2019年。
VEGAN (ヴィーガン)です!!
今年は昨年よりも世界中で完全菜食者たちが増加するとぼくは見た。
今年は昨年よりもVeganの反逆が増えるかも知れないが、それも仕方がない。
身勝手な人類は、想い知る必要があるんだ。
自分がどれほど他者に対して酷いことを遣って来たのかを。
第三次世界大戦が起きる前に。
ぼくは人類に知らしめたい事がある。
人間の愚かさ。
人間の頭の悪さ。
人間の幼稚さ。
剣を持つ者は剣によって滅びる。
つまり他者に暴力を振るい、殺す者は、他者から暴力を振るわれ、そして殺される。
それが嫌なら、他者に暴力を与え殺すなということだ。
ぼくは暴力を心の底から悲しんでいる。
ぼくは暴力を、この世界から無くしたいと本気で想っているんだ。
ぼくにとっての暴力とは、『他者に堪え難い苦痛を与え、死に至らしめる(殺す)もの』。
これこそが、この世の最も忌むべきもの、不快なもの、幸福のない世界。
これすら無くなるのなら、この世は弥勒の世と呼んで良い世界になるのではないかと想っている。
それ以外なら、人間の成長(愛を深めること)の為の必要な試練の苦しみと呼ぶだろう。
誰も他者に堪え難い苦しみを与え、殺さない世界。
此処で言う『他者』とは、実は自分自身である。
ぼくの言う他者とは、すべての存在のことなんだ。
ぼくの言う他者とは、すべて自分自身の分身なんだ。
他者に堪え難い苦しみを与え、殺す世界とは、自分に堪え難い苦しみを与え、殺す世界なんだ。
何故、自殺者がいなくならないのか、考えたことはあるだろうか。
何故、戦争が終わらないのか、考えたことはあるだろうか。
何故、殺人者がいなくならないのか、考えたことはあるだろうか。
何故、堕胎と死刑を肯定する人がこれほど多いのか、考えたことはあるだろうか。
ぼくは一つ、答えが出ている。
みんな自分を殺したいんだ。
自分(他者)を殺し続けてきた自分が殺したいほど憎くてたまらないんだ。
そして殺す者は他者(自分)に殺され、殺戮の連鎖が延々と続く世界なんだ。
ぼくはそんな世界に生きてゆくことがいい加減耐え難くなった。
みんな自分を殺し続け、自分から殺され続ける世界。
ぼくはそのすべてを助けたいと本気で想っている。
だから人々をどんなに傷付けてでも、大晦日に『DOMINION』をブログで紹介したんだ。
何人の人が、最後まで観てくれたのかもわからない。
なんの反応も此処に帰って来ないから。
ぼくは断言できる。
『自分(他者)を殺し続け、自分(他者)から殺され続ける世界』から自分(他者)を救い出す方法は、一つしかない。
"Vegan"になることだ。
健康になるためにじゃない。
環境破壊をなくすためにじゃない。
自分(他者)を殺し続け、自分(他者)から殺され続けない為に。
それが人間が自分(他者)を救う唯一の方法だとわかったんだ。
今やこう叫ぶ人はすごく増えてきた。
『GO VEGAN!!(ヴィーガンになろう!!)』
ぼくたちがぼくたちを救う方法はたった一つ、これだって目覚めた人が増えて来ているんだ。
でもまだ多くの人は、自分(他者)を殺し続け、自分(他者)から殺され続ける世界を肯定(賛美)している。
”それ”がどれほど恐ろしい地獄であるかを"忘却"してしまったからだろうか?
人や動物が殺されることを不快に想い、悲しむのは自分が殺されたことがあるからだ。
でもほとんどの人はそれを記憶の底に封印してしまっているんじゃないか?
でもアーティストたちは、それを表現によってぼくたちに示してくれているのかも知れない。
先日に観たパゾリーニ監督の1969年の作品『豚小屋』がその一つだとぼくは感じている。
この映画に興味がある人は是非、先に観てほしい。
冒頭の台詞はこうである。
『我々は良心に従い、
お前の不順ゆえに
お前を食べることにした』
『豚小屋(原題:Porcile)』という映画には、三大テーマがあるとぼくは見た。
『人肉食』『獣姦』『獣から喰い殺される人間の運命』
これが監督が人間の最大の罪をメタファーにして表現していると感じた。
ピエール・クレメンティ(Pierre Clementi)
まずこの映画には人間が人間を殺し、人間の肉を貪るシーンが描かれている。
といっても、ぼくが笑ってしまったのは、普通の食事のように人肉を食べる姿があったからだ。
まるで疲弊したサラリーマンが帰りに一人で焼肉屋へ赴き、一人で焼肉を焼いて食べているかのように、その者は人間を殺したあとに人間を食べていた。
これは一体なにを表しているのか?
何故、こんな飄々と人間が人間を殺したあとに人間の肉を食べているのだろう?
おぞましくグロテスクなはずのシーンを、パゾリーニ監督はまるで日常風景のひとコマであるかのように撮った。
これに対してぼくは最初可笑しくて笑ってしまったけれど、最後まで見終わってこの人間の複雑なものを考えて、とても素晴らしいと感じた。
最初は飢えによって仕方なく人間の肉を食べているかのように見せるが、次第にそうではなく、人間が人間を殺してその肉を喰らうことに快楽を見出だしているかのように描く。
その光景をとても俯瞰的であり普遍的に描いている。
ジャン=ピエール・レオ(Jean-Pierre Léaud)
この映画は過去と現代が交差するように描かれている。
一方、此処でも一つの背徳行為に快楽を見出だしてしまった者が描かれる。
『獣姦(家畜に対するレイプ)』だ。
(しかし直接的な獣姦なのか豚を見ながらのマスターベーションであるのかははっきりとは描かれてはいない。どちらにしろ著しい冒涜(神への反逆)である。)
16歳の頃に、彼は豚(家畜)小屋に入り、そこで何を見て、感じたのだろう。
豚に対し、性的欲情を抑えることができないなんて。
でも豚は見れば見るほど人間によく似ている。
何故、あんなに人間の肌とよく似た肌色なのだろう?
豚の目を見つめれば見つめるほど、人間の目を見つめているかのようだ。
豚と人間の共通性は驚くほど多い。
- 豚の心臓は人のものと作りが同じで、2心房2心室で大きさも人とほぼ同じ
- 臓器の大きさが人間と似ている
- 皮膚を作っているたんぱく質の組成および量が似ている
- 冠状動脈(心臓に栄養や酸素を運ぶ動脈)の分布が似ている
- 最低血圧が50~90mmHg、最高血圧が100~140mmHgである
- 雑食性のため、消化吸収の生理が似ている
- 目の構造が似ている
- ミニブタの場合、成熟体重が人間に近い
だからと言って、彼に人間よりも豚の方が性的快楽を与えてくれたのは何故だろう。
豚はいずれ、人間の食べ物となる。
そして人間の血と肉となるんだ。
つまり人間は豚の血と肉でできている。
それなら、人間が豚に見えない方が可笑しいんじゃないか?
無論、ぼくは人間が豚(家畜)に見えるけれども。
そうか、彼はきっとぼくと同じに、人間が豚に見えて、豚が人間に見えてしまったんだ。
おそらく、実際にそうなのかもしれない。
豚は本当に人間の生まれ変わりなのかもしれない。
"輪廻転生"という宇宙の摂理によって。
だから豚は人間だし、人間は豚なんだ。
過去のすべても未来のすべても今存在しているのだから。
だったら豚を犯すこと。
これは人間を犯すことと同じだと言える。
君が何度と食べてその血肉にしてきた豚は人間によってレイプされて子供を産んだ豚とその仔豚たちだって知ってた?
嫌がる豚を苦しめ無理矢理、生殖器のなかに手や器具を突っ込んで人工受精すること、これも人間による豚へのレイプだ。
レイプ被害者たちを殺したその肉(死体)をぼくたちは美味しいと感じて食べて来たんだ。
彼をもし責めるなら、彼は笑ってぼくたちにこう言い返すのかもしれない。
「本当の豚は君(僕)たちの方だけどね。」
彼が執拗に人間より豚を愛して豚とセックス(例え妄想でも)してきたのは彼の目には人間よりも豚のほうがずっと美しい存在として映ったからじゃないか。
豚は例え身体が汚くて臭くても、心は人間より清らかに見える。
そして彼らは人間より弱者だ。
だから殺され続け、食べ物としてしか見てもらえない。
ほとんどの人にとって彼らは皿の上に載っかった料理としてしか、存在を喜んでも貰えないし、存在意義(存在価値)を認めても貰えないんだ。
彼らが人間と同じに子供と引き離されたら大声で泣き叫んで必死に子供を奪い返そうとすることに人が心から感動するなら、もう彼らを殺して食べることなんてしないだろう。
つまり多くの人間は、自分達の持つ愛情にさえ心から感動もできないほど虚しい生き物なんだ。
だから同じような愛情を持つ豚を”食べ物”として見ることができたんだよ。
『愛情』というものに関して、人間は豚以下だ。
彼にはそれがわかったんじゃないか?
だから人間より豚のほうが魅力的に感じて、豚とのセックスをやめられなかったのなら、自然なことだ。
彼には本当のことが見えていたんじゃないか?
本当の家畜は、豚よりもぼくたちのほうだってことを。
君なら、人間の餌となるのと、豚の餌となるの、どっちを選ぶ?
ぼくには人間のほうがずっと愚かに見える。
人間の餌となる前に、ぼくは豚の餌になりたい。
『僕の愛ほど卑しくつまらぬものはない』
『堕落とは違う』
ではこの映画の三つ目のテーマに入る。
『人間が獣(動物)に喰い殺されて終る』結末を、何故、両者に監督は描いたのだろうか?
過去と現代、両方とも、この映画は無惨でおぞましい結末を迎える。
両者とも共通していることがある。
弱者を我が物とした結果、動物に喰い殺されるという最期だ。
イエス・キリストによれば女を情欲の心で見る行為も姦淫という大罪であることが示されている。
何故、そこにある美しい神聖さを簡単に冒そうとするのか?
それは相手が自分よりも弱い存在として見下しているからではないか?
女を情欲の心(妄想)で犯す者も豚を情欲の心で犯す者も結末は同じかもしれない。
”神聖を穢した罪による報い”というものがパゾリーニ監督の彼自身のテーマであるのかもしれない。
一方は弱い人間を殺し、食的快楽に耽った。
一方は弱い動物を犯し、性的快楽に耽った。
一方は『この現象は崇高で美しい』と延べ、一方は『喜びに打ち震えた』と延べ、
両者とも神に背いた結果、弱者によって喰い殺される。
鬼才と呼ばれ続けるパゾリーニ監督はこの映画を撮ったが、『豚小屋』はパゾリーニ監督のなかで唯一(?)興行に失敗した(客が一番映画館に足を運ばなかった)作品らしい。
それはこの映画が人間が必死に目を背けてきたこの世の真理を描き切ってしまっているからではないだろうか?
人々はこの映画のなかに真実が隠されていることを何となく勘付いているのかもしれない。
ぼくはこの映画のレビューで肉食に対する危惧(今も行なわれ続けている弱者に対する支配)について考えを廻らした人間がほぼいなかったことを不思議に想っている。
それは人間にとって最も目を背けたい事柄だからではないか?
でも言っておく。最も目を背けたい事柄とは、人間にとって最もおぞましく深刻な事柄であるということを。
人間が"弱者を支配する"という神に反する行いを続けるなら、必ず"喰い殺される"という真実をパゾリーニ監督は意識下か潜在意識下で見抜いていたのだと想う。
そしてこの世で最も喰い殺され続ける存在とは、"家畜(人間の未来)"であるということを、監督はこの映画で表したかったのではないか。
もっとも、作者本人であれ、作品のすべての意図を正しく知ることはできない。
監督自身、気付いていない作品の意図があるはずだ。
優れた作品とは必ず神が関与している。
だからぼくたちが最も知りたいのは作者の意図ではなく、この作品に携わっている神の意図ということになる。
監督自身は1969年9月のインタビューでこう答えている。(自動翻訳なので少しわかりにくいが言わんとしていることは何となく解る。)
「このPierre Clementiは、最も絶対的で、総合的で、最も不名誉な息子のうち、不従順な息子です。要するに、よりスキャンダルです。
彼はまたこれを知っているので、ある種の報復のために捕虜になって動物に貪欲にされたと非難されたとき、彼は悔い改めず、彼の虐待的な服従にはほとんど誇りを持っています。
結論として、社会は動物を貪ること、すなわち”それ自体が不従順な子供たちを貪る”ことを貪る。(結論としては、社会はむさぼり食う動物、すなわち”聞き分けのない子供を食い尽くすこと”それ自身をむさぼり食います。」
「結論を出すのを忘れました。
つまり、最初のエピソードと同じように、社会がいかにして不従順な子供、完全に不従順な子供を貪っているのかを見ることができるので、不従順でも従順でもない子供も貪欲です。」
「私は犠牲者の側にいます。
著者としては、当然ながら客観的に偏見はありませんが、私は同情をもって見ている不従順な息子の側にいます。
従順または不服従をしている息子の側にいます。」
質問者:「クレメンティは、必要によって、飢餓によって共食いを強いられる人を表しています。これは、あなたが生存の必要性の結果としてあなたがこの共食い主義を考えるということを意味しますか?」
Pasolini:「S-si、しかしこの生存の必要性は、実は口実です。
それはこのようなたとえ話の始まりです。
次に重要なのは行為です。それはこの行為が持っている反乱の虐待的な意味のひどい良心です。」
質問者:「あなたの宗教について教えてください。」
Pasolini:「AccattoneとOedipusに見られるように、私の信仰は物との、そして現実の生き物との神聖な関係です。
つまり、自然は自然に見えません。
それで、すべては私には従来の意味で奇跡的ではなく、ほぼ要するに神聖な形で現れます。」
このインタビューを読んでも、監督自身は肉食、畜産の大量生産(飽食、大量消費)について言及しているとわたしは想います。
この『豚小屋』というタイトルの映画が実際の豚(家畜)をそっちのけにしている(テーマである)はずはないし、優しい冒頭の音楽が流れる中、豚たちの様子を監督が映したことは、監督の暖かい動物への眼差しを感じてならない。
畜産業の大量生産は資本主義の最も大きな最悪な罪の一つである。(それは先ほど載せたドキュメンタリー映画『DOMINION』を観てくださればわかるだろう。)
肉食の必要性(生存の為の必要性)は、実は口実である。肉や畜産物や魚介でしか摂取できない栄養素はないからだ。
資本主義社会は、人間を最も家畜とする社会なのは、これはメタファーではなく、実際に人間が家畜となって生まれ変わるための社会構造なのではないのか?
『DOMINION』のあとに、君がこの『豚小屋』という映画を観るなら、何を感じ取れるだろう?
最後に二人は意味深な言葉を言い放つ。
ユリアン『この前も夢を 水たまりがあった 僕は光輝く黒い水たまりを捜した オーロラのようにキラキラのだ 忘れたけど たぶんおもちゃを捜した 水たまりの向こうに仔豚がいた 触ろうとしたら 咬まれた 右手の指を4本だ だが 血は出ない ゴム管のようだ その指の事で僕は困り始めた 殉教者みたいに この愛の意味は? 真実を知りたい衝動か』
荒野の男『私は父を殺した。人の肉を喰らった。そして、喜びに打ち震えた。』
優れた作品に神の意図を見付けられないなら、真に不幸なことだ。
パゾリーニ監督が最期は多分に地獄の拷問を受けたあとに殺されたであろうことも、パゾリーニ監督の自らの罪の意識の深さによるものだと考えている。
"自らの罪を裁く者"、それが人間であるのだと監督は言いたかったのだとわたしは感じる。
人間はどう足掻いても、神によって創られている以上、罪の意識を完全に喪わせることができない。
どれほど神に背いて生きようが、神によってできている限り、必ず神へ戻って来なくてはならない。
罪の意識を持って弱者を支配し続け、そして喰い殺される顛末を延々と繰り返し続ける世界で、人は何を願うのだろう。
それは豚の目が君に向かって訴えていることじゃないか?
そうでなければ、豚の目があんなに人間と似ているはずないじゃないか。
権力者たち、大企業によって利益を上げ続ける者たちは、この真理が世に広がり、人類を救う日を恐れている。
資本主義社会の終りを意味しているからだ。
『豚小屋』は1969年の作品で今年は50周年に当たる。
50年後の今、ぼくたちはまだ豚小屋で生きている。
1975年にパゾリーニ監督が暗殺されてから今年で44年目に入る。
資本主義社会はまったく持続可能なものではないし、持ってあと半世紀。
でも無理に続けようとするなら、ホロコースト(人類削減)を世界中で起こさない限り食糧難(飢餓)と水不足、環境破壊と気候変動と自然災害の末に第三次世界大戦は必ず起きるだろう。
早くて10年以内にそれらが遣って来ても全くおかしくない時代にぼくたちは生きている。
ぼくたちはそれらを経験するかもしれない。
そうすると今までで最も酷い惨劇の世になるかもしれない。
今の世の中を象徴するのはまさしく”豚小屋”ではないだろうか。
無数の豚(人間)たちが、人間(家畜)を食べている姿が君にも見えるはずだ。
この豚小屋のなかで君がどんな幸福を望もうとも、所詮豚小屋のなかの幸福だ。
この豚小屋のなかで君がどんな幸福に満たされようとも、所詮豚小屋のなかの幸福だ。
喰われる為に殺される未来が刻一刻、近付いている。
『人肉食、獣姦、そんな行為よりも、もっと恐ろしいのは、肉食(動物という人間を食べ続ける為に大量生産を肯定する行為)なんだ。』
ぼくは人類をこの豚小屋から救い出そうと本気で想っている。
唯一の方法。
人類をすべて、『VEGAN』にするという方法だ。
でも動機が不純であれば、救われない。
人類が救われる動機とはただ一つ。
『すべての生命を命懸けで救いたい』
という動機だ。
不健康だからとか、美味しいものが食べられないのは不幸だ(生きる喜びが減る)からと言って人間(家畜)の肉を喰らう者は自ら苦しい地獄へ向かって歩んでいることに気付いて欲しい。
それが無理なら、ぼくたちは豚小屋で死に、目が覚めたら、豚小屋にいることだろう。
人間の食べ物(血肉、人間)となる為に生まれてきて、そして殺されるだろう。
何十億回と。
「荒野の男とユリアン」に続く。