あげちうのブロマガ

人気があるという苦境の人

「人気」と言うのは、諸刃の剣の様な物は、ある。

その支持を得ていた言動に自身が反する時、支持は敵意へ変わる物で。

どうも、ハッキリは言いにくい。

「今更、売れる方へ軌道修正掛けようとしても、ダメみたいですね」

それは、ほぼ最後通牒だ。


「カウンタ制御」それはやっぱり、面倒で危険な操作だ、とは思う。売れてないのに「売れてます!」と言うし、売れてるのに「全然ダメです」そう言う時。まず、その数値を付けてる側は、その「売れてない」全然ダメ、な方法論を使えなくなる。もちろん民意に反する行為であり、疑念に対して耐えるには、相応のダメージは覚悟せねばならない。

そして、”それ”が原因で実際の人気?が下がり、カウンタ数値だけでは利益が出なくなっていく先で。「利益を」と言い出す時。逆に、「今までのはダメだったのか?」それは、かなり強調されて、そして過失として、露わに成ってしまう。そうなってしまえば?その場はもう、取り返しが付かないのでは。

こうなっていくのは、結局、「実際のカウンタ数値は動いてないから」だ。

そして、「だから?」それは少し、思う。自分の数値が低くされている!としても、「実際の数値は変わってない」のだ、そこに”それ”はある訳で。「大衆は神である」その時、その意向を歪める事は結論で出来てない、訳で。神はただ、行為に対して因果に基づき応報をしてるだけ、だ。実際には、数値を弄った所で、何の変化も起きてなかった、それまでの全ては単なる徒労、或いは妥当な過失、そして妥当な損害として、結果に成っただけで。

全ては、神の掌の上、そんな感じなのかもしれない?


それでも確かに、「売れている」人気がある、そこに疑念があれば?相応の理由、「理不尽だ」それはそこにあった訳だが。社会の理不尽、それに対して抵抗する事こそが正義、そう言う状況も、平成の間はけっこう、発生してしまった。昭和からの蓄積、無理が通れば道理は引っ込む、それによってどれだけの”犠牲”が出ていたか?ではある。その辺を治さない限りは、この問題は打開されない。打開しなくても神にとっては問題無い、”それ”によって大惨事になろうと、それは人間の選択とその結果でしかない。「全く問題ない」と言う時、それは何もしない、ただ、”そこにあるだけ”だ。

「結果が出た」様な、そんな感覚には、成る。

どういう意味で?も、少し混沌とはしている。ウクライナでは既に、特攻隊までも動員し、彼らは連日犠牲に成っている、とも報道。どうしても日本の戦争末期、それしか想像出来ない。日本軍も良く戦ったが、硫黄島それは結局、捨て石でしか無かった。

要求はある。

それは眼前かのゲーム、それとしてあって。
「面白い」には、要求に応えている際に感じるそれだ、しかし。

その壁は、結局は「無理」だろう。

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