自分の過去のブログ読んで、「へぇ~、そういう意見もあるんだ~」って思った。
1ヶ月前とも考えが変わってる。
あぁ、そうだ。
むかし師に「3日前と言ってること違うよ」ってよく言われたけど、「3日前」は関西人特有の誇張にしても、たしかに言ってることは違う。
なんだか自分自身に関する謎がひとつ解けつつある。
一貫性がないわけではなくて、変わってしまうんだ。
それは移り気じゃなくて成長なんだと思うんだけど。(ある考えが進化して変化していくので、一貫性はある。)
移り気なのかなぁ?
良い言い方をすれば、「頭の回転が早い」んだと思う。
よくもわるくも。
ADHD的にね。
自分で話しているところをビデオに撮って見てそれがよくわかったんだけど、文章でもそうなのね。
私のかん黙(やだぁ。スマホのメール機能でブログ書いてるんだけど、漢字が出ない。押し黙ってしまって発声できなくなる、かん黙のことです。)やライターズ・ブロック(writer's block:物書きが心的原因で文章を書けなくなってしまうこと)の原因のひとつだと思う。
声に出す前に、文字を打つ前に、最初に思いついたことに対する反例を思いついてしまって、最初の思いつきを発信できなくなってしまう。
そして、次の反例に対する反例などいろいろ考えてから、ようやく言葉にしてよいように感じるが、その時点でどうしてそこに至ったかの説明が非常に長々と必要になっている(あるいは、なっているように思われる)ので、ますますそのための時間を人に割いてもらうのが気が悪くて、言葉を発せなくなる。
というのが内的構造だな。
最近、ライターズ・ブロックに関しては“free writing”(Elbow 1981)という手法を見つけて実践しはじめ、「もしや、これで博論までも書けるかもしれない」と思い始めてる。
10分なら10分、時間を決めて、その間はまったく構成のことなど考えずに、ひたすらに思いつくことを書く、という方法だ。
批判はあるらしいけど、私には合っている。
前、「毎日、何時から何時までは書く、ということを決めてスケジューリングしよう」という本(Silvia 2008)もよかったけど、より具体的な書き方に言及したfree writingは、より効果があった。
・人の悪口と、研究を進めるアイディアが渾然とするブログ。
いかがでしょう?
それが人間だし、生活。
ほら、専門化より分野横断化によってこそ真理に近づけるようだという現在の潮流にもあってるでしょう?
という、こじつけ。
いかがでしょう!
文章を書くのがニガテな私が、いかに博士論文を書くか、というドキュメントを今後、書いて行きたいと思います。
小学校の作文さえニガテだった私が。
修論にも4年かかった私が。
自分の執筆に関する行動をよく観察して、どういう刺激が執筆行動を促進するか、見つけていきたいと思います。
何ができていないのか。
まずは、いかに「感想文」がニガテかという話。
・小学生の頃、読書感想文がとてもとてもとてもきらいだった。
ともかく決められたテーマで文章を書くというのが、死ぬほどきらいだ。
「ことば」というものは好きだし、何も思わずに生きているわけでもない。
本を読むのはきらいじゃなかった。
数字を積み重ねるのが好きなこともあって、高学年の時のクラスで読んだページ数を競う取り組みが行なわれた時には、ひとりだけ桁が違って、自分でも引いた。
それでも「好き」ではなく「きらいじゃない」というのは、家族に「学校の図書室の本は全部読んだ」と得意げに語る人たちが約2名ほどいて、私はそれほどには読まないので「きらいじゃない」の表現になる。
そして「本の感想は?」と聞かれたら、パニックになってしまう。
内容の羅列になってしまう。
いちばんいやだったのは、課題図書。
せめて興味のある内容を読ませてほしかった。
与えられた感が、押し付けられた感が、私にアレルギーを起こさせてしまう。
プレッシャーだった。
答えがあるような気がして、何か求められているものがあるんだろうという感じがとてもとてもいやだった。
・高校の頃、体育の授業では専用のノートが配布されていて、毎回、感想を書く仕様になっていた。
ほんの一言、文単位で言えば3文もあれば埋まるようなスペースを埋めることが毎回、苦痛で苦痛でしかたなかった。
それで余計に「自分はこんな数行も書けないのか」という自己意識を強くしたな。
しかし、まず「感想」がきらいということと、体育がニガテということと、担当の体育の先生がめちゃくちゃこわくて仕方なかったということを鑑みれば、文章だけの問題でもない。
ということに、いま気がつきました。
体育はいつもものすごくいやな気持ちでやっていて、でもその「いやです」というのを小学生だったらまだ書けたかもしれないけど、高校生なのでそういうことを書くのはよくないという認識もさすがにあるので、その中での葛藤だった気がするな。
・「感想がニガテ」というのは、いろんな研究会に出ていても、特に何も意見を言いたくなることもなく終わるということに通じている。
もう何年も。
最初の頃より、すこぉしましになってきているとは思うけど。
いろんなことが「あぁ、そうなんだ」なんだよね。
「あぁ、そうですか」と。
そういう場面で堂々と自分の無知を晒せる人がいて、そういう人がとてもニガテだった。
私も洞察の深いことはもちろん言えないので、できることがあるとすれば自分の無知を晒した質問をすることなのだが、それがとてもとてもいやだった。
だから、そういうことができる人にとても嫌悪感を感じてきた。
結局、そういう人の方が何も言わない私より多くを学んで行っている。
質問に対して返答があるので、そこで学習できるんだ。
ひとつには、自分がアホなことを言うのがいやなんだな。
恥の意識が強い。
言いたい気持ちが弱い。
あまり感想を持たない。
ピンとこない。
感想って、なんだよ?
へぇ〜〜、っていう気持ち以外、何があるの?
簡単に言えば、私は本物のアホなのではある。
しかも恥じらいのあるアホだからアホの本分さえ果たしていない。
話し始められたとしても、なかなかまとまらない。
まとまらない理由に、途中で自分の言葉の文(あや)にひっかかって、あまり関係のないことを思い出し、脱線して本題に戻れなくなる、ということがある。
意識して、本題に戻る必要がある。
文章なら多分もうすこしましで、思いついたらまず全部書いて、あとから脱線している部分を削ればいい。
メタ的にやっていきましょう。
・あぁ、そうだ。
もっとぐちゃぐちゃの、べちゃべちゃにしていいんだ。
文章を。
もっと断片的でいいんだ。
私の方法として。
断片を並べて、その並べ方で、ぜんぜん別の形がつくれるでしょう?
その形のつくり方に、自分のセンスを反映できるわけでしょう?
もっと好きなふうでいいんだ。
多分、ひとつには、線形がきらい、というのがある。
一列に自分の言いたいことを並べるなんて。
とてもニガテ。
あぁ、400字詰めの原稿用紙の姿がまざまざと思い起こされる。
もっと私の世界はぐにゃぐにゃで。
アメーバみたいのがうようよしているイメージなの。
ふわふわふわふわ、アイディアたちが浮遊しているイメージなの。
それが勝手に大きくなったり、消滅したり。
まじったり、わかれたり、ね。
かっこつけて、モジュール制とでも言おうかしら。
重なり合って、でも半透明で、むこうが見えたりね。
それらの塊まりのいくつかを、外に出すのでしょう?
なるほど。
外気に晒して行くわけね。
どの子だったら、なんとか生き延びていけるかしら?
外に出たい子はいるかしら?
出たくない子をムリに行かせるのはよくないのよ。
私の中で十分に育てられたかってことよね。
十分に栄養を与えられたか。
ちゃんと食べたかい?
いや、そもそも食べさせてあげてないかも。
・・・もしかして、外に出て、私といては食べられないごちそうを食べたいと思っているの?
そうなのかい?
そうなのかい、my idea?
ちょっと考える。
きらきらと頭の中にかがやくもの。
そういうちいさなきらきらを発信していきたい。
いつかそのうち
といったん思ってから、
望んだ瞬間からもう始まってる
と思い出す。
論文で、先行研究をまとめたりする時だけど。
特に、日本語で、ってむずかしい。
やったことないけど。
先人の著書を読んで、そう感じる。
‘あっ、その表現は、公平な感じがしないな’って思っても、自分が公平な表現で書き切れるかって考えると、人の批判とか、しにくくなりますね。
まぁ、批判しにくくても、問題がないフリはできないわけだけど。
やっぱりお互いに次のレベルに行きたいじゃないですか。
私は、この断続的な苛立ちから、何を学びうるか。
‘美的センスがないんじゃないの?’と思ったのは、自分に向けられてる?
たしかに作品を美しいものにしたいけど、自分の力が現時点では足りない気がしてる。
‘ほめべただなぁ’と思うのは、自分もそうだから?
まぁ、それはあるな。
相手に指摘されてることは、図星?
いや、まちがってはいないけど、本質的でないような気がする。
自分は本質的な議論ができてる?
自分にとって、本質とは?
あ、それ。
それ、大事な部分。