シャープ & ふらっと

半音上がって半音下がる。 それが楽しい、美しい。
思ったこと、感じたことはナチュラルに。  writer カノン

ランゲ『花の歌』

2009-10-25 14:45:12 | 音楽を聴く

先日、近くの大学の学生達と食事をする機会があった。

たまたま私の隣に座ったのが、二年生の女の子だった。

この子は、ピアノを習っていて、「それなりに」弾けるという。

当然の如くピアノ談義になった。

「好きな曲は?」と聞くと『今、一番好きなのは「花の歌」です』と答えた。

「花の歌」。 私は一瞬、『カルメン』の「花の歌」を思い浮かべ、 「カルメンの?」と聞いた。

『違いますよ~、ピアノ曲です。 友達が弾いてるのを聴いて、私も演奏してみたくなって・・。

今、その曲に夢中なんです』

ただ、彼女はこの時、 誰の作曲か思い出せなかった。

私もその後、調べてみた。

 

ドイツの作曲家、グスタフ・ランゲの曲で、 日本ではすっかりお馴染みの曲なのだ。

しかし私は、ピアノが好きなどと言いながら、 恥ずかしながら今まで知らなかった。

 

サイトでこの曲を聴いてみる。 聴いたことのある曲だ。

とても綺麗なメロディで、サロン風の小曲だ。

CDを聴いてみようと思う。 誰の演奏がいいかな・・。

彼女が、 ショパンやリストなどは、それほど興味がないけれど、

この曲は胸に響いた、と言うだけあった。

 

 

人との出会いは、時として美しい曲を知ることがある。

曲との出会いには、それにまつわる人との出会いがある。

それを実感した秋、 「花の歌」は、その両方を運んできてくれた。

 

 

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第九とお経

2008-12-03 15:01:15 | 音楽を聴く

22年前の今日…。 1986年12月3日。曜日も同じ水曜日。

私は、お坊さんと一緒に「第九」を歌うという、 貴重な経験をした。

私は当時、地元のアマチュア合唱団にいた。

そしてこの年の12月に、 第九を歌う機会に恵まれた。

しかし、ただの第九のステージではなかった。

 

この、1986年は『国際平和年』。

その年末に、反核をテ-マにしたコンサートを開こうと、

クラシックやポピュラーの音楽家たちが、 チャリティー同然のイベントを企画したのだ。

『反核・音楽家たちのメッセージ‘86』といった。

 

第一部では、小室等さんの司会で、 阿川泰子さんの歌などの、ポップス部門。

そして、第二部がクラシック部門で、 その最後が第九だった。

演奏は、第四楽章だけだ。

しかし、実に変わった「パート」が加わる。

十数名のお坊さんが、 歌の合間に、お経を唱えるというものだ。

前代未聞?の、お経付きの第九。

とにかく、満員の日比谷公会堂の聴衆の前で、 それは演奏された。

 

合唱団のまん中に囲まれるように、立派なお袈裟を召された、 真言宗の僧侶14名。

ソリストのソロの部分が終わると、 お坊さんが一斉に読経をする。

読経が終わると、オケの演奏に戻る。

合唱の『vor gott!』が終わり、 テノールのソリストが立ち上がり、

ソロを歌う場面でも 読経が入り、そのあとテナーソロになる。

とにかく、曲を中断するかのように、 合間合間に読経が入るのだ。

そして最後、 オケの演奏で終わるこの曲だが、

終了と同時に、お決まりのように 客席から拍手と『ブラボ-!』の声。

しかし、その拍手がピタッとやむ。 僧侶が最後の読経を始めたからだ。

 

僧侶は、これまで以上の大きな声と、 高らかな響きを残しながら、

一人ずつ合掌をしながらステージを降り、 舞台袖へと消えていく。

最後の僧侶が袖に消え、 お経の声が聞こえなくなり、

指揮者の山田一雄氏が、静かに客席のほうを向いた時

客席からは、あらためて、 いや…、本当に感動したような拍手が

さざ波のように響き渡った。

本当に不思議な時間であり、 不思議な曲だった。

でも、私達が歌ったのは、 間違いなくベ-ト-ヴェンの『第九』だった。

 

のちに、客席でのアンケートが公表される。

『合唱の起源はお経だというが、たしかにそう感じた』

『ミスマッチな舞台かと思いきや、実は最高だった』

『第九が、イベント的に軽々しく扱われているが、 読経を通じて厳粛な曲であることを再認識した』

私も、団の会報紙に 感想を一言書いた。

『お坊さんの読経は、ベ-ト-ヴェンの声だったのかもしれません』

 

 

あれから別の合唱団に移り、何度も第九を歌ってきた。

しかし、あのステージを超える感動は、ついに経験出来なかった。

それだけ崇高な第九だったのだ。

 

22年経った今も、 その時のプログラムが残っている。

そこに掲載されている、 ご住職様のメッセージを最後に紹介したい。

 

 

『一切の生きとし生けるものは幸福であれ。安泰であれ。安楽であれ。 いかなる生きもの、生類であっても、怯えているものでも、強剛なるものでも、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くのものでも、近くのものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも、 一切の生きとし生けるものは幸福であれ。 核兵器の存在を許すことは、人間が仏の慈悲を裏切ることになる。』

(真言宗智山派 住職)

 

 

 

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病院のBGM

2008-10-26 11:43:53 | 音楽を聴く

先日、検査である総合病院に行った。

病院内は、BGMが流れている。

外来の通路などは一日中で、 病室内も、昼と夜の食事時間に流れているらしい。

曲は多様だったが、 SMAPや竹内まりやなどの歌謡系、

冬ソナやタイタニックなどの、映画・主題歌系の曲などが、

ピアノ版で演奏されているものだ。

それを聴きながら、ふと思い出した。

 

ある作家の話だ。

入院中の母が、手術の日。 廊下で祈るように待っている。

その時、BGMで「子犬のワルツ」が流れたという。

『こちらの気持ちを逆なでするようなテンポの速い曲に、

私はイライラしていました。 病院の曲にふさわしくない。』

 

氏は、これ以外にも、 新潟の海岸にあるドライブインが、

大音量で延々と「佐渡おけさ」を流していたことにも触れる。

『静かな波の音が聞こえる場所なのに・・』

 

また、ある女性は子供の出産時に産婦人科に行った時、

「剣の舞」が流れていたそうだ。

『なぜゆったりすべき産婦人科で、あんな曲流してるのかしら』

 

私も、富士山五合目に登った時、 ドライブインのスピーカーから、

やはり大きな音量で延々と、 メンデルスゾーンの「春の歌」が流れ、

『ゴミは持ち帰りましょう! 富士山を守りましょう!』と、

お知らせが聞こえていたのを思い出した。

清澄な富士山に、大音量の「春の歌」。

名曲も台無しである。

音楽は、時と場合では騒音になるのだ。

 

そう、これはBGM・・と言えるかどうかだが、

近所の高校では、野球部の練習中に、

カセットから大きな音量で「栄冠は君に輝く」を流している。

士気を上げる意味か、それも結構だが、

病院で耳に入る曲と違って、

練習に集中していたら聞こえなくなるだろう。

 

場面場面でふさわしいBGMを流す、あるいはやめるというのは、

難しいのかもしれない。

 

 

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銀ちゃんのラブレター

2008-10-14 14:09:52 | 音楽を聴く

NHKの番組では、 時折、いつまでも耳に残る歌に出会う事がある。

「みんなのうた」の童謡や、 「おかあさんといっしょ」の幼児向けの歌などが、

とても記憶に残ったりするものだ。

 

 1994年、「おかあさんといっしょ」の中で流れた、

『銀ちゃんのラブレター』という歌が、 とても良い曲だった。

「ぎんのじょう」君という名の男の子・銀ちゃんが、

ユリちゃんにお手紙を出す。

でも字が書けない銀ちゃんは、

その四季の贈り物を封筒に入れる・・という詞だ。

 

作詞は、俵万智さん。

「サラダ記念日」で有名な、短歌の歌人だ。

私と同年代であり、短歌の内容にも共感を覚える俵さんは、私もファンである。

歌詞は、俵さんらしい自然で優しい言葉。

赤いポスト、白い封筒、鳥の切手という言葉が、

この詞を温かくふくらませている。

 

私達は今、メールでのやりとりが多い。

私は文通の経験もあるが、いつの間にか便利なメールへ移ってしまった。

楽しい柄の便箋・封筒を選び、時間をかけて文字を書いて、

綺麗な記念切手を貼り、赤いポストに投函する幸せと、

自分の家のポストに、相手から届いた、

厚みのある封筒を手にした時の喜び。

それを失ってしまうほど、今の自分には心の余裕がないのかもしれない。 

だからこそ今、 メールの文字でも、精一杯の気持ちを相手に伝えたいと思う。

言葉に悩んだり困ったりした時、この、俵さんの詞を思い出す。 

 

  『銀ちゃんのラブレター』

作詞:俵万智   作曲:福田和禾子 

歌:茂森あゆみ・速水けんたろう 

 

ぎんのじょうくんから ユリちゃんにおてがみ 

でも ぎんちゃんは じがかけません 

だから はるには ふうとうに 

さくらのはなを いれました 

 

ぎんのじょうくんから ユリちゃんにおてがみ 

でも ぎんちゃんは じがかけません 

だから なつには ふうとうに 

ひろったかいを いれました 

 

あかいポスト しろいふうとう とりのきって 

 

ぎんのじょうくんから ユリちゃんにおてがみ 

でも ぎんちゃんは じがかけません 

だから あきには ふうとうに 

あかいおちばを いれました 

 

ぎんのじょうくんから ユリちゃんにおてがみ 

でも ぎんちゃんは じがかけません 

だから ふゆには ふうとうに

ゆきをすくって いれました 

 

あかいポスト しろいふうとう とりのきって 

 

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横須賀ストーリー

2008-10-07 16:26:35 | 音楽を聴く

ラジオを聴いていたら、
山口百恵さんの特集が流れていた。

百恵さんは、私の中学時代のアイドルだったが、
大人っぽい雰囲気に加え、
何か、「完成された」歌手のようなイメージを持ち、
私はそれほど、興味がなかった。

しかし、大人になって聴くと、
百恵さんの曲は、とても胸に響く。
やはり、歌自体が大人だったのだろう。

ラジオは、途中から聴いたので、
「好きな曲」のベスト3しか知り得なかったが、
3位・プレイバックPART2
2位・秋桜
1位・いい日旅立ち
だった。


私は、「横須賀ストーリー」が好きなのだが、
この歌詞にある、

『急な坂道 駆けのぼったら
 今も海が見えるでしょうか・・』

この部分だけで、
横須賀という街を想像できるのだ。

基地と、海の町横須賀。
その、ダイナミックな街の中、
百恵さんは、決して裕福な家庭ではなかったという。

それが、大スターの生い立ちとして、
共感を呼ぶこともあるのだろう。


横須賀は、一度通ったことがあるが、
基地の町らしく、
急な山あいと、海のコントラストが印象に残った。
歌詞の通りだ。

今は、G.ワシントン号の寄港により、
反対運動や見物人などで、
賑やかになっているらしい。

久しぶりに、
この町にも行ってみたい気がする。


横須賀海軍カレーなども有名だが、
やはり私には、この歌とともに、
百恵さんの町、という印象を今も持つ。

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27年前の合唱コンクール

2008-10-06 14:47:01 | 音楽を聴く

今日は、私にとって特別な思いのある日だ。

 

1981(昭和56)年、10月6日。 当時、高校3年生。

この日は、校内の合唱コンクールが開かれた日だ。

普通の公立校である。 特別レベルが高いわけでもなく、 そこらの学校の合唱祭である。

しかし全校3学年で25クラス。 その中で3位まで入るのはかなり難しい。

 

私はそのコンクールの指揮者に選ばれた。

私のクラスは担任も音楽の先生で、

クラスメートの半分以上が何らかの楽器を経験しているなど、

「最強の音楽クラス」だった。

誰が指揮者になってもおかしくないクラス。

そんな中、 なんとなくマジメで、 なんとなくクラシックに詳しく、

なんとなく指揮者が似合っていそうだった?という、 私が選ばれたのだ。

当然ながら、 我が3年7組は優勝に一番近いクラス、とも言われていた。

 

そして、 ピアノ伴奏者に選ばれたのが、

その時私が、クラスで一番好きだった子になった。

でも、同じクラスにいながら ほとんど話をした事がなかった。

ピアノが弾けることもこの時初めて知ったくらいだ。

 

発表は自由曲一曲だけ。一発勝負だ。

私たちは、かつてこの学校の合唱コンクールの歴史で、

まだ一度も歌われたことのなかった、英語(原語)の歌に挑戦した。

今は、英語の歌詞の合唱曲など当たり前かもしれないが、

この時は、私のいた普通高の普通の合唱コンクールの普通クラスが

英語で歌うとは誰も考えていなかった。

 

『マイ・ウェイ』。

今となれば、それほど難しい曲ではないし、 むしろ英語で歌うほうが楽だ。

しかしこの時は、私達とすれば大英断だった。

『優勝に一番近い最強のクラス』だったが、 練習は思うように進まない。

とにかくほぼ全員が進学希望だった。

大事な時期に放課後の練習時間は増やせなかった。

 

 

ある日、伴奏の彼女と衝突した。 

テンポをゆっくりめに、と言っても従ってくれずマイペースで弾き飛ばす。

指揮と伴奏がズレるという、一番あってはならない型となった。

戸惑うクラスメート。結局練習を切り上げる。

 

そのあと放課後、音楽室でピアノ練習している彼女に、

一言言ってやろうかと思い部屋に入ったが、

真剣な表情で弾いていた彼女を見て、気持ちが揺れ動いてしまい、

「さっきはごめん」と謝ってしまった。

彼女は ちょっと恥ずかしそうに、『私こそごめんね』と謝ったあと、

『優勝しようよ。卒業の一番の思い出にしたいわ』

そう言ってくれた。

 

それからのクラスは、大変なまとまりを見せた。

皆、私が彼女を好きでいる事も知っていた。

「指揮者と伴奏者に、花を持たせてやるよ」とまで言われた。

そして、運命の27年前の今日を迎える。

 

 

私達は、英語で「マイ・ウェイ」を歌い始めた。

ざわつく場内。 先生達もが驚いたという。

私達のクラスだったからこそ、 正統派の合唱曲で来ると思ったのだろう。

しかし、誰もが驚いた英語の歌詞だけでなく、

音量、ハーモニー、すべてにおいて完璧だった。

私の指揮も、担任の先生に指導を受けた甲斐もあり、 100点の出来だった。

優勝を確信して、私達はステージを降りた。

 

 

そして、結果発表。

 

優勝は、1年生のクラス。 私達は、準優勝だった・・。

 

呆然とする私達のはるか前列の席で、

狂喜乱舞する1年6組の姿が、今も忘れられない。

 

 

私達は、なぜ優勝できなかったのか・・。

決して、最強クラスの驕りはなかったと思っている。 練習は真摯で、本番も完全で・・。

もしあるとすれば、 1年6組の、1年生とは思えない素晴らしい出来が優っていたという事だ。

1年6組の声量はすごかったが、

合唱としてのまとまり、レベルは3年7組の方が間違いなく上だったようだ。

しかし、これはNコンのようなハイレベルなコンクールではない。

大きな声で、男子の音程さえしっかり聴こえれば高得点という、

『普通の合唱コンクール』での結果として、受け入れなければいけなかった。

 

真剣に向き合った私達は、3年生ゆえに負けたのだ。

 

 

その後・・、

私は、この指揮者をした経験と、 準優勝に終わった悔しさから、

社会人になってから、合唱団への入団に至った。

そして、伴奏の彼女は、 ピアノを活かして短大の幼児教育の道へ進む。

 

卒業して数年後。 彼女と電話で話す機会があった。

 『あの頃、私はピアノ教室で5冊の楽譜の練習をしていたの。

そこへ合唱コンクールなんて押しつけられたから、気が立ってたのね。

でも、みんなの前で私達、ぶつかるのは良くなかったね。

反省してる。迷惑かけて本当にごめんね。』

 

続けて

 『順位は二番だったけど、やっぱり思い出は一番だったよ。

頑張ったよね。私達のクラス』と、楽しそうに語ってくれた。

それだけでも、私の高校生活は幸福だった。

 

 

あれから27年という長い年月。

しかし、今でも鮮明な記憶に残るあの秋の日・・。

 

18歳の、私のすべてだった。

 

 

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ひばりは青空で生まれたから

2008-09-27 17:07:28 | 音楽を聴く

学園祭のシーズンである。

いや、この話はもっと前・・、 小学生時代の、「学芸会」だ。

 

6年生。小学校最後の学芸会。 体育館で、2日間に渡って開かれた。

6年生は全員で、合唱をすることになっていた。

曲は、「ひばりは青空で生まれたから」。

♪ ひばりは 青空で生まれたから いつも仲良しの 太陽の歌を歌っているの・・

歌詞もうろ覚えになってきたが、 明るい曲調の、いかにも小学生が歌う感じの歌だった。

皆、この歌が好きで、 学芸会前の歌の練習は一生懸命歌っていた。

 

しかし、学芸会当日・・。 朝から厚い雲に覆われていた。

そして、学芸会が始まる頃、外は雨が降り始めた。

同時に、熱気に包まれていた体育館の中は 急激に冷え込んできた。

プログラムは、私達6年生の合唱の番となった。

しかし、ただでさえ緊張するステージで寒さも手伝い、皆身体が震えていた。

そして、歌の始まりと同時くらいに、 外はバケツをひっくり返したような雨になった。

古い体育館だ。 屋根を打つ激しい雨音で、私達の歌声は半分はかき消された。

次のプログラムに入る時、 その雨音はピタッとやんだ。

青空の歌が、皮肉にも大雨の時間に重なった。

聴いていた親達も、私達の歌が聴きづらかったという。

 

その後の音楽の時間、 音楽の先生は私達に言った。

『あなた達の時が、一番意地悪されちゃったね。 でも、よく歌えましたよ。

  この曲、卒業してもずっと忘れないでね』

 

その後、この曲を歌う機会も聴いた記憶もない。

しかし、あの時たしかにこの歌を歌った事実と、 寒かった体育館の思い出は

いつまでも、私の中にとどまっている・・。

 

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乙女の祈り

2008-09-14 13:10:12 | 音楽を聴く

久しく聴いていなかった、古いCDを出してみた。

ピアノの小品集だが、 この一曲目に、『乙女の祈り』が入っている。

 

『乙女の祈り』。 ピアノ曲といえば、誰でも聴いた事があるであろう名曲。

しかし、この作品に関する資料はあまりない。

作曲は、バダジェフスカ。

1834年・ワルシャワ生まれ。 ショパンと同郷だ。

しかし、この年24歳のショパンは既に、 故郷を離れパリに移り住んでいる。

 

バダジェフスカは、ごく普通の少女で、 有名な音楽家でも演奏家でもない、

まったくのアマチュア音楽愛好家だった。

18歳の時、 当時流行していたサロン・コンサートなどで演奏するため、

作曲して弾いたのが評判になったようだ。

4年後には、ワルシャワで楽譜が出版され、

さらにその3年後の1859年、 パリの音楽雑誌の付録として、 この楽譜が紹介された。

そこから、この曲は世界中に知られる事となる。

 

しかし、 バダジェフスカは、とても病弱だった。

『乙女の祈り』が、世界に広まった頃、 彼女は27歳という若さで病没した。

バダジェフスカは、 他にも何曲かサロン風の曲を作ったが、

有名になったのは、『乙女の祈り』だけだ。

ただ、この続編として、 『叶えられた乙女』という曲も作曲している。

しかしこれは、 周囲の好奇に乗せられて作った色合いが強く、

ほとんど日の目を見ずに終わっている。

 

そして、 27歳で死去したというのも、実は定かではない。

24歳で亡くなったという説もある。

そちらが正しいとすれば、 1858年9月29日が命日だ。

もうすぐ、没後150年の日を迎える。

 

詳しい事がわからない名曲。 だが、若くして亡くなったからこそ、

この曲は輝いており、 いつまでも『乙女』なのかもしれない。 

 

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ユンディ・リのコンサート

2008-06-19 17:17:50 | 音楽を聴く
昨日、ユンディ・リのコンサートを聴きに行った。

ユンディ・リ。
2000年、ショパン・コンクールの優勝者。

中国出身で、
同コンクール史上、初のアジア人の優勝でもあった。

その、流れるような美しい演奏もさることながら、
氏は、なかなかの風貌である。
「ピアノ界の貴公子」 「中国のキムタク」などと呼ばれ、
女性ファンが多い。


昨夜は、
オランダ・ロッテルダム管弦楽団との共演で、
サントリーホールでの演奏であった。

若手指揮者の、ネゼ・セガン氏が、
今回、初めてのアジアでの公演となった。
セガン氏と親交のあるユンディ氏が、
そのお祝いとして、共演となったコンサートだった。


曲目は、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」。
流れるような美しい旋律は、見事だった。
ただ、この曲自体が、
管楽器を中心とした、宇宙的なイメージのある曲で、
ピアノのメロディが、管楽に重なる部分が多い。
ちょっと、物足りなさはあった。

しかし、優雅な演奏は、
男性ピアニストとは思えない、柔らかさがあった。
これなら、女性ピアニストの、
マルタ・アルゲリッチ女史のほうが、
はるかにダイナミックな演奏をする。


演奏は、
ラヴェルと、アンコールの2曲だけだったが、
とても満喫できたステージだった。

終演後、
ユンディ、セガン両氏のサイン会も行なわれ、
CDとプログラムに、サインを戴いた。

貴公子の演奏を聴くことができた一夜。
また、機会があればどこかのステージでお目にかかりたい。
久しぶりに、
そんな思いを感じたコンサートであった。
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変イ長調と嬰ハ短調

2008-01-30 11:24:15 | 音楽を聴く




私がショパンの曲で好きなのは、

「軍隊ポロネーズ」
「英雄ポロネーズ」
op.25-1,「エオリアンハープ」
24のプレリュード 28-17番・・

パッと挙げると、この4曲が出てくるのだが、

「軍隊ポロネーズ」がイ長調。
あと3つはすべて変イ長調。


私の、高校生の息子は今、
「幻想即興曲」を練習している。
一番好きな曲だそうだ。

ところが、
次に練習してみたい曲が、
op.10-4。

エチュード10の、第4番だという。

同じ教室で弾いている、
高校生の女の子が、この曲を習っていて、
それで自分も弾いてみたいと思ったようだ。

私も、高校時代に同じような経験をしたので、
息子も、そうなのかな・・などと思ったりする。

しかし息子に言わせれば、
そういうハートの部分?だけではなく、
「4番は聴いててカッコイイ」という。


なんと、
「幻想即興曲」と、「第4番」は、
ともに、嬰ハ短調であった。


長調に短調、
ましてやコードまで限定された、人の好みというのは、
誰でもあるのだろうか。

私も、
特に変イ長調だから好き、というのではない。
息子も、
嬰ハ短調だから好き、というわけではない。

息子の場合、
何短調かも解らず弾いているのだから。


小学校の時だったか、
音楽の教科書に載っていた。

「長調は明るく楽しい。短調は暗く寂しい。
 
 でも、長調でも寂しい曲 → 「蛍の光」
     短調でも明るい曲 → 「ロシア民謡・一週間」

 などもあります。」


私は、やはり長調が好き。

息子の練習のあと、
私もこっそり弾いている曲がある。
24のプレリュード 28-7番。

「太田胃散」のCMに使われている曲だ。
この曲は、40秒足らずの小曲。
CMでは、途中までしか流れないが、
最後の小節がとても綺麗だ。

気づいたら、
この曲もイ長調だった。


楽譜写真は、
上が「英雄ポロネーズ」
下が「幻想即興曲」

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