落ちたら即死ですな…なので、金網が…しっかりと

 

なんでも、底の方には横穴が開いており、外部への抜け穴であったとの説もあったりして…
この「三の曲輪」は、このように井戸があることから、ここが生活の場、寝食をした場所であったらしい…

明智光秀公、縁の地…

「えっ??この字読めるの??君いくつ??みっつ?ひえー!!」と

驚く大人と幼少時代の明智光秀が、ここで暮らしていた図を妄想しながら悠久の歴史に想いを馳せる…

 

横には、戦いの歴史が繰り返さないように…と

平和の塔

 

さてさて、その後は北の方向にある出丸へと…

 

これは武者走りの跡…

武士が走る!走る!!…こぶしを振りながら…(笑)…うわー、太陽が降り注ぐ!まぶしいー!!!そんな図を心に描きながら…

出丸へと向かう通路は舗装されちゃってますが、そこは土橋跡だったようで…本丸と出丸を繋いでいた通り道だったようで…

 

 

さて出丸(二の曲輪)

狼煙を上げる場所として使われていたよう…

こちらは、城址の欠片を感じさせないほど、綺麗に公園として整備されていました…

 

今は、パノラマ広場と呼ばれているようで…

 

見事な眺望に照らし合わせた

 

明智光秀公ゆかりの地の解説板

天正2年には織田軍と武田軍との戦いの舞台になってたんですね!!

 

 

 

右端には像があって、明智光秀公の像かと思いきや

 

弘法大師さまの像でした…

 

 

明智町町制施行100周年記念のタイムカプセルの石碑も…

ウン十年後、あけちて、びっくり???

もとい、あけて、びっくり!!みたいなことが起きるんでしょうね??

 

この石碑は、この出丸への入り口付近にあったのですが…

そこの紅葉が鮮やかで…鮮やかで…

 

明智光秀は、土岐明智城で生まれたことにしておこうよう…(お紅葉)…

チャンチャン!!