カンバンに偽りあり

2013-08-27 21:28:20 | Weblog

ちょっと反省したのが、昨日の記事、タイトルと内容が一致していなかった。

っていうか、タイトルと内容が合致したことなんて、そんなにないんだけど、考えてみれば読む側にしたらタイトルってけっこう重要なわけで。

そこまで考えてないっていうか。

っていうかね、論文とか読んでても、まぁさすがに論文タイトルは内容に合ってるとしても(というか漠然としたものが多いかも。そうすると、タイトルから連想されうる範囲が広いから、まぁ大体合ってるな、ってなりますよね)、サブセクションのタイトルを見て「こういう内容かな?」って期待した内容とズレることが多い(あ、やっぱ論文タイトルもだ)。

で、よく分からなくなってくるのね。

しかも最初に「こういう内容かも」って思った想像を、読んでいるうちに忘れて行くから、何を期待してそれを読んでいるのかわからなくなって、事実の羅列にただ「へー」となるだけだったりする。(へー、ってなるなら、まだいいわね。)

っていうかね、それは自分が論文、っていうか、まぁアカデミックな文章を書く時にやりがちなことでもある。

事実の羅列になるのね。

羅列であっても、その並べ方には意図が必要よね。

そういうストーリー付けみたいなのが、苦手で、だって自分の思ってることを人に押し付けるなんてヤじゃん!って思ってたけど、よく考えてみたら(文理融合的な分野にいるとはいえ)文系の学問なんて、自分がどう思うかがほとんどだったりするわけで、自分の考えがなかったら始まらないわけでね。

本当は、assumption(思惑)があるわけ。

それはね、すごくある。

それを言うのが、苦手なんですね、私の場合。

否定されるのがこわくてね。

否定される前に自分からうやむやにしてしまう感じ。

それを、やめようと思って。

クリアな人間になろうと思って。

否定されたその先の平野にいってみよう、いってみたい、と思って。

 

ーおまけー

夏の終わりに。



うっくつしたらブログを書け

2013-08-26 15:17:10 | Weblog

うっくつしてきたらブログを書け。

考えなんてまとまることはないので、考えを吐き出すことが大切。

 

むかしの友達で今はお笑い芸人をやっているらしい男の子のツイッターを見ていて、そのフォロワーの女の子がブログをやっていたので見たら、お笑い芸人の子のブログよりおもしろかったよ。

・・・っていうことを、その男の子に言ったら、いやな気分になるだろうなぁ。

どうして、私は男性にきびしいのでしょう?

ということを思い出したのは、その男の子がかなり女性にきびしいツイートが多くて、どうして私たちはこんなふうに育ってしまったのでしょうね、と思ったからです。

 

理想が高い?

そうなのかなぁ。

・・・だいぶ年を取って、「われはフェミニスト、女性の味方!」っていうナイーブな態度を取らなくなってきてはいる。

考えてみれば、20歳くらいまでなんか、もうそれはそれは手をつけられない男嫌いだったなぁ。

ミソジニーの反対?

そうでした。

どうしてあなたはモテないの?っておかあさん、そりゃ男が嫌いなんですもの、むこうも寄ってきません。

23, 4からようやく周囲に尊敬する男性という存在が出てきて、‘あぁ~、女の人の方が頭いいし、うつくしいし、やさしいし、完璧な存在だと思っていたけど、個人の問題かぁ~’と思うようになったのですが、う~ん。

ちなみに父親に対しては、なんとなく接しにくい人という印象だけ持っていました。

子供の頃。

ひどい話だね。

でね、この父がね、大人になってようやく話をしてみるようになって話を聞いてみるとね、まぁ、人類全般にきびしい(自分にもとてもきびしい)人なんですけど、女性にたいしても精神的にとてもきびしいということに気がつきまして。

あんまりおしゃべりでない人だし、行動でも特に女性蔑視的なところもないので、これまで気がつかなかったわけですけど。

まぁ、すべてにきびしいからなぁ。

話し方や物腰が柔和で、気づかなかったりするけど。

私の男ぎらいと、彼のミソジニー(女性嫌悪)がぶつかるから、あんまりコミュニケーションしないようにお互いしていたのかもしれませんね、無意識のうちに。

で、たぶん、その根源はつながっているような気がしますね。

単に、性別反対に表層では出現しているだけで。

 

『モテキ』描く時に久保ミツロウさんが主人公を自分とそっくりの男性にしたような、交差。

反対から見れば、また見えるものも違ってくる?

男がきらいだと思ってたけど、問題は性別ではなかった、っていうことに気づくかもね。

それは一部の男性だった、みたいな。

その人がきらいなのは別の属性のせいだ、みたいな。

 

あれ、私がきらいな男性ってどんな感じだっけ?

あんまり具体的には思いつかない。

まぁ、見た目が女の人の方がきれい、っていうのは、いつまでも思い続ける気がするけど、その他の部分はねぇ。

 

あ、そうだ。

一方で、私は男に生まれたかった、っていうのを一貫して思ってる。

こんな男の人になりたいな、って男の人何人かいるし。

うらやましい、ってことかな。

私は自分の性別以外のプロパティを考えると、まぁ学力とかのことだけど、どう考えても男に生まれた方が有利だったと思う。

それで、くやしいっていうのはある。

そういう苛立ちかもなぁ。

 

まぁ、うつの時には、ちょっとそういう価値観が全部いったん平たくなった感じはあったけどなぁ。

うつがうすくなれば、もとの価値観も戻ってくる。

 

なんか、‘イラっ’っていうのが出てしまうんだよなぁ、言動に。

‘男はいいわよね’っていうのが。

美人ならそれでもモテるだろうけど、美人じゃないのにそれじゃ、むつかしいよね。


愚か者と言ったところで愚か者には聞こえない

2013-08-24 16:05:48 | Weblog

自分の中に、攻撃性があって、そういうものが自分を形作ってきたことを思い出す。

簡単に言葉にすると「なめんな」という精神性。

どうしてそう思うのでしょうね?

小さい頃からずっと。

なんていうか、人に決めつけられるのがいや、というか。

単純化して物事を捉えようとする人たちがきらいというか。

そのうえ、私の存在を単純化しようとするなんて、ゆるせない、というか。

自意識なんですかね。

自我というか。

そうですね、自我が強いんでしょうね。

強すぎてうつになったのでしょうね。

で、10年ぶりに抑うつ状態への心配がかなり薄くなったなと感じていて、そしたら、攻撃的な感性を持っていたことを思い出した、という経緯。

だからと言って、なにかに対して攻撃的な思想を持っているわけではないですけどね。

でも、ひさしぶりに「いっちょやったる」って気持ちになってる。

いつ以来でしょう?

 

ものすごくニガテだと思っていた統計を自分で勉強しはじめている。

Rもちょっと使い始めている。

こんな日もくるのよ。

 

やっぱり自分は自分らしく生きたい。

「ふつうのおんなのひと」みたいに、なれっこない。

化粧しても、それっぽい服きても、自分がうずく。

化粧にも、流行りの服にも、自分が染み込んで行く。

「私は私だ」と。

‘そっちの価値観でこっちを見るのは自由だけど、それが唯一の真実だと思うなら、あなたはその時点で、自分の世界の限界さえ決めているのよ、愚か者’

という攻撃性。

遅ればせながら、田島陽子先生にさえ追随できそう。

(「さえ」って言葉を使うのが好きです。)

 

そうですね。

自分は規定の枠組みに入ったとして、そこに安住できる性質の人間でない。

ご心配おかけしました。


I'll be me.

2013-08-20 19:19:37 | Weblog

最近、10年ぶりにパワフルになっている。

高3以来です。

・・・じゃあ10年どころじゃないや。

いや、大学1年くらいまではまだ元気だったんだけど。

 

それでね、まともな人間になりたくなりました。

基本的にグズで、それはADHD的な意味でそうなんですが、まぁそれも元気な時は軽いので、なんていうか頭が働くので対処法が自分でわかったり少なくとも絶望したりせずに自分に頼む所があるという感覚でいられるので、そうなると、ちょっと色気が出てきて、人の役にちょっとだけ立ちたいな、と性懲りもなく思い始めるわけです。

というか、社会人のひとはふつうにやってることだと思いますけど。

 

高校生のころの自分のパワーはすごかったんです。

体重が55kg越えてたと思います。

いや、そういうこと大事。

毎日、ハイだった。

よく言えばボランティア活動みたいなことをしていて(ぼかして言いますね)、もう毎日、奔走していて(ナゾに忙しい高校生だった)、受験勉強は秋までしなかったんですが、はずかしながら当時、神がかっていたようなところがあって、11月だか12月だかの模試で、学校で成績が1番になってしまって、あぁ、すいません、上でぼかして書いたけれど、ボランティア活動じゃなくて、スピリチュアルな活動をやっていて、それでまぁ、神様のおかげだとか言って、毎日ハイだったんです、私、ハイティーンのころ。

ちょっとすごい話ですね。

もうともかく格好にもかまわなくて—自分を着飾るなんてエゴだと思ってたし、利他的に生きることがすべてだと思っていたので—いま、帰省して高校の卒業アルバム見たら、クラスでいちばん太ってるしいちばんニキビ顔だし、メガネかけてる女の子なんて他にいないし(唯一、他のクラスの友人で、京大に行った子だけ私と同じようなフチなしメガネをかけてました。けど、彼女はちゃんと髪をセットしているよ)、それでいかにもいい人そうな、見る人が見れば「敬虔」そうな顔をして笑っているわけです。

 

なんと30歳になってここ1年ほどで、コスメに目覚めたのですが(20代はアトピーが断続的に出ていたので、化粧できなかった。というか、する気が起きなかった。という言い訳。)、その目で見てみると、この高校生の自分の外見の気にしなさは自分で思っていた以上に突き抜け感があります。

メイクやファッションに大事な「抜け感」じゃなくて、突き抜け感。

おしゃれと真逆だよ。

 

マーマー・マガジンのみれいさんが書いてたけど、大人はみんな「お酒・ギャンブル・恋愛・宗教」・・・あれ、あともうひとつなんだっけ??、なんかもうひとつなんかあるんですけど、・・・「自らを律する」みたいなニュアンスだった気がするな、禁欲みたいな、ちがうかな・・・、これらの5つのどれかに依存しているらしくて、まぁ、私は宗教に依存し、10代後半、それはそれはパワフルだったわけです。

すごい安心感だった。

それが、くずれはじめたのが、21くらいでしょうか。

それまでAセクシュアルぽくて「恋愛?意味わからん!」って感じだったのですが、はじめて好きな男の子ができて、まぁあっさり失恋するわけですけど、そのあたりから依存先が宗教から恋愛感情になっていったんだと思います。

しかし、自意識はややこしく、見た目の磨き方もぜんぜんわかんないし(よく考えると、20歳くらいで一回、コンタクトして化粧して、ってことをやってるんですけど、早々と挫折したんだと思います。アトピーが出たのかな)、宗教ではわりと「男性を立てる」ことをうるさく言われていて、日本食の講習会とかお茶出しのマナーだの、やたらやらされたんですが(しかも、その時はすなおにやってるわけです。精神年齢がおさないところがあって、他の子がめんどくさそうな様子とかマジ理解できなかったのです)、大学はむっちゃリベラルなところで、友達に超左派的な子とかいて、ジェンダー論とか盛んだし、女性学とかかなり共感するものがあったし、なんかそれまでの人生、自分より頭のいい女性には出会っても自分より頭のいい男性に出会ったことがなかったので、人間として尊敬するってことはあっても、‘でもIQは私の方が高い’みたいな意識があって(大学院ではじめてすごく頭のいい男の人たちに出会ってびっくりしました)、右派的な部分と左派的な部分で引き裂かれる自分に、左派的な方向へ歩みを合わせることで決着をつけはじめ、そのために普通のヘテロセクシュアルな恋愛はやっぱりようわからん!という態度で、いかにも付き合いにくい感じのインテリ層の女子になり(20代はさすがに「女子」でいいですよね?30になって「女子」っていうのは抵抗が出てきたりしますが)、でまぁ、もちろん、恋愛テクニックなど頭からバカにしておりましたし(申し訳ない。すごく傲慢なところがあったんです。)、男性にこびるというのも毛嫌いしておりましたので、普通の男性と普通の恋愛をできるわけもなく、しかし10代のころはスピリチュアルな分、神様信じてる分、「学問で世の中のお役に立つわ!」とか本気で思っていた部分が、自分の中から欠けて行き、自分の芯が失われた喪失感があり、それを埋めるような恋愛もできず、無気力になり、うつになり、ハッタツ特性による適応しょうがいっぽくなり、しかし、とりあえず大学院は最高学府にはいちおう入ったものですから、親も援助をやめるまではいかず、大学院生の底辺をさまよい、時々小康状態になってすこし研究を進めてみたり、でもまたうつになって、そうなると何も考えられなくなって、頭の働かない自分なんてまったく存在価値がないと思い、つらくなって、でもただ無気力に、さすがに20代後半になると絶望しても仕方ないということがわかるので、なんとか底辺をさまようということで、ラストストローを、最後の藁を掴みながら漂っていたのが、すこし前までの話です。

(ゼーゼー)

なんか、そういうことも全部、避けられなかった気がします。

いまは。

いま、すこし、パワフルさが戻って、ひさしぶりに私の存在に脅威をすこし感じている人がいるという話を聞いたりして、そういえば10代のころはなんかよくわからないけど「すごい人」扱いはされていたようだったな、と思い出し、だって、あのニキビ顔でぜんっぜん恥ずかしそうな様子もないんだもん、妙に満ち足りた顔してるんだもん、ハイティーンの女の子としてやっぱり異様な、異質な感じはするよね、・・・自分と社会の関わり方をすこし思い出し、べつに10代にもどるっていうのともちがっているけど、自分なりに輝いていた時期や、トライアルアンドエラーで苦しんだ時期が、自分の中で統合されつつある感じが最近、あります。

ちょっとだけ、現実に近づいたというか。

ちょっとだけ、自分の真実のすがたに近づいたというか。

真実のすがたっていうのは、隠されたものでなくて、表面に出ているもので、それを直視できる状態にすこし近づいた、というか。

 

まぁ、だからと言って、人の役に立つことが言える気もしないですが。

ただ、こういう変人もいますよ、っていうサンプルな気もしますが。

(最近、ジェーン・スーさんにハマっていて、彼女の言うことは30代女性にとっても役に立つことが多いと思います。そういうふうにはなれない。私の言うことは参考にならない。)

 

なんか今は、自分をちょっと好きなフェーズです。

なので、人のことも好きになれそうです。


Welcome to the embodied life!

2013-08-17 10:33:34 | Weblog
今日、高速のサービスエリアで気づいたんだけど、私、ブスっていうか、デブみたい。

サービスエリアの人混みのなか、お手洗いに大きな鏡があるじゃないですか?

あれ、あの人、スカートはいてるけど女子プロかな?・・・あ、あたしだ。

その一瞬の認識。

びっくりしました。


最近、相当体調いいですからね。

太った方が自分に合ってる気はします。

太ると躁になって、やせると鬱になるんで。

あるいは、鬱だとやせて、躁だと太るとも言えますが。


そしてしっかりメイクしてベッコウ柄の大きなメガネをした顔からは、肉感ゆえのエロスを感じた。

OMG.

こんな生々しい生き物として生きてきた自分だなんて(恥じらい)。


そして、例によって、周りを見回してみると、おばさんも若い子も生々しかった。


男の人より女の人の生々しさの方が衝撃的かも。

おじさんが人工的な美しさと対極にある存在って認識はそもそもデフォですからね。

いまさらおじさんが生々しくても別にそこは大して驚かんのです。


人工的と生々しいは対比される質感。

若い女の人は一律に化粧して理想とされる平均顔的なものに自分を近づけることがジェンダー的ミッションだと聞きます。(急に留学生口調。)

特に女の人自身が人工的な美を好む傾向があるみたいだしな。

デブがいやなのはだれより女の人自身っていうのはよく言われる話。

ほんとかどうか知らないけど。


あ、最近、いい本見たの。

タレントの磯山さやかさんの本で、ぽっちゃりを自分で受け入れましたっていう本。

磯山さんなんかほんとはぜんぜん太ってないと思うけど、まわりが細すぎるだけで、だけど、ぽっちゃりしてかわいいよ、っていうのが女性向けの本として出版されるのは好感が持てるなと思いました。

っていうか、単に磯山ちゃんの顔がむかしから好きっていうのもありますが。


まぁともかく、最近は実体としての自分の迫力におどろいてる次第です。

あまりにもマインドワールドの中で外に目を向けずに暮らしてきたので、外側を見てみるとエンボディードな(実体化した)世界に生きる自分は、なんかすごかった、ということです。

マニラの母的な。

(昨日、自分に似てるって載せた子はフィリピン系アメリカ人のようだよ。彼女はわりと華奢だけど。)

パワフル・ボディー。


ビバ、エンボディメント!

家族的類似性!

2013-08-15 12:00:46 | Weblog

自分と顔型が似ている人を見つけた!

目が違うけど、鼻と口も似ている。

 

おいらは、奥ゆかしすぎて奥二重だよ。

平安美人って言われるよ。

よろこぶには千数百年おそいよ。

 


似てるぅー。

下向いた顔とか、自分かな、って思う。

 

この人はコートニー・カーダシアンっていう女優さんに似てるって、コメントで書かれていて、自分はほとんどコートニーさんには似てないんだけど(ちょっと下膨れ気味のところくらい)、そして肌もきいろいんだけど、自分とこのジュディーちゃんとコートニーさんを並べると、これがヴィトゲンシュタインの言う所のファミリー・リゼンブランス(家族的類似性)か、と思うよ。

すこしずつ似てるってこと。

で、すこしずつ似てる人を並べて列を作った時に、端っこと端っこの人がぜんぜん共通点がなくても、その列全体に類似性があるといえること。

 

・・・と、ちょっとアカデミシャンっぽいことを言ってみる。

 

あ、コートニーさんって女優さんじゃないんだ。

タレントで、起業家だって。


脳みそコンプレックス

2013-08-13 22:41:02 | Weblog

先日、尼神インターのボケの女の子がかわいいと思うと書いたのだが、バラエティー番組を見てて佐藤江梨子さんが出てて、この人の顔すきと思って、二人に共通点を感じた。

顔の横幅が広めで、ちょっとつり目気味(アーモンド型)の大きな目、鼻や口はちいさい。

・・・完全に母親の顔だ。

親和性の高いものに安心するということか。


すこしだけ、顔の形とか造作について興味が出てきたので、ちょっとググってみたら、いろんな人がいろんなコンプレックスを持っていることが30分もしないうちにわかった。

私は頭部が大きいので、頭や顔の大きさを測りましょうってスレッドで、自分も測ってみて、頭部がでかいと言うより顔の下半身の数値がでかいということがよくわかった。

それはもちろん気づいていたし、こどもの頃から写真を撮るときは口角だけ上げるようにして頬を動かさない、というような工夫は自然にやってきたことだ。

数値がわかって、一瞬、これってどうにかならないかな?って思ったけど、リンクされていた関連スレッドを見ると、整形の相談などが赤裸々にされていて、なんとまぁ、ここまで切実に外見を気にしている人がたくさんいることなのだなぁと圧倒されて自分の興味本意などなんて小さな初心者的心構えだったことよ、と恥じた。

街を歩いたり電車に乗ったりすると、いろんな顔の人がいて、あぁ、いろんな顔の人がいるなぁ、と思うわけだけど、そのうちの何十パーセントかの人が自分の顔にコンプレックスを持っていて、何パーセントかの人は具体的な打開策を検討していて、さらに数パーセントの人は本気で美容整形を考えたりあるいはすでに行っていたりする現実なんだなと思うと、まぁその数パーセントの人には美容のエキスパートとしてその道を突き進んでいってほしいと思うけど、何十パーセントの人がコンプレックスを抱えて毎日じゃないけど時々もんもんとしてると考えたら、そのもんもんタイムってむだっていうか、もったいないなって思い始めた。


美人じゃないのはわかってるんだけど、本来的に本気で容姿コンプレックスを持てないのが私だ。

背の高い友達には「小柄でいいね」と言われ、自分より小柄な友達には「身長あるからいいね」と言われ。

前者には「背高くてすてき!うらやましい!」と言い、後者には「ちっちゃいのってかわいい!いいなぁ」と言う。

どれも本音であって本音でない。

すてきとか、かわいいとかは本当にそう思ってるけど、べつに自分の体型は自分の体型で、ただそこに存在するものだし、それでいい。

こういう考えの人も何割かはいると思う。(つまり先に言ってる友達だって、単に話しのネタに言ってる場合が多いということ。ASDぽいので若い頃は真に受けていたよ。)


で、まぁ、変えられないものをもんもんするのは仕方ないことだと、外見に関してはわりとまぁ割りきれてると思う自分だけど(だけど、仮に人に急にディスられたりして、それがトラウマにならない可能性はいまからだってないわけではない)、自分は性格コンプレックスというか、人格コンプレックスがこどもの頃からひどい。

外見よりもなんとかなると思いがちな部分だ。(実は外見こそ努力が実るものだと最近になって知ったのだが。それはまた別のお話。)

そして、今年になって、30にもなって、ようやくそれらのコンプレックスがハッタツ凸凹に基づくものだということがはっきりしてきた。

凸凹が問題なのか、ASDやADHDが問題なのかまだぼんやりしているのだが。(これらの傾向については「薄くある」とだけ言われている。)

私のコンプレックスは人間じゃないかもしれないコンプレックスだった。

で、まぁ、マイノリティだけどグルーピングは可能だということがわかって、ずいぶんいい気分になった。

若い頃は大天才なんじゃないかと思ったり、ドアホ中のドアホなんじゃないかと思ったり、セルフイメージが両極端をしょっちゅう行き来してしんどかった。


あぁ、で、ルックスの話につなげるとしたら、こういうことだって、認知特性によって、得意不得意の分布がマジョリティの人たちとちがうということも、顔の造形が変わらないように変わらないものだという話です。

コンプレックスだ~!とかって大事に抱えててもよくも悪くもならないっていうか。


う~ん。

脳特性ってたぶん変わらないよね。

経年変化みたいなものはあるだろうし、環境によって変わる部分もあるだろうけど、顔や体型から逃れられないように、自分の脳ミソからも逃れられないというか。

可塑性(可変性と言い換えていいでしょうか)とかとはべつの話でね。

つまり可塑性のある部位の分布がマジョリティの人とはちがってるんじゃないかっていうか。

あ、まったくの直感で言ってるので、専門家の話として聞かないでほしいんですが。(そんなつもりありませんですか。)


個人を規定してるものって、やっぱよくわかんないな。

いろんな要因があります、以上!みたいな。


何が変わって何が変わらないか。

どの場面で何が変わるか。

いつどれくらいの時間をかけて。


たとえば、歯の矯正に1年や2年かけて歯並びを変えるとかね。


なにがじぶんでなにがじぶんじゃないか。

ぜんぶじぶんなのに、いちぶしかみとめないのはなぜか。


あかんなぁ。

素人くさいなぁ。

漠然とした問いを発するのだけ好き。


My Fascinating Life

2013-08-11 23:23:48 | 日常

近所のスーパーで買い物しながら、野菜不足をどうにかしようと思って、

“そうだ!かいわれが安い。かいわれを食べまくろう!”

と思って、かいわれ大根のパックをカゴに入れた時、

急に

自分がおもろい側の人間だったことを思い出した。

 

パワフル is me.


ゆめみがちだとして

2013-08-07 09:23:10 | Weblog
こどものころに思い描いた、夢の世界の形が歪んでいたとして、つまり現実とはかなり異なるものだったとして、どうしてそういう世界を思い描くことが可能なんだろう?

よくわからないや。

心的世界と現実世界の境界。

思ってた風とはちがうけど、すごく楽しいということはあって。

ましてや、想像もつかなかったくらい良いという現実はありえて。

予測ってなんだろう?

自分がそれをほしいと思うこと。

自分がそれをほしいと思い込むこと。

現実ってなんだろう?

ネガティブな意味で使われることが多いけど、現実は思ったよりエキサイティングってこともぜんぜんあって。

コンタクト報告( なゆゆ風に)

2013-08-05 19:16:28 | Weblog
10年ぶりのコンタクトレンズは使い捨てだお。

(・・・。)


前は、自分の顔も人の顔もリアルに見えていやだったけど、30になって着けてみると、自分の顔も人の顔もリアルに見えて、いいよ。

まず鏡をみて、“やっぱ顔でかいなぁ~”、と思ってから、新宿の街を歩いてみたら、顔でかい人がほとんどだったよ!

たのしい~!!


近視用のメガネって見たものがちっちゃく見えるじゃん?

いろんなものがリアルに見えてなかったのやね。

リアルに見たくなかったのやね。

でも今はリアルに見たい。

ちゃんと見たいよ。


日本はまだまだ楽しかったのです。