その瞬間、うなずけない

2007-11-30 13:27:31 | メンタリー・ヘルシー?
うなずけない瞬間、というのがある。

物事が決定しそうな時に、

“本当に、そうか?”という疑問が心にぽっかり現れる。

「ちょっと待って」

声を上げるか上げないかは、自分の自由だ。


わたしは、何でも懸念しすぎる傾向はある。

いろんなことに疑問を抱いて仕方ない。

そういう所が、自分でいつも素直じゃないとわかっていて、“かわいくないなぁ”と思えて変えたい所だった。

そう思うのは、親によく「あんた、言うこと、かわいくないなぁ」と言われてきたからだろう。

それに対して、“そりゃ、かわいくないよ?かわいくなろうなんて、思ったこともない。そういうのは他の子にまかせてればいい。”と思っていたので、それこそ、かわいくないこと、この上ない。


そういえば、小さい頃、知り合いに、

「この子黙ってたら、ちひろの絵ぇみたいやのになぁ」

と言われたことがある。

いわさきちひろの絵…。

そりゃ、絵はしゃべりませんからねぇ。


そうやって、周りから、チクチクする愛のことばを戴きながら、表面上、おとなしくふるまう術(すべ)を身につけた。

目立たないように。波風立てないように。

だけど、何も言わないでいると、のどにことばがつっかえたまま、疑念ばかりどんどん膨らんでいく。そういう感じがした。


…つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Feel at home

2007-11-29 22:02:05 | Weblog
他の分野に進んだ友だちが、ちょっとうらやましく思える時がある。

それって、多分、自分が本当に、今自分のやってる分野の人になってきたってことだと思う。

それだけなじんできたってことだと思う。


それって、多分、うれしいことだ。

自分の居場所ができてきたみたいだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Feel so high!

2007-11-29 17:39:10 | Des'ree
やっとめぐり会えた。

9年目の再会。


いやぁ、Des'reeの"Feel so high"はアルバムにI Ain't Movingに入っている曲だったの、知らなかった。
(↑昨日、中古CD屋さんで購入。)

高校生の頃、ラジオで聞いて以来ずっと、忘れては思い出して来た一曲です。

聴いているだけで、泣きそうになる。

デズリーさんの声。

なんていうか、歌い方が、低い声で切り込んでくる感じがする。

もちろん、切るといっても、痛いイメージではなくて、空間の一瞬の隙間にスッと入ってくる感じ。


おんなじ感じを受けたアーティストが一人いて、Billie Myers(ビリー・マイヤーズ)っていう女性シンガーなんだけど、デズリーもこの人も、イギリス人でR&Bシンガーだからかなぁ、と思ったりしている。

だけど、Billie Myersで切り込む感を受けたのは一曲だけで("Please don't shout" ―アルバムGrowing Painから)、デズリーさんは、アルバムI Ain't Movingだと全編に渡って、その感覚が呼び起こされる。(ようは、デズリーがすきだと言っているのですが。)

なんだろう。

それが歌唱力なのかなぁ。

たぶん、調音音声学的分析をすれば、答えは出るだろうと思う。


ちなみに、その切り込む感とは違うけれど、日本人のアーティストだと、宇多田ヒカルさんやaikoさんの高音を聞くと、涙が出る(almost automatically)。

だからと言って、今のところ、それらに関して、自分の中で有望な見解があるわけでも、これから調べます!と意気込んでいるわけでも、なんでもないんだけど。

‘Fなんとかの揺らぎ’とか、いうやつかしら。

ちょっとだけ、気になっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あきらめぐせ <自分セラピー>

2007-11-28 13:42:55 | アスペルガー傾向
短所はたくさんあるけど、その中の大きなカテゴリーを成しているものに「あきらめぐせ」というのがある。

あきらめ癖と体力のなさ。

これが研究者のタマゴとしても、伸び悩む原因だ。(本気でそう思ってる。)

性格心理学じゃないけど、体質と性格というのはよく関係していると思う。

体が弱いと、心も弱くなるのは、自然な流れだろう。


ひとつの研究テーマに対して興味が存続しないということを先日書いたが、中学生の頃に言語学を志して以来、十年間、ずっとその辺をウロウロしているのだから、大きい意味ではそんなにぶれていないはず。

…なんだけど、じゃあ、何がわるいんだろう?

その日の気分で、深く考える内容が違う上に、思い込み激しいからなぁ。


あぁ、そのときそのとき、一所懸命すぎて、少し前のことはコロッと忘れていることが多い。

人が言ったこととか、何かの数値とか、やたら細かいことはしつこく記憶しているけど、大きいこと忘れちゃうんだ。

夏学期に必修の授業をけっこう苦労して履修したんだけど(しょっちゅう宿題が出て大変だった)、9月ごろ、すっかりそのことを忘れていて、“夏学期、何の授業、取ったっけ?あれ?○○と△△だけ?あれ?!単位足りなくない?!!”とか思って、なかなか必修のことを思い出さなくて、ひとり焦っていた。

このことを考えると、自分は飽きっぽくて困ると思っていたけど、そういう自己評価をすることになる原因のひとつは、“忘れっぽさ”にあるみたいだ。

メモを採ること。
採ったメモを整理すること。
整理したものを見える位置に置いておくこと。

あと、それらに目を通す、心の余裕をもつことかなぁ?

おちついて、おちついて。
どうもない、どうもない。

ほとんどのことは、自分で思っているほど、深刻ではない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謙虚な研究者

2007-11-27 18:44:14 | メンタリー・ヘルシー?
反省していることがある。

たいして頭もよくないのに、ちょっと頭の回転数が増えてくると、自分で考えついたとは思えないようなアイディアが湧いてくる時期がある。

それがうれしいのはいいんだけど、それらのインスピレーションに振り回されるが、よくない。

自分の立場をわきまえて、ちゃんと自分を保っていないと、嫌味な人間になるのは、本当に簡単なことだ。

そして、慢心は人の足をすくうに違いない。

少なくともわたしは、幼稚園以来、調子に乗ってよいことがあった試しがない。

だいたいにおいて、言わなくていいことを言ってしまったり、そんなつもりないのに悪意に取られるような発言をしてしまうんだ。

まぁ、中学生の頃、猛省してからは、そういうことも少なくなったけど、現実の場面では何も言わなくても、心が慢心してしまう瞬間というのは、なかなか直せないものだ。

たとえば、世界でいちばん頭のいい人がいたとして、その人でも、自然とか地球とか宇宙の膨大なエネルギーや微に入り細をうがったしくみの前では、無力さを感じるのではないだろうか。

そんなだったら、一小市民のわたしが偉そうにしゃっちょこばるのは、本当にアホ丸出しだ。

あぁ、はずかしい。はずかしい。

気づいてよかった、ほんとうに。

そのたびに自分の在り方を見つめることだな。

どこまで行っても、調子になんか乗れないんだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ライフワーク, an open question

2007-11-26 17:55:49 | メンタリー・ヘルシー?
こんな個人的なこと書くの、本当にどうかと思うけど、今までもかなり個人的な内容を晒してきているので、自分への備忘録(?reminderということが言いたい)の意味で、書き記しておこう、と思ったこと。

ちゃんと伝えられていない「ありがとう」が山積みになってる。
あんまり多いので忘れたフリをしたり、かっこつけて‘何も気にしない’みたいな態度を取ったりするけど、ちょっと気弱で(?)人間的な自分が戻ってくると、‘言ってない!’ってことに気づいてアタフタしてしまう。

でも、もうタイミング逃してるよなぁって思って(ときどきあきらかにおかしいタイミングで「あのときはありがとう」とか言って、場の雰囲気をこわしてしまうこともある)、あんまり、もうこれ以上、へんな人って思われたくもないので、言わずにいるけど、それでまた、何度も思い出して、一人で涙目になる。(病気だよなぁ。そのうち立ち向かわなければいけないなぁ。)

あぁ、それと、最近、自分の研究がイヤになってて、実は全然、論文執筆が進まなかった。(他のテーマが気になってるってことは、散々書いたので、その辺を見ると、‘あ、この人、やるべきことに集中できてないな’ということがわかる。)

そうなんだけど、思い直したこと。

わたしはやっぱり自分の研究がきらいかもしれないし、
分析が進まないときに分析のことを考えると吐き気がするのも変わらないかもしれない。

統計はやっぱりわからないことが多いし、
文章を書くのは、小学校の読書感想文以来、苦手だ。
だから、論文を書くのが得意なわけが、ない。

だけど、この分野に出会ったとき、運命だと思ったじゃないか。
こんな楽しいことをやってる分野があるなんて、ってそう思ったじゃないか。

ある学問分野に出会うのは、わたしにとって、恋そのものだ。

最初、ときめいて、しばらくいい時期があって、でもだんだんキライな所も見えてきて、倦怠期がやってくる。

あぁ、わたしは、その倦怠期というのを乗り越えたことがないのかもしれない。

それでつらくなって、耐え切れなくて、次の恋を探してしまうんだ。

きっと、世の中の浮気っぽいダンナさんというのは、こういう心境だろう。

弱いんだよなぁ、精神が。


ライフワークって何だろう。

一つのことをやり続けるって、どんなふうだろう。


あ、それで急になんですけど、

仕事でも、勉強でも、人間関係でも、なんでも、
これは続けてきたよ!あるいは続けていくつもり、っていうものがある人、
あるいは、ない人も、何かヒントになりそうなこととか、
何かご意見、コメントいただければ、幸甚です。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

説得

2007-11-26 15:56:42 | メンタリー・ヘルシー?
死ぬな、と言うのは、それほど難しいことではない。

でも、その人に生きてもらおうと思ったら、その人を追い詰めているものを一緒に見つけて解決していかなければ、「死ぬな」という呼びかけは達成されない。

それには、その人の、親くらいの気持ちになる覚悟が要る。

そういうことを、三年ほど前まで、全くわかっていなかった。


今でもだれかを助ける自信なんて、ありはしない。

わたしは逃げるだろう。

問題はひとつではなく、次々と姿をあらわすのだから。

どこまでいっても、「もう絶対、大丈夫」なんてふうにはならないんだ。

いつも、「とりあえず、なんとか大丈夫かも」っていうラインで、凌いでいる。


「とりあえず、生きていれば、それでいいよ」

50代の母や70代の祖母は、そう言う。

わたしもそんな気はしてる。

でも、そう思い切るには、現実に対処すべき課題が多すぎる。

心に余裕が持てなくなる。

息ぐるしくなってくる。


苦労は形あるものばかりとは限らない。

形ない不安に苛まれて苦しむなら、それだって立派な苦労だ。

目に見えないからわかりにくくて、何もやってない人みたいに思われたりして、そう思われること自体、また苦しみの素になるけど。

とりあえず、本人が自分はくるしんでいるということを自覚することと、周囲の数人がそうなんだね、って認めてあげること。

たぶん、それですこし、せかいは変わると思うんだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手で考える

2007-11-25 16:56:20 | 言語研究
言語は、時間軸に規定されている。

思考は、必ずしも線状ではない。


そうだけど、言葉にしないと、考えたことというのは、考えた証拠というのは残らない。(図にして残してもいいけど。)

ということで、‘考えるときは手を使う’というのを今後の心がけにしたい。

紙やスクリーンの上で、考える。

公表の機会に向けて準備する。(発表の場の大きさは関係ない。)


最近、わたしの考えること・思うことにも、一人分の重みはあるみたいだなぁ、ということがやっとわかってきたので、声を出すこと・ことばにすることを躊躇するのはやめようと思うようになった。

アンジェリーナ・ジョリーのことばで、「意図的に人を傷つけないなら、衝動にまかせて生きるのがいい」というのがある。

何か、自分の内側から起こってくるもの。

押さえつけてばかりだと、心身の調子がおかしくなってくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

形あるもの

2007-11-24 20:54:00 | メンタリー・ヘルシー?
まだ何も形にしたことがない。

ともかく、何でも、自分から出てくるものを、形に残すこと。

何もないままでは、批評対象にさえならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「抱きしめるという会話」

2007-11-24 02:44:12 | アスペルガー傾向
‘呼びかけることは、声で相手を抱きしめること’

ロシア文学の浦雅春先生が、『チェーホフ』(岩波新書)で、文化人類学者の川田順造さんを引用して、そういうことを書いてる。

それに続けて‘名前を呼ぶことは、相手のすべてを肯定することだ’みたいなことも言っている。

これを三年前に読んで以来、声で相手を抱きしめること、相手への肯定を表明することは、わたしの実践課題になった。

わたしの場合、呼びかけというより、ことば一言ひとことで相手を抱きしめること。それが目標になっている。


以前、テレビCMで(公共広告機構だったかなぁ?)、「抱きしめるという会話」というキャッチフレーズが使われていた。

親が子どもに対する愛情を表現するために、何も言わずにまず腕の中に抱きしめましょう、という内容。

それを見たときに、わたしに“抱きしめるという会話”は成立しないなぁ、と思った。


わたしは挨拶などでもハグされると不安を覚える。相手が誰でも。

基本的に触れられるのはあまり得意ではない。身体感覚的な問題で。相手に対する感情とはまったく関係なく。全然、だめではないけど、できれば握手くらいにしておきたい、というか。(思いっきり抱きついたり抱きつかれたりして感情を表現できる人達って、すごいなぁ、私もいつか、そうなれたらいいな、とは思うけど。)


「抱きしめるという会話」が、成立しない。

だから、会話で抱きしめよう、と思った。

ことばで、相手の心を抱えたい、と、そう思った。


そう思ってから、けっこう時間がたったけど、その目標には近づいているのかなぁ。

なんか、本当はそういう声色のこととか研究したいかも。emotional prosodyとか。sentence prosodyよりも。

一歩まちがえれば、眉唾ものになってしまいそうな、だけど、正しく解明できれば、きっとみんなの役に立つ、そういう研究。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする