打越通信

日記ふういろいろ

ハーフターン

2016-06-30 20:56:48 | 日記ふう
明日から7月という事で今年も半分が過ぎてしまた。
あっという間に過ぎてしまったと思うのは毎度の事にもなってしまった。
年が明け、初詣の願い事も何をお願いしたのかさえ忘れてしまって、半年の成果がどれほどの事だったのかの評価も出来ない。
まったく、毎年の事だけど進歩の無い人生なのだ。
まあ、でも今年の前半は変化があった。
パラダイスから一気に現実の世界に引き戻され、その余白を埋めるかのようにその変化に苦しみ、アップアップといったところだろう。
今年に入ってそろそろ何か動き出さなくてはならないなと思いながらも漠然とした気持ちしか無かったのに、3月の終わり頃から博多での仕事の話が出て一気に動き出してしまった。
これが良かった事なのか、悪いことだったのかはまだわからない。



妻は喜び庭かけ周り、私は不安だったけど子供達の将来を考え動き出すことにした。
アパートを借りるという事がこんなに大変だという事を痛感させられた。
何せ無職なので保証人が必要になる。
こんな事は初めてだったし、周りを見回すと頼りの叔父伯母も高齢になっていて保証できる人がいない。
息子や娘にお世話になるのもみっともないし、と思っていたら、今の会社が採用通知書を出してくれた。
偶然にも物件も娘が住むマンションに割と安い値段で空き出てラッキーが続いた。
そんな博多暮らしもやっと3ヶ月が過ぎ、落ち着いてきた。



しかし仕事を始めるということがこんなにもつらいモノかと痛感した。
企業文化の違いもあるし、慣れない事務の仕事もこなさなければならない。
最初はいい加減な気持ちがあったのだが、それではダメだと真面目にこなした。
ミスも多々あったが、これまたラッキーな事が続き、大きなミスには至らなかった。
性格的にどうも突き進むようなところがあり、ただひたすら仕事をこなした。
毎日会社に出て、パソコンの上に書類があると憂鬱になった。
朝からの数時間は前日やった仕事の見直し、結局これが大きなミスを防ぐ事になったのだが、精神的には疲れた。
制度的にもおかしいところも多々あったのだが、商慣習という事もありあまり大きな声は出せなかった。
しかし隣に座る女の子達には分かってもらえたのかも知れない。
出社してパソコンに載る書類も今ではすっかり無くなってしまい、一段落といったところだ。



システム的な事はまったく出来ず、これも今からといった状況になる。
性格的に深く入り込もうとするので、それだけはやめ、距離を取り若い連中のサポートをしっかりするようにと決めている。
若い連中の自信たっぷりの笑顔を見るのが今の生き甲斐のようなものだ。
書いているうちに後半戦の目標も出来たようなので心に刻んでおこうと思う。

英彦山から

2016-06-28 20:27:16 | 小旅行
博多のアパートから英彦山までは1時間ちょっとで着いた。
太宰府方面から冷水峠を越えて行く方法もあるようだが、朝倉方面からナビに任せ登った。
途中、焼き物で有名な小石原という町に出た。
熊本方面から来たときもこの町を通った記憶がある。



その道沿いを走っていると行者杉の看板が出ていた。
確かこんな場所があったような、記憶は定かでない。
初めて英彦山に行った時に<「羽犬塚」という駅から列車を乗り換えて>と記憶していたがどうも記憶違いのようだ。
九大線は久留米からだったのだろう。
確かに羽犬塚から矢部線が昔通っていたようだが日田英彦山線とは接続していなかったようだ。
道沿いに山道を走って行くと急カーブになり高い鉄橋が見えてきた。
かすかな記憶がよみがえり英彦山駅が見えた。
その手前を右折して再び山道に入った。
山道を登って行くが、英彦山がこんなに山深かったのかと昔の記憶が消されていく。
町の広場に出て駐車場にクルマを止める。



案内板が出ていたがどこがどこだかさっぱりとつかめない。
英彦山宮の看板を見つけ細い道を行ってみた。



古い旅館が建ち並ぶ場所を見て初めてそこが目的地である事がわかった。
昔の宿坊と呼ばれた旅館はどこも閉まっていた。
おみやげ品屋があったの女主人と立ち話をした。
昔の旅館の名前を出して話を進めると、真っ赤な鼻のお父さん、おしゃれなお母さん、若女将の話が次々とかみ合っていった。
今は道路事情も良くなり、福岡市内方面からの人たちも日帰りが出来るので、宿泊客はほとんど無いという。
数件あった旅館も今は一軒も無いそうだ。
しばらく近所をブラブラして、帰り道をどうしようかと考えた。
福岡県といえども大分県との県境、<耶馬渓>などの看板も目についた。
とりあえず下山して行橋に向かうことにした。
だんだん細くなる山道だった。
梅雨の晴れ間で天気は良いが、土砂崩れしないかおそるおそると下山した。



途中で建設中のダムの工事現場に出た。
結構大規模な工事をやっていた。
行橋市内で昼食をとり、国道10号線で小倉近くまで出た。
そこから国道201号線で田川、飯塚を抜けて帰ってきたが、途中で見たオレンジ色の屋根瓦、先日の山口方面で見た石州瓦だった。
九州も北に来れば山陰の影響を受けているものだと納得した。

英彦山

2016-06-27 21:40:24 | 小旅行
英彦山に初めて行ったのは、結婚式に出席するために行ったのが初めてだった。
まだ学生だったので新幹線に乗り、博多駅で在来線を乗り継いで行った記憶がある。
父から、鹿児島本線の羽犬塚という駅で乗り換えて行くようにと言われた記憶がある。
どこをどう行ったのか覚えていないが列車で行ったのは確かだった。
今思えば小倉からの方が近いような気がするが記憶違いかも知れない。
結婚式は長い階段を登った先に神社がありそこで行われた。
祖父も祖母もまだ元気で、その長い階段をみんなで登った思い出がある。
厳かな結婚式だった。



それから数年して英彦山の中腹近くのある、古い旅館で1ヶ月近く住み込みのアルバイトにかり出された。
学生だったので夏休みの間、妹と一緒に住み込みで働いた。
旅館は初老のご夫婦と若夫婦の4人で切り盛りしていた。
若夫婦の奥さんは子供を身籠もり、大きなお腹を抱えて四苦八苦されている。
老夫婦は赤い鼻の気さくなお父さんとおしゃれでおしゃべりが好きなキュートなお母さんだった。
旅館の仕事は結構な重労働で、布団の上げ下げに、天気の良い日は布団干しなどある。
部屋の掃除もこれまた大変な作業で、箒で掃除した後はぞうきんがけを丁寧に一部屋行う。
確か古い建物で2階建てだった。
階段の上り下りも布団や座布団を持ってだから毎日くたくたに働いた記憶がある。







旅館の庭は何か由緒ある庭で、それがこの旅館の唯一の自慢だった。
部屋の掃除が終わると庭の掃除になり草取りが待っていた。
たまに若旦那と山の麓の添田町まで買い物に出る。
宿泊客に出す料理の食材の買い出しだ。
行きつけの魚屋で丸々と肥った鯉を2,3匹買う。
ビニールに肥った鯉と水を入れ、空気をパンパンに膨らませそれを持って帰る。
それを手際よく若旦那が裁いていく。
鯉の洗いに鯉こくがこの旅館の昔からのおもてなしのようだ。
夕食が済むと布団の準備に食器洗いが待っていた。
寝るのはいつも夜中の12時をまわってからだった。
再び朝になり泊まり客を送り出すと布団干しから一日が始まる。



その当時はまだ近くの旅館街もお客が多く、結構賑やかだった。
バイトを終え帰る日になった。
若女将がワインをグラスに持ってきてくれた。
甘酸っぱいワインを飲み干しお別れだった。
その味だけは今でも忘れられない思い出になった。



英彦山には何年ぶり、いやいや何十年ぶりだろう。
今ではすっかり寂れた感じで、まだ朝も早いせいかもしれないが人影はまばらだった。
赤い鼻のお父さんも、おしゃれなお母さんも、そしてあのワインをついでくれた若女将も今はいない。
そしてあの旅館も跡形も無くなってしまった。
あのお腹にいた赤ん坊が今や2児のお母さんになっている。
時代の移り変わりだ。

続く災害

2016-06-21 21:05:36 | 日記ふう
夜中にもの凄い雨が降り出した福岡。
雷が鳴り、その合間にはサイレンが鳴り響いている。
何年か前の水害で地下に浸水して死亡事故まで起きてる。
市内には御笠川と那珂川という大きな川があり、その川の氾濫が被害を大きくするといわれている。
福岡市内のあちこちで浸水対策の工事が行われている。
どういう工事なのか具体的にはわからないが至るところで行われている。
コンクリートで固められた地表なので水の行き場を作らなくていけない。
大規模な貯水層を地下に作り、とりあえずそこに水を溜めるといった工事なのだろう。
そういえば博多駅の近くの公園の下にもそういう施設がある。
会社に出て同僚と話をしていると
「熊本市の北区で土砂災害が発生したようですよ」
という。
「北区も広いのでどこか山の方だろう」
などと話していた。
家に帰り妻と話をしていると、なんと自宅の隣町の津浦町だった。
さっそくテレビをつけ画面を見ていると、自宅から100mも離れていない場所だった。
京町台という高台から駆け下りると津浦町や我が打越町になるのだが、その下り降りるまさしくその場所だった。
2名のご老人夫婦が犠牲になられたようだ。



昨夜からの豪雨の中、息子から妻宛に写メが送られていた。
自宅下の道のようだが小石が散らばっていて、すぐ近くまで水か来ているようにも見える。
どうもその土砂崩れの土砂がバス通りまで流れ出たところのようだ。
大きな地震で地盤が緩んでいる中、記録的な大雨が襲って来る。
そういえば地震で壊れた川沿いの堤防は大丈夫なのだろうか。
阿蘇の方はどうなっているのだろうか?天井川の白川は?熊本城は?最大の被害地の益城町は?そんな気の揉むばかりだ。
明日も大雨の予報が出ている。
今週いっぱいぐらいは気が抜けない。

山口の旅

2016-06-20 21:50:41 | 小旅行
旅の間はちょっと風邪気味だった。
クシャミに鼻水、そして頭がぼうっとしていてあまり快適な旅ではなかった。
それが良かったのかどうかはわからないが、今日は今回の旅に浸って過ごした。
ただ見たモノを肌で感じ、その雰囲気を取り込んで、その中に何も考えず漂っていた。



やはり日本海のあの綺麗な海には感動だった。
港町の長門市、海に囲まれた州のようなところに家が点在していて、その先には青海島がある。
橋が架かり、その下には深く蒼い海が見えた。



その半島の先の方に金子みすゞの生家があった。



上を見上げるとトンビがひゅうひゅうと何羽も飛んでいた。
港には大きな市場があり、大きな港町の雰囲気だった。
そして萩の町だ。
閑散とした海岸線に突然のように港町が現れる。
三方を山に囲まれたいわば偏狭の地に長州藩の藩主が居たというのもこれまた驚くべきことだろう。
幕末から明治維新にかけ活躍した偉人たちがこの地から生まれたというのも驚きだろう。
戊辰戦争の流れは今でも引き継がれ、友好都市としての誘いにもあっさりと断られた経緯のあるという。
町自体がその当時のままのようで、時代を感じさせられる、そんな思いにさせられた。
山陰という言葉があるように、山陽とはうって変わった風景があちらこちらに見る事ができた。



萩から津和野への山道は険しく、ところどころに見られる民家の屋根瓦に独特の雰囲気が見られた。
津和野から山口市に向う国道(9号線)も昔の山陰道という道だったようだが、なんとも侘しい道だった。
それが帰って魅力的に移った。
山口市も山に囲まれた小さな町だった。
山口市に入る寸前まで秘境のような佇まいには驚いた。
山道(国道)の下を眺めると絶壁になっており、下には集落が見える。
山を下ると盆地に都市が広がっているでは無いか。
失礼だがこれが県庁所在地なのかと疑うようなこじんまりした都市だった。
ここが山陰と山陽の境目なのだろうか。
下関、防府や宇部といった看板が目に入る。
そこまでが今回の旅の記憶だった。
それから妻に運転を代わり熟睡だった。
アパートに帰りそれからも熟睡状態で今日を迎えた。
しかし、目に焼きついた今回の旅は、強烈な印象として心の中に焼きついたようだ。

萩から津和野へ

2016-06-19 22:06:57 | 小旅行
ホテルの窓からは日本海が見える。
陽が落ちた暗い海には漁り火が水平線に一直線に並び、イカ漁でもしているのだろうか。
そんな海と潮騒を聴きながら夜遅くまで眺めていた。
熟睡だった。
起きたのは6時だった。
窓の外は雨が降っていた。
妻はまだ熟睡のようで、静かにタオルを持って大浴場に向かった。
潮の味がする温泉に浸かり日本海を眺める。
大小の島々が見え、連絡船だろうか、朝早くから汽笛を上げ向かっていた。
大きな島には900人が住んでいる、小さな島は3名、ほとんどが無人島だという。
人が住んでいるということは食料や水などの物資が必要だ。
人の行き来にも必要だろうが、生活用品を運ぶ大事な生命線のようだ。
風呂から上がり、起きあがった妻と朝食に向かった。
新鮮な魚や上品なおみそ汁などで満足な食事だった。
ホテルを精算(といっても息子達が済ませていた)し雨が上がった萩の城下町を歩いてブラブラした。



大きな二つの川に出来た三角州に城下はあった。
それは江戸時代から変わらない、今でもその当時の地図が使える町だという。
近代化で鉄道が引かれたが、その中州を取り巻くように線路は引かれたという。
城下の中にはいると武家屋敷が直線で遙か先まで伸びていた。
その中を海べりから陸地に向かって真っ直ぐ歩いて見た。
昔風の武家屋敷が並び、萩藩の雄志たちの旧家があちらこちらに点在していて、玄関先には看板が設置してあった。



城下の外れに小さな橋が架かっていた。
平安橋。
お城と城下につながる堀になるのだろうか。



鯉や亀が共存していた。
一時間ばかりそんな城下を散策し、さてさてとクルマに乗り込み津和野を目指した。
ナビを頼りに山道を登っていく。
九州では珍しくなった白線の中央線だ。
周りの風景はオレンジ色の瓦屋根が続く。
約一時間で津和野に入った。
山々に囲まれた集落だった。
道の駅で休憩を入れる。
ちょうど神楽の舞台が組まれ、太古や笛で神楽が始まった。



津和野の町に入り高台に神社が見えたのでそこまで登ってみた。
津和野の町が一望できた。
クルマで津和野の町を散策して、帰路に向かった。
国道9号線で山口市に向かうのだが、山と田圃と石州瓦の農家の風景が続く。
山で囲まれた山口市で軽い食事をとり、妻と運転を代わった。
中国道に乗り、熟睡だった。
目が覚めた頃には関門海峡の上だった。
福岡インターでおり無事に我が家に着いた。
初めての山口県への旅だったが、山陰の風景は目に焼き付いてしまった。
せっかく福岡にいるのだからもっともっと散策してみたい、そう思った旅だった。

2016-06-18 21:46:56 | 旅行
日々の仕事もぜんぜんハードでもなく時間通りの勤務なのだが、日々疲れ切っている。
慣れない事もあるのだろうか、体力的には問題ないと思っているが、まだ本調子では無いのだろうか。
そういう中に息子と娘からささやかなプレゼントの続きがあった。
「おとうとおかあに温泉旅行!」
というプレゼントだ。
それではせっかくなのでと、今朝6時半にアパートを出た。
福岡に来たからには地の利を利用してあちらこちらに行ってみたいと思っていたところだった。
さて、どこがいいのか、と妻と話はしていたが、無難なところで萩と意見は一致したのだ。
朝も早いし、高速での移動は町の景色も雰囲気も楽しめないので国道を北上する事にした。
割と道は空いていて北九州の小倉で一休みした。
仕事で良くいっていた赤坂海岸で海峡を渡る船を見ながら一息入れた。
海岸線を国道199で門司港に行き、関門海峡の海底トンネルを出て下関に出る。
後は海岸線を国道191で長門を目指す。
初めて通る日本海の海岸線の眺望は素晴らしく、途中で何度も海を眺めるため停車した。
国道を平行するように山陽本線が通っているが列車の姿は見ることは無かった。
しばらく走っていると家の瓦の色が鮮やかなオレンジいるの変わった。
石州瓦(せきしゅうがわら)といわれる山陰地方独特の瓦屋根だ。
しばらくはポツリポツリとこんな風景が続いた。
そして看板には「特牛」という看板が現れる。
妻に看板の読みを見るようにいうが
「<ことい>でしょう」
という。
しかしローマ字のTの字が多いように思う。
「いやいや<こっとい>でした」
と訂正を言う。
とても<こっとい>とは読めないものだ。
途中で朝食をと思ったがもうすでに10時を過ぎ11時になろうとしていた。
気の利いた喫茶店や、この道沿いにはコンビニも少ない。
この道沿いで初めて見た道の駅だった。
やっと遅めの朝食、いやいや早めの昼食だった。



しばらく妻に運転を代わってもらい、やって来たのは角島大橋だった。
さすが観光地、観光客で賑わっていた。
美しい海に美しいシルエットの橋が架かっていた。
島自体も観光地化されて見所はあるようだが、先を急いだ。
次に行きたかったところは金子みすずのふるさと、長門市。
ナビで金子みすず記念館をセットし直行だった。



生まれた家は文具や本を扱っていた店のようでそのままの姿で記念館として数々の作品が展示されていた。
特に小学校の教員だった祖母がとても金子みすずの誌が好きで幼い頃、その誌を聞かされていた。



純粋な心の持ち主のようで素朴だがしっかりとした内容の誌だ。
展示された誌を読みつつ祖母の事を思い出していた。
長門から約一時間ほどで萩の町に入った。
ホテルは海岸のすぐそばで、窓を開けると砂浜があり、指月山がすぐ近くに見えるところだった。
午後三時でまだチックインには早い時間だったが荷物を置いて市内観光に出た。
萩の町は初めてでは無いが、前回来たのは遙かかなりの昔の事で町の様子など覚えていなかった。
九州でいえば唐津の町ににているのかも知れない。
おおきな川が流れていて海に近くにお城がある。
しかしここはかの有名な松下村塾があった町、さっそくそこに出向いた。







大きな松の木に囲まれたこの場所には、松下村塾や吉田松陰の幽因の居、松蔭神社まである。
明治日本の産業革命遺産群として世界遺産に指定されているその一つなのだ。
近くには伊藤博文の生家などもあり、幕末から明治にかけて活躍した偉人達を世に送り出した場所だ。
同じく世界遺産の一つ反射炉を見に行ったがここはあまりぱっとしなかった。
萩城跡に行ってはみたがここもあまりパッとしなかった。
城下町や武家屋敷のような場所もあったが初日で疲れが出てホテルに戻った。



潮の味がする温泉に浸かり、美味しい料理をいただいて、部屋に戻ると、綺麗な夕焼けに染まる景色にしばらく見とれてしまった。

ささやかな旅

2016-06-12 22:09:37 | 小旅行
朝から雨が降りそうな天気だ。
妻は友達が熊本から遊びに来るとか来ないとか、はっきりしない態度だった。
結局、雨が降るので明日に延期になったようだった。
遅めの朝食をとりながら、印象派が北九州に来ているので一緒に行かないかと誘ったが、今日はいいと断られた。
9時過ぎにアパートを出て博多駅まで歩く。
雨は霧雨のようなモノが降っていたが傘はささなかった。



博多駅に着くと、駅前の広場に博多祇園山傘の飾り山の土台作りが始まっていた。
いよいよ7月からは飾り山が飾られ祭りが開始する。
小倉まで新幹線で行くか在来線のするか迷ったが、そんなに早く行く必要も無い。
北九州や門司港にはここ十数年来何十回と通った事もあり、いつも新幹線だった。
在来線で行くことはほとんど無く、そういう意味もあり在来線で行くことにした。
また娘もここ1年間は在来線で小倉通いをした事もあり、一度は在来線での思いもあった。
カードで改札を抜け在来線のホームにあがるとすでに準快速の小倉行きが入線していた。



さっそく乗り込み最後の車両の二人席に空きがあったので席を取った。
新幹線では16,7分で着くのだが、在来線では1時間10分ほどかかってしまう。
窓からの風景を見ながらゆったりと過ごして小倉駅に到着だった。
在来線の7番ホームに向かう。
門司港行きの電車が来ていて、そのまま門司港まで行こうかとも思った。
時間は11時半前、とりあえず目的を済ませて考えることにしてホームにある立ち食いそば屋に入った。



出張で来ていた頃、気に入っていた店だ。
かしわそばとおにぎりで軽めの昼食をとった。



門司港へのホームの反対側にはあの787系の電車が停まっていた。
鹿児島本線の博多、新八代間を走っていたリレーツバメのあの車両だ。
懐かしく思い、帰りにひょっとすると乗れるかも知れないなどと思いながら小倉駅を出た。



魚町アーケードをくぐり紫川にかかる常磐橋を渡る。
北九州市立美術館の別館はリバーウオークの5階にあった。
前回、福岡県立美術館であっていた印象派の続きのような「もうひとつの輝き 最後の印象派」という展覧会だった。
絵に特に興味があるわけでもないし、絵に知識があるわけでも無いのだが、印象派という言葉にどうも惹かれるようなのだ。
約百年前のヨーロッパの風景を無性に見たいという事のようだ。
今回は特に巨匠と呼ばれる画家は特にいないのだが、マルタンの《野原を行く少女》という絵は良かった。
少女が着る白いシャツに当たる日の光がとても神秘的に見え印象に残った。
他にもたくさんの絵がありそれなりに楽しませて頂いた。
1時間ばかりゆっくりと見て回り、会場を出る。
リバーウオーク内は家族連れや学生達で賑わっていた。



窓の外には小倉城が見えた。
お城を見ると熊本城を思い浮かべる。
何かの報道で、各地域にあるお城が熊本城の復興のため入場料金の一部を支援金にしていると聞いた。
ここ小倉城もそんな支援活動をしてくれているようで手を合わせてお礼をした。
リバーウオークを出てしばしアーケードをうろうろとしてみた。
出張や泊まりでこの小倉には思い出が残っている。
あの頃は仕事の事がいっぱいいっぱいでとても観光などという状態では無かった。
朦朧とした頭で苦しんでいた。
あれから何年経つのだろう。
そんな時代もあったよねとの思いを後に、小倉駅から博多行きの特急に乗り込んだ。
残念だったがあの787系ではなく883系のソニックだった。
小倉を出て、黒崎、折尾と停まりあとは終点の博多だった。

公園デビュー

2016-06-11 22:32:49 | 公園の犬達
福岡に来て2ヶ月半になった。
まさしくドア一枚で外の世界と家の中といった生活だ。
隣に済む人の顔も見たことが無いし、このマンションに誰が住んでいるのかも全然わからない。
たまにエレベータで一緒になるが軽く挨拶するだけでそれ以上の事は無い。
会社では同僚達とも少しは慣れてきたが、まだまだこれからといったところだ。
妻は買い物などで美野島商店街がかなり気に入っているようだ。
確かに魚だけは新鮮で安い。
食卓に並ぶ魚は、熊本のスーパーで買った物より生でも煮ても焼いても美味い。
近くに柳橋連合という博多の台所と言われる場所があるからなのだろうか。
話がそれそうになるので戻すが、妻はそんな美野島商店街にルンルンで、おまけに商店街でくれる紙のスタンプを集めてはうれしそうな顔をしている。
しかし、テレビやなんかでよく見かける買い物かごをぶら下げたおばちゃん達が立ち話(井戸端会議)には参加していないようだ。
というか、そういう光景が無いようなのだ。
まあ、住み始めてまだ日も浅いし、町にもなじんでいないからしょうがないのかも知れない。
引っ越したその日だったか、次の日だったか、買い物の帰りに公園に行った。
そこはわんこ達の楽園のようで、いつものように飼い主に許しを得て写真を撮らせてもらった。



面長で綺麗な顔をした「チャコ」だ。
おとなしくてやんわりした気だての良い犬だ。
飼い主はもうかなりお年のおじいちゃん、美野島書商店街の八百屋のご隠居さんとの事だ。
それに5匹のわんこを買っている年配のご夫婦。
こいつらが元気な犬で顔を見るなり吠えまくる。
「きなこ」とか言っていた。
そしてちょっとセレブ的なご婦人、こちらは3匹飼っておられる。
ポメの「ケンタロウ」と言っていた。



そんな犬たちとはすぐに仲良しになった。
ある日、妻と娘を連れて行くと2人も癒されていた。



娘などはこの町にもうかなり長い事住んでいるに初めてのようだ。
会社帰り「チャコ」を見かけた。
思わず「チャコ!」と声をかけた。
「あなたでしたか?背広を着られていたので誰かと思いました」
と飼い主さんから言われてしまった。
次の日も会社帰りの夕暮れの公園で「きなこ」軍団にばったり。
わんわん吠えるので
「うるさいね!飼い主の顔を見たい!」
と冗談を言うと、だっこした飼い主が笑っていた。
犬を通してコミュニケーションが出来つつある今日このごろである。

コンパクトプレイヤー

2016-06-07 21:26:34 | 買い物
先日のささやかなお祝いの席での話だった。
息子や娘達から何が欲しいか聞かれた。
今はあまり欲しいモノはあまりない。
ゴルフもしないし、釣りも今は暇がない。
あんなに好きだった本も福岡に引っ越し仕事をするようになってからほとんど読んでいない。
したいことはいろいろあるが気持ちの中だけにしまってある。
強いていえば今は音楽を聴くことぐらいかな。
「ネットワークプレイヤー」
と言うと何に使うのか?いくらするのか?など次から次に質問された。
一番欲しい機種と値段を言うと、みんなたかって
「それは無いだろう」
と言い出す。
何度かヨドバシに視聴に行ったし、妻も娘も一緒だったのだ。
一番耳の良い妻が、これは他のと全然違うと言った機種だ。
さすがにこれは高すぎて手が出ない、それと今持っているオーディオにはちょっと高価過ぎる。
それで2番手あたりに目をつけていたのだ。
それでも、もったいないと声があがる。
福岡の狭いマンションではとうてい聞けないし、それで機器は持って行かなかった。
どうせ買っても聴けなくてはしょうがない。



福岡に来る事になりネットの環境をどうしようかとヨドバシに行ったとき、JCOMに加入したわけだ。
そのときのクーポンが2万円分ある。
それで目をつけていたのがウォークマンだった。
何度か視聴していたのだが、どうもいまいち納得していなかった。
いい音がする、と言う、確かに昔からくらべると音質は良いのだが・・・。
どうもイヤホンとかヘッドホンがダメらしい。
こもった感じで作られた音という感じが全面に出てきて嫌気がしていたのだ。
今の環境では致し方無いようだ。
娘の誕生日に妻と3人で夕食をし、娘の記念日についに買った。
曲はリッピングした、それも無圧縮した曲がわんさとある。



とりあえず通勤で試してみようと思う。
コンパクトで数百曲を簡単に持ち運び出来る。
手軽で便利でコンパクトな感じは、福岡での今の生活と同じだ。
でも、あくまでもすばらしいとは言えない。

復興の兆し

2016-06-05 20:30:57 | 日記ふう
金曜の仕事を終えて妻と娘と熊本に向かう。
夕方6時半といってもまだ外は明るく、途中で早めの夕食を取り、夕日が沈む九州道を南下する。
娘が熊本で結婚式がある事と県南の実家が気になっての帰省だ。
熊本市内に入ると、新緑の季節からという事でないが、、熊本は緑が多い。
無機質なビルと道路が広がる福岡とくらべると緑が断然多い。
家に着くと息子と嫁はまだ仕事から帰っていなかった。
家に入りホット一息を入れる。
小綺麗に片づいていて、息子達の暮らしぶりに感心していると夫婦そろって帰ってきた。
嫁が夕食の支度をして遅めの食事をとっていた。
話が弾み就寝はちょっと遅めだった。
寝床に入るなりドンと余震が来た。
しばらく眠りに着けないでいたがそのうち眠ってしまった。
翌朝は雨だった。
県南の実家に帰っても草刈りや畑仕事は出来そうにも無いので帰るのは止めにした。
その日はゆっくりとオーディオで音楽を聴いて過ごした。
娘が結婚式に出かけるため美容院まで送る。
妻と嫁と出かけ、娘を送って、再開したばかりの地元の百貨店に出かけた。
ここは新館と旧館があり、旧館の方の被害が大きかったようで全館の開店まで一ヶ月半ほどかかってしまった。



駐車場へはそんなに混んでいなかったが特設会場の「北海道展」はとても震災後とは思えないほど人で溢れていた。
北海道の海産物や夕張メロン、乳製品など多くのブースが出て賑やかだった。
店内を見回してみたが震災の後は綺麗に修復されていて、特に天井はすべて新しくなっていた。
震災からの復興は思ったよりも早く訪れているような気がした。


倒れたままのいぼ神さま

市内も通常の風景に戻りつつにも見えるが、ちょっとした路地に入ると至るところ赤紙が貼られた家が並んでいた。
熊本城もライトアップが始まったと聞く。
その日は安部総理も復興の進捗を見るため来熊されたいう。
いよいよ梅雨に入ったというニュースがテレビから流れていた。
息子は飲みに出るというので夜の9時過ぎに市内の繁華街までクルマで送った。
送りから帰り、風呂に入りゆっくりと熟睡だった。

飼っているグッピー(熱帯魚)のメスの様子がおかしい。
どうも妊娠しているようでメスの周りをオスがグルグルと追い回す。
グッピーを飼い始めて2度目の赤ちゃん誕生か?と妻と嫁が騒ぎ出す。
メスを違う水槽に移し様子を見ることにした。
一夜明け様子を見るが赤ちゃん誕生はまだのようだった。
早めに起き、庭に出て芝刈り、その間にも余震が2回ほどある。
草取りも帰るたびにしているので今年の芝は生長が良いようだ。



あじさいも咲き、緑に溢れた庭には癒された。
しばしそんな庭を見ながらホロビッツを聴き帰宅の準備をする。
1時間半ばかりで福岡の地へ。
明日から再び博多での生活が始まるのだ。