聴覚過敏ましになったかも、なんて年末に書いた覚えがあるんですが、ぜんぜんでした。
絶賛公開中でした。
今日は大○屋でしにそうになった。
隣の人の食事音に。
わたしがうでっぷしの強い男性だったりしたら、聴覚過敏ゆえに傷害事件のひとつやふたつ起こしていても不思議じゃない、というくらいの、制御不能な苛立ちとつらさです。
それはもう身体的なつらさ。
なんかね、内蔵つかまれてぐにぐにされてるみたいな。
頭よりも内蔵に響く感じですね、わたしは。
耳栓でも防ぎきらん。
別に何もインフォーマティブなことは書かないのですが。
私にとって感覚過敏といえば聴覚過敏、そして冬は感覚過敏の季節、というのが定番で変わらない事実だと思っていました。
ところが今年ある変化が。
なぜか聴覚過敏の症状より、嗅覚過敏らしき症状が明確化してきたのです。
聴覚過敏が治ってるとも思えないけど、最近はいやな音よりいやな臭いが気になる。
びっくり。
大台にのるって体質変化も含意してるの?
最初、自分の鼻がくさいのかと思っちゃったけど、どうしてなかなか。
まぁ、自分的にはいまのところ聴覚過敏よりつらくないです。
なんていうか、小さな音がうるさいって言うよりちょっとした臭いがくさいって言う方が人の同意は獲られそうだし。
音はイライラするけど、臭いは萎えるじゃん。
イライラしてる人より気が萎えてる人の方がまだ余裕は感じるかな、なんて。
なにはともあれ、変わらないと思っていたつらいことに変化があったというのは、まずまずうれしいことです。
ひさしぶりに聴覚過敏ばなし。
新幹線に乗っていたら、右斜め2列前からはPCのキーボードを打つ音、真後ろからは携帯ボタンの連打音。
まだ音の質的に我慢できそうだったので、1列分、PCに近づき、携帯から離れた。
睡眠時間が短い日は聴覚過敏は顕著になり、音に殺される!ってくらいつらいので、今日の私としては決死の覚悟である。
どうやら賭けは吉と出た。
この聴覚過敏が始まったのは物心ついてからずっとだと思っていたけど、最近、小学3年生のときからかもしれないと思い当たることがあった。
あ、いや、それは食事音にたいしてだな。
謎の体調不良で1、2週間食べ物を受け付けなかったときがあった。
わりと衰弱しましてね。
いくつの頃か覚えてないが囁き声がだめで、特にサ行とカ行がだめだった。
いまでもヒソヒソ話は好きじゃないが、当時のつらさは本当に内蔵、特に膀胱が締め付けられる感じで、癇癪寸前で涙を流すか、癇癪を起こして大泣きをしていた。
あぁ、あの膀胱にくる感じは無くなったな、だいぶ。
いまは頭に響く感じかな。
あと胸とか胃にくる感じ。
だったらいつも耳栓かイヤホンしてたら?って感じだけど、それらの圧迫感もあんまり好きでないのね。
だから身につかない。
あ、今度はPCさんが連打期に入ったみたい…。
携帯電話のボタンをカチカチする音が聴覚過敏的にダメなので、スマートフォンが流行ったことに感謝しています。
そういう私はまだカチカチ系携帯。
自分が発する音はどうなんだとたまにつっこまれますが、自分発信だと八割がた平気です。
距離や位置が関係してると思われ。
子供のころは自分のは大丈夫というと自己中心性の表れだと思い、わるい子だと自虐行為に走りましたが、いまはそもそも人間は自己中心的と思われるような性質を備えていると考えています。
現実を捉えるにはひらきなおりも必要。
睡眠が足りないと、顕著です。
わたしは、どうも左耳の方が特に感覚過敏の傾向が強いようで、左斜めうしろから聞こえてくる音を最も不得意とします。
あと、思うんだけど、冬につらいことが多いんだけど、空気の関係かなぁ。体調の関係かなぁ。
冬って、電車の中でガム噛んでる人が増えて、それで‘あぁ~、音に殺されるぅ~!!’って思いながら泣いてたことがけっこうあった。(ああいう時は、涙を流さないとどうしようもありませんね。そうでなければ、癇癪を起こすか。)
昨日、左の方向、1.5~2メートルくらいの距離でガムを噛んでるおじさんがいて、けっこう、耳的にきつくて、‘アハハッ、きついっ!!’って思ってた。
わたしはつらい時って、けっこう顔が笑ってしまう。
なんていうか、‘うお~、そうくるか!’みたいなリアクション。
なんていうか、信じられない不快感にびっくりする、っていうか。
びっくりすると笑ってしまう。
びっくりするくらい失礼な人に会うと笑ってしまう、ってこともあるし。
(そういえば、最近、そういう人、会ってないなぁ。前は、たまにいた。)
半笑い、っていうか。
どっちにしろ、誤解を生むリアクションなんですが…。
あ、星は見えてたの。
でも22才まで、星座が見えたことはなかった。
たぶん、視覚のゲシュタルト知覚の発達が遅かったんじゃないかと思う。だいぶ、遅かったんだと思う。
ゲシュタルト知覚というのは、ばらばらのものにまとまりをつけて知覚するもので、人間の認知能力において、自然な性質と思われている。
でも、たとえば音声ゲシュタルト(聴覚的なもの)の導出が自閉症の人はできなくて、そのために聴覚過敏になったり(雑音が処理できずに直接、脳に入ってきてしまう状態らしい)、絶対音感をもつことになったりするようだ。
実は、聴覚過敏という言葉を知ったのは、一年前のこと。それまで自分は人間としての器が小さいから、特定の雑音にがまんできずに癇癪を起こしてしまうんだと思い込んでいて、性格がわるいんだと思って、自分を責めて忸怩(じくじ)たるものを感じていた。
なので、そういうのが身体的・物理的特徴に還元できると知ったことは、わたしにとって本当に救われだった。精神論的なところで解決できるものでない。そう知るだけでもわたしには十分だった。
自閉症なのか別の神経症なのかは、調べてみないと判断できないんだろうけど、少なくとも現象として、同じような症状をかかえてる人が他にもいると知ることは、大変、精神衛生によかった。
聞く必要のない音はやたら入ってくるのに、一方で、聞かなければならない話は聞き間違いが多かったりする。
(聞き間違えは、けっこう普遍的な現象だと思いますが。それだけ言語音というのは、実は、お互いにはっきりとした区切りがあるわけでなく、境界はあいまいなんです。調音音声学と音韻論の領域の違いというか。つまり、ゲシュタルト知覚ができていないと調音音声学的分析をするような感じで音声を聞いてしまうことになるのだと思います。)
それで、視覚の方に戻ると、星座が見えないので、小学生の頃、理科はきらいになってしまったけど、22才で見えるようになって以来、夜空を見上げるのが楽しくなった。発達はゆっくりだけど、育っていないわけではないようだ。
こういう経験にモチベーションを得て、認知科学や心理言語学、特に言語発生というものに、強い興味を持って取り組んでいます。
…だれに対する宣言なんだろう?
急に自分の足元を確認したくなった。
こんなに神経質で、いつも思考の迷路に迷い込んでしまうクセがあるのは、感覚が鋭い部分があるということかもしれない。
そんなふうに考えたこと、あんまりなかったなぁ。
聴覚過敏には幼い頃から、なやまされてるけど。
昨日、今日と、久しぶりに東京に来た友だちと、一緒に美術館に行ってきた。
‘一緒に行った’というより‘連れて行ってもらった’という言い方がたぶん、正しいな。
美術作品を見ることは、当然、それを造った芸術家の内面に触れることだと思う。
たくさんのアーティストの作品にふれて、その人達の、その作品を生み出さずには生きていられない心の内に触れた気がした。
心の叫びみたいなもの。
(芸術家でも、そんな、くるしんでる人ばっかりでないのかもしれないけど。)
昨日見た、‘六本木クロッシング’という展覧会には参加しているアーティストが多くて、特にそう感じた。
そう思ってみると、わたしも、心理言語学に出会って、言語研究の場に今いられて、それをすることで、なんとか自分を保って、廃人にならずに生活できてるんだと思い至った。いや、前から思っていたことだけど。
日本語のピッチアクセントがどうこう、語順がどうこう言ってることが、今のわたしに与えられた唯一の表現形式であるように思う。
あぁ、ことばの、音の側面に特に興味があるのは、やっぱり聴覚過敏とも関係してると思うし。
何かに感覚の鋭敏さが活かされるなら、ちょっとでも何かの役に立ちたいと思う。
役に立てたら、ずいぶんと気持ちも救われることだろう。