日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

能勢妙見山(能勢町野間中)

2020-08-01 17:57:51 | 旅行
以前、ネットで北極星信仰について調べていた時、真っ先にヒットしたのが
「北極星信仰の世界的聖地」
と謳う「能勢妙見山」のサイトでした。
しかも能勢妙見山は日蓮宗の霊場と知り、いつか行ってみたいと思っていました。

今回、念願叶って訪問できました!


野間峠というバス停で降りると・・・



そこは妙見山の登山口です!


「妙見山」の扁額が掛かる大きな鳥居があります。
日蓮宗でありながら鳥居・・・神仏習合の時代の名残りですね。


耐寒夜行登山の記念碑です。

茨木高校の生徒達が真冬、高校~妙見山頂往復50kmを夜通し歩く行事で、大正14年以来ずっと、今も続いているそうです。
辛そ!でも思い出に残るんだろうな~!

僕も頑張って登ろう!



前夜、結構な風雨だったせいか、妙見山に至る道路は落ち葉や小枝が山盛り!
結構滑ります。



くねくね道を登り続け、やっとのことで境内に到着!!



ここにも大鳥居。
神様をお祀りしている聖地ということがわかります。


うわぁ、結構高いな~!
標高は600mを越えるそうです。



山門です。
ちょっと大陸の影響もありそうな、特徴的な形です。



大棟には能勢氏の家紋・切竹矢筈十字。


妙見山頂は兵庫県と大阪府の県境になっています。
両県にまたがっていると、役所対応が倍になって、いろいろ大変そう。



境内は山頂付近の傾斜地にあるため、狭いスペースに堂宇がひしめくように並んでいます。



寺務所のお堂です。
妙見山は祈祷や回向を目的とする参拝客が多いようで、こちらが受付になっています。ご首題の窓口もこちらです。



浄水堂、いわゆる手水をするお堂です。
江戸後期に大活躍した歌舞伎役者・四代目中村歌右衛門の寄進だといいます。
妙見様は芸を究める人々からも、信仰されてきた神様なんですね。



読経堂です。
数名のお上人方がずう~っと読経されていましたよ。



読経堂の正面には祖師堂があります。
献香が絶えないのでしょう、いい香りが漂います!


こちらが本殿(開運殿)です。
北辰妙見大菩薩がお祀りされる、妙見山の中心となるお堂です。



妙見山はもともと為楽(ためらく)山といい、星降りの伝説があったお山でした。
奈良時代、行基菩薩がここに北辰星をお祀りしたといいます。


平安時代になり、篤い北辰信仰を持つ多田満仲が、自宅に祀られていた鎮宅霊符神像を為楽山頂に遷座しました。

「鎮宅霊符神」というのは道教の世界の神様で、北極星や北斗七星(「北辰」と総称される)を神格化した存在です。
鎮宅霊符という護符を家にお祀りすると、災いを退けられると信じられていたそうです。
これが日本に入り、神道では星宮、仏教では妙見菩薩などと変容もしながら、人々に浸透してゆきました。



常に動く天空の中で、唯一不動な北極星と、常にそれに寄り添う北斗七星は、運命を支配する神様として、時の為政者や武将に特に信仰されてきました。


妙見山を開闢した多田満仲は、清和天皇の流れを汲む武将で、多田荘(今の兵庫県東部)を支配した「多田源氏の祖」といわれます。

満仲の孫・頼国の時代に一族は能勢に移り、これ以降、為楽山一帯の鎮宅霊符神信仰は、能勢氏により護られてきました。


時は巡り戦国時代、当地を治めたのは能勢頼次公です。
明智光秀とは親しいけど織田信長とは敵対するという、ビミョーな立場でした。

案の定、本能寺の変の後、秀吉に攻撃されてしまい、血縁を頼って命からがら備前へ逃れました。


備前では法華のお寺に身を寄せ、一族の再興を願ったそうです。

当時既に法華信仰が庶民にまで浸透していた備前で、能勢頼次公は法華経に深く帰依したといわれています。


慶長4(1599)年、頼次公はひょんなことから家康に重用されることになります。

翌年の関ヶ原では東軍として戦い、武功を挙げたことで、家康から能勢領を安堵されたのです。


一度は領地を追われ、遠い備前に身を寄せざるをえなかった。
しかしその備前でお題目に巡り会えた。
すると不思議なことに、次々に物事が好転してゆき、再び能勢領に戻ることが出来た・・・。

感謝の気持ちを何かの形でお返ししたい、という思いだったのでしょう、頼次公は京都本満寺から日乾上人を招き、能勢の土地を寄進しました。
妙見山の北麓にある、↑無漏山真如寺のルーツです。


妙見山の参道脇に、日乾上人のご尊像があります。

京都本満寺の8世だった日乾上人は、のちに身延山久遠寺の21世を継ぎ、日重上人、日遠上人とともに「身延山中興の三師」と崇められる傑僧です。


頼次公が日乾上人ほどの方を招聘できた背景には、備前法華のネットワークが働いたのではないかと思われます。

慶長8(1603)年、日乾上人は、能勢一族でお祀りしていた鎮宅霊符神を法華経で勧請し、妙見大菩薩として改めて為楽山頂にお祀りしました。
以来、このお山は「妙見山」と呼ばれ、今日まで清められてきました。



ちなみに妙見山は、無漏山真如寺の境外仏堂という位置付けになっています。
だから正真正銘のお寺です!!


妙見山の境内には馬のお像が沢山あります。
神馬(しんめ)ですね。

妙見様の乗り物は馬だということで、大切にされています。



と同時に、古来、馬は願い事を神様に運んでくれる有り難い存在だと信じられてきました。



だから絵馬なんですね!
妙見山の絵馬堂には、沢山の絵馬が奉納されています。


こんな香炉もありましたよ!
恐らく四神の玄武(亀と蛇)だと思われます。
 東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武と云われ、北辰を象徴する神様として、地味に貢献しています!


日蓮聖人のご尊像に合掌。
北極星信仰の聖地だからでしょうか、こちらのお像は北を向かれています。


日蓮聖人のご遺文を読んでいると、星に関する記述が多いのに気付きます。

例えば立正安国論には
「・・・二十八宿度を失い 金星 彗星 輪星 鬼星 火星 土星 風星 刁星 南斗 北斗 五鎮の大星 一切の国主星 三公星 百官星 是の如き諸星 各各変現するを 二の難と為すなり・・・」
と、いろんな星が出てきます。
日蓮聖人は世の中の動きを読む手段として、星を重視していたことがわかりますね。



日蓮聖人とご縁の深い千葉氏一族は、古くから篤い妙見信仰で有名ですし、
(↑画像は中山法華経寺の妙見堂)



立教開宗の聖地・清澄山↑は、その由緒に妙見様の伝説がありました。


ちょっと脱線しますが、このブログを書いている途中、鎌倉時代の妙見大菩薩像がよみうりランドに安置されているという情報を耳にしました。

興味をそそられ、よみうりランドの聖地公園にある妙見堂まで行ってきました!

中を覗くと、鎧を身につけ、体の中心で刀を構え、左手はピースサインをしている妙見様のお像がありました。
お像は正安3(1301)年に造られ、伊勢の常明寺にお祀りされていたそうです。


建長5(1253)年、比叡山や西国での修学を終えた蓮長法師が伊勢神宮(当時は伊勢大廟)に参拝するため、しばらく参籠し、身を清めたのが、天台宗の常明寺でした。

常明寺は廃寺になってしまいましたが、その場所は↑日蓮聖人誓いの井戸として、今も現地の信徒さんによって清められています。



よみうりランドのお像は正安3(1301)年ということで、日蓮聖人の時代と少しズレはしますが、恐らく蓮長法師が参籠されていた当時から、常明寺には妙見信仰はあったのではないかと、僕は思います。
(↑画像は、伊勢・誓いの井戸の由緒看板)

こう見てゆくと、日蓮聖人の周辺には常に、妙見様の気配があったのですね!


話を戻しましょう。
冒頭の登山口にあった大鳥居をはじめ、妙見山の境内には「能勢頼直」公の名前をよく見かけます。
頼直公は江戸中期の能勢家当主の方で、本殿の再建もされています。
現在の妙見山の寺容(っていうのかな?)は、この時代に整えられたものと思われます。
また、頼直公が能勢家の江戸屋敷にお祀りした妙見様のお像は、江戸町衆の信仰を集め、現在も妙見山東京別院として続いているそうです。
是非、訪問してみたいものです。



江戸時代以降、能勢妙見山は西日本妙見信仰の「不動のセンター」を務めてきました。まさに北極星、北辰のようですね!



平成10年には桐竹矢筈十字紋を模った、ド迫力の信徒会館が建ちました。
新たな時代の信仰拠点となりそうです。



おいしいもの発見!
境内を歩くうちに、北極星信仰のハードルがどんどん下がってきます。
また来たくなりました!



さあ、帰ろう。
早速今晩、北の空を眺めてみようっと。
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