あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

全人類が絶対に観るべき映画『DOMINION』

2018-12-31 19:50:55 | 人類の苦痛の根源

『人類最大の罪』と題名を迷いました。

『DOMINION(ドミニオン)』とは『支配』を意味する言葉です。

オーストラリアで今年(2018)の3月に公開され、日本では7月に公開されたドキュメンタリー映画です。

ナレーションをホアキン・フェニックス,ルーニー・マーラ,シア(SIA),セイディー・シンク,キャット・ヴォン・Dが務めています。

これがどんな映画であるのか、わたしのブログをずっと読んで来てくださった方々には察しがつくかと想います。

これを観ずにして、すべての人に新しい年を迎えて貰いたくないと想う映画です。

この映画にはほとんどの人が今も関わり続けている(関わり続けてきた)世界で最も大きな悲劇が映されています。

最も残虐であり、最も冷酷であり、最も悲しい現実です。

わたしはこれ以上の残酷なものを知りません。

これを観るなら、多くの人は戦争を行なう人々、殺人者、レイプ犯罪者に向って非難する資格など最早ないことを知るはずです。

わたしたちはその行為と寸分違わぬ残虐な暴力を振るい続け、大量に殺害し続けてきたからです。

この映画を、ちゃんと最後まで観て、自分に対して問い掛けてみてください。

「果たしてわたしたちの幸福とは、これなのか?」

「ここにわたしたちの幸福があるのか?」

「わたしたちを喜ばせるものが、これであるのか?」

「わたしたちの人生に、本当に必要なものなのか?」

あなたの答えが、わたしの中にあるわけではないのです。

あなたの答えは、あなたのなかにだけ存在します。

だから現実に起きて、そしてほとんどの人が関わっていることのすべてを知ってください。

「これと殺人の、一体何が違うのか?」

わたしの答えははっきりとしています。

「それは何も違わなかった。」

わたしは数え切れないほどの殺人と虐待とレイプに加担して関わり続けて来たのです。

だから如何なる苦しい報いも、自ら受けねばならないのかもしれません。

このドキュメンタリー映画のなかで常に苦しみ続け、最後に殺される者たちはわたしたちの未来の姿です。

わたしたちは自分の未来を救う必要はないと想われますか?

わたしたちは自分の愛する家族を救う必要はないと想われますか?

自分の胸に、問い掛けてみてください。

 

覚悟して、御覧ください。(字幕設定を日本語翻訳にして御覧ください。)

耐え難い場合は何度かに分けて観たり、一端停止して深呼吸しながら御覧ください。

これらがわたしたちが知らず知らずに(知ろうともせずに)行ない続けてきた最も苦しく悲しい行いです。

 

Dominion (2018) - full documentary [Official]

 

 



https://www.dominionmovement.com/

 

 

 

 

 


 

追記:2019,1,2

記事に写真を付けたほうがブログに足を運んでくださる方が増えるかも知れないと想って映画の冒頭のシーンを使って「DOMINION」のイメージ写真を作りました。

観るのもつらい写真ばかりで、残酷性がこの暗がりの無機質な殺害道具たちによって一番現れているように感じました。

(右クリックで新しいタブで画像を開くと拡大して見ることができます。)


 

 

 

 

 

 











夜明け前の声

2018-12-30 18:46:25 | 日記
今日で父が死んでから15年が過ぎた。

毎年、この命日に父に対する想いを綴ってきた。

人間が、最愛の人を喪った悲しみが時間と共に癒えてゆくというのはどうやら嘘であるようだ。

時間が過ぎて、父を喪った日から遠ざかってゆくほど喪失感は深まり、この世界はどんどん悲しい世界として沈んでゆく。

それはわたしがだんだん孤立して孤独になって来ているからかもしれない。

父の死と向き合う余裕さえないほど、日々は悲しく苦しい。

ここ最近毎晩、赤ワインを必ずグラスに6杯以上寝床に倒れ込むまで飲んで寝る。

胃腸の具合も最悪で歯もぼろぼろになって来ている。

こんな状態を続けていたら母の享年44歳までも生きられそうもない。

亡き最愛の父に対して、特に今は言いたいことは何もない。

もし父に再会できないのなら、わたしはまったく生きている意味も価値もない。

もしできることなら、タイムスリップしてこの気持ちを父に伝えて父を悲しませられるならどんなに喜ばしいだろうと想う。

父はわたしの為にもっと悲しむべきだった。

わたしがどれほどお父さんの為に悲しんできたか、それをお父さんは知るべきだ。

今も必ずどこかで生きているはずなのだから。

父は突然容態が急変した死ぬ一週間前に麻酔を打たれて眠らされた。

麻酔が打たれ、集中治療室のドアが開かれて、そこで眠っていた父の姿は、生きている人だとはとても想えなかった。

無理矢理人工呼吸器を喉の奥につける為、歯が何本と折れ、口の周りには血がついていた。

あとで折れた何本かの歯は肺に入ったと半笑いで若い女医から聞かされた。

喉には穴が開けられそこに人工呼吸器が取り付けられ、眼は半開きで髪はぼさぼさの状態でベッドの上に父は寝ていた。

無機質な白い空間のなかで冷たい器具に囲まれ、父は何度もそれから死ぬまでの一週間、肺から痰を吸引する時に鼻から管を通す際、必ず麻酔から少し醒めては苦しそうに呼吸した。

それでも一度も意思疎通はできずにそのまま父はあっけなく死んだ。

その間の父の肉体的苦痛と死を想っては、わたしは精神的な地獄のなかにいた。

もしかしたらあの一週間の間、拷問的な苦痛が父を襲っていたのかもしれない。

でもわたしたちは側にいても何もしてやれなかった。

姉と交代で集中治療室の父の側で眠る日々の絶望的な地獄の時間を想いだす。

父が側で拷問を受けているかもしれないのに、わたしはそれをやめろとも言えなかった。

ただ側で眺めて、苦しんで涙を流すしかできなかった。

一週間後に死ぬことがわかっていたなら、あんな苦しい目に合わせずに済んだと。

後悔してもしきれない。

何のために父があれほど苦しまねばならなかったのか。

何のために母は全身を癌に冒され死んでゆかねばならなかったのか。

今ではそんな疑問も持つことはない。

わたしたち人間のほとんどは、それを与えられるに値する罪びとだとわかってからは。

言い訳をすることすらできない。

いったい神に対してどんな言い訳ができるだろう?

何年か前に見た映像のされた後の牛の血だらけの頭が、父に見えてしまったことは本当なんだ。

何故わたしたち人間は、それを回避できるだろう?

何故わたしたち人間は、安らかな死を許されるだろう?

何故わたしたち家族は、この死ぬ迄消えない苦しみについて、神に対して苦情を申し立てることができるだろう?

わたしたちのほとんどはまるで幼子の様に善悪を分別することすらできていない。

人類に耐え難い苦しみが終らないのは、人類が動物たちに耐え難い苦しみを与え続けているからなんだ。

堪えられる苦痛ならば、自ら命を絶つ必要もない。

堪えられないから自ら命を絶った人たちのすべてがわたしたちの犠牲者なんだ。

何故わたしたちがのうのうと楽に生きて死んでゆくことが許されるだろう?

神が存在するのならば、わたしたちのすべてはすべての存在の為に犠牲となって死ぬ世界であるはずだ。

安楽の人生と安楽の死を求めることをやめてほしい。

きっと求めるほど、罪は重くなり地獄に突き落とされるからだ。

楽園を求める者、弥勒の世を求める者は今すぐ耐え難い者たちを救う為に立ち上がって欲しい。

最早、父の死を悲しんでもいられないほど、深刻な時代だ。

ナチスのホロコーストが、20年以内に日本でも起きるかもしれない。

数10年以内に、肉食という大罪により、人類は第三次世界大戦と世界的な飢餓と水不足と大量殺戮と人肉食と大量絶滅を経験するかもしれない。

人類はいつまでも幼子でいるわけには行かない。

夜明け前はもっとも暗い。

わたしたちはすべて、受難への道を進んでいる。

それがどれほど苦しいことなのか、想像することもできない。

世界の家畜頭数はFAOの2014年データによると、

世界の人口は73億人
牛は14.7億頭
豚は9.9億頭
羊は12.0億頭
山羊は10.1億頭
水牛、馬、ロバ、ラバ、ラクダなど大きな家畜を含めると合計して50.0億頭
鶏は214.1億羽

世界の人口の4分の1は15歳未満の子供であるので、世界全体で、だいたい大人1人当たり、約1頭家畜を飼っていることとなる。

また鶏は採卵鶏あるいはブロイラー等として214.1億羽飼養されているので、人口1人当たりでは、2.9羽飼っていることとなる。

鶏以外のすべての四肢動物は人間の3歳児ほどの知能があり、同じほどの痛覚を持っているとされている。

3歳児の痛覚と、成人の痛覚はどれほど違うものなのだろうか?



すべての人類の罪を、すべての人類によって分けて償ってゆく必要がある。

楽園は存在しない。

でも救いは必ず存在する。

殺されゆくすべての動物たちはわたしの父であり、母である。

夜明け前、わたしは一本の蝋燭に火をつけ、寝椅子に座り目を瞑った。

そして禁じられた夢の最中にわたしの名を呼ぶ大きく響く声で目が醒めた。

『こず恵』

その声はお父さんとお母さんの声の合わさった声だった。




















罪と魂の傷

2018-12-29 04:36:52 | 人類の苦痛の根源

昨夜に、たった二分か三分ほどの時間を、下のポストを見に行く為に薄着で外へ出ました。
凍えるような寒い夜で、こんな寒さの中、いやこれ以上の寒さの中にかつてナチスの強制収容所の人たちは堪え続け、今でも動物たち(家畜や衣類や毛皮となる動物たち)は堪え続け、最後には殺される未来が待ち受けてるとも知らずに今を生きているんだと想いました。

かつてのブログを合わせて6年と10ヶ月以上、わたしは切実に訴え続けて来ましたが、まだ誰一人、完全にわたしに着いて来ようとする人に出会えません。
それほどヴィーガンを志す人は少数だということです。
わたしにとってはそれほど難しいことでもなんでもなかったことが、ほとんどの人類にとってはとても難しいことであると想い込んでいるようです。

わたしの場合はお酒をやめることのほうがずっと難しいです。

何年もの時間を、冬の寒い日に外と変わらないほど寒い小屋の中で堪え続け、最後には殺される人生と、菜食になって食欲を断つという人生のどちらを選択するかと神に問われるなら、後者を選択する人のほうがきっと多いとわたしは想います。

前者のほうがずっと苦しい人生であるということは容易に察しがつくはずです。

でもほとんどの人がまだそれに気づくことができないのです。

わたしは偶然にか、使命であるからか、それに気付かされ、気付いた者には責任が伴います。
同じように、ひとりでも多くの者に気付きを与えるという使命です。

一刻でも早くこんな使命から解放されたいと想う日は多いです。
それほど重苦しい任務だからです。

でも同時にわたしの積み重ねてきたカルマを想えば、こんなことで赦されるのはあまりに軽すぎると感じます。
長年の肉食による罪が、どうしてこんな苦しみで清算されるかと想うのです。

他者の苦しみを他人事のように感じることほど不幸なことはありません。
わたしは今でもずっと苦しんで孤独に生きていますが、かつて(ヴィーガンではなかった時代)の自分より、ずっと不幸ではありません。

他者の苦痛に胸を痛め、彼らを救う為に自ら欲と利益を断ち、共に苦しんで生きて行けることこそわたしたちの一番の救いです。

かつてナチスは労働に適さない社会に不適応だと見做した障害を持つ者、子供、老人、女性、ユダヤ人を大量に殺戮しました。
弱者や差別するに値すると見做す者を虐殺することを何かと言いわけをつけて正義(正しいこと)と信じて大量に殺害し続けたのです。
「夜と霧」というドキュメンタリーと、支配者(肉食者)のために虐待を受け殺される家畜の映像がダブらないと感じる人は、もう一度その二つの映像をよく観たほうがいい。
この二つは完全に同じものであったということが、わたしの死ぬ迄決して消えることのない最も大きな罪とトラウマ(魂の傷)である。

 

 


字幕設定を日本語翻訳にして是非御覧ください。

ポール・マッカートニー:'食肉処理場(場)がガラスの壁であったなら…'

Paul McCartney: 'If Slaughterhouses Had Glass Walls …'

 

 

 

 


☃ぼくのヴィーガンハヤシ🎄

2018-12-25 22:16:27 | 俺のレシピ
今夜も料理を作って、クックパッドにレシピを載せました。
ずっと作りたかったヴィーガン(植物性100%)のハヤシです。



Cpicon ☃しろんそらのヴィーガンハヤシ★ by しろんそら







ハヤシ自体に赤ワインが入ってますが、赤ワインととっても良く合います。
植物性だけで作ったとは想えないほど美味しいです。

是非、材料を揃えて皆さん、作ってみてください





使った商品はこちらです。







 





レシピにはタピオカ粉かコーンスターチと書いていますが両方半分ずつ使いました。
グルテンフリーのたまり醤油は残念ながら今ではAmazonで取り扱ってないようですが、時間が経つとまた取り扱うかもしれません。

野菜はこちらの自然栽培のお野菜セットとスーパーのお野菜で作りました。
調味料もオーガニックでほぼ揃えているので本当に美味しいです🌟


クリスマスや年末年始は毎年、動物たちの犠牲がものすごく増える時期です。
贅沢とは誰かを苦しめて、その命を奪うことで在るべきものではありません。
そのような世界に、だれひとりの幸福も決してありません。

植物性だけの料理を是非作ってみて、その美味しさを実感してみてください。

本当に美味しくって十分満足できることを知るはずです。





追記:29日の今夜も作ってみました


今回はブロッコリーの代りにセロリを入れて作ってみましたら、とっても美味しかったです。


ウスターソースを入れたら、ケチャップは必要ないと感じましたが、酸っぱめが好きな方はケチャップやバルサミコ酢を足してください。


追加で使ったものはこちらです。







❄ぼくのジンジャーブレッドマン❄

2018-12-24 22:43:42 | 俺のレシピ

今日は皆さん今晩はクリスマスイヴですね。

生きてますか?

わたしは今日はすこしく元気です。

もう何年目かの、独りきりのクルシミマスイヴですからね。

いつも以上の元気がなくては、生きてはゆけません。

このクルシミマスイヴを乗り越えてはゆけません。

今日は朝早く(朝の5時半)に起きて、ゲオオンラインで借りた15枚のビデオテープ 「霧の中の風景」 「ユリシーズの瞳」 「アデル、ブルーは熱い色」 「縞模様のパジャマの少年」 「黄色い星の子供たち」 「サラの鍵」 「ダ・ヴィンチ・コード」 「アンネ・フランク」 etc… を返しに行って、

メルカリに出品して売れたレアな漫画を郵便局で発送にしにゆこうとしたらば、なんと、郵便局が閉まっていたではないか。

そうか、今日は天皇の誕生日で祝日かあーと想ってコンビニに行って宅急便コンパクトを65円で買って、スーパーへ行って

ブロッコリーとエリンギ茸3パックとベーキングパウダーとメークイーンとリラックマの餅を買って帰りました。

そして玄関で宅急便コンパクトの箱を作ってそこに漫画を入れてもう一度コンビニへ行きました。

なんでそんな二度手間をするのかと言うとわたしは携帯二台をWIMAXで使っており、そのルーターを持って行かなかったからメルカリの発送方法の変更が行なえなかったんですね。

で、帰って来てSims3で教会の内装をずっと作っていました。

クリスマスだからやっぱり教会だなと想ってね。

最初はフォーレを聴きながら作ってたんですが、MGMTの新譜「リトル・ダーク・エイジ」に変わって、その後ずっと今もMGMTを聴いています。

新譜がすごく素晴らしくてね。

それで赤ワインを飲んで、ジンジャーブレッドマンを初めて作ったのです。

なんでジンジャーブレッドマンを作ろうと想ったのか、それはわたしのかつて書いた物語を読んでくださるとわかると想います。

「ジンジャーブレッドマン」でわたしのブログを検索すると三つのお話が出てきます。

ああ、愛すべきジンジャーブレッドマン!

わたしはこの日を待っていた!

わたしのジンジャーブレッドマンレシピはこちらです。

 

Cpicon ❄しろんそらのジンジャーブレッドマン❄ by しろんそら

 

 

 

焼き上げて、ちょっとして皿に置こうと一人の頭を持ち上げたんですよ。

 

すると頭がちぎれて落ちました。

 

ちょっとショックでしたが、きっと深い因果であろうと想いました。

 

 

 

使った商品はこちらです。

 

 

 

 

是非、作ってみてくださいね。

 

生姜を除いて、すべてオーガニックの材料で作りました。

 

卵を入れてませんし(わたしはヴィーガンなので)、普通の小麦粉で作ってないので非常にパサパサで、作るのは少し大変ですが、焼きあがると味はとても美味しいです。

 

分厚いほど美味しいです。

 

 

 

追記:27日の今日に米粉を大さじ3杯足して作ってみると驚くほど作りやすかったです。

やはりココナッツフラワーだけではパサつきすぎて型を取るのに往生しました。

でも味は特に変わりませんが、歯応えは大きく変わります。

米粉を入れただけでサクッとした歯応えになってより美味しかったです。

 

 

使った米粉はこちらです。

 

 

クックパッドも書き替えたので、是非、作ってみてください。

 

 

 

 


神の掟

2018-12-18 00:46:30 | 随筆(小説)

人類が、これまで行った"彼ら"に対する殺戮、暴虐について知ったなら、「何の罪もない人が」という言葉を使うことがどれほど愚かで皮肉めいているかを知るだろう。

「何の罪もない」のに、人が苦しめられて死んでゆくのではない。
「罪がある」からこそ、人は苦しんで悲しみの底に死んでゆく。
つまりみずからの"罪"を知る者ほど、苦しめられ、殺される。

人類はホロコーストを、ずっとずっと今も続けている。
"彼ら"に対して。
彼らは人類が罪の内に苦しんで死にゆく為の生贄である。

"彼ら"が誰か、きみがまだわからないなら、きみはぼくがこれまでずっとずっと訴え続けてきたことの何をもわかっていない。
ぼくの最も苦しいものをきみは何もわかっていない。

人類が地獄を経験するのは必然性によってであり、偶然性によってではない。

ぼくがきみをシャワー室へ誘うとき、きみが訝らないなら、きみはぼくが神の掟に生かされているに過ぎない一人の存在でしかないことのなにをもわかっていない。
ぼくがきみをシャワー室へ誘うとき、ぼくはきみを"食べ物"としか見てはいない。
きみが"彼ら"に対していつも行っていることと同じだ。
"彼ら"はきみの食べ物となる為、殺される前にシャワーを浴びると騙されて処刑場へと誘われる。
ぼくはかつてそこにいた。
彼らをシャワー室へ誘導するとき、彼らを"人"として見てはいなかった。
食べ物となる者は食べる者の血肉となり、残りは排泄物となる。
ぼくの眼にも、彼らはそのように映っていた。
人間の食べ物となる彼らは、裸で並ばされ手にちいさなちいさな石鹸を渡される。
真冬の夜にも、何時間と、彼らは此所に並ばされる。
明日の朝、きみは人間の食べ物となるため殺される。
本当のことを言えばきっと逃げたくなるだろう。
だから彼らは本当のことは教えられない。
死の瞬間、彼らは覚ることしかできない。
自分は『罪人』であったという事実を。
忘れないで戴きたい。
彼らはぼくらと同じ"罪人"であるということを。
彼らはまさしく"人"であった。
その証拠に、熱い真っ赤な血が、彼らにもぼくらにも流される。
ぼくは彼らを人としては見ていなかった。
彼らをシャワー室へと誘い、無機質で寒い室内に彼らを入れた後、扉に鍵をかけ、真っ暗な部屋の中、恐怖に悲鳴をあげる者もいる。
そして素早く、ぼくはその屋根に登り、丸い蓋を開けて一つの缶を、投げ入れすぐさま蓋を閉める。
地獄とは、地獄を味わう者にある。
地獄を味わわせ、その地獄を味わう者に。
彼らの断末魔を、彼らの残した壁の爪痕を、彼らの、最期にぼくに助けを請うように見た悲しい目の数々を、ぼくは六十七年後に見た。
四角い画面の向こうに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


盲目の世界

2018-12-04 05:30:26 | 随筆(小説)

僕が此処まで打ちのめされているのは、彼が僕の小説の真の読者であると感じたことが大きく関係しているだろう。
彼がそうでなかったら、僕は彼処まで彼を必死に説得しようとはしなかったように想う。
彼が僕の小説を絶讚した瞬間、僕は彼を救うためだけに生きているようなものだった。
彼を救うために全力を注ぎすぎて僕が彼を救えないとわかったとき、呆気なく精神が壊れてしまった。
僕は旧約聖書の神の気持ちが良くわかった。
僕がこの世界の創造主なら、彼のすべてに諦めて、彼を滅ぼしてしまうのかも知れない。
そして滅ぼしたあとに、悲しみに沈んでもう二度と滅ぼさないと約束したりする。
神の愛は本物だ。
でも彼は僕の愛は偽物だと白けていたのかもしれない。
いや、彼の愛は偽物だと白けていたのは僕の方かも知れない。
彼に出逢った当初から、彼の自己愛も彼の妻に対する愛も虚構だと僕は感じていた。
だってそうだろう。浮気(性的な関係を持ったことはないと彼は言ったが、それも本当かどうかわからない)をしておきながらどうやって自分の妻を彼は幸せにしようとしていたのか。
彼は自分の妻を幸せにしたいと言いながら他の女性を妄想の内に姦淫し続けてきた。
僕は姦淫の罪がどれほど重いものであるかを彼に説き続けた。
そして彼は僕に言ってくれた。
浮気(姦淫)をもう二度と行わないと。
例えば自分の妻に性的欲求を拒まれたからと言って他の女性に性的な妄想をする行いも姦淫という大罪であることをイエスは説いた。
彼が僕の説得によって姦淫をやめると誓ってくれたこと。
これが僕を高揚させた。
一つ、僕は彼ら夫婦を救ったんだ。
彼のその従順な素直さが僕を喜ばせた。
彼のその言葉を僕は信じるしかなかった。
今でも僕は彼を信じている。
それは僕がそう願っているからだ。
僕は彼らの幸福をしか願っていない。
もしこの先、彼らがどん底や一時の地獄に堕ちるなら、それは神の道を歩むための長い道のりの最初の一歩となるだろう。
僕は六年と九ヶ月、畜肉を一切口にしていない。
僕にできて、彼にはできないことだとは想えない。
それは想ったより酷く簡単なことだったからだ。
でも彼が僕以上に苦しめるのなら、それはとても良いことだ。
簡単に肉を断ててしまったことについて、僕は負い目を感じている。
もっと苦しむべきだったと感じるんだ。
僕は彼に姦淫の大罪と共に肉食という大罪について必死に説いてきた。
僕が彼に訴え続けたことは僕の苦しみと殺される動物たちの苦しみと、そして動物たちを苦しめ続ける限り、だれひとり幸福にはなれないということだ。
そして彼は僕に感謝の言葉を伝えてくれた。
僕はまたも彼を救えたという実感を感じた。

だがある日今日は何を食べたかを訊ねると彼は「昼にベーコン入りのサンドウィッチを食べた」などと苦々しくも答えた。
僕は呆れ返った。
コンビニには一応ヴィーガンでも食べられる商品がある。
梅や昆布のおにぎりだ。(アミノ酸と表記されているなら注意が必要だ)
僕は彼にそれらを手に取らず、敢えてベーコンのサンドウィッチを手に取ったのかと訊ねた。
それに対しての彼からの返答はなかった。 
あの感謝の言葉は口から出任せの面倒な僕を静かにさせるためのものだったのだろうかと想った。

最終的に、僕は半ば強制的に映像を彼に観せた。
彼が完全に肉を断ち切ることができなくて苦しんでいたからだ。
彼は映像を観たあと、僕にこんな言葉を最初に言ったのが酷く印象的だった。
彼は言った。
「何のために生きているのかわからない。」と。
僕はその感覚は衝撃だった。
彼は虚しさと絶望を感じたんだ。
まるで動物たちを知らず知らずに苦しめて殺し続けて生きてきた時の方が自分は幸福で、それが一番の生きる喜びであったかのように。
僕が最初に映像を観たあとの感覚は全身が震え上がり血の気が引いて、涙が止まらないなかに自分がしてきたことへの後悔の苦しみだった。
でも彼はまるで自分の幸福をすべて奪われてこれからどう生きて行けば良いのかわからない。と言っているようだった。
彼の妻は喫茶室を経営していて彼も今の仕事をそのうち辞めて夫婦でお店一つで生活して行くという夢を持っていた。
当然その店のメニューには肉や畜産物や魚介を扱っていた。
それでようやく経営が成り立っていることが彼はわかっていた。
彼が映像を観て自分たちの夢も幸福も何もかも奪われてしまった感覚になったことは理解できる。
でも本当ならそれより動物たちへの申し訳ない想いや彼らから目を背け続けてきた自分に対する悔やみが先に立つものじゃないか?

僕は今でもそれを初めて観たときのショックが毎日ずっと続いている。
僕はたくさんの苦しみに苦しみ続けて生きてきた。
でもそれらを遥かに上回る苦しみだった。
僕は彼らを苦しめ続けて殺し続けても平気で生きてきたことの悲しみに暮れ、彼らは自分たちの幸福が虚構でありこれからも虚構であり続けるということを知って虚しさに苛まれた。

彼は今もその虚しさのなかに妻のお店を手伝っているのかも知れない。
彼は今すぐに動物を殺さない手段を取ること(お店を一端閉めること)ができないが、ヴィーガンのメニューを考えて出せるようになりたいと言った。

彼は「もう肉を食べません。」と言ってくれた。
彼はゆるゆるなヴィーガン(ベジタリアン)からスタートすることを決めた。

ほとんどの人は彼のこの努力を誉め称えるかもしれない。
でも僕はどこか絶望的だった。

映像を観ても動物を今すぐに殺さない手段を取ることができないなんて、確実に人間が壊れていて絶望的に感じた。

始めたお店を一端閉じることがどれほど経済的に不利益となっても、動物を苦しめて殺し続けてその死体を客に提供し続けるより彼らは遥かに救われる。
それを彼らに訴え続けたが、彼らは動物を今すぐ殺さないで生きることより自分たちの利益を選択した。

僕は彼らの悪を、悪によって滅ぼしたかった。

そして彼は開き直ってこんな言葉を最後に僕に言った。
『わたしたちはそれを強要される必要などない。』
動物の生きる権利を奪って自分の利益を優先しようとする彼は平然とそんな言葉を言い棄て、僕は谷底に突き落とされた。

人間など精々長く生きてたかが百年かそこらだ。
動物の生きる権利を奪い続けてまで幸福に生きる価値も必要もない。
動物には人間と似たような愛、またはそれ以上の愛情があるんだ。
彼らの命を奪ってまで人間が幸せに生きる権利なんてない。

盲目の内に生きてゆくほうがずっと虚しい人生であることを彼はいつの日かきっと気付くだろう。
 
彼が今も動物の死体を食べないで生きていられていることを願っている。

そして何より一日でも早くヴィーガンになって、ヴィーガンのカフェを新しく開ける日が来ることを切実に願い続けている。

 

 

 

 


これが二日の早朝に書いたものだ。

公開するのに時間が経ってしまった。

僕は今これを読み返して、段々とわかって来るものがある。

僕はすべてが救われていないこの世界に絶望し続けているのではない。

この世界のすべてが不幸で、そのすべてを僕の手によって救えないと感じることに絶望し続けているんだ。

例えば僕以外のすべてが傍から見て本当に幸福そうに過ごしていたとしても僕が苦しみの底に生きているなら誰一人幸福には見えないだろう。

だってここで僕が独りで苦しみ続けているんだ。

彼らの幸福は真に薄っぺらく感じることだろう。

これは僕という存在は生まれ持っての「僕=すべて」の感覚で生きていることを証明している。

僕一人が苦しいなら、すべての存在が苦しいはずだ。

僕はすべての存在なんだから。

もし僕が彼らの殺す動物だったなら、僕の遣り方が正しくないなんて想わない。

僕が彼らに「殺さないでくれ」と訴えて脅迫してでも強要することが間違っているはずはないんだ。

生きて行きたいんだよ。

僕だって、彼らのように。

何故、君には届かなかったの…?