深夜のドキュメンタリー番組で、アメリカの、クレーショー高校というところの合唱部の話が特集されていた。
指導者はIris Stevensonさんという女性で、おそらく映画『天使にラブソングを』でウーピー・ゴールドバーグがやった役は彼女がモデルなんだろうと思った。
部員の高校生たちの置かれた生活環境は、けっしてよいものとは言えない。
ギャングの犯罪が横行する街で、部員たちの中にも元少年ギャングって子がけっこういる。
アメリカ人の生活というと中流階級以上のものがすぐに思い浮かび、それは多くの日本人の生活と似たイメージが、わたしにはあるけど、この高校近辺の環境はいわゆるスラム的なもので、中流階級とはだいぶちがう。エミネムの映画みたい。
たとえば銃犯罪の危険に日常的にさらされていたりする。
そういう中で個々に問題を抱えた生徒たちをアイリス先生(Big Mamaと呼ばれる呼び名があまりにも似合う)が音楽を通して更生させていってる。(ゴスペルはキリスト教系の音楽なので、活動は信仰の場にもなっているようだった。)
中には黒人特有の難病を抱えた18歳の女の子がいて、20代で亡くなる可能性が高いとかなのに、彼女の表情が明るくて「死ぬのを待ってはいられない」って笑顔で言って、つらい治療を続けてて、見ていて泣いてしまった。
泣いてしまったけど、最近気づいたことがあって、この涙は同情じゃなくて、深い共感や感動からくるものだと自分に言い聞かせた。
最近気づいたことっていうのは、世界にはそれぞれにいろんな問題で困っている人たちがいる。
病気で困ってる人。
食糧難で困ってる人。
紛争で困ってる人。
教育が受けられなくて困ってる人。
対人関係で困ってる人。
家庭環境で困ってる人。
うつで困ってる人。
いろいろ。
前まで、わたしはちょっと勘違いをしてた。
食べる物がなかったり、紛争の中にいたりして困ってる人たちをテレビとかで見ると、‘あぁ、自分は食べる物もあるし、身の安全もかなり約束されているから、日常に不満を持つなんてよくないなぁ、もっと感謝しなくちゃ’とか‘あの人たちがかわいそう’とか、まぁ、シンプルに言ってしまえばそういう気分を抱いてしまっていた。
それって、たぶん、ちがうんだ。 みんな、それぞれの場で、それぞれの問題を抱えていて、それぞれに真剣に対応しようとしている。
恵まれた環境に感謝することは大切だけど、それは人と比べてであってではならない。
みんな、それぞれの場でがんばってる。上も下もない。
困ってる人を手助けしましょうっていうのはすごくいいことだけど、それはその人たちがわたしたちよりかわいそうだからじゃない。
援助する側に、される側の必要なものがあって、その不均衡を埋めようと思うから、援助するんだ。
人の幸不幸って見た目からじゃ判断できない。
それはその人の心が決めるものだ。
前向きさとか、明るさとか、やさしさとか、強さとかが、人に幸せを感じさせるんだと思う。
月並みなようだけど、実際に。
食べ物とか住む場所とかに困ってなくても、たとえば、人とうまくやれなくてつらい思いをしてる人とか、わたしみたいに、自分で理由さえよくわからずに精神的に参ってしまって、人生やめたい、とか、消えてしまいたい、とか思ってしまう人もけっこういる。(わたしは最近はけっこう元気だけど。)
そういう、それぞれの環境をどういうふうに捉えて、どういうふうな思いで生きていくか。多分、すべてはそこに懸かってるんだと思う。
どう見えるかじゃない。
見た目とか、学歴とか、才能とか、じゃない。
どう感じるか。
どう思うか。
どう考えるか。
そういうことなんだ。
だから、卑屈になる必要もないし、高ぶる必要もない。
自分の人生、ひとつでも愛せる部分があったら、もうそれでしあわせ。
たぶん、そうなんだと思う。
指導者はIris Stevensonさんという女性で、おそらく映画『天使にラブソングを』でウーピー・ゴールドバーグがやった役は彼女がモデルなんだろうと思った。
部員の高校生たちの置かれた生活環境は、けっしてよいものとは言えない。
ギャングの犯罪が横行する街で、部員たちの中にも元少年ギャングって子がけっこういる。
アメリカ人の生活というと中流階級以上のものがすぐに思い浮かび、それは多くの日本人の生活と似たイメージが、わたしにはあるけど、この高校近辺の環境はいわゆるスラム的なもので、中流階級とはだいぶちがう。エミネムの映画みたい。
たとえば銃犯罪の危険に日常的にさらされていたりする。
そういう中で個々に問題を抱えた生徒たちをアイリス先生(Big Mamaと呼ばれる呼び名があまりにも似合う)が音楽を通して更生させていってる。(ゴスペルはキリスト教系の音楽なので、活動は信仰の場にもなっているようだった。)
中には黒人特有の難病を抱えた18歳の女の子がいて、20代で亡くなる可能性が高いとかなのに、彼女の表情が明るくて「死ぬのを待ってはいられない」って笑顔で言って、つらい治療を続けてて、見ていて泣いてしまった。
泣いてしまったけど、最近気づいたことがあって、この涙は同情じゃなくて、深い共感や感動からくるものだと自分に言い聞かせた。
最近気づいたことっていうのは、世界にはそれぞれにいろんな問題で困っている人たちがいる。
病気で困ってる人。
食糧難で困ってる人。
紛争で困ってる人。
教育が受けられなくて困ってる人。
対人関係で困ってる人。
家庭環境で困ってる人。
うつで困ってる人。
いろいろ。
前まで、わたしはちょっと勘違いをしてた。
食べる物がなかったり、紛争の中にいたりして困ってる人たちをテレビとかで見ると、‘あぁ、自分は食べる物もあるし、身の安全もかなり約束されているから、日常に不満を持つなんてよくないなぁ、もっと感謝しなくちゃ’とか‘あの人たちがかわいそう’とか、まぁ、シンプルに言ってしまえばそういう気分を抱いてしまっていた。
それって、たぶん、ちがうんだ。 みんな、それぞれの場で、それぞれの問題を抱えていて、それぞれに真剣に対応しようとしている。
恵まれた環境に感謝することは大切だけど、それは人と比べてであってではならない。
みんな、それぞれの場でがんばってる。上も下もない。
困ってる人を手助けしましょうっていうのはすごくいいことだけど、それはその人たちがわたしたちよりかわいそうだからじゃない。
援助する側に、される側の必要なものがあって、その不均衡を埋めようと思うから、援助するんだ。
人の幸不幸って見た目からじゃ判断できない。
それはその人の心が決めるものだ。
前向きさとか、明るさとか、やさしさとか、強さとかが、人に幸せを感じさせるんだと思う。
月並みなようだけど、実際に。
食べ物とか住む場所とかに困ってなくても、たとえば、人とうまくやれなくてつらい思いをしてる人とか、わたしみたいに、自分で理由さえよくわからずに精神的に参ってしまって、人生やめたい、とか、消えてしまいたい、とか思ってしまう人もけっこういる。(わたしは最近はけっこう元気だけど。)
そういう、それぞれの環境をどういうふうに捉えて、どういうふうな思いで生きていくか。多分、すべてはそこに懸かってるんだと思う。
どう見えるかじゃない。
見た目とか、学歴とか、才能とか、じゃない。
どう感じるか。
どう思うか。
どう考えるか。
そういうことなんだ。
だから、卑屈になる必要もないし、高ぶる必要もない。
自分の人生、ひとつでも愛せる部分があったら、もうそれでしあわせ。
たぶん、そうなんだと思う。