あまねのにっきずぶろぐ

婚活している37歳の引きこもり女のブログでっせでっせでっせでっせ。
創作の詩と小説書きでっせでっせでっせでっせでっせ。

屠殺場で足を止め涙を流した老僧

2019-02-06 18:48:44 | 人類の苦痛の根源

屠殺場で足を止め涙を流した老僧 そのわけは?

以下、転載です。


 

ある老僧が屠殺場を通りかかった際、涙が流れるのを禁じえず、深い哀しみを覚えた。

人々はとても不思議に思い、なぜ哀しんでいるのか、老僧に尋ねた。

 すると、老僧は次のような話を始めた。

 「話せば長くなるのですが、私は、自分の二つ前の前世まで記憶しています。

私が初めて人に転生した際は屠殺人で、三十過ぎで死にました。

死後、その魂は、数人に縛り上げられ、閻魔大王の前に連れて行かれました。

閻魔大王は、私の殺生が過ぎたのを責めたて、悪の報いをもって判じました。

 そのときの私は、恍惚朦朧としており、醒めているような夢の中にいるような、頭部が熱くてたまらなかったのですが、突然一陣の涼しさを覚え、気がついてみると、豚小屋の中の子豚に生まれ変わっていました。

 私は乳離れしてわかったのですが、人は豚たちに見るからに汚い餌を与えているのです。

ただ、とてもお腹が減っていたので、私はやむなくその餌を食べました。

その後、私は次第に豚語を解するようになり、仲間とおしゃべりができるようになりました。

前世のことを憶えている仲間もたくさんいましたが、人に説明する術がありませんでした。

私たちは皆、いつかは屠殺されることを知っていました。

それゆえ、いつも呻き声を挙げ、将来を憂えていたのです。

私たちの目と睫毛は、常に涙で濡れていましたが、それは、自分たちの運命を知っていたからです。

 私たちはまるまると肥えていたので、夏の暑さには耐えがたく、泥水の中に身体を浸けては、いくばくの涼しさを覚えていました。

わたしたちの毛は、まばらで硬く、冬になると寒さに耐え切れませんでした。

そして、十分な大きさまで肥えると屠殺されるのです。

人に捕まえられると逃げられない、と内心分かっていても、命が惜しくて逃げようとするのです。

捕まえられると、私たちの四肢は紐で縛り上げられますが、紐がきつくて骨身に滲みるようで、鋸で切られているようでした。

それから、私たちは、車か船に折り重なるように載せられます。

肋骨は折れそうになり、百脈は塞がり、腹は裂けそうです。

 時には、竹ざおに吊るして運ばれるのですが、犯人が挟み上げの刑に処せられるよりも辛いものでした。

屠殺場に着くと、屠殺人によって地面に放り投げられます。

あるものはすぐに屠殺されるのですが、あるものは数日間待たされます。

そのときの心理的苦しみは、もっと耐えがたいものがあります。

 自分が屠殺される番になると、屠殺人が曳いていきます。

私は怖くて頭がくらくらし、全身から力が抜け、目を閉じて死を待つほか仕方ありませんでした。

屠殺人はまず、私の喉を切り裂き、体を揺すって血をバケツの中に入れました。

そのときの苦しみは、ことばで言い表すことのできるようなものではなく、死ぬにも死に切れず、ただ咆えるばかりでした。

血が全部出されると、今度は心臓を一突きされます。

この痛みは耐え難く、この段になって咆哮が止まります。

この時、魂が解放され、再び覚醒したかと思うと、すでに人として転生していました。

閻魔大王は、私がその前世でわずかながら善行をしたことを知っていたので、人に転生させてくれたのです。

 今しがた私は、この豚が殺される苦しみを受けているのを目にして、思わず自らが前世で受けた苦しみを思い出しました。

それに、こちらの屠殺人も同じような苦しみを味わうことになるのだと考えると、涙が流れるのを禁じえなかったのです」。

 老僧のこの話を聞いた屠殺人は、すぐに屠殺包丁を捨てて、野菜売りに身を転じたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

【出典:清朝『閲微草堂筆記』巻十八、人民報より転載】

(2007年8月23日の記事を再掲載いたしました)

                                                                                                                                                                                                                                                                             (翻訳・甘樫)

 


わたしはこの話をとても愛しています。

それで、さっき想ったことなのですが、わたしはこんなことを想いました。

わたしたち魂はみんな、同時に違う生命の魂であるかもしれない。

今、わたしは人間の魂だが、同時に家畜の牛や馬や豚や鶏や魚の魂であるかもしれない。

つまり、同時点に、同じ世界、同じ時間、同じこの星の中にわたしの魂は幾つも存在している。

そしてそれらのすべてが、それぞれ違う体験をして生きている。

それは今、わたしが体験しているすべてであるので、過去と未来が存在しない。

その豚は、もしかしたらわたしにこう言うかもしれない。

「わたしはあなたの過去であり、そして未来なのです。」

わたしはその言葉を、「今、あなたはわたしであり、わたしはあなたなのです。」と捉えるだろう。

わたしは今、すべてを体験している。

そうでなければ、何故こんなにいつも、悲しく苦しいのだろう。

わたしはわたしだけのことについて憂える術を喪った。

それは、第一の目覚めである。

生まれたばかりの赤ん坊が、目を開ける、あの瞬間である。

そして目に映るすべて、それはわたしの経験しているすべてであり、目に映らないすべて、それはわたしの別のわたしの魂が経験しているすべてだ。

わたしは彼を知らないが、彼を知っている。

わたしは自分を知らないが、わたしはわたしを知っている。

わたしはとにかく、自分を救うことに必死で、わたしは自分以外の者を知らない。

自分以外のもの、それはどこにも存在しないのである。

 

 

 

 

 

 

 


荒野の男とユリアン

2019-01-10 21:03:12 | 映画

『社会が貪り、動物を貪らせ、それ自体が不従順な子供たちを貪る(喰い尽す)のです。』

                           Pier Paolo Pasolini



荒野の男を演じたピエール・クレメンティとパゾリーニ監督


前回の記事の続きを書く。
パゾリーニ監督が『豚小屋』でぼくたちに伝えたかったこと。

ぼくたちは"貪り尽くす動物(不従順な子供たち)"だということ。
そして"貪り尽くされる動物(不従順な子供たち)"だということ。
そして"動物を貪り尽くす動物(不従順な子供たち)"だということ。
そしてそのすべては"隠されている"。
権力者たち、実業家、巨大産業で利益を上げる人たち、弱者を支配し、快楽に耽る人間たちによって。
資本主義(弱者を支配することを善とする主義)の悪と、それによって地獄に落ちて殺される犠牲者たちを監督は描きたかったのかも知れない。

犠牲者たちの清らかさ、みずからの罪を認める者の強さ、この美しさはみずからの罪を認めず、犠牲を拒む者の中にはない。

ぼくたちはほとんど大罪を犯し続けて生きてきたと言っていい。
でも同じ罪を犯していても、その罪に苦しみ続け、神の食べ物(生贄、犠牲)としてみずからを捧げようとする者は美しい。

 

 

 ユリアンを演じたジャン=ピエール・レオ

 

パゾリーニ監督はそんな人間を描きたかったのかも知れない。
イエス・キリストに対する罪というものを、彼は考えてきた人なのかも知れない。
もしそうなら、それはぼくと同じだ。

ぼくはすべての人は同罪(同じ重さの罪)であるべきだと考えている。
いじめをする人間とそれを傍観して何もしない人間が同罪であるのと同じに。
すべての人が、必ず誰かの罪を傍観している。
すべての人が、必ず誰かの堪え難い苦しみを傍観している。

畜産業の大量生産は需要がある限り廃止されない。
売上が続くからこそ続いている最も酷い生産だ。
ぼくたちがそれを支えてきた。
家畜がどうやって日々殺され続けているのか、それを知る人は少ない。
それに関心を持つ人も少ない。
できれば見たくないとほとんどの人は想っている。
そして赤肉(牛や豚などの四肢動物)や加工肉には発ガン性物質があると国連が発表しようが、それに真剣に耳を傾ける人も驚くほど少ない。
ガンになってでも食べ続ける。
そしてガンになって苦しんで後悔して死んでゆく。
なかにはそれでもみずからの罪を認めようとしない人たちもたくさんいる。
消費者たちは、食肉や畜産物がどのように作られているかを知りたくない。
生産者たちは、食肉や畜産物がどのように作られているかを知らせたくない。

パゾリーニ監督の『豚小屋』という映画の最後の人物の姿が何故、豚の顔になっているのか?

彼は実業家であり、搾取し続ける立場にある人間だと言える。

搾取し続ける者、つまりぼくたちだ。
ぼくたちは動物(家畜)たちから肉も骨も内臓も乳も卵も毛も皮も搾取し続けてきた者たちだ。

 

 

人間の肉を貪り尽くす豚たちを見たなら、ぼくたちは何を想うのだろう?
おぞましい、不快なもの、気持ち悪い、吐き気を催す、"見たくないもの"。

豚のすべてを搾取し続けてきたぼくたちが、豚を貪り尽くしてきたぼくたちが、そう感じるのは、それは自分自身に対して感じていることじゃないのか。

リアルに想像するなら、本当におぞましいものだ。
ぼくだってそれを見たくはない。
でもまったく同じことをぼくはぼくが搾取してきた動物たちにしてきたんだ。

大量生産はスピードを上げるほど儲かる。
言うことを聞かない逃げ惑う動物たちを殴る、蹴る、電気ショックを与える、しっかりと気絶していない内から解体してゆく、気絶から目を覚ましても解体作業を続けることなんて日常茶飯事だ。

『それは秘密にしておくように』
誰もがそう自分自身に向かって言い続けて来た。

あまりにおぞましいことだから。
『隠され続ける』べきだと。

口に人差し指を当てて、『しーっ』と言った瞬間、自分の顔は豚になっているんだ。

豚とは何を表しているか?
そうだ、『喰われる(貪られる)者』、同時に『喰い尽す(貪り尽す)者』だ。
いつの日か不従順な子供たち(豚、家畜、動物)に喰われる者、そしていつの日か人間(不従順な子供たち)を喰い尽してしまう者、それが搾取し続ける者たちの運命、ぼくたちの辿る道。

豚が豚を喰ってきただって?
それじゃ共喰いじゃないか!
人が人を食べる行為に等しい。

その通り、人肉食をぼくらは何年と、何十年と、続けて来たんだ。

御覧、豚が殺されて首を落とされ、逆さに吊り上げられている姿を。
人間の姿とそっくりだ。

家畜たちは、危機を感じるととにかく逃げようとする。
生き延びようと彼らも必死なんだ。
苦しみたい、拷問を受けて殺されたいなんて想っている家畜はひとりもいないはずだ。

ではホロコーストで強制収容所へ送られた人たちはどうだっただろう?
苦しみたい、みずから拷問を受けて殺されたいなんて想って殺された人はいただろうか?

ぼくはみずから拷問を受けてその後に首を切られ、生きたまま解体されてゆく中に死んでゆく地獄を味わいたい人間だけが肉や畜産物を食べるべきだと想っている。

そこにある人間の狂気、それがパゾリーニ監督の撮った『豚小屋』という映画なんだ。
そこにある本物の狂気をパゾリーニ監督は悲しくも美しく撮った。

そしてこの狂気に及ばない者たちは、豚(家畜)たちだと言っているように想えてならない。

パゾリーニ監督は豚たちに埋め尽くされたこの悲しい世界をずっと見詰めてきたんだ。
そして自分はそうはなりたくないと想っていたはずだ。
だからあんな地獄の末に殺されて死んで行ったんじゃないか。

 

 

パゾリーニ監督は人間だったんだ。
自分の罪を認め、そのすべてに責任を持つ者、それが人間の本当の姿だ。

人間の在るべき姿。
その姿は、例え罪に穢れていても清らかで美しい。

でもほとんどの人間たちは、自分は豚(家畜)に拷問を与え殺し続けながら、自分はそんな目には合いたくはないなんて言ってる豚たちなんだ。

そして豚は豚に生まれ変わるはずだ。

豚(家畜)に生まれ変わりたくないのなら、自分の罪に向き合って欲しい。
毎日、彼らは、本当に堪え難い地獄の拷問の末に殺されている。
これは拷問処刑に等しい。

何の罪もないのに?
いや、それはわからないんだ。
身勝手な人間が家畜に生まれ変わる世界なのだとしたら、そこには罪があるからだ。

そして人間が人間を食べ続ける世界が出来上がっている。
人間が豚を食べる世界も、豚が人間を食べる世界も、豚が豚を食べる世界も、人が人を食べる世界も、実は同じなんだ。
同じことをしている。

家畜はとにかく肥らされる。
肉を多く取れるし脂肪の多い肉ほど人間に好まれるからだ。
その為、不自然な脂質の高い餌を大量に食べさせられている。
つまり全員、家畜はメタボで病気なんだ。
そして病気で死んだ豚や鶏は豚や鶏の餌になる。
病気で死ぬ前の病気の家畜は人間の餌になる。
病気の家畜の死体を必要以上に食べて、人間は病気の豚になる。
豚の完成だ。
豚は人間ではないので豚小屋に監禁され、地獄の末に死んでゆく。

そしてそれを嫌ほど繰り返し、漸く目が覚めるんだ。

豚はやめて、人間として生きようと。

豚は豚を食べなくちゃダメだし、食べさせられる。
人は人を食べなくても生きて行ける。

ぼくは人(家畜)を食べるのはやめた。

ぼくは散々人を食べてきた。

 

 

 

わたしは父を殺した。
わたしは人を喰らった。
そして、絶望の内に、わたしは死ぬだろう。

わたしを食べる者は、わたしが食べて来た者。

 

荒野の男の生まれ変わりが、ユリアンなんだ。

彼はどこまでも自分を赦すことができない。

それほど、最初に殺した父親のことを、愛していたからかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 



此の世の真理を描く映画『豚小屋』

2019-01-06 00:40:40 | 映画

2019年

VEGAN (ヴィーガン)です!!

今年は昨年よりも世界中で完全菜食者たちが増加するとぼくは見た。
今年は昨年よりもVeganの反逆が増えるかも知れないが、それも仕方がない。
身勝手な人類は、想い知る必要があるんだ。

自分がどれほど他者に対して酷いことを遣って来たのかを。
第三次世界大戦が起きる前に。

ぼくは人類に知らしめたい事がある。

人間の愚かさ。
人間の頭の悪さ。
人間の幼稚さ。

剣を持つ者は剣によって滅びる。

つまり他者に暴力を振るい、殺す者は、他者から暴力を振るわれ、そして殺される。

それが嫌なら、他者に暴力を与え殺すなということだ。

ぼくは暴力を心の底から悲しんでいる。

ぼくは暴力を、この世界から無くしたいと本気で想っているんだ。

ぼくにとっての暴力とは、『他者に堪え難い苦痛を与え、死に至らしめる(殺す)もの』
これこそが、この世の最も忌むべきもの、不快なもの、幸福のない世界。

これすら無くなるのなら、この世は弥勒の世と呼んで良い世界になるのではないかと想っている。

それ以外なら、人間の成長(愛を深めること)の為の必要な試練の苦しみと呼ぶだろう。

誰も他者に堪え難い苦しみを与え、殺さない世界。
此処で言う『他者』とは、実は自分自身である。
ぼくの言う他者とは、すべての存在のことなんだ。
ぼくの言う他者とは、すべて自分自身の分身なんだ。

他者に堪え難い苦しみを与え、殺す世界とは、自分に堪え難い苦しみを与え、殺す世界なんだ。

何故、自殺者がいなくならないのか、考えたことはあるだろうか。
何故、戦争が終わらないのか、考えたことはあるだろうか。
何故、殺人者がいなくならないのか、考えたことはあるだろうか。
何故、堕胎と死刑を肯定する人がこれほど多いのか、考えたことはあるだろうか。

ぼくは一つ、答えが出ている。

みんな自分を殺したいんだ。

自分(他者)を殺し続けてきた自分が殺したいほど憎くてたまらないんだ。

そして殺す者は他者(自分)に殺され、殺戮の連鎖が延々と続く世界なんだ。

ぼくはそんな世界に生きてゆくことがいい加減耐え難くなった。

みんな自分を殺し続け、自分から殺され続ける世界。

ぼくはそのすべてを助けたいと本気で想っている。

だから人々をどんなに傷付けてでも、大晦日に『DOMINION』をブログで紹介したんだ。

何人の人が、最後まで観てくれたのかもわからない。
なんの反応も此処に帰って来ないから。

ぼくは断言できる。
『自分(他者)を殺し続け、自分(他者)から殺され続ける世界』から自分(他者)を救い出す方法は、一つしかない。

"Vegan"になることだ。

健康になるためにじゃない。
環境破壊をなくすためにじゃない。

自分(他者)を殺し続け、自分(他者)から殺され続けない為に。

それが人間が自分(他者)を救う唯一の方法だとわかったんだ。

今やこう叫ぶ人はすごく増えてきた。

『GO VEGAN!!(ヴィーガンになろう!!)』

ぼくたちがぼくたちを救う方法はたった一つ、これだって目覚めた人が増えて来ているんだ。

でもまだ多くの人は、自分(他者)を殺し続け、自分(他者)から殺され続ける世界を肯定(賛美)している。

”それ”がどれほど恐ろしい地獄であるかを"忘却"してしまったからだろうか?

人や動物が殺されることを不快に想い、悲しむのは自分が殺されたことがあるからだ。

でもほとんどの人はそれを記憶の底に封印してしまっているんじゃないか?

でもアーティストたちは、それを表現によってぼくたちに示してくれているのかも知れない。

 

先日に観たパゾリーニ監督の1969年の作品『豚小屋』がその一つだとぼくは感じている。

 

 

この映画に興味がある人は是非、先に観てほしい。

 

 

冒頭の台詞はこうである。

 

『我々は良心に従い、

 お前の不順ゆえに

 お前を食べることにした』

 

『豚小屋(原題:Porcile)』という映画には、三大テーマがあるとぼくは見た。

『人肉食』『獣姦』『獣から喰い殺される人間の運命』

これが監督が人間の最大の罪をメタファーにして表現していると感じた。

 

ピエール・クレメンティ(Pierre Clementi)

 

まずこの映画には人間が人間を殺し、人間の肉を貪るシーンが描かれている。
といっても、ぼくが笑ってしまったのは、普通の食事のように人肉を食べる姿があったからだ。
まるで疲弊したサラリーマンが帰りに一人で焼肉屋へ赴き、一人で焼肉を焼いて食べているかのように、その者は人間を殺したあとに人間を食べていた。

これは一体なにを表しているのか?
何故、こんな飄々と人間が人間を殺したあとに人間の肉を食べているのだろう?

おぞましくグロテスクなはずのシーンを、パゾリーニ監督はまるで日常風景のひとコマであるかのように撮った。

これに対してぼくは最初可笑しくて笑ってしまったけれど、最後まで見終わってこの人間の複雑なものを考えて、とても素晴らしいと感じた。

最初は飢えによって仕方なく人間の肉を食べているかのように見せるが、次第にそうではなく、人間が人間を殺してその肉を喰らうことに快楽を見出だしているかのように描く。

その光景をとても俯瞰的であり普遍的に描いている。

 

ジャン=ピエール・レオ(Jean-Pierre Léaud)

 

この映画は過去と現代が交差するように描かれている。

一方、此処でも一つの背徳行為に快楽を見出だしてしまった者が描かれる。

『獣姦(家畜に対するレイプ)』だ。

(しかし直接的な獣姦なのか豚を見ながらのマスターベーションであるのかははっきりとは描かれてはいない。どちらにしろ著しい冒涜(神への反逆)である。)

16歳の頃に、彼は豚(家畜)小屋に入り、そこで何を見て、感じたのだろう。

 

 

豚に対し、性的欲情を抑えることができないなんて。
でも豚は見れば見るほど人間によく似ている。
何故、あんなに人間の肌とよく似た肌色なのだろう?

 

 


豚の目を見つめれば見つめるほど、人間の目を見つめているかのようだ。

 

 


豚と人間の共通性は驚くほど多い。

  • 豚の心臓は人のものと作りが同じで、2心房2心室で大きさも人とほぼ同じ
  • 臓器の大きさが人間と似ている
  • 皮膚を作っているたんぱく質の組成および量が似ている
  • 冠状動脈(心臓に栄養や酸素を運ぶ動脈)の分布が似ている
  • 最低血圧が50~90mmHg、最高血圧が100~140mmHgである
  • 雑食性のため、消化吸収の生理が似ている
  • 目の構造が似ている
  • ミニブタの場合、成熟体重が人間に近い

だからと言って、彼に人間よりも豚の方が性的快楽を与えてくれたのは何故だろう。

 

 豚はいずれ、人間の食べ物となる。

そして人間の血と肉となるんだ。
つまり人間は豚の血と肉でできている。
それなら、人間が豚に見えない方が可笑しいんじゃないか?
無論、ぼくは人間が豚(家畜)に見えるけれども。
そうか、彼はきっとぼくと同じに、人間が豚に見えて、豚が人間に見えてしまったんだ。

おそらく、実際にそうなのかもしれない。
豚は本当に人間の生まれ変わりなのかもしれない。
"輪廻転生"という宇宙の摂理によって。
だから豚は人間だし、人間は豚なんだ。
過去のすべても未来のすべても今存在しているのだから。

だったら豚を犯すこと。
これは人間を犯すことと同じだと言える。
君が何度と食べてその血肉にしてきた豚は人間によってレイプされて子供を産んだ豚とその仔豚たちだって知ってた?
嫌がる豚を苦しめ無理矢理、生殖器のなかに手や器具を突っ込んで人工受精すること、これも人間による豚へのレイプだ。
レイプ被害者たちを殺したその肉(死体)をぼくたちは美味しいと感じて食べて来たんだ。

彼をもし責めるなら、彼は笑ってぼくたちにこう言い返すのかもしれない。

「本当の豚は君(僕)たちの方だけどね。」

彼が執拗に人間より豚を愛して豚とセックス(例え妄想でも)してきたのは彼の目には人間よりも豚のほうがずっと美しい存在として映ったからじゃないか。

 

 

豚は例え身体が汚くて臭くても、心は人間より清らかに見える。
そして彼らは人間より弱者だ。
だから殺され続け、食べ物としてしか見てもらえない。
ほとんどの人にとって彼らは皿の上に載っかった料理としてしか、存在を喜んでも貰えないし、存在意義(存在価値)を認めても貰えないんだ。

彼らが人間と同じに子供と引き離されたら大声で泣き叫んで必死に子供を奪い返そうとすることに人が心から感動するなら、もう彼らを殺して食べることなんてしないだろう。

つまり多くの人間は、自分達の持つ愛情にさえ心から感動もできないほど虚しい生き物なんだ。

だから同じような愛情を持つ豚を”食べ物”として見ることができたんだよ。

『愛情』というものに関して、人間は豚以下だ。

彼にはそれがわかったんじゃないか?

だから人間より豚のほうが魅力的に感じて、豚とのセックスをやめられなかったのなら、自然なことだ。

彼には本当のことが見えていたんじゃないか?

本当の家畜は、豚よりもぼくたちのほうだってことを。

 

 

君なら、人間の餌となるのと、豚の餌となるの、どっちを選ぶ?

ぼくには人間のほうがずっと愚かに見える。
人間の餌となる前に、ぼくは豚の餌になりたい。

『僕の愛ほど卑しくつまらぬものはない』

『堕落とは違う』

 

ではこの映画の三つ目のテーマに入る。
『人間が獣(動物)に喰い殺されて終る』結末を、何故、両者に監督は描いたのだろうか?

過去と現代、両方とも、この映画は無惨でおぞましい結末を迎える。

両者とも共通していることがある。
弱者を我が物とした結果、動物に喰い殺されるという最期だ。

イエス・キリストによれば女を情欲の心で見る行為も姦淫という大罪であることが示されている。
何故、そこにある美しい神聖さを簡単に冒そうとするのか?
それは相手が自分よりも弱い存在として見下しているからではないか?
女を情欲の心(妄想)で犯す者も豚を情欲の心で犯す者も結末は同じかもしれない。
”神聖を穢した罪による報い”というものがパゾリーニ監督の彼自身のテーマであるのかもしれない。

一方は弱い人間を殺し、食的快楽に耽った。
一方は弱い動物を犯し、性的快楽に耽った。

一方は『この現象は崇高で美しい』と延べ、一方は『喜びに打ち震えた』と延べ、

両者とも神に背いた結果、弱者によって喰い殺される。

鬼才と呼ばれ続けるパゾリーニ監督はこの映画を撮ったが、『豚小屋』はパゾリーニ監督のなかで唯一(?)興行に失敗した(客が一番映画館に足を運ばなかった)作品らしい。

それはこの映画が人間が必死に目を背けてきたこの世の真理を描き切ってしまっているからではないだろうか?
人々はこの映画のなかに真実が隠されていることを何となく勘付いているのかもしれない。

ぼくはこの映画のレビューで肉食に対する危惧(今も行なわれ続けている弱者に対する支配)について考えを廻らした人間がほぼいなかったことを不思議に想っている。

それは人間にとって最も目を背けたい事柄だからではないか?

でも言っておく。最も目を背けたい事柄とは、人間にとって最もおぞましく深刻な事柄であるということを。

 

人間が"弱者を支配する"という神に反する行いを続けるなら、必ず"喰い殺される"という真実をパゾリーニ監督は意識下か潜在意識下で見抜いていたのだと想う。

そしてこの世で最も喰い殺され続ける存在とは、"家畜(人間の未来)"であるということを、監督はこの映画で表したかったのではないか。

もっとも、作者本人であれ、作品のすべての意図を正しく知ることはできない。
監督自身、気付いていない作品の意図があるはずだ。
優れた作品とは必ず神が関与している。
だからぼくたちが最も知りたいのは作者の意図ではなく、この作品に携わっている神の意図ということになる。

監督自身は1969年9月のインタビューでこう答えている。(自動翻訳なので少しわかりにくいが言わんとしていることは何となく解る。)

 


 

「このPierre Clementiは、最も絶対的で、総合的で、最も不名誉な息子のうち、不従順な息子です。要するに、よりスキャンダルです。

彼はまたこれを知っているので、ある種の報復のために捕虜になって動物に貪欲にされたと非難されたとき、彼は悔い改めず、彼の虐待的な服従にはほとんど誇りを持っています。

結論として、社会は動物を貪ること、すなわち”それ自体が不従順な子供たちを貪る”ことを貪る(結論としては、社会はむさぼり食う動物、すなわち”聞き分けのない子供を食い尽くすこと”それ自身をむさぼり食います。」

 

「結論を出すのを忘れました。

つまり、最初のエピソードと同じように、社会がいかにして不従順な子供、完全に不従順な子供を貪っているのかを見ることができるので、不従順でも従順でもない子供も貪欲です。」

 

「私は犠牲者の側にいます。

著者としては、当然ながら客観的に偏見はありませんが、私は同情をもって見ている不従順な息子の側にいます。

従順または不服従をしている息子の側にいます。」

 

質問者:「クレメンティは、必要によって、飢餓によって共食いを強いられる人を表しています。これは、あなたが生存の必要性の結果としてあなたがこの共食い主義を考えるということを意味しますか?」


Pasolini:「S-si、しかしこの生存の必要性は、実は口実です

それはこのようなたとえ話の始まりです。

次に重要なのは行為です。それはこの行為が持っている反乱の虐待的な意味のひどい良心です。」

 

質問者:「あなたの宗教について教えてください。」


Pasolini:「AccattoneとOedipusに見られるように、私の信仰は物との、そして現実の生き物との神聖な関係です。

つまり、自然は自然に見えません。

それで、すべては私には従来の意味で奇跡的ではなく、ほぼ要するに神聖な形で現れます。」

 


このインタビューを読んでも、監督自身は肉食、畜産の大量生産(飽食、大量消費)について言及しているとわたしは想います。

この『豚小屋』というタイトルの映画が実際の豚(家畜)をそっちのけにしている(テーマである)はずはないし、優しい冒頭の音楽が流れる中、豚たちの様子を監督が映したことは、監督の暖かい動物への眼差しを感じてならない。

畜産業の大量生産は資本主義の最も大きな最悪な罪の一つである。(それは先ほど載せたドキュメンタリー映画『DOMINION』を観てくださればわかるだろう。)

肉食の必要性(生存の為の必要性)は、実は口実である。肉や畜産物や魚介でしか摂取できない栄養素はないからだ。

資本主義社会は、人間を最も家畜とする社会なのは、これはメタファーではなく、実際に人間が家畜となって生まれ変わるための社会構造なのではないのか?

『DOMINION』のあとに、君がこの『豚小屋』という映画を観るなら、何を感じ取れるだろう?

最後に二人は意味深な言葉を言い放つ。


 

ユリアン『この前も夢を 水たまりがあった 僕は光輝く黒い水たまりを捜した オーロラのようにキラキラのだ 忘れたけど たぶんおもちゃを捜した 水たまりの向こうに仔豚がいた 触ろうとしたら 咬まれた 右手の指を4本だ だが 血は出ない ゴム管のようだ その指の事で僕は困り始めた 殉教者みたいに この愛の意味は? 真実を知りたい衝動か』

 


 

荒野の男『私は父を殺した。人の肉を喰らった。そして、喜びに打ち震えた。』

 


 

 

 

 

優れた作品に神の意図を見付けられないなら、真に不幸なことだ。

パゾリーニ監督が最期は多分に地獄の拷問を受けたあとに殺されたであろうことも、パゾリーニ監督の自らの罪の意識の深さによるものだと考えている。

"自らの罪を裁く者"、それが人間であるのだと監督は言いたかったのだとわたしは感じる。

人間はどう足掻いても、神によって創られている以上、罪の意識を完全に喪わせることができない。

どれほど神に背いて生きようが、神によってできている限り、必ず神へ戻って来なくてはならない。

 

 

罪の意識を持って弱者を支配し続け、そして喰い殺される顛末を延々と繰り返し続ける世界で、人は何を願うのだろう。

それは豚の目が君に向かって訴えていることじゃないか?

そうでなければ、豚の目があんなに人間と似ているはずないじゃないか。

権力者たち、大企業によって利益を上げ続ける者たちは、この真理が世に広がり、人類を救う日を恐れている。
資本主義社会の終りを意味しているからだ。

『豚小屋』は1969年の作品で今年は50周年に当たる。
50年後の今、ぼくたちはまだ豚小屋で生きている。

1975年にパゾリーニ監督が暗殺されてから今年で44年目に入る。

資本主義社会はまったく持続可能なものではないし、持ってあと半世紀。

でも無理に続けようとするなら、ホロコースト(人類削減)を世界中で起こさない限り食糧難(飢餓)と水不足、環境破壊と気候変動と自然災害の末に第三次世界大戦は必ず起きるだろう。

早くて10年以内にそれらが遣って来ても全くおかしくない時代にぼくたちは生きている。

ぼくたちはそれらを経験するかもしれない。

そうすると今までで最も酷い惨劇の世になるかもしれない。

今の世の中を象徴するのはまさしく”豚小屋”ではないだろうか。

無数の豚(人間)たちが、人間(家畜)を食べている姿が君にも見えるはずだ。

この豚小屋のなかで君がどんな幸福を望もうとも、所詮豚小屋のなかの幸福だ。
この豚小屋のなかで君がどんな幸福に満たされようとも、所詮豚小屋のなかの幸福だ。

喰われる為に殺される未来が刻一刻、近付いている。

 

『人肉食、獣姦、そんな行為よりも、もっと恐ろしいのは、肉食(動物という人間を食べ続ける為に大量生産を肯定する行為)なんだ。』

ぼくは人類をこの豚小屋から救い出そうと本気で想っている。

唯一の方法。

人類をすべて、『VEGAN』にするという方法だ。

でも動機が不純であれば、救われない。
人類が救われる動機とはただ一つ。

『すべての生命を命懸けで救いたい』

という動機だ。

不健康だからとか、美味しいものが食べられないのは不幸だ(生きる喜びが減る)からと言って人間(家畜)の肉を喰らう者は自ら苦しい地獄へ向かって歩んでいることに気付いて欲しい。

それが無理なら、ぼくたちは豚小屋で死に、目が覚めたら、豚小屋にいることだろう。

人間の食べ物(血肉、人間)となる為に生まれてきて、そして殺されるだろう。

何十億回と。

 

 

 

 

 「荒野の男とユリアン」に続く。

 

 

 

 

 


全人類が絶対に観るべき映画『DOMINION』

2018-12-31 19:50:55 | 人類の苦痛の根源

『人類最大の罪』と題名を迷いました。

『DOMINION(ドミニオン)』とは『支配』を意味する言葉です。

オーストラリアで今年(2018)の3月に公開され、日本では7月に公開されたドキュメンタリー映画です。

ナレーションをホアキン・フェニックス,ルーニー・マーラ,シア(SIA),セイディー・シンク,キャット・ヴォン・Dが務めています。

これがどんな映画であるのか、わたしのブログをずっと読んで来てくださった方々には察しがつくかと想います。

これを観ずにして、すべての人に新しい年を迎えて貰いたくないと想う映画です。

この映画にはほとんどの人が今も関わり続けている(関わり続けてきた)世界で最も大きな悲劇が映されています。

最も残虐であり、最も冷酷であり、最も悲しい現実です。

わたしはこれ以上の残酷なものを知りません。

これを観るなら、多くの人は戦争を行なう人々、殺人者、レイプ犯罪者に向って非難する資格など最早ないことを知るはずです。

わたしたちはその行為と寸分違わぬ残虐な暴力を振るい続け、大量に殺害し続けてきたからです。

この映画を、ちゃんと最後まで観て、自分に対して問い掛けてみてください。

「果たしてわたしたちの幸福とは、これなのか?」

「ここにわたしたちの幸福があるのか?」

「わたしたちを喜ばせるものが、これであるのか?」

「わたしたちの人生に、本当に必要なものなのか?」

あなたの答えが、わたしの中にあるわけではないのです。

あなたの答えは、あなたのなかにだけ存在します。

だから現実に起きて、そしてほとんどの人が関わっていることのすべてを知ってください。

「これと殺人の、一体何が違うのか?」

わたしの答えははっきりとしています。

「それは何も違わなかった。」

わたしは数え切れないほどの殺人と虐待とレイプに加担して関わり続けて来たのです。

だから如何なる苦しい報いも、自ら受けねばならないのかもしれません。

このドキュメンタリー映画のなかで常に苦しみ続け、最後に殺される者たちはわたしたちの未来の姿です。

わたしたちは自分の未来を救う必要はないと想われますか?

わたしたちは自分の愛する家族を救う必要はないと想われますか?

自分の胸に、問い掛けてみてください。

 

覚悟して、御覧ください。

耐え難い場合は何度かに分けて観たり、一端停止して深呼吸しながら御覧ください。

これらがわたしたちが知らず知らずに(知ろうともせずに)行ない続けてきた最も苦しく悲しい行いです。

 

Dominion (2018) - full documentary [Official]

 

 

https://www.dominionmovement.com/

 

 

 

 

 


 

追記:2019,1,2

記事に写真を付けたほうがブログに足を運んでくださる方が増えるかも知れないと想って映画の冒頭のシーンを使って「DOMINION」のイメージ写真を作りました。

観るのもつらい写真ばかりで、残酷性がこの暗がりの無機質な殺害道具たちによって一番現れているように感じました。

(右クリックで新しいタブで画像を開くと拡大して見ることができます。)


 

 

 

 

 

 











夜明け前の声

2018-12-30 18:46:25 | 日記
今日で父が死んでから15年が過ぎた。

毎年、この命日に父に対する想いを綴ってきた。

人間が、最愛の人を喪った悲しみが時間と共に癒えてゆくというのはどうやら嘘であるようだ。

時間が過ぎて、父を喪った日から遠ざかってゆくほど喪失感は深まり、この世界はどんどん悲しい世界として沈んでゆく。

それはわたしがだんだん孤立して孤独になって来ているからかもしれない。

父の死と向き合う余裕さえないほど、日々は悲しく苦しい。

ここ最近毎晩、赤ワインを必ずグラスに6杯以上寝床に倒れ込むまで飲んで寝る。

胃腸の具合も最悪で歯もぼろぼろになって来ている。

こんな状態を続けていたら母の享年44歳までも生きられそうもない。

亡き最愛の父に対して、特に今は言いたいことは何もない。

もし父に再会できないのなら、わたしはまったく生きている意味も価値もない。

もしできることなら、タイムスリップしてこの気持ちを父に伝えて父を悲しませられるならどんなに喜ばしいだろうと想う。

父はわたしの為にもっと悲しむべきだった。

わたしがどれほどお父さんの為に悲しんできたか、それをお父さんは知るべきだ。

今も必ずどこかで生きているはずなのだから。

父は突然容態が急変した死ぬ一週間前に麻酔を打たれて眠らされた。

麻酔が打たれ、集中治療室のドアが開かれて、そこで眠っていた父の姿は、生きている人だとはとても想えなかった。

無理矢理人工呼吸器を喉の奥につける為、歯が何本と折れ、口の周りには血がついていた。

あとで折れた何本かの歯は肺に入ったと半笑いで若い女医から聞かされた。

喉には穴が開けられそこに人工呼吸器が取り付けられ、眼は半開きで髪はぼさぼさの状態でベッドの上に父は寝ていた。

無機質な白い空間のなかで冷たい器具に囲まれ、父は何度もそれから死ぬまでの一週間、肺から痰を吸引する時に鼻から管を通す際、必ず麻酔から少し醒めては苦しそうに呼吸した。

それでも一度も意思疎通はできずにそのまま父はあっけなく死んだ。

その間の父の肉体的苦痛と死を想っては、わたしは精神的な地獄のなかにいた。

もしかしたらあの一週間の間、拷問的な苦痛が父を襲っていたのかもしれない。

でもわたしたちは側にいても何もしてやれなかった。

姉と交代で集中治療室の父の側で眠る日々の絶望的な地獄の時間を想いだす。

父が側で拷問を受けているかもしれないのに、わたしはそれをやめろとも言えなかった。

ただ側で眺めて、苦しんで涙を流すしかできなかった。

一週間後に死ぬことがわかっていたなら、あんな苦しい目に合わせずに済んだと。

後悔してもしきれない。

何のために父があれほど苦しまねばならなかったのか。

何のために母は全身を癌に冒され死んでゆかねばならなかったのか。

今ではそんな疑問も持つことはない。

わたしたち人間のほとんどは、それを与えられるに値する罪びとだとわかってからは。

言い訳をすることすらできない。

いったい神に対してどんな言い訳ができるだろう?

何年か前に見た映像の屠殺された後の牛の血だらけの頭が、父に見えてしまったことは本当なんだ。

何故わたしたち人間は、それを回避できるだろう?

何故わたしたち人間は、安らかな死を許されるだろう?

何故わたしたち家族は、この死ぬ迄消えない苦しみについて、神に対して苦情を申し立てることができるだろう?

わたしたちのほとんどはまるで幼子の様に善悪を分別することすらできていない。

人類に耐え難い苦しみが終らないのは、人類が動物たちに耐え難い苦しみを与え続けているからなんだ。

堪えられる苦痛ならば、自ら命を絶つ必要もない。

堪えられないから自ら命を絶った人たちのすべてがわたしたちの犠牲者なんだ。

何故わたしたちがのうのうと楽に生きて死んでゆくことが許されるだろう?

神が存在するのならば、わたしたちのすべてはすべての存在の為に犠牲となって死ぬ世界であるはずだ。

安楽の人生と安楽の死を求めることをやめてほしい。

きっと求めるほど、罪は重くなり地獄に突き落とされるからだ。

楽園を求める者、弥勒の世を求める者は今すぐ耐え難い者たちを救う為に立ち上がって欲しい。

最早、父の死を悲しんでもいられないほど、深刻な時代だ。

ナチスのホロコーストが、20年以内に日本でも起きるかもしれない。

数10年以内に、肉食という大罪により、人類は第三次世界大戦と世界的な飢餓と水不足と大量殺戮と人肉食と大量絶滅を経験するかもしれない。

人類はいつまでも幼子でいるわけには行かない。

夜明け前はもっとも暗い。

わたしたちはすべて、受難への道を進んでいる。

それがどれほど苦しいことなのか、想像することもできない。

世界の家畜頭数はFAOの2014年データによると、

世界の人口は73億人
牛は14.7億頭
豚は9.9億頭
羊は12.0億頭
山羊は10.1億頭
水牛、馬、ロバ、ラバ、ラクダなど大きな家畜を含めると合計して50.0億頭
鶏は214.1億羽

世界の人口の4分の1は15歳未満の子供であるので、世界全体で、だいたい大人1人当たり、約1頭家畜を飼っていることとなる。

また鶏は採卵鶏あるいはブロイラー等として214.1億羽飼養されているので、人口1人当たりでは、2.9羽飼っていることとなる。

鶏以外のすべての四肢動物は人間の3歳児ほどの知能があり、同じほどの痛覚を持っているとされている。

3歳児の痛覚と、成人の痛覚はどれほど違うものなのだろうか?



すべての人類の罪を、すべての人類によって分けて償ってゆく必要がある。

楽園は存在しない。

でも救いは必ず存在する。

殺されゆくすべての動物たちはわたしの父であり、母である。

夜明け前、わたしは一本の蝋燭に火をつけ、寝椅子に座り目を瞑った。

そして禁じられた夢の最中にわたしの名を呼ぶ大きく響く声で目が醒めた。

『こず恵』

その声はお父さんとお母さんの声の合わさった声だった。