心カサカサ

2008-11-30 01:25:33 | Weblog
サイクルがあって、月に一回は自分がすごくブサイクに感じて泣きたくなる日がある。

特に、肌の調子がわるい冬は。

別の日は、自分もそれなりにいけてるんじゃないかと思う日もあるんだけどこれもサイクルで。

そういう日は世の中にやさしくされてる気分になるし、世の中の人が美男美女に見える。

ブサイクな日はだめだ。

消え入りたくなる。何も見たくなくなる。

笑顔も、きもちわるいんじゃないかと思って、笑えなくなる。

でも、それって多分ウソだから、せめて口角上げてようと思って、努力するけど。
そういう努力してる自分がちょっと可哀そうに思えて、自己陶酔的にまた泣きたくなる

たぶん、泣くための理由を探してるんだな。
泣いてすっきりしたら、ケロッとするんだ

わかってても、必要なプロセスなんだ。自分には。

Meja - All About the money

2008-11-29 19:16:34 | 音楽
Meja - All About the money


高校生の頃、アコースティックバージョンを聴いて、"Sometimes..."で始まる所がすごいいいと思って、時々、真似してた。

今聴くタイプの音楽じゃないけど、当時はいろんな偏見がなくて雑食で、いろいろ聞けてそれもよかったな、と思う。

与えられたスキーマ

2008-11-28 16:27:22 | Weblog
自分の人生に与えられたスキーマを垣間見た気がした。

小学生の頃、少女漫画家になろうと思って、絵がうまいってよく言われたけど、自分で漫画書いてみて、自分はストーリーが書けないからだめだな、って思った。

それと前後するように、編み物が好きで編み物研究家になろうかとも思ったんだけど、大きなものを編んでると途中で飽きてきて、他の小さいものを始めたりして、ともかく時間がかかる。プロはむずかしい、と思った。

それから、ピアノは十何年、続けていたけど、自分にはどうもいい加減なところがあって、リズムがよく変わるので、たとえば人に教えるとかには向かないな、と思った。(実際、ピアノを生業にしてる友達は、忙しくて大変そうで、わたしくらいの心持ちではあんなにできないと思う。)

高校生以降は、研究者になろうと思ったんだけど、今、自分はどうも論文書きがニガテってことに突き当たって、どうしたものかと思ってる。

でも、いろいろ諦める一番大きな理由って、気持ちが持たないってことな気がする。

それでも、わたしはやる!ってどうも思えない。

学問に関しては、かなりそう思ってやってきて、院浪とかもして(同じ大学院を二回も受験するなんて、わたしにしてはかなりの成長だった。だいたい、一回だめだと、もういい、ってなる)留年とかもして(あ、ダメ学生まるだし)現在に至るんだけど、もうすぐ出す修士論文から今も目をそらし続けている。

ある意味で、自分は冷静だと思うけど、別の意味ではちっとも冷静じゃなくて、たぶん、配分を間違えている。

自分のどこを許して、どこはもうすこしがんばれよ、と激励していくか。

なんか、だれか似た人たちがいたら、話し合いたい。

不遜

2008-11-27 13:28:28 | Weblog
母のことを書こうか、と思ったが、やめた。

人のことを書くのは、ためらわれる。

人のことは、どうこう言えない。

‘あの人はどうだ’とかって、だいたい、無責任だ。

だいたい、だれかを批判したくなる時は、自分が傷ついてる時なんだけど。


もう、傷ついた時に笑うのはやめたいと思う。

笑ってごまかせば、自分自身をもごまかせると思っていた節がある。

あるいは、傷つくことはかっこわるいと思っていたから。

いろいろ、なんでも動揺するのは、かっこわるいと思っていた。

できるだけ、クールに、スマートに。

そういうふうになりたいと思ってたし、そういうふうにふるまっていればなれると思っていた。

いやぁ、生まれつきってありますねぇ。

最近、ドラマ"The L Word"のジェニファー・ビールズの役Bette Porterを見てて、感情をあらわにすることって、魅力的でありうるんだなぁ、と思って感心して、すこし今までの考えを変えた。

そういえば、大学の、学生に人気のある50代の女性の先生も、普段かっこいいんだけど、かわいらしいところがあって、みんなが話してる時に、自分が話題に入ってないって感じてるふうな、さみしそうな顔とか見ると(そう見えるだけかもしれないけど)、すごく人間的なものを感じて、人の魅力の在りかみたいなものを知った気になる。

・・・って、どうもわたしは人にたいする敬意に欠ける部分がある。こわいもの知らずというか。不遜というか。若者にありがちというか。

たぶん、情報過多の時代に生まれて、人のやることにたいして見る目が肥えてるってことはあるんだと思う。ぼくたち若者。

だけど、自分がやるっていうことには慣れてなくて、しかも選美眼は培われているものだから、自分のやってることのレベルというのが自分にすぐにわかってしまって、それで苦しい部分ってけっこうあると思う。

受信と発信のバランスっていうのが大事だな。バランスが崩れるところに苦しみが生まれる。

だけど、一旦、できあがった、ものの性質を見抜く力っていうのを手放すのも惜しくて。

なんとか自分の目に、自分の手がついていくように、苦しみながら、いやになりながら、日々かっこわるく生きている感じです。

才覚

2008-11-26 16:50:23 | Weblog
わからないものは、わからないと言っていたい。

きらいなものは、できるだけ遠避けていたい。

すきなものは、とことん関わっていたい。

たのしいことは、みんなに伝えたい。

だいたい、伝わらないけど。

平らかに生きることにあこがれも抱くけど、アップダウンがないと成長もない。

たぶん、そうなんだ。

才能って、けっこう、歓迎されない。

都合のいい使い方が見つけられなければ、苦労するだけだ。

それでも、自分がたのしめたら。

それで自分が活き活きできたら。

そしたら、身内くらいはなんとかしあわせにできるはず。

大切な人とか大切なものとかを、何か事務的な理由で、ないがしろにしたりするのって、よくわからない。

よくわからずにそうしてることもあるけど。

こう生きたいって願いをはばむものはなんだ。

力を結集させて注ぐべき時点とか地点とかって、どこなんだろう。

わかってるようで、わかってない。

ちゃんと自分の心をわかってやるべきだ。

そういう勘は磨いておいたほうがいい。

たとえば、何か従うべき規律なんかがあると、つまり学校とか何か集団とかのことだけど、たしかに心身は安定するけど、そういう自分の心にたいする直観みたいなものが鈍ってくると思うんだ。

高校・大学のあいだに鈍っていたものを、この3、4年で取り返したと思ってる。(所属はあれど、心は自立しておくことをまなんだ。)

どっちがいいかはわからない。

あの頃の方が、安定してた。(そうでもないかな。体調くずしたりもしたかな。)

でも、今の方が、たのしい。

もっとたのしい所へ行こう。

もっと、きびしいけど、たのしい所へ行こう。

心的現実~内側と外側の循環

2008-11-26 15:22:32 | Weblog
昼夜逆転は、やっぱり、精神的にくるなー。

立て直さないと。

暗い気持ちは間隙を狙ってるみたい。

絶望も希望も、同じスケールの上で。

本当は形のないもので。

でも、それにリアリティを与える心をぼくらは持っていて。

心的リアリティっていうのは、すっごい課題なんだ。

つまり、変えることができるはずなんだけど、でも、それを変えることって、思ってるほど簡単じゃなくて。

たとえば、現実の物的な問題を解決するより、心的な問題を解決する方が手っ取り早いんじゃないか、みたいに思ったりもするけれど、そうではない。っていうのが、最近の気づき。

物的に解決していくのと同じくらい、心的に解決していくのって手間がかかる。

思い込みとか、認知の仕方のクセとかって、本当にそれそのものとしてそこにあって、なんていうか、簡単に言葉で変えられるものでもない。言葉で変えていくしかないんだけど。

あ、つまり、言葉によって認識を変えていくって話だけど。

なかなか入り組んでるなぁ。

あ、でも、一方で、何も変わらないってこともあり得ないから、悲観することはないんだ。

動きが必要だ。

動かないでいることは、つらい。

自分の中身は動いていないわけがないから。

内臓とか。

つまり、体内に時間が流れてるんだ。

だけど、外にたいする動きっていうのを、まぁ、簡単に言えば、運動とか何かしらの作業とか活動のことだけど、していかなければ、中の時間と外の時間に大きなズレが生じてきて、それで、その狭間に自分がハマってしまって、その齟齬みたいなところでくるしむことになるんじゃないかな。

何もしないっていう状態は、人にとって不自然なんだと思う。

たぶん、禅とか瞑想とかって、体は止まっていても動きを感じるみたいなことしてるんjないかな、って、見た目は止まっていても動きを起こしていくことの訓練なんじゃないかな、って思うんだけど。周囲の空気の流れに乗るというか、調和するというか。あ、いろんなこと言いすぎたね。

そんなことで、こうやって、言葉を連ねることも運動のひとつで、なんか、ちょっと楽になってきました。外と中の循環ができてきた感じ。

さぁ、この調子で、修論を!

・・・ほんと、神頼みしたい。