思索

2008-06-19 17:02:46 | デリダ
自分に何ができるだろう。

もう何もできないとは思わない。

わたしも生きてるみたいだから。それなりに生きてきたみたいだから。

世界はどこに向かっているのだろう。

わたしたちは世界をどこに向かわすのだろう。

答えは出るのだと思ってた。
いや、出たのだと教えられた。子どもの頃には。

その教育の不正確さに、ここ一年はうらみに近い、やり切れない思いを抱いていたけど、今はそうは思わない。

わたしも許すことを学びつつある。
(デリダに言わせれば、ゆるす権利なんてわたしにはないのかもしれないけど。)
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ミラクル

2008-03-28 22:48:10 | デリダ
デリダが生涯、正気であり続けたようだということは、やっぱり奇跡みたいなことだと思う。

そもそも正気ってどう保たれているんだろう。

(こういうことを言い出すと、‘普通ってなんだ’っていう議論にも近寄っていく感じがするけど。)


自分はだいたいボーダーに位置していると思ってきた。

(だから「越境を果たす者」でもあり得るとも。)

ある種、トリックスター的な立ち位置。何か常識をやぶる存在。

‘トラブルメーカーは、ミラクルメーカーになり得るんだよ。’

自分にそう言い聞かせてきた。

おりこうさんを装ったって、すぐについて行けなくなるのが、まず自分に、それから周囲に、わかってしまうんだから。
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「本物」へのこだわり。

2008-02-20 14:54:15 | デリダ
気づいたんだけど、‘仮の設定’っていうのが苦手みたいだ。

学部生も出席するような入門の授業とかでレジュメを作って発表する時は、けっこう面白がって(楽しんで)やっていることが多くて、あとで、好評だったよ、なんて言っていただけたりもする。

ゼミとか勉強会とかだと、先生や先輩相手になるので、ダメだ。
‘だって、私より分野のこと、わかってる人ばっかじゃん!
どうしてそんな人達に、ぺーぺーの私が説明しなきゃならないの?
バカみたい。バカみたい。’
ってどうしても、そういう子どもっぽい考えを抜け切らない。そんなこと考えて、うまく立ち回れない方がよっぽどバカみたいなんだけど。

人数が少ないと緊張する(=不特定多数に向かう方が得意だ)、ということに加えて、ゼミでのパフォーマンスがまずいのはそういう理由もあるみたいだ。

本物じゃないと納得しない、っていうのは、けっこう一貫している。

基本的に本は原書で読みたいと思ったのは、中学生の時だった。
と言っても、外国語は英語しか読めないので、せめて原語が英語の本は英語で読むことにした。そうすると、訳書を見つけても、‘原書で読まなきゃ’って思うので、それが手に入るまでけっこう時間がかかってめんどくさい。でも、そのめんどくささより、訳書で読む気持ちわるさの方がわたしの中で勝ってしまうんだ。

最近、ジャック=デリダの訳書を手にするたびに‘フランス語、勉強しなきゃ’って思う。もちろん、訳者の方が真剣にひとつひとつの訳語を考えて選んで翻訳を作っててくださるのはとてもありがたいことなんだけど、わたしが直接、デリダのことばに触れて感じることは別のことかもしれない。それは、訳書より不正確な解釈である可能性が高いけど、それがわたしにとってのデリダになりうるっていうか。別の人のフィルターを通してしかデリダに触れられないのは、もうイヤなんだ…。

そういう自分のこだわりをできる限りでは、貫くのもひとつの方法かなと思ってる。努力するのは自分なんだし(仏語を身につけることとか)。

だけど、ゼミの件に関しては、考え方変えた方が正解だろうな。
論文を輪読するにしても、自分がレポーター(報告者)になったら、自分がその論文に関しては一番よくわかってるつもりで行くとか。もちろん、よくわからなかったので一緒に考えさせてください、っていうのもありだけど。
あぁ、そうだ。実際、どこを先生と議論したいか、ピンポイントでもいいから(わたしは本当に細かい所にこだわる、だいたい質問がいつもピンポイントすぎる、自分でわかってても気になるのでやめられない)自分の中で挙げていくことかな。どうして、それが気になるのか言葉にして考えていくこと。
ほんまに先生と一対一で話すこと自体、異常な緊張を誘うんだけど、そのことはもう伝えてあるので、その中でもやらなあかんことはやらなあかんし、その上でやれることをやっていくだけなんやもんね。

納得しないと動けない。納得したら動ける。
納得して動けるんやったら、納得の仕方を工夫する。
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デリダ、越境

2007-12-23 01:03:29 | デリダ
さんざん、自と他の差が問題だ、ということを言ってきた(つもり)だけど、デリダの前では、そういう明確な‘内’と‘外’というのはなくなるらしい。

でも、一応、境界はあるだろうという世間の前提の上に立ったとき、デリダはその境界を越える「到来者」の到来を予言するんだって。まぁ、立ち読みしてきた本の受け売りだけど。


‘越境’(という表現が正しいかはわかんないけど)もまた、ひとつの大きなテーマだ。

たとえば、わたしはつい最近まで、四年間ほど複数の要因からつらい時期を過ごしたと思っているけど、そのつらい時期を抜けると、それまで見えてなかったものが見えるようになった。

(文字通り、なぜか視野も実際広がったんだけど…人体の不思議、)考え方・感じ方がすごく変わって、以前、いかに、あまりにも単純化された図式にあてはめて世界や自分を見ていたかということが身にしみて感じられる。

簡単に言えば、幼かったということですが。

そういうふうに、経験によってまなび、新しい見方を身につけるたびに、人は‘越境’を果たしているんだと思う。

そういうところに、生きて生かされていることの醍醐味がある。

考え方が変わるというのは、ひとつのものが単に様態を変化させるだけでなくて、それまでの在り方の上に、新しい考え方が加わるということが大事だ。

それも、新しい考え方が、プラスになるというより、「それまでのすべての考え方×新しい考え方」っていうかけ算なんだと思う。


すごいなぁ。可能性は、限りなく無限に近いなぁ。
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嘘をつくための能力

2007-12-17 14:12:13 | デリダ
(デリダの話が続いて、哲学に興味のない方には退屈かもわからなくて、申し訳ないのですが…)

デリダのインタビュー集『言葉にのって』(ちくま学芸文庫)で、「嘘」に関する記述があったので、タイムリーだなと(勝手に)思ったので、引用してしまいます。

「真実を話すためには、誠実であるためには、嘘をつくことができなければなりません。嘘をつくことができない存在なら、正直であることも誠実であることもできません。こうした可能性の概念は根本的なものです。」(p.150)

…うわぁ、そうだわ。

わたしが普段、嘘をつかないのは、誠実だからというより、嘘をつけないからだわ。意思を持ってそうする以上に、そうすること能わずってことなんだわ。

それを見て誠実だと思ってくださる方がいるのはありがたいこと。

ありがたいけど、わたし自身としては本当は、単に嘘をつくだけの器量がなくてそういうふうになっているだけなのだから、自分は正直者でエライとかは思えないし、思ってもいけないんだと思う。

まぁ、でも結果を重視する見方というのもあって、可能性の有無に関わらず、結果的に虚偽の発言が為されなかったのなら、それでいいってことは言える。

それこそ先日持ち出した、multiple realization(多様な実現化)の概念を思い出す。そう。結果は同じ。でもそこに至る過程が違う。どこまで結果を重視するのか、過程が大事なのか。それは時と場合によるのだろう。

ふぅんん…。たしかに正しさというのは、常に変化しているものだと思う。

ところで、昨日のReedの「言語を使うことで、人は嘘をつけるようになる」というのを思い出すと、いくら不器用なわたしでも、言語使用ができている限りにおいて嘘をつける能力は持ち合わせていることになる。だとすれば、その意味においてわたしは正直者と呼ばれるに値することになるのか。あるいは、わたしが嘘をつけないというのが嘘だということか。

まぁ、なんにしたって、程度問題なんですが。
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デリダ、プチ・パラドックス

2007-12-16 18:16:13 | デリダ
デリダの著作より、インタビューの言葉に惹かれることが多い。

書き言葉を探求した人の、話し言葉。

それに魅力を感じることの不思議。


「書き言葉は死んだ言葉だ」という言説がある中で、あるいはその上で、書き言葉を研究対象にした人。

死を見つめることでしか、生を実感できない人なのかなぁとか思って。

最初はそれをせつなく思っていた。わたしも、それに近いし。

だけど、最近、死というのは人間にとって生以上に根源的なものかもしれない、という考えが浮かんできて、じゃあ、デリダは根源的な問題に取り組んだ人なのだな、と思って、安心している。
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ジャック=デリダ

2007-11-23 14:01:39 | デリダ
憧れの人。
(名前からして、好き)

かつ、そのことばに共感してしまう人。
(共感なんて、自分勝手なものだ。)


去年、デリダを読む授業に数回出たけど、フランス語が理解できなくて途中で断念してしまった。哲学の知識も乏しいし。

だけど、いつかこの人に近づきたい。もうこの世にいない人だけど、ことばはたくさん残されている。


修論が終わったら、フランス語の勉強をしよう。

わたしにフランス語が読めないと思って(意味はわからなくても発音だけはできる。仏語の綴りは規則的だから。)、去年、わたしに音読をあててくれなかった仏文学者の先生の前で、にこやかにデリダを朗読したい。

来年、デリダの授業、あるかなぁ。


現実がきびしいと、夢はふくらむなぁ。
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