決めつける前に

2019-03-15 00:08:10 | Weblog

冷たい気持ちがあってどうしてかわからない。

とりあえず書いてみる。

アウティング事件のこと。

亡くなった子はすごくかわいそうだし、大学の対応は改善されるべきだし、そのままにしてはたくさんの若いLGBTQがまた一歩希望から遠避かる。


なのにこの事件に関して個人的な感情としてはどうもわたしはアウティングされた子よりしてしまった子の方に共感してしまうんだよな。

うーん。

自分の経験として、自分のセクシャルオリエンテーションに合致しない相手から好意を抱かれるのって感情的にきつい体験だから。

アウティングしちゃった子は、相手の子のセクシャリティに対して嫌悪感を抱いたというより、自分が好かれていることに嫌悪感を抱いたんじゃないかと思ってしまうんだな。

だからアウティングしていいのかっていうとだめなんだけど。

多分すごく人によると思うんだけど、わたしは女で同性愛者で、ストレート男性に好かれるのがめちゃくちゃ嫌いなんだよ。

人間として好かれるのはとっても嬉しいけど、恋愛感情となると「キエーーー」と奇声を発して逃げ出したくなる。

(なので過去にわたしが好かれても平気だった男性はクィアだったんだろうと思っている。)

この感覚って多分本当に人によるんだろうな。

モテたいって言う人は、自分が好きじゃない相手に好かれてもOKってことだから生物として強い感じがする。

わたしは無理だわ。

好きな人にしか好かれたくない。

この辺が若い頃Aセクとかデミセクとか自認していた所以だけど、いまでもその感覚は強い。


書いてみて思ったけど、結局、同性愛者で括ってみても個人によって感覚はばらばらってことだよなぁ。

一人一セクシュアリティー的な。

みーんなクィア的な。

Take it away!

ましてやトランスの子とはまた全然経験が違っていて、LGBTが一枚岩になりようがないのは当然なんだ。

(10年くらい前、杉山文野さんの『ダブルハピネス』で、「学生の頃、親に女同士でいちゃいちゃしてると思われたけど自分はレズじゃないんだ!」って語気強く書いてある部分に傷ついたりした。)

だからこその多様性への寛容とヒューマニティへの誓いだな。

ともかく人命第一、人権第一。

自分の抱きやすい感情やそれによって分断される立場とはレベルの違うところに焦点はある。

(うーん。やっぱりわし日本語へた。っていうか言語表現がへた。)

(ことばを覚えるのを小学校高学年でやめてしまってる。)


考えてたけど、アウティングの問題をあまり問題に感じられないのはわたしがフェムレズビアンだというのも関係していて、カミングアウトしても「思いもしなかった!」という反応をされるからなんだよなぁ。

気に入られてしまった男性に、言ったことはないけどたとえカミングアウトしても信じてもらえないだろうという気はかなりする。

女性同性愛者あるいは両性愛者は不可視化されることが多くて、そちらに対する苛立ちが強い。

だから男の子のゲイの子の置かれている、女性とはまた別の厳しい現実というのがわかっていないように思う。

ビアンでもボーイッシュな子だとまたちょっと違う経験をしているのかもしれないけど。

ほんっと、わたしって「平凡な女性」の容姿をしているんだよ。

だいぶ嫌なんだけど。

誰もわたしのセクシャリティを疑ってもくれなくて、小学生の頃からずっとイライラしてきた。

(中学の時ひとり、高校の時ひとり、そういえば疑ってくれた友達がいたな。中学の時の子は多分その子もクィアだったんだろうと思うし、高校の時の子は男性関係が派手な子でセクシャリティに敏感だったんだろうと思う。)

その人を形作っているものって他人には想像もつかなかったりする。

だからまあ、誰のことも人には想像のつかない部分があるという想像はしていようと思うんだ。

それからいろんな社会的イシューにふれるようにしておくことも大事だし。


反射的な感情があまり望ましいものでなかったら自分を責めるんじゃなくて理由を考えてみることだな。

自分を責めることほど時間のむだはないしね。

それもやり倒して分かったことだけど。


頭は使うためにある。

 

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あの日のあなた

2019-03-11 22:55:27 | Weblog

30代も後半になりまして、ここ数年、自分が子供の頃の母親を自分の中に見ることがとても多い。

そういうことやったんか!というものばかり。

どうでもいいことをひとつ書きたかったんだけど、私が子供の頃、母は仕事(と宗教活動)から帰ってきて「ちょっと待って。ストッキングだけ早く脱ぎたい。あー、解放されるー!あー、疲れてるー!」とよく言っていた。

いちおううっすら微笑みながら心の中で“うるさい人やなぁ”と思っていたのが、今同じごとをしている。

わたしは人前では無音になる子供だったので、どういう仕組みであんなにうるさくなってるんやろうと思っていたのが、今はそりゃそーだ、生きて行くには雑音立ててなんやかんや言って自分を盛り立てていくしかない!そりゃ日常的にかっこよくなんかいられへんっちゅうの!というのをしみじみ感じている。

なんかね、大人になった気がしている。

まだ分からないけど。

まあ、自信なんて日々生まれては死んでいく。

Reincarnationだよ。

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