シャープ & ふらっと

半音上がって半音下がる。 それが楽しい、美しい。
思ったこと、感じたことはナチュラルに。  writer カノン

ショパン ピアノ協奏曲第2番

2016-05-29 07:07:32 | 音楽を聴く
ショパンを記事にするのは久しぶりだが、
このブログでは、5回目くらいだと思う。
ショパンの曲は、私の日々の中にある。

ショパンのピアノ協奏曲は、
第1番と第2番の二つだけだ。
ともに1830年、20歳の時の作品である。

第2番が先に作曲され、後から第1番が作られた。
順番が逆なのは、出版の順だからだ。
第2番を先に作ったショパンだが、
その楽譜をどこかに置いてしまい、
先に第1番の楽譜を出版したというわけだ。


その影響?か、そのおかげ?か、
とにかく第1番の方が有名で、演奏回数も多い。
私も第1番は好きで、何度も聴きに行っている。

しかし最近、第2番の方が聴く回数が増えた。
第1と第2の作曲時期は、ほとんど同じなのだが、
第2には、ショパンの若さを感じ、
第1は、大人のショパンを感じるのである。

ピアニストの中村紘子さんも、
第2番にはショパンの瑞々しさや、
悩みに溢れる若さを感じ、
第1番よりも好きだという話をされている。


昨年10月にポーランドで開かれた、
ショパン国際ピアノコンクール。
決勝の曲目は、第1番と第2番のどちらかを選択し、
演奏するというものだ。

決勝に進んだのは10名だったが、
このうちなんと9人が第1番を弾き、
第2番を選んだのは一人だけだった。


その一人が、
第二位に輝いた、シャルル・リシャール・アムラン。
カナダの26歳。
このコンクールの受賞者としては年齢が高く、
今回の入賞者6人の中でも最年長。
自ら「私は遅咲きのピアニストです」と語っている。

アムラン氏は、
「賞取りの為の、第1番の選択などは考えませんでした」と言う。
このコンクールでは、たしかに第1番の方が、
聴く側の受けも良いのだろう、受賞しやすいと言われている。
しかしアムラン氏は、
自分が弾きたかった2番を弾いただけだと言う。

中村紘子さんやアムラン氏と、私を並べるのは失礼だが、
もしかしたら、ショパンの若さ溢れる第2番は、
歳をとるにつれて、心に響くのかもしれない。
そんな思いである。


ショパンのピアノ協奏曲は、
オーケストラが貧弱だと言われている。
たしかに、ピチカートの多い弦や、
申し訳程度に登場するような管は、
モーツァルトの協奏曲などと比べると貧弱だ。
これは私も感じていた。

しかし、アムラン氏が言った。
「ショパンの協奏曲は、ピアノが主役です。
あれだけ完成されたピアノのメロディには、
オーケストラは、添え物で充分だと思っています」

なんともスッキリした言葉だ。
アムラン氏のファンになってしまった。

そう、
だからこそショパンは、
協奏曲を二つしか作らなかったのかもしれない。


第2番の第2楽章は、
ショパンが当時、恋心を持っていた相手を想い、
作られた曲だと言われている。

第2番は、人を想う力がある。
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二つのピアノ協奏曲

2015-01-25 13:00:27 | 音楽を聴く
1月27日はモーツァルトの誕生日である。

モーツァルトは、27曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、
その中では、第23番が一番好きである。

明るいイ長調のメロディは、
いかにもモーツァルトらしい旋律で、
オーストリアの青空を思い浮かべる。

昔、合唱団にいた頃、
お付き合いしていた女性とコンサートに行った。
その時聴いた曲でもある。



それから何年か経ち、
一人のクラシック好きな女性と知り合った。
友人達と食事に行った席で知り合い、
音楽の話になった。

彼女は、私が本当にクラシック好きかどうか
聞いてみたかったのだろう。
まず私に質問したのが、
『モーツァルトのピアノ協奏曲、何番が好きですか?』だった。

私は即座に、「23番」と答えた。
彼女もすぐに、『私は20番』と答えた。
そこからお互い、音楽の話をする間柄になった。

やがて私も、20番にのめり込むようになった。
23番とは逆の深みがあった。

しかし、この彼女とは疎遠になり、
20番は、彼女との思い出と共に、
自分の奥にしまわれた曲になった。



もう何年も経った今、
時々、20番も23番も聴く。
二人の女性にまつわる思い出が、
それぞれに甦る。

今、『モーツァルトのピアノ協奏曲、
何番が好きですか?』
と聞かれたら、
私は「20番と23番」と答えるだろう。

23番が一番好きなのは間違いないのだが、
20番は対になって私を支配している。

好きな曲というのは、そういうものだろう。
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モツレク

2014-09-07 10:56:46 | 音楽を聴く
モツレク。
言うまでもなく、モーツァルトのレクイエム。

先日から妻が、この曲を歌うため、
近くの合唱団に通い出した。
私は20数年前に、
都内の合唱団で歌った事がある。

この曲については諸説あり、
ここであれこれ述べるまでもないが、
サリエリの陰謀だか毒殺だかはともかく、
モーツァルトの最後の曲にしては、
今一つ何か物足りないのだ。

第七番のラクリモーサの途中で絶筆となり、
(上の写真)
後は弟子のジェスマイヤーが、
モーツァルトの、生前の指示を基に作曲した。
それが一般的に言われている話だ。

でも、ラクリモーサまでの6曲も、
なんだかモーツァルトらしいイメージがない。

むしろ、ジェスマイヤーが作った後半の方が、
感動するメロディーなのだ。


以前、その話を合唱団の、
モーツァルトファンの女性に言った。
すると、『そうですかぁ?』と言われたあと、
一気に延々と反論され、参ってしまった。
それ以来、この「後半の方が・・」という感想は、
誰にも話していない。

しかし、20数年前のモツレクの練習で、
指揮者の先生も、
『アニュスデイやサンクトゥスは名曲』と言った。
いずれも後半の、ジェスマイヤーのほうである。


サンクトゥスは、
『大阪人でっせ~』と聴こえる有名?な曲だが、
これなどは、モーツァルトのイメージではない。
でも、私が一番好きな曲である。

死の淵にいたモーツァルトのメロディーに、
私が向き合えないだけなのかもしれない。
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「ハレルヤ」での起立を考える

2013-10-30 12:13:14 | 音楽を聴く

12月14日、ヘンデルの「メサイア」を聴きに行くことになった。

 
二十数年前、合唱団にいた時歌った曲だ。
あまりにも長いため、合唱部分は何曲かカットされた。
しかし、思い出に残る曲だった。
 
この時、有名な「ハレルヤ」に進んだが、
客席のあちこちで、席を立って聴く人が現れた。
だいたい2~3割・・だったろうか。
私は驚いたが、とにかく歌い終えると拍手が起こり、
立っていた人々は、また着席した。
 
終了後、団の仲間に聞いた。
「ハレルヤで立ち上がった人、あれ何ですか?」
その時、初めてこの曲のエピソードを知った。
 
 
1743年、『メサイア』がロンドンで初演された際、
この「ハレルヤ」が演奏されると、客席で聴いていたジョージ2世が
感動のあまり立ち上がった。
これにつられ、聴衆も立ち上がった。
そして、拍手をもって讃えたという。
 
当時イギリスでは、 全知全能の神を讃える歌が演奏される時は、
起立して聞く習慣があった。
「ハレルヤ」は、それに匹敵した曲だったのだろう。
 
しかし、疑問もわく。
ジョージ2世が立ち上がったのは、曲の途中だったようだ。
なので、聴衆も次々に立ち、終了と共に拍手といういきさつだが、
・・初演である。初めて聴いた曲の途中で、
全能の神を讃えるにふさわしい、と判断できたのだろうか。
だとしたら、この王は大変な感性と耳の持ち主である。
結局今では、このエピソードも本当ではないといわれている。
 
 
だが日本では、これに倣って、
「ハレルヤ」の際は聴衆が起立するという現在に至っている。
おそらく、クラシックの曲の中で、
途中で聴衆が立ち上がる(しかも全員ではなく「希望者」)というのは
この曲だけではないか?
 
でも、エピソードの真偽はともかく、こういう倣わしがある曲もいいな、と思う。
立ち上がることで、「私は知識があるんです」と、
アピールする嫌味、と感じる人もあるようだが、
270年前の話が続いているのも良いではないか。
 
 
私は当日どうしようかな・・。
でも、あの二十数年前の、自分が歌ったときの驚きと感動を思うと、
そっと立って、じっと聴いて、拍手を送りたいな・・と考えている。
演奏者、合唱団と、私達聴衆が、
この曲の歴史を共にしていることを感謝して・・。
 
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夜空のトランペット

2013-08-04 12:28:51 | 音楽を聴く

ニニ・ロッソの名曲、『夜空のトランペット』を聴いた。

 

子供の頃、夏休みを山梨県甲府市の母の実家で過ごした。

その頃、市内放送のスピーカーからは、

午後6時になると、『夜空のトランペット』が流れた。

この曲が流れると、祖母は夕食の支度を始めた。

四方を山に囲まれた甲府市の、山の稜線と夏の夕方の風景、

そしてこのメロディが、 今も私の中で思い出に残る。

 

それから何年後か、 ある記事を目にする。

日航機が、成田に到着する際、

機内でこの『夜空のトランペット』を流しているという。

着陸前の慌ただしさと、緊張感をほぐすために、

小音のBGMとして流しているらしい。

しかし、これが米国人乗客からのクレームになった。

米国では、戦時中に、 亡くなった兵士を荼毘に伏す際、

星条旗の半旗と共に、この曲を流したという。

『タップ』という、弔意を表す厳粛な曲だったのだ。

乗客は、『一番危険な着陸の時に、縁起でもない』と抗議した。

日航は、「国際線として配慮が足りなかった」として、 この曲をやめている。

 

飛行機の到着時。 死者を弔う音楽。

考えてみれば、この曲はどちらにも合う。

ただ、それに伴う各国の歴史や背景などは、 ともに理解しなければいけない。

 

幼い頃の私の名曲。

今はもうさすがに、 甲府市でも流れていないだろう。

私にとっての、夏の遠い記憶である。

 

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歌えることの幸せ

2011-05-24 04:00:39 | 音楽を聴く

先日、ひとりの人と道で会った。 私が昔いた、合唱団の人だった。

『どうですか。また歌いに来ませんか?』

 

アルトの女性。 もう30年近く、合唱団にいる人だ。

年々、団員は減少している。 テノールだった私は、今でも「貴重な」存在らしい。

昔話を楽しんだのだが、 彼女がふと口にする。

『そういえば、ソプラノの○○さんや、ベースの△△さんも、 もう亡くなられたのよ・・。』

あの当時、若かった私と対等に接して下さった年配の方々が、

次々に他界されていると聞く。

『歳をとって死ぬとは限らない。震災で亡くなった方もいるし、

生きているうちに、出来ることをしたいわよね。』

彼女はそう言った。

 

私がここをやめて、 次に入った合唱団では、

Fさんというソプラノの女性がいた。

ある時、若い団員のK君が、

「練習がつまらない。好きな曲ではないし、団を辞めたい」 と言った。

するとFさんは、

『歌を歌えることが、どんなに幸せか考えてね。

生きているうちしか、音楽なんてできないのだから』

穏やかな口調で、そう言ったという。

K君は、結局団に残った。

 

半年後、Fさんはがんで他界する。

K君は、その時の言葉を合唱団の会報に寄せ、 皆の知ることとなる。

Fさんの言葉は団員の胸を打った。

 

前述のアルトの女性には、 ひとつ約束をしておいた。

「二年後に50歳になるので、その時また戻ろうと思います。」

これは社交辞令でもなんでもない。

50歳になったら、新しいことを始めるのではなく、

好きだった合唱に戻ろうと、ずっと考えていた。

娘も、二年後に20歳になる。 私の時間も作れることになるからだ。

 

歌をうたえる幸せ。

生きているからこそ、音楽に接していけるのだ。

人生の後半も、自分の中にあるといいなと思う。

 

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小澤征爾氏のサイン

2010-09-01 17:57:19 | 音楽を聴く

今日9月1日は、指揮者・小澤征爾氏の誕生日。

 
75歳になられた。
だが、今年癌にかかり、そちらは回復したものの、
腰痛を伴ったということで
「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」の指揮を取りやめたという。
それでも、一曲だけ振るということだが、
氏とともにある音楽祭だけに、とても残念だ。 
 
私の父と歳も近い。
父の年齢で、長い時間指揮台に立ち、演奏することを思うと、 
かなりのハードであることには違いない。無理をなさらずに・・と願う。
 
私は合唱団にいて、それなりに著名な指揮者の演奏で歌ったが、
小澤征爾氏は、一度もご一緒したことがなかった。
まあ、アマチュアの合唱団の演奏で振るレベルの方ではないが、
今となっては、ちょっと残念だ。
 
 
その、合唱団にいた頃だったが、 
東京・上野の、東京文化会館で練習をしたことがあった。 
帰りに、仲間と上野駅近くのガード下の立ち飲み屋に寄る。
狭いゴタゴタした店だったが、多くのサラリーマンで賑わっていた。
その店は、「大和」という名前だった。
 
飲みながら、何気なくその店の
壁の小さな落書きを見て、私達は驚いた。 
 
『大和さん、ごちそうさまでした。また来ます。 小澤征爾』
 
すると、近くにいた常連らしき男性が言った。 
「店も、これを宣伝するわけではなく、そのままにしてるんだよね。
いいことだよね。」
 
こういった店で見かける、立派なサイン色紙ではない。
店長とのツーショット写真でもない。 
世界の小澤の、壁の落書き。
素晴らしい足跡だ。
 
しかし、この「大和」は、もう無い。
今から20年以上前の話だ。
だが、小澤氏というと、この落書き・・いや、
実に粋なサインを思い出す。
 
 
小澤氏のご回復を祈るとともに、
ぜひ来年の「サイトウ・キネン」は、
指揮台に上がって颯爽と振って戴きたいと思う。
お誕生日おめでとうございます。 
 
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フォークダンスの想い

2010-06-19 12:40:56 | 音楽を聴く

子供達と、ふとした事からフォークダンスの話になった。

しかし、 男子校を出た息子、女子高に通う娘は、

どちらもフォークダンスの経験がないという。

 

フォークダンス。

私は、ずっと共学だったので、 フォークダンスを踊る機会は多かった。

記憶にある一番の古い思い出は、小学3年生の運動会。

『グスタフスコール』だった。

手をつないだ男女4組が、それぞれ正方形の向かい合わせに立ち、

2組ずつが前進して、片足をチョンと出す踊りだ。

(ダンスを文章で表現するのって、難しい・・。)

その後は、6年生になって最後の運動会で、 『コロブチカ』を踊った。

そして中学になると、 林間学校(移動教室だったか)で、

『オクラホマミクサー』を踊る。

 

そして、高校も共学だった私は、 さらにその機会が増える。

体育祭や、文化祭の前夜祭というと、 必ずフォークダンスが登場した。

『マイム・マイム』か、オクラホマ・ミクサーだった。

高校ともなれば、当然『手をつなぎたい相手』がいる。

フォークダンスは、 合理的かつ芸術的に手をつなげる、絶好の手段だった。

 

しかし、マイム・マイムには欠点があった。

最後まで「両隣ずっと同じ相手」ということだ。

お気に入りの相手ならば、長く手をつないでいられるこの踊りは歓迎だ。

でも、もし逆だったら・・。

 

そして、次々に相手が変わるオクラホマミクサーにも欠点があった。

こちらは、一曲12~13人程度と代わる曲だ。

しかし、それだけに運・不運もあったりして、

『手をつなぎたい相手』に辿り着かない不満が出る。

 

高2の文化祭の時、 その不満を聞いた音楽の先生が提案する。

「それなら、全員と手をつなげるまで踊りましょう」

 

かくして、 前夜祭では、オクラホマミクサーを延々流し続けた。

だが、当時8クラス、男女とも180人ずつという我が校では、

全員回りきるところまで行かなかった。

でもこの時、『飽きた』という声は聞かれなかった。

延々と流れる曲は、次々に新しい相手がめぐって来る。

文句を言う者などいなかった。

マイム・マイムは1年生の時の文化祭で踊ったが、

もしかしたら、あの時も文句なんて出ていなかったのかもしれない。

フォークダンスって、そういう気持ちになれるのだろう。

 

 

マイム・マイムで、右隣でずっと手をにぎり続けたKさんは、

その後、私の子供と幼稚園が同じになりそこで再会する。

オクラホマミクサーで、一番最後に相手になったSさんは、

今、イギリスで暮らしているという。

 

フォークダンスは、ちょっぴり大人になった気がしたものだ。

異性との手の触れ合い。 相手への誠実な動作。

そして、指先の温かさから伝わる想い・・。

 

私は、幸せ者だったのかもしれない。 

 

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誰かの元へ旅立つ楽器

2010-05-28 16:25:21 | 音楽を聴く

娘が持っているトランペットを、このたび寄付することになった。

正確には私の弟が昔使っていたもので、それを娘が小学生の時、譲り受けたものだ。

娘は、なんとか音が出るまでになったが、 結局続けることはなかった。

私もトランペットは吹けないので、 そのまま押入れにしまっていた。

 

先日妻が、 知人のいるボランティア団体に預ければ、

世界の、楽器を買えない子供達に送られると聞いた。

そしてトランペットは我が家から離れていったのである。

世界の、どの国のどの子が手にするだろうか。

いや・・、本当に送られるのだろうか、という不安もある。

しかし、きっと三人目となる持ち主は現れるだろう。

 

映画でもよくあるが、 貧困や、病気の子供がひとつの楽器を手にしたことで、

のちに世界的なミュージシャンになるという話。

そんなストーリーが生まれるといいな、と思う。

 

私は子供のころ、バイオリンを習っていたが、

その教室では、代々生徒がお下がりを譲り受けていた。

バイオリンは、身体の大きさと共に新しいサイズになるわけだから、

当然そういう繋がりができていた。

 

最初に使ったものは、たしか私で5人目だった。

かなりボロボロという感じだったが、 先生の、

「お兄ちゃんお姉ちゃんたちが一生懸命練習してきたものだ」 という言葉は、

今も記憶に残る。

次に使ったものは、逆に新品だった。

これは、私の両親が買ってくれたものだ。

こちらはその後、教室で3人の生徒に渡ったという。

 

もうひとつ、私はピアノも持っていたが、

20年ほど前に、近所の女の子に譲った。

お母さんは私と同級生で幼なじみ。

『この子を将来、音大に入れたいの。だからピアノを譲って!』

そう頼まれて、譲ったものだった。

その子は、 お母さんの期待に応え、見事に名門・国立音大に進学。 私も嬉しかった。

そのピアノは今はさらにまた、 音大を目指す別の子が使っているらしい。

 

楽器の取り持つ縁。 高価な物だからこそ、

それを手にする人たちの想いを感じる。

トランペットと、 それを手にする人たちに幸あれ! 

 

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ソプラノvsアルト

2009-11-29 04:28:14 | 音楽を聴く

ヘンデル『メサイア』を聴いた。合唱団にいた時にも歌った曲だ。

 

メサイアは、ソプラノよりもアルトのメロディが好きである。

宗教曲は、低音の支えの部分に美しい旋律が多い。

メサイアも、アルトの力が大きい曲だ。

 

ソプラノとアルト。

ソプラノはどうしても華やかなイメージが強いし、アルトは地味な印象を受ける。

テノールとバスの関係とは、少し違う気がする。

女声の差は、聴いていて大きいのだ。

 

合唱団にいた時、 ソプラノに大学生の女の子がいた。 (ちなみに東大の子だった)

この子が学業のため何ヶ月か休団し、 また復帰した時、

団の規則により、ボイスチェックのパート試験を受けた。

ところが、高音域が綺麗に出なくなっていた。 そしてアルトに決まったのである。

するとこの子は、

「ずっとソプラノでやってきたので、アルトなら行きません。 このまま退団します」 と言ったのだ。

これを聞いたアルトのパートリーダーが怒った。 「アルトに来るのが、そんなに屈辱的なことですかっ!!」

 

まあ、この子の気持ちも解らなくもないが、 アルト側の気持ちもよくわかる。

ソプラノとアルトというと、この子の一件を思い出す。

 

第9を歌った時、 アルトのソリストが言った。

「第9では、アルトのソリストは『ギャラドロ』と呼ばれています。 そのくらい、ラク~な歌なんです」

そう言って笑ったのだ。

たしかに第9のアルトソロは目立たない。

 

ところで、 私はテノール、妻はソプラノをやっていた。

今、高1の娘も合唱部に入っているが、 なぜかアルトなのだ。

パートまでは、遺伝は関係ないのか・・??

娘は言う。

「アルトは楽。ソプラノなんてしょっちゅう怒られてるしぃ。

屈辱的? ぜーんぜん。なんでそんな考えになるのかしら」

 

ギャラドロで、なおかつ怒られない。

アルトは得なのか・・?

 

いや、私は昔いた合唱団の会報誌に、

『差し入れのお菓子はソプラノから回される』とコメントしたら、

どちらの女性方からも大笑いされた。

でも、今でもそのイメージは持っている。

 

 

とにかくソプラノとアルト。どちらが重要などという話ではない。

両方なければ、合唱にならないのだから・・。

 

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