打越通信

日記ふういろいろ

小さな学校の同窓会

2017-10-30 20:55:05 | 日記ふう
2週続けて同じような台風が同じ進路と同じ時間帯でおいでになった。
朝からネットとテレビで台風情報を調べ、JR九州新幹線の運行状況を確認していた。
2週続けて九州に南側をかすめるように接近するようで大したことは無い事はだいたいわかっていた。
しかし雨に弱い九州新幹線なので運行は気になっていた。
数日前に同級生のコージから連絡を受けていた。
「小学校の同窓会をするけど来い」
という事だった。
クルマで行くか新幹線で行くかを迷っていると
「新水俣駅に10時半くらいに着く列車があれば拾って行けるよ」
との事だった。
おまけに台風の最接近と時間帯が重なっていたので列車で行くことにした。
自宅から博多駅(筑紫野口)へ送ってもらう。
新水俣までの2枚切符(14000円程度、高い!)を買って一度筑紫口を出た。



駅前には各地に向かう観光バス待ちの観光客でごった返していた。
そんなこともありちょっと早めに改札を抜けた。



通勤していた頃毎日通ったひかり広場改札、新幹線コンコースの懐かしい風景など、まだ3年ほどしか経ってないが懐かしく思えた。



帰りの列車を待ちながら一杯のビールに疲れをいやした店も変わっていなかった。
駅の土産品店、コンビニ(これはファミマからセブンに変わっていた)や待合室など変わっていなかった。
熊本までのツバメは11番ホームだったが、今日は熊本の先まで行くので博多通過のさくらに乗る。



定刻の9時7分のさくらに乗り込み席を確保する。
室内も窓からの風景もそのままの雰囲気だった。
懐かしさに窓からの風景を見ていると熊本駅に到着する。
まあ熊本駅が通過駅になることはそれこそ何年ぶりだろうか、いやいや博多からは初めてではないだろうか。
熊本から新水俣までは26分程度で八代から先は9割程度はトンネルなのだ。
駅にはヨシオとマサノブが迎えに来ていた。
途中であと2人乗り合わせ、隣町の出水に向かう。



出水の街中を抜け、武家屋敷が立ち並ぶ竹林の麓に和亭はあった。
私たちが着いてから次々と集まって(といっても8名程度)会は始まった。
水俣市の東に位置する全校生100名程度の小さな学校だった。
私は6年生に上がる時この学校に転校したわけだ。
隣町の大きな小学校から1学年18名程度の小さな学校だった。
それだけに仲間意識は強く、この一年間は貴重な一年だった。
それから中学校3年間も一緒だったが、中学校に上がればほかのマンモス校からの生徒たちと一緒になるので仲間意識も当然薄れてくるのものだ。
だからこの仲間意識は強かったのかも知れない。
今日は小学校の1,2年の時の担任先生の卒寿の祝いも兼ねているという。
初対面の先生に挨拶をするがとても90歳とは思えない若い先生だった。
先生を囲みなごやかに会は進むがいまいちその中には入って行けなかった。
だけどそんな彼ら彼女らを羨ましくも思えたが嬉しくも思った。
だって小学校の1年生の時の担任など私は完全に思い出せない。
そんな付き合いを長年続けているわけで、それはそれで素晴らしいのだった。
たった一年しか通わなかった小学校の同窓会に仲間として呼んでくれたこと自体嬉しかったが、変わらない仲間の意識が一つになったこともうれしかった。
帰りは唯一女子(おばさんか)と二人っきりで、駅まで送って頂いたのだった。

三日月の微笑み

2017-10-26 20:00:36 | 日記ふう
熊本に帰省した時に娘(息子嫁)が言う。
バス停でテラのオヤジとバッタリ会って
「お父さんのヘルペスは良くなったんだろうか」
娘は何の事だかさっぱり解らず「えーっ」と言って誤魔化したようだ。
当然私がヘルペスに罹ったことも知らない時の話だ。
今の会社の一部の人にも、もうずいぶん前にこのブログの存在がばれてしまっている。
まあ、どうってことは無いわけで、言いたい放題(書きたい放題)だし同意を求めるためでもないわけだ。
ただ書き残しておけば(あれは何時だったけ?とか去年の今頃は何してっけ?)といったことがめくればわかるのだ。
それも今流行のクラウドというわけだ。
ネット環境さえあればどこでもいつでもという奴だ。
近頃はすっかり書くことにも熱が入らなくなって更新が滞りがちになっている。
日記ではなく週刊誌的なことになってきている。

さてすっかり秋らしくなってきて、会社を出て外に出ると夕闇が迫ってきている時期になった。
自宅までの道を歩いているうちにすっかり暗くなってくる。
JRの高架下を歩いていると下りの新幹線が窓の明かりを赤々と点け過ぎて行く。
数年前はあの新幹線で通勤していたわけだ。
新幹線の窓から眺める博多の街はまったくの別の街だった。
今では逆の立場に立ってあの新幹線で熊本に行きたいと思う、不思議なものだ。
あのころは仕事もきつかったし、通勤も精神的にも肉体的にも限界だった。
おまけに介護が必要になってくるであろう両親も抱えていた。
あのころと今では全く違う。
通勤は歩きだし仕事も楽なものだ。
でもなにか物足りない。
「こんなんで良いのか!」
と問いかけてみても答えは無い。
うつむいて歩いていてふと空を見ると三日月が出ていた。
顔のようにも見える三日月が微笑んでいるようにも見えた。
さて年末に向けて慌ただしくなる季節だし、今週末もいろいろと行事がある。
割と充実しつつある今日この頃、三日月を見上げる余裕もあるのだ。

選挙の日

2017-10-23 21:02:19 | 日記ふう
台風の風が吹く中熊本に向かった。
選挙のためというとそれらしく聞こえるが、それをきっかけに帰ると言った方が正確かな。
住民票を移していなため選挙権は熊本にありハガキは転送されてわが手にある。
10月は息子たち夫婦の結婚式から2年目の記念日や息子の誕生日などありそれらもひっくっるめての帰省なのだ。
1か月前はゴルフのため帰省したが自宅でゆっくりと出来なかった。
今回は選挙以外はゆっくりとした感じで過ごせるようだ。
庭木の剪定や庭の雑草取りなど庭の掃除が私の担当になっていて、台風の雨風を避けながらなんとか最低限の作業で初日は終わった。
翌日は朝から選挙に出かけた。
熊本一区は候補者は2名、選挙するまでもなく戦う前から結果は見えていた。
それよりも緑のたぬきがどうなるのか、そちらに興味があったわけだ。
選挙も終わり、家族で食事に出かけた。
地元の中華料理店で息子夫婦のお祝いを兼ねたランチだった。
近況を聞きながら周りは少しずつ変化しているようだが我が家の方は変化はなかった。
楽しい食事を終えて、どこかに行こうとなり熊本城の二の丸広場に行ってみた。



駐車場からの熊本城北側(裏側)は石垣が崩れた(震災の次の日に来て以来)状態がそのまま残っていた。
石垣が崩れないようにワイヤーの網で石垣が覆われていた。



二の丸広場では地場の放送局のイベントがあっていた。



その横の一角には崩れ落ちた石垣がきれいに整理され番号が振られて置いてあった。
天守閣は工事用の囲いに覆われ異様な光景だった。
広大な場内のいたるところにがけ崩れが起こっていてまだ手つかずの状態が見えた。
イベント会場の特設ステージの上では、お笑い芸人が会場を盛り上げようとはしゃいでいた。
ずらりと並んだ食バザーのテントも台風の風で今にも吹き飛びそうな雰囲気だった。
震災から1年半が経ち、必死の復興作業が進むなか台風の影響で冷たい北風が吹くイベント会場、おまけに国政選挙の日だった。
しばらく冷たい風が吹く中会場にいたが電話がかかってきた。
すぐに会場を後にして、我が団地に引き返した。
ジロー夫婦と暖かいコーヒーで団欒をして、後髪を引かれる思いで福岡に戻った。



高速はそんなに混んでいなかった。
しかし横風がクルマを襲い、ハンドルを取られながらなんとか市内に入った。
市内は土砂降りの雨だった。
自宅に戻りテレビでは開票速報が始まった。
1分も経たないうちに自民党圧勝の体制が報道された。
不思議に思いながら早めに布団にもぐりこんだのだ。

サーフェースの行く末

2017-10-20 20:50:54 | パソコン
ヘルペスの痛みも峠を越え、ここ数日やっと安らぎの睡眠がとれるようになった。
気分的にも暗いトンネルを抜け少し爽快な感じになってきた。
仕事のほうもそれなりに進んではいるが、どうも波長の合わない状況は変わらないかな。
それでもグループでの飲み会や、個人的に信頼ある人たちとの飲み会などで随分と助けられてはいる。
屈託のない笑顔が心の支えに確かになっているようだ。

今年5月に導入したサーフェースが再び電源が入らない現象が発生した。
電源ボタンの長押しや、電源ボタンと音量キー(+キー)の長押しなどしてみたが、前回の時と同じでお手上げ状態となった。
ふたたびMicrosoftのサポートに電話し交換の手続きとなった。
交換はこれで3回目、さすがに不平不満を示すが、ただただ「交換です」を繰り返すばかりだった。
結局、個人データの保証はないわけで天下のMicrosoftも地に落ちた感じだ。
修理上がりの機器の初期設定を行うが、これまたバージョンが上がったのか変化していた。
簡単な設定になった半面、細かな設定が省かれていて云われるがままの状態で進む。
とりあえず初期設定も終わりサインインの状態からおかしくなってしまった。
Microsoftのアカウントでサインインしたのが間違いだったようで、ドメインに入ろうとするとMicrosoftへの接続を切るようなメッセージが出て先に進めなくなった。
ログオフしてローカルアカウントで入ろうとするが入れない。



シフトキーをしながら再起動をかけ初期化を行おうとするが「回復キーを入れろ」といってくる。
回復キーを探そうネットで探すが返答はなし。
とうとうサポートにふたたび電話をして状況を確認する。
結局、ネットから回復用のOSをダウンロード、USBへ複写してUSBからブートする方法しか無いようだった。
とりあえずダウンロード先のURLとUSB(16GB)(これもFAT32でのフォーマットが必要)の手配、ダウンロード後の解凍と実行ファイルの複写方法、それをサーフェースへ接続してUSBからのブート方法の指示をもらった。
ダウンロードにかなり時間がかかるという事で後日実行することにしたが、まったくなんでこんな面倒なことになったのだろう。
初期設定で「会社や学校」などというややこしい言葉を使うのでそちらを選択したのがいけなかったようだ。
クラウドを意味しているようでそこにMicrosoftのアカウントを登録したのが間違いだったようだ。
誰でも間違えそうな(私だけかな)事なのだが、Microsoftのサポートも大変だと思うよ。
まったく持ってMicrosoftのこの横暴さにはあきれるばかりだ。
まあ、そうは言ってもそれはそれで進化しているのかどうかは知らないが、そんなことを言っている私が「としかな?」と首をかしげるべきなのかも知れない。

Windows10のちょっと規模の大きなアップデートが開始され「パソコンが動かなくなった」と現場から声が上がる。
Microsoftはどこに向かっているのやら・・・。

としかな(3)

2017-10-15 18:07:59 | 日記ふう
この数日頭痛で苦しんでいる。
3日前くらい前から風邪のような腫れぼったい感じが続いていて、扁桃腺あたりに痛みが出た。
顔の右あごあたりが少し腫れ黒い傷跡が出来ていた。
それまではそんな変調があったのだが金曜日は朝から頭の右側に痛みが出た。
会社後行きつけの病院(内科)に行ったが「皮膚科に行った方が良い」と痛み止めだけしか処方してくれない。
肩のコリからの筋肉痛なのかなと思ったが頭皮がヒリヒリする痛みがだんだんと激しくなりとうとう痛み止めを飲む羽目になった。
それでも痛みは軽減されるだけでなかなか寝付くことが出来ず、次の土曜日は仕事だった。
会社を抜け出しネットで探した新幹線駅ビルにある皮膚科に行ってみた。
何と2時間待ちだというのであきらめた。
皮膚科といっても美容が絡んだ皮膚科のようで若い女性を中心にした患者であふれていた。
その日はあきらめて今日の朝から再びネットで病院を探し予約を入れた。



冷たい雨が降る中、てくてく歩いて駅前一丁目にある病院に行った。
ここも美容が絡む病院なのかなと思ったがそうでは無いようで予約通りに待たずに診察を受けた。
痛みが出ているところを見て
「ヘルペスで間違いないでしょう」
と判断された。
加齢やストレスで抵抗力が落ちるとかかりやすい病気だという。
数日、抗生物質を飲んでみて症状に変化が見られない時は再び受診するように云われた。
博多駅構内にある薬局で処方された薬を受け取りその場で飲んだ。



アパートに帰っても何もすることが無いのでしばらく駅ビルやその付近をウロウロとした。
昼食をとり再び痛み止めも服用し冷たい雨の中てくてく歩いて自宅に戻った。
博多に出て来てから新しい病気に再びかかってしまった。
月々の医療費もバカにはならない。
早く良くならないと痛みによる睡眠不足の辛さの方がきついのだ。

佐世保バーガーと墓参り

2017-10-10 20:48:43 | 日記ふう
3連休も土曜日は仕事を入れていて特に予定は入れていなかった。
急きょ仕事が中止になり、さてさて何をすべきかと思案した。
しかし何も良い考えも思いつかず、ダラダラと2日が過ぎてしまった。
10月というと義父の命日だった。
そして義母の命日でもあることを思い出したのだった。
佐世保に住む義理の兄夫婦もどうしているか、様子見と墓参りを兼ねて出かけることにした。
夏がぶり返したような暑さの中、都市高速から西回り自動車を使って佐世保を目指す。
西自動車道も伊万里付近が今のところ終点になっており、一般道に降りて伊万里市内から国見岳、世知原を経由して実家に着いた。
早速墓参りに向かう。
義父が生前に建てた立派な墓がひっそりとした藪の中にあった。
小奇麗に掃除してあり、刻まれた命日を見ると義父が無くなって13年が経つ。
同じ時期の4年後に義母もなくなっていて、享年も同じ歳だった。
年に一回お参りするかしないかという事もあり、しばしお墓の前で義父義母の思いでに浸った。
義兄達と甥っ子夫婦たちも元気なようで、家業をしている関係で実家の方は誰もいなかったが会社(仕事場)のほうでしばらく情報交換などをして1時間ばかりであとにした。
海を見たくて九十九島で有名な海岸線に行きたかったが、佐世保の街中に出てみた。



佐世保の商店街は細長い商店街で三ヵ町、四ヵ町のアーケイドがある。



海軍の街なので海兵さん達や米兵らしき外国人が多い街でもある。
アーケイドの横道に入るとそんな米兵を相手にした洒落たバーやカフェが多い。
そして佐世保といえば「佐世保バーガー」なのだが、まだ頂いた事は無い。
盆正月に帰省してもなかなか思った時間が取れず食う機会がなかった。



何件かバガー屋をまわってみたがどこも長蛇の列が出来ていた。
やっと一軒の食堂(バガー専門店ではない)に列が少ないところがありそこに入った。
しかし注文はすれどなかなか出てこない。
10分くらいしてやっと大きなバーガーが出てきた。
かなりのボリュームだったがなんとか食らいつき平らげてしまった。
さて海でも見ようと弓張岳に登ってみた。



佐世保湾が一望できる場所で、湾内の米軍基地には航空母艦らしき船が寄港していた。
湾を三分割するように海上自衛隊の艦隊も並んでいた。
そして佐世保重工業(SSK)(今は名前が変わったのかな)の巨大ドッグが見える。



西の海を見ると九十九島も島々(南九十九島)が見える。
風光明媚な光景が目の前に広がっていた。
夕日がきれいなのはわかってはいるのだが、帰路についた。
長崎自動車道がまだ無かった頃に良く通っていた国道35号線を走りたかった。
懐かし風景を見ながら国道35号、34号線で佐賀、鳥栖を抜け福岡を目指した。
さすが3連休の最後の日とあって国道3号線に出てからは渋滞にはまってしまった。

としかな?(2)

2017-10-06 22:03:03 | 日記ふう
久しぶりに先輩が自宅に遊びに来た。
いつもは会社帰りに駅近くの一杯飲み屋で軽く話をすることもあるのだが、ガヤガヤした雰囲気では落ち着いて話も出来ない。
たまには家飲みも良いではないかと手を引いて連れてくる。
福岡の今の職場を紹介してくれた先輩だし、前の会社、いやいやその前の会社からの付き合いだから、もう30年以上というわけだ。
まだ社会人になって右も左もわからない時からの縁という事だ。
互いに会社は違っていたが、何せこの業界(IT業界)は変化が激しかった。
彼はソフトハウスのような会社を同僚たちと起こし、私は地場を中心に活動する総合商社のような会社だった。
コンピュータ事業の立ち上げ時期でまだ技術力がなかった時期にソフトハウス的な技術の提供を受けていた。
そんなコンピュータの黎明期のような時期だったので不安と期待で揺れ動いていた時代だ。
紆余曲折がありもう20年あまり前に経営統合というのか技術統合というのか新しい会社に吸い込まれて一緒になった。
彼はいつの間にか営業職になり、私はそのまま技術職として仕事をしていたので、あまり仕事上ではかかわりはなかった。
お互いにその会社を離れたが再び同じ会社に勤めることになったのだ。
彼は福岡にマンションを購入しその支払いをつい最近済ませたような事を言っていた。
しかしマンションの管理費や修繕積立金のようなモノ、駐車場代などを含めると月に3~4万円はどうしてもかかるという。
私たちが今借りているマンションの家賃が6万円(安い方だと思う)だから結構かかるものだ。
当然、広さや快適さはくらべものにはならないが、これが生涯続くのかと思えば気が重くなる。
せっかく購入した家も維持費がかかればそれに見合う生活が必要となるわけだ。
戸建てにしても固定資産税や修繕費は当然かかるわけでタダではないことはわかっている。
住宅購入だけでもこれだけ生活を苦にし返済したのに、購入後にもさらに維持費で持って行かれるわけだから生涯獲得収入のかなりの部分を占めているわけだ。
快適な生活などと言ってはいるがそれだけコストはかかっているわけで、生涯働けねば生活出来ないという事になるわけだ。


セブの楽園だ(オランゴ島)

生涯つかえきれないお金を持っていてもしょうがないが、少々のお金があれば、豊かな自然に囲まれて自由に暮らす田舎暮らし、悪くは無いなとおもう。
息子たちの事、娘の事などを思い、そして将来のある程度の計画を立て福岡に出てきたのだが、そろそろ次の段階も考えなければならないかもしれない。
この先の時間が限られている事はどうしようもない現実だからだ。

としかな?

2017-10-04 21:41:00 | 日記ふう
数年前までは毎週のように通っていた道だが、いつの間にか自動車専用道が隣町まで出来た。
つい最近の事だ。
国道3号線の八代から南に下る道(肥薩オレンジ鉄道(旧JR鹿児島本線)と並行している)が、九州自動車道から分岐して南周り自動車道として整備が進んでいる。
八代から南は山が多く三太郎峠などと呼ばれた旧国道は山道だった。
今の3号線が出来き随分と走りやすくなってはいるが、この自動車道は長いトンネルで繋いでいるためにさらに便利になっている。
八代から実家まで1時間以上かかっていたのが30分程度で結ばれるのだから時間的には便利になった。
時間的だけではなく体力的にもかなり楽になったのではないだろうか。
そんな自動車道も隣町から実家のすぐ近くにインターが出来るようで工事が進んでいた。
両親が健在だった頃に何度となく通った道が今では1時間ちょっとの時間で行ける。
福岡での日々が単調な間に、久しぶりに実家に帰ると少しずつではあるが変わりつつあった。
新幹線も出来き博多からは1時間とちょっとの距離になったし、クルマでも高速とこの自動車道を使えば3時間を切る距離になったわけだ。
熊本市内からいえば新幹線で26分、クルマで1時間ほどの距離になった。
皮肉なことに両親が健在だった頃は帰省するとなるとそれなりに気合を入れなければならなかったが、今では気楽に行ける距離になった。



そんな距離感が変わったわけだが、久しぶりの故郷の街はあまり変わり映えしてはいなかった。
山あり海ありのとてもきれいな街なのだが企業による公害で一気に有名になった街なのだ。
そんな街中には地元出身のシンカーソングライターの村下孝蔵の碑が立っていた。



ちょっと見るとお隣の国のなんとか像に見えるが、そうではない。
村下孝蔵の「初恋」をイメージした少女像なのだ。
私も彼が通った中学校の後輩にあたるわけで、最初に「初恋」を聞いたとき中学校の校庭(運動場)がイメージ通りだった。
そんなこともあり「初恋通り」などとしてアピールしていた。
温泉も海山ともにあり自然豊かな街なのだ。



そしてスイーツもかなりレベルが高く「美貴もなか」や「宝楽饅頭」など有名である。
などと宣伝めいた事を言ってはみたがやはり田舎町ではある。
田舎町ではあるがこれだけアクセスが良くなっていけば田舎といっても昔の感覚とは全然違うわけだ。
故郷といっても小学校6年から7年間だけ住んだだけなのであまり深いつながりのようなものは無いのだが、近頃、田舎暮らしも悪くないかもしれない、そんなことをちょっと真剣に考えるようになった。

情報の価値

2017-10-02 21:43:21 | ネット記事
自宅でパソコンをひらくのも久しぶりな感じだ。
なぜか毎日がひどく疲れていて、自宅に戻ってきてもそのまま眠気との戦いになってしまう。
季節の変わり目でここ数日急に寒くなってきたせいなのかも知れない。
今日も冷たい雨が降り昼間はかなり強く降っていた。
夏から急に晩秋の雰囲気になり肉多的にも精神的にも追いついていないようだ。
別に仕事が忙しいとか好きという訳でもないのだが、土曜日まで仕事をしていた。
そんなある日、自宅に戻り急に息子から連絡が入った。
熊本の自宅近くで火事があり家が数軒全焼したとのことだった。
ネット上でも流れているというのですぐさま検索をしてみると、地方局にあちこちで火事のニュースが動画で流れていた。
テレビ熊本では「北区打越町で4棟に被害が出る火事」、熊本放送では「住宅5棟が焼損」、NHK熊本放送局は「住宅3棟が全焼」とあった。
どれが正確な情報かはわからないが3棟から5棟に被害が出る火事があったのだ。
打越町というが場所はどうもわが打越台団地のようで、NHKのニュースには被害にあった住宅に住む人の名前が出ていた。
1人に方の名前に覚えはあったが後の方はあまり聞いたことのない方だった。
記事と動画の様子から場所の特定はできたわけだが、どうも団地の外れのほうのようだ。
約80戸からなる団地の小高い丘の一番高い所だった。
小山の半分が団地造成で開発されたた我が団地で、後の半分は昔からある古い家が立ち並ぶ所だ。
その境のようだった。
早速、ジローさんに電話をして確認すると団地のある人の名前が出てきた。
私たちが住むところとは2ブロックほど上なのでこちらには被害はなかったという。
次の日にテラのオヤジに電話してみると、やはり同じ団地の方の名前が出てきた。



その方の家は全焼したようで、火元はどうも丘を越えた古い家だったようだ。
何が原因だろうと問い合わせたが答えは無かった。
ちょうどその朝は寒かったし風が強かった。
ストーブかなと思ったが何せ出火は昼の2時頃なのでそれも無いだろう。
乾燥した季節だし風も強かったようであっという間に火が回ったようだ。
記事を読むとポンプ車が15台出動したようで、あの細い道をどうやって上ったのだろうと不思議に思った。
動画を見ていると我が団地の様子も写っていた。
違法駐車(路上駐車)の多い場所なので緊急車両も大変だったと想像がつく。
しかし去年の熊本地震といい、そのあとの土砂崩れによる災害といい、そして今回の火事、近辺で災害が続いている。
今回の火事も福岡にいては知る由もない。
息子からの連絡が無ければ福岡のテレビでは流れない情報なのだ。
これ以上の災害が続かない事を祈るしか術がない。