打越通信

日記ふういろいろ

8月の雨

2019-08-27 20:16:39 | 日記ふう
カテーテルでの手術を2回受けて、その半年後に術後の経過を観るために再びカテーテルを入れて検査を行った。
最後の検査から1年が経過しようとしている。
通院は2か月分の処方薬をもらうため検診を受けてもらっている。
薬が切れたら検診を受けなければならない。
薬の切れる時期と、月に一度の土曜出社の日が重なるようになった。
もうそろそろ薬が切れるころまたまた土曜出社と重なる。
土曜出社は出社時間が早くて朝は7時には事務所にいなくてはいけない。
当然、残業手当などないため早めに終わることが出来る。
病院の受付は午後5時までなのでタクシーやバスをうまく捕まえれば何とか間に合う。
病院までは渋滞に合わなければクルマで15分程度なのできっちり事務所が入るビルを出ると何とか間に合う。
それまではわざわざ有休や早退などして病院に通院という事もあったのだが今ではそれは無くなった。
今回も家人にクルマで迎えに来てもらい、そのまま病院に行った。
土曜のこの時間帯は空いていて、わざわざ有休や早退をして行く病院とは違っていて空いている。
着いて受付をして診察を受け薬を受け取るまで30分とかからない。
わざわざ有休や早退をとってくるより効率的なのだ。
診察も手術を執刀してくれた先生とあたることが多くなり、わりとざっくばらんな話が出来る。
このところの経過を観ると割と明るいことを言ってはくれるが、やはり深刻なことは言ってくる。
「命の話し合い」と勝手に言ってはいるが、そうなんだろう。
この病院は心臓と血管に専門性を持つ病院で脳に関する専門ではない。

福岡は激しい雨に見舞われている。
カッパを着て作業したがずぶぬ濡れになり8月だというのに事務所に戻るとクーラーで完全に体が冷え切ってしまった。

盆と帰省

2019-08-18 16:58:19 | 日記ふう
10日から14日までが私にとっての夏休み(盆休み)だった。
それも公休と有休を使っての事だから世の中の9連休とはかなりかけ離れた事だった。
10日は連休始めという事で高速道路を避け佐賀から柳川(うなぎだね)を狙って帰った。
助手席に座る家人がスマホで鰍店を探し出し値段を見ていた。
「柳川のガストか吉野家かな?」
そうこうしているうちに柳川を過ぎ大牟田まで来てしまい前に入ったことがある大衆食堂で昼食だった。
熊本にはこの昼食時間を含め5時間近くかかって帰省した。

その夕方は自宅すぐ近くの打越公園で「打越夏祭り」があっていた。



公園にはすでに多くの子供連れの人がいて賑わっていた。
しかし公園の入り口には「打越夏祭り」の横断幕もないし、街中に「打越夏祭り」の子供会が書いたポスターも見かけなかった。
盆踊りと言っても音楽をかけるだけで誰も踊る人はいなかった。



夏祭りが始まり1時間も過ぎたころには食バザーはすでに完売になっていた。
ラムネの早飲み大会や余興のようなモノも無く何か盛り上がりに欠ける祭りのような気がした。
せっかくの令和最初の祭りだったが気の抜けた(炭酸の抜けた生ぬるいビール)感があった。

その日は熊本の自宅に泊まり、翌日から実家(水俣)に帰省した。
思った通り実家の庭は草ぼうぼうで暑い日差しの中草刈りから始めた。
しかし2台ある草刈り機のチップソー(鉄やステレス制の丸いノコギリ)のついた草刈り機のガソリンを入れる口のキャップが無かった。
仕方なくガソリンを入れてガムテープで蓋をして切り始めたがすぐにガス欠になる。
そのたびにガソリンを補充する、しかし最後にはそのガソリン自体がなくなって作業は終了した。
翌日の朝は早くから起きカマを手に庭木に覆いかぶさる蔦を取り除く。
庭木の下に潜り込み立ち上がるいくつもの茎をカマで払っていき、それから立ち上がって覆いかぶさる葉の付いた枝を庭木から取り外す。
これが結構力仕事になる。
中には枝が庭木の枝より大きいものもあり大変だった。
朝食を取りホームセンタが開く頃になりガソリン(混合油)と草刈り機のキャップを買いに行った。
この時期は蜂が結構多いのでスプレー式の殺虫剤も安売り(4本で970円)をしていたので買った。
殺虫剤は正解だったようで裏庭の草むらに蜂がいた。
スプレー缶一本を使い切るまで撒いて蜂を遠ざけながらなんとか草刈りは終えた。
前日から刈った草は夏の日差しでカラカラになっていたのでそのまま庭で燃やしてしまった(ほんとはいけないのだろうが)。
実家には2泊し最終日には妹たちもやってきてやっと墓参りに出かけることが出来た。
庭の作業も暑い日中はできず、昼食を摂りに街中に出たついでに海岸に行ってみた。
水俣病で有名になった場所であり、その被害が最も多かった地区に行ってみた。



かもめがずらりと並び羽休めをしていた。
さらに進むと鳥肌が立つような神秘的な美しい風景があった。
大きな湖のような不知火海の向こう側には天草の島々が見える。
地元にいながら初めて見る風景だった。
この地には小学6年と中学高校とわずか7年しか住んではいないが両親が元気でいたころには盆と正月は必ずと言っていいほど帰省していた。
今は両親もいない街にそれでも帰省するのだから不思議なものだ。
こんな風景を目にすると心が落ち着き、さらにストレスがどこかに行ってしまう。
これが元気をもらうという事なのだろう。

時代の変化

2019-08-05 20:52:17 | 日記ふう
週末から動きがあり平凡な日々に少し変化があった。
永年勤めていた前の会社の社長から
「元気にしてるか!今度OB会をするのでよろしく」
相変わらずの元気な声で連絡があった。
即答で返事を返し中州にある料亭に出かけた。
同年代のOBが6名と会社役員5名の少人数の集まりだった。
会社を辞めて5年になるのかな、OB仲間もそれ以来の再会だった。
しかし会ってみればお互いに歳はとったが変わりはなかった。



会ったその瞬間からあの当時の雰囲気になった。
役員連中もそれぞれに歳をとったが知らぬ仲間ではない。
まあ世代交代の報告会のような内容だった。
兄貴分的(浪花節的というか)な社長であったが古希を過ぎ・・といった事かな、と思ったが、いやはやまだまだといった感じだった。
35歳定年とか40歳が限界だといわれたSE(システムエンジニア)の世界でここまで頑張れたのはこの社長のおかげと言って良いだろう。
これはきついなと思った仕事も何とか乗り越えられたのもこの社長(いやいやこの社長が作り上げた社風)のおかげだと思う。
今回集まったOBの仲間もそれはひしひしと分かっている連中なのだ。
ひとしきりの宴はなかなか楽しいものだった。
しかしなぜこの仲間に私(あまり成績も良くなかったし、どちらかといえば自分のペースで仕事をするほうだった)が呼ばれたのか不思議な気分だった。

翌日は熊本に帰省した。
息子と息子の嫁のご両親との食事会だった。
毎年、正月に集まって食事会をしていたが今年の年始は集まれなかったのでこういうことになった。



娘が高校の3年間アルバイトでお世話になった下通りの「チャオリー」を予約した。
創作中華料理で料理長は県内でも有名な人のようで、料理もなかなかだった。
ささやかな家族会だった。
その日は福岡まで帰らなければならなかったのでアルコールはなかった。
熊本市内をクルマでブラブラしてみた。
熊本駅周辺(かつて事務所があったところ)は、かつての熊本駅が姿を消していた。
その場所には新しい熊本駅の駅舎(かな?)が出来ていた。
かつての交通センター跡地には新しいシンボルがすでに外観を見せていた。
緑あふれる市街地と近代的な建物に目を見張る思いだった。
高層ビルが立ち並ぶ街づくりも良いが、緑と調和して近代化、良いねと思った。
夏目漱石が上熊本駅(池田駅)に降り立って「森の都」と評したように、私もそう思った。
良いね熊本!