あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

みちたとのお別れ ②

2019-10-26 16:15:59 | 日記
(写真:2015年6月1日午後23時44分撮影のみちた。ずっとこの写真を、このブログのプロフィールの写真にしている。)





10月26日午後2時37分。
本当に久しぶりに、窓を開けた。
さっきまで曇っていたが、晴れてきて清々しい秋風が吹いている。
みちたに供える為に前に買ったオレンジのガーベラの鉢植えをベランダに出してやった。
午後の陽射しが、みちたのサークルの横に置いてあるサンスベリアやパキラやモンステラやドラセナに降り注がれ、まるで生き返るように、喜んでいるようだ。
みちたのサークルは、まだそのままにしてある。
ペットシーツに染みついたみちたのおしっこの匂いが少し臭った。
来月には、すべて片付ける予定だ。
そしてそこに、広い箱庭を作ろうと想っている。
みちたの遺灰を入れたドールハウスにはあたたかい灯りをともし、少し高い位置に置いて、みちたのお庭には広いプランターを作ってそこにあらゆる植物を寄植えする。
たくさんのミニチュアの小物を好きに置いて、イルミネーションライトなども点けて、時に賑やかだけれど、時にひっそりとしている箱庭を作りたい。
みちたの魂が、帰って来る場所を。



みちたが旅立ってから、もう二週間が過ぎた。
今まで書き溜めたものを少しずつ、みちたの写真を貼りながら載せていこうと想う。





(2015年4月22日午後17時47分 みちたの隣に転がっているのはみちたがいつも咥えて走り回ったりマウンティングをして遊んだお友達のうさぎ。)





みちたはもしかしたら、死に目の数分は、自分が苦しむことがわかっていて、それをわたしに見せてわたしをこれ以上苦しめることが嫌でわたしの離れた十数分間に息を引き取ったのかもしれない。


10月14日午前3時16分、疲弊して眠っても、すぐに目が覚めてしまう。
目が覚めると遺灰となったみちたが目の前にある。
さっき、こころのなかで「手を繋いでいてほしい」とみちたに言ったら、その言葉はわたしのなかから発せられると同時にみちたが「手を繋いでいるよ」と言ってくれているような気がした。
みちたは生きているとき、物質と霊魂で、その二つを合わせてみちただった。
でも受肉した全存在が抗えない死という現象が、みちたにもとうとう訪れ、みちたは今までと同じ姿で、この世界で存在することができなくなってしまった。
みちたは致し方なく、ふたつのみちたに分かれねばならなかった。
ひとつは物質だけのみちた。
もうひとつは霊魂だけのみちた。
物質だけのみちたは、昨日わたしと一緒にまたも姿を変えて家に帰って来た。
物質だけのみちたは、動くことも、寝息をたてることも、デーツをねだることも、なく、生きてもいない。
物質だけのみちたは、死だから。
死は何かを想ったり、感じたりもしない。
でも確かに、存在はしていて、今はまだ目にも見える形を取っている。
みちたは死の存在となってわたしの側にいてくれている。
わたしは淋しくて泣いているが、死のみちたが側にいてくれていることで安心もしている。
連れて帰って来て、本当に良かった。
わたしの家は葬式や墓など、儀式的なものや物質にこだわるようなことすべてを避けて、不必要だとする家だった。
母は敬虔なエホバの証人(クリスチャン)であり、父もそのようなことに興味のない人だった。
だから二人とも骨上げはせず、ただ火葬してもらって遺灰を共同墓地のなかに入れて貰った。
昨日、みちたの骨を姉と拾いながら話したが、二人の意見は一致した。
二人とも、親の骨を目にしなくて良かったという意見だった。
人間の骨と動物の骨は違う。
みちたの骨なんて、どこがどの部分かわからないほど崩れて、とても細くて小さかった。
でも人間は、焼いた後も頭蓋骨がはっきりと分かる状態で残っているときもある。
見るに耐えないものだ。
でも昨日、初めて自分の愛しい存在の骨をひらって壺に入れ、それを両手で抱えて連れて帰れると想ったあの瞬間のすごい喜びを知った。
お別れじゃないんだ。一緒に帰るんだと感じられた時のあのほっとする安心感、こんな気持ちになるものなんだ、とわたしは驚いた。
それを姉に話して、お父さんの遺灰を連れて帰ってこなかったことについて話した。
わたしが四歳の時に四十四歳で死んだ母はクリスチャンで儀式的なこと、物質にこだわることはすべて偶像崇拝であり、サタンであるといつも言っていたそうだ。
エホバの証人は葬式もしないし墓も持たないしクリスマスやお祭りや誕生日を祝うことなども全部しない。
でもこの世界でほとんどの人は、物質的なことにとても拘っている。
言い換えるなら非物質よりも物質を愛し、物質に支配されているようだ。
そして神を、霊魂を、目に見えない存在をお座なりにしてしまう。
わたしの最も愛する画家のルネ・マグリットはこう言っていた。


『目に見えるものは隠され得るけれども目に見えないものはなにひとつ隠していない。
それは識られるか識られぬままにとどまるかで、それ以上のことはない。
目に見えないものに目に見えるもの以上の重要さを賦与せるにはあたらないし、その逆もそうです。』


マグリットは、目に見えないものを目に見えるものとして見えていたから、あんな絵が描けたのだろう。
言い換えるなら感じられないものを感じられるものとして感じ取ろうとするなら、最早感じられないものと感じるものの重要さは同じになる。
わたしは目に見えるみちたを連れて帰って安心を得、目に見えないみちたの声を感じても安心するならば、そのどちらのみちたが本物(本質)であり、どちらを大切にすべきかなどは考える必要もないし拘る必要もない。
物質に拘らない生き方が流行っているかもしれないが、物質に拘らない生活に拘るということは結句、物質に拘っているということになる。
物質と非物質、偶像と霊、わたしは以前に書いた小説「ベンジャミンと先生」シリーズで先生にこうはっきりと言わせた。
すべての存在は、実は物質であるのだと。
魂、霊、エネルギー体、意識、心、など、人間が物質ではなさそうに感じているものたちすべても、実は物質でできていて、時間や空間というもの、これらも実は物質なのだと。
物質である限り、それらは必ず変化し、変化させることができて、見ようとすれば見ることができるし、感じようとすれば感じることができる。
そして物質だから消えてしまうというのは実は逆であって、物質だからこそ、実は消えることはない。
つまり物質である限り、永遠に存在し続け、無限に広がり続けることができる。
ウィルスが広がってゆくように。
ウィルスは何処から遣って来て何処に消えるのかわからない。
でも確かに存在していて大きな影響を与え、忽然と消えた後も、宇宙の何処かで存在しているように感じる。
ウィルスは肉眼では見えないが電子顕微鏡などの道具を使えば目に見える。
わたしが感じ取るみちたの声を自動筆記で記すとき、それはみちたがわたしという道具を使って、わたしにわかる形でわたしに識らせているのではないか。
でも道具の性能が悪ければ、目に見えないみちたの本当の声を正確に記すことはできない。
だからと言って、目に見えないみちたを、否定する必要などない。
ほんの少しでも、何かを感じるなら、それは何かを送って来ているからかもしれないし、今でも存在しているからだ。
わたしは目に見えるみちただけを愛して来たわけじゃない。
其処には、必ず目に見えないみちたがいた。
では目に見えるみちたが動かなくなったからといって、目に見えないみちたも同時に動かなくなったと信じるのはおかしい。
"死"は死として、存在していると感じる。
みちたの死を、否定することはみちたが今もなお生きていることを否定することと同じことになる。
みちたの死後の生を否定することは、みちたの死(永遠に目覚めない眠り)を、肯定することになる。
つまり、みちたが永遠に目覚めないことを願うことになる。
わたしは、またみちたにどうしても再会して、また一緒に暮らしたい。
だからわたしは、みちたの死と、みちたの今も生きて存在していることのみちたの生を、同時に信じつづける。
みちたが今も生きている限り、何かしらの方法でわたしという道具を使ってコンタクトを送って来てくれると信じている。
みちたは死んだ。
でもみちたは、生きている。
息をしている。
まるで何年もの苦しい拷問の日々に耐えつづけて死に、蘇った聖者のように。
静かに、静かに、息を潜めながら、息衝いている。
みちたは今も、わたしの側で息をしている。




(2016年6月14日午後16時56分、わたしの育てた大麦若葉を不服そうに食べているみちた。まだこの頃は毛並みも綺麗で元気そうだ。でもこの年の確か冬の頃から、みちたはパスツレラ症を発症する。)





10月14日午前11時28分、寝つきを良くする漢方薬を飲んで4時間半くらい眠れたかもしれない。
宅配便に起こされて、届いたのはみたの強制給餌用に買った大麦若葉の粉末だった。
目が覚めても、何をすればいいかがわからない。
いつもだったら起きればいつもすぐにみちたの様子を見て、餌を足したり水を変えたりおやつをあげたりして、そこからわたしの1日は始まっていた。
みちたがいないと、起きて何をしたら良いかがわからない。
みちたがいつも側に居てくれたから、わたしはようやく身体を起こして生活することができていたようだ。
二度寝することもできずに携帯でメモリアルリングを調べていた。
大体が十万円前後するから一月に一万五千円ほど食費を削って貯めたら早くに買えそうだ。
でもその前に、骨壷のなかのみちたの遺骨にカビが生えないための密閉式の骨壷を買ってすべての遺骨を移したい。
なかなか気に入った形で全部が入りそうなサイズがなくて残念だ。
でもちいさな手のひらサイズの骨壷を買って外に出るときもいつも側に居れるのは嬉しいからやはりちいさいのをまずは買うことにして、分骨をしよう。
みちたの遺骨は霊園に埋葬せずに姉と拾ってすべて持って帰って来た。
ちいさな頭蓋骨は半分以上が砕けていて非常に薄くて脆かった。
歯は黒くなっていて、かなり伸びているように見えた。
小さくて可愛らしい爪は先が尖っていた。
以前うさぎを飼っていて亡くされた霊園の女性の方とうさぎの爪を切るときいつも大変だったという話で盛り上がりながら骨上げの作業を姉と二人で手早く進めて行く。
尻尾の骨はあまりに細かった。
一番大きくてしっかりした骨さえ、手羽先の骨よりも細く感じた。
少し変わった骨がある度にこれはどこの骨やろう?と訊ね、骨折していたかもしれないと言われたとき、やはりかと想った。
一体いつあんな風になったのか、気づけばみちたの手も脚も、変な方向に向いていて特に手はだらんとしていたので、骨折しているのだろうかと想っていた。
それで起き上がることがとうとうできなくなったのかもしれない。
想像を絶する痛みに耐えて、みちたはそれでも起き上がろうと頑張っていたのか。
みちたは生きる為に、ただそれだけの為に頑張っていた。
自分で起き上がれなくなって、自分で食べることすらできなくなっても、それでもひたすらみちたは、生きる為に、起きて食べようと、頑張っていた。
動物が生きようとする力を、想いを、本当に知ることができるのは動物の側にいつもいることだ。
人間にとって動物とは、殺す必要も食べる必要もなく、その代わり、共に長い期間を過ごす必要がある。
精一杯遣ったとということを訪問看護のチャーミーさんも姉やしんちゃん(一歳時に養子に行った上の兄)も何度と励ましてくれたが、自分ではこんな酷い飼い主はなかなかいないだろうと感じている。
死んだ後もみちたが可哀想でならず、悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。
でもこの苦しい後悔を重ねてやっと、本当に自分を犠牲にしてでも弱い存在を護ることのできる強い(愛の深い)人間になれるのかも知れない。
わたしがこの世の救いを求めてヴィーガンになれたのは、シルバーバーチという聖霊の残した言葉が切っ掛けだった。
シルバーバーチは人間は愛を知らないなら、それは死んでいる状態だと同じだと言った。
動物を殺さないと飢えて死ぬとしても、それは動物を殺さねば飢えてしまうような場所で生活する人間が間違っているからだとはっきりと言うとても厳しい存在だ。
シルバーバーチが動物に言及している言葉のなかで、何度と想いだす言葉がある。


「動物は人間を助ける為に生まれて来て、人間は動物を助ける為に生まれてくるのです。」


殺す為でも食べて生き永らえる為でもなく、共に助け合う為に、動物と人間はこの地上に生まれてくる。


みちたはわたしを助ける為に生まれて来て、わたしはみちたを助ける為に生まれて来た。


みちたをもっと大切に、してやりたかった。
わたしはみちたを喪って初めて、その存在の本当の大切さに気づき、後悔しつづけている。
でもわたしはいつでもみちたを助ける為に鬱から抜け出す方法を探すのに必死でもあった。
ホームヘルパーを利用したのも自分の生活を楽にする為ではなく、自分が鬱を治して元気を取り戻し、元気になればみちたの世話がちゃんとできて、毎日撫でたりして可愛がってやることもできるはずだと想っていたからだ。
慢性的につづく鬱の一つの原因がそれが叶わないことだとわたしはわかっていた。
みちたを愛するあまり、みちたを愛することができなかった。
みちたを愛せない自分を責めつづけ、みちたを苦しめつづけた。
皮肉や矛盾という言葉では到底表しきれない人間の複雑な心理を自分自身に感じながらみちたと一緒に過ごして来た。
父に依存して父を愛するあまり鬱で寝たきりとなり、何も食べたくないと父に言うと父は冷たく「ほんなら死ね。」と言い捨てたその父は、わたしが側にいないと寝たきりになってしまうような人だった。
大切なのに、大切にしてやれない。
人間の想いと行動は、あまりにも掛け離れ、人間を救う為に、人間を殺したりもする。


わたしもみちたを助ける為に、みちたを殺してしまったのか。
みちたは本当はもっと長く生きられるはずだったのに、わたしが寿命を縮めてしまったと感じる。
ただ毎日のトイレ掃除とサークル内の掃除、餌入れの洗浄と、1日に数分撫でてやるだけで、みちたはあと四年近く生きられたかもしれない。
あと四年、一緒にいられたかもしれない。
今想えば、とても簡単なことに感じる。
今のこの、みちたのいない苦しみと悲しみと、淋しさの深さを想えば。


みちたが死んでから、急激に気温が下がって窓を閉めていても寒いほどだ。
この冬を乗り越えられるかと不安だったが、冬が訪れる前に、みちたは旅立ってしまった。


ちいさなちいさなみちたを迎えたのは2008年の、確か五月に入らない四月二十四日辺りだったと想うから、そしたら生後1ヶ月半も満たないみちたとわたしは一緒に暮らし始めた。
そうするとみちたとわたしが共に過ごした期間は十一年と5ヶ月半ほどか5ヶ月半弱。
約十一年半、みちたはわたしの側にずっとずっと居てくれた。






(2008年4月の終わり頃、みちたを連れて帰ってきてすぐの頃。この頃、みちたはあまりにも儚くて、弱い存在だと感じた。でもみちたは、これから11年半もの永い永い期間を、人間にとっての90年以上もの時間を、わたしと一緒に生きることになる。)




午後15時16分、また、ふと想う。
みちたはわたしが側にいるときに頑張って息をしていて、わたしがみちたのもとを離れたから、もう逝っても大丈夫だと想って、息を引き取ったのかもしれない。


みちたが、何故わたしに死に目に会わせてくれなかったのか、ずっと考えている。


みちたにとって、わたしはどんな存在だったのだろうか。
みちたは今どこにいるの?
そう訊ねると即、「こず恵の側にいるよ。」と帰ってくる。
「心配だ。」と、「淋しい。」と、みちたは言っているような気がする。
みちたが死んでから、メラトニン依存症になってしまっている。
しかもお酒と併用しているから、動悸が起こるときもある。
どうしたら良いのだろう。
みちたと再会して、またずっと一緒に暮らすと決めたのだから、死ぬわけにはいかないのに。
動物にも彼の世(もしくは此の世と彼の世の間の世界)で最初の審判と、最後の審判があるというのは本当だろうか。
その際に、すべての罪を問われる。
わたしは動物には罪はないとは言い切れないと考えている。
何故なら前世で人間だったかも知れないからだ。
殆どの人間は、罪の塊だと感じる。
一体どこから無知で、どこから無知ではないのか、わからない。
無知の罪は免除されるとしても、無知だと感じていた罪が無知ではない可能性もある。
みちたに罪はないと信じたい。
あっても、もうこれ以上堪え難い苦痛を強いられるほどの罪はないと信じたい。
みちたが、来世は家畜に生まれ変わってくるかも知れないなど、耐えられない。
耐えられる人間がいるだろうか?
自分の愛する存在が、来世は家畜として生まれ変わって来て、無残にも、生きたまま解体されて殺されることなど。
その可能性は皆無だとは言い切れない世界に、わたしたちは生かされている。
だから本当に、本当に深刻に考えなくてはならない。
何を食べ、何を着て、自分は誰をどれほど苦しめているかを。
わたしは、みちたを散々に苦しめつづけてしまった。
苦しめつづけながら、可哀想でならなかった。
でも手放したくはなかった。
手放せば、わたしは生きてゆけないと感じていた。
どうすればいいのか、わからなかった。
助けを切実に求めていた。
ホームヘルパーを利用したことを、わたしは今さら後悔している。
もしかしたらホームヘルパーを利用したことでみちたはあんなに苦しんで早くに死んでしまったのではないかとさっき想った。
ホームヘルパーの担当の男性に本気で恋愛をし、うつつを抜かし、結婚して子供がいることも知らずに馬鹿げた可能性を願望した。
彼と上手く行けば、みちたの世話もちゃんとできるようになって、わたしも変われるかも知れない。
藁をも掴むように、彼に依存し、最終的に相手に人間としても感じられていないように感じて相手に対して電話口で泣き叫び、何日間か、一週間以上か、寝たきりの鬱になってしまった。
その期間、わたしは斜頸の症状が出ているみちたをほったらかした。
トイレはいつも以上にうんちが山盛りになったままで、水も変える気力もなく、餌入れが空っぽになってたりもしていたように想う。
斜頸は日に日にひどくなってぐるぐると回転してはひとりでひっくり返ったりしているのを眺めながら天然の抗生剤であるハーブを与える以外何もできず、痛々しくてならなかった。
ホームヘルパーなんて、利用しなきゃ良かったとさっき想った。
妻子のある身の男性なんかに馬鹿げた疑似恋愛などするより、みちたに恋をしていたかった。
でもみちたはわたしの息子のような存在なので近親相姦的になってしまうのだろうか。
でも姉は子供を初めて産んたときわたしにこう言った。
自分の息子に「まるで恋してるような気持ちになるねん。」と。
純粋な恋やなぁとわたしはそれを聞いて想った。
何故なら息子に対しての恋だから、それもまだ赤ん坊の息子に対してだから、その恋とは性欲や子孫を残す為という欲望は一切関係なく、いわば乳を与えて養育し、相手を護る為であり、同時にずっと側で生きられる為であると想った。
みちたを亡くして、つくづく想う。
もう今までのような、利己的な恋愛はしたくない。
性欲やDNAを遺す為のインプットされた本能からの恋愛は、もう二度としたくない。
互いに性的不能になっても、互いにどれほど醜い姿になっても本当に愛し合える関係になれないのならば、恋愛も結婚も、必要などない。
わたしは今、みちたに恋をしている。
みちたが死んでから、いや、みちたが寝たきりになったときからみちたへの恋に落ち、泣いてばかりいる。
みちたが死んでから、ロミオを亡くしたジュリエットの悲しみが一日中つづいているかのようだ。
でも後を追いたいとは想わない。
わたしはみちたと約束したんだ。
必ず、また一緒に生きてゆこう。と。
みちたを亡くしてから、わたしは想う。
わたしはにんげんで、みちたはうさぎだったから、結婚ができなかったし、子孫も残せなかったし、みちたは抱っこが大嫌いだったから抱っこもできなかったし、キスすると寄生虫が移るからキスもなかなかできなかったけれども、みちたは確かにわたしの息子であり、同時に夫であり、恋人であったのだと。
ということは、みちたが死んだからといってその関係がなくなることはない。
みちたは、今でもわたしの息子であり夫であり、愛する恋人なんだ。
涙が枯れる日なんて、きっと来ない。
みちたと再会するまでは。
どうしても、みちたのいたサークルのなかを無意識に何度と見る癖がなかなか消えない。
そこに今もみちたがいる気がする。
みちたが自分で水も飲めなくなったのは大分前で、その時から水を変えていないから新しい水を入れてやれば飲みに来るだろうか。
みちたが水入れに舌を浸けて飲む音が今にも聞こえてきそうだ。
みちたが寝たきりになったとき、サークルのペットシーツを変えてやっていたら足がサークルに取り付けてある餌入れに当たって音がした。
その音がみちたがフードを食べている音に聞こえて、元気だった頃を想いだし、みちたの前で声を押し殺して泣いた。






(2008年、みちたを飼い初めて少し経った頃。ケージにマイクロファイバーの敷きパッドが被せられているから、この年の冬かもしれない。買ってきた時より少し大人びた表情になっている。でもまだまだ、とてもちいさかった。)





午後17時14分、みちたの水を久し振りに新しく変えて、餌入れも綺麗に洗って新しいフードを入れて、みちたの大好きなドライデーツをフードの上に置いてあげた。
みちたは来てくれるかな。
みちたのおしっこが染み付いたシーツは捨てるのが嫌だったので、少し匂いがきついがそのままにした。
寝たきりになったみちたにシリンジであげたときにみちたの口の周りを拭いたキッチンシートがそのままあって、みちたの匂いがするかなと想ってくんくんしたら少し酸っぱい匂いがした。
そこにみちたの最後の毛が少し付いていてまた泣きそうになった。
その毛を指輪のなかに遺骨と一緒に入れてもらおうかと想う。
みちたのこれまでの抜け毛は小さなぬいぐるみが一つか二つできるほど取っておいてある。
オーダーメイドで飼っていた動物の写真を送ってそっくりなぬいぐるみを作ってもらえる作家さんがいたので、みちたの毛で作ってもらえるか、お金に余裕ができれば頼んでみようかな。
でもそれまではみちたがよくマウンティングしたり咥えて走り回っていたうさぎのぬいぐるみのみちたが噛んで破ってしまったお腹の隙間から、毛の半分ほどを詰め込んで置いてあったから、そのままにしてみちたの遺骨の隣に置いておこう。


















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