衝動の疑問ではある。
常にあるのが、「アダルトビデオが無くなる」風俗に行けない、それへの否定感だ。
自分の場合、色々あって今も、MMDでの”適当”なそれを見てれば何となく満足?してる心理状態ではある、のだが。その上で、ウマ娘、とかにはちょっと重い否定感はあり。意識の中で、自身のシステム?それが具現化する際に有る喪失、それへ、返答は重く、陰鬱にある。
「反社会的な思想の産物に対しても、最大で500万円程は出てしまう」訳だ。
反社会的な存在だから、故に生活出来なくさせる、という否定が最終的には無い。
この結果、「15haの田んぼを一人で管理する」様なそれであるとしても、そこに居る限りは「生活は成り立ってしまう」訳で。何処まで追い込んでも反社会性のある彼らは、破綻しない。人本位制であれば?お金は「”その”社会構造を肯定し守らんとする」限りは無尽蔵に出てしまう、的な感覚も有り…基本的には不足、という意識は出ない。
切り捨てて、「風俗嬢に落す」事が出来ない、訳だ。
その時、そこに有った何かの快楽?それは、一つ消えてしまう。
もちろんこのシステム?の基幹でさえ有るのが「大賀さん」紛争解決機構、そのクオリティの問題ではあるのだが。戦争、対立が”ここ”で解消する限り、テロリズムは基本的には、意味が無い。訴えて非道に却下される、という状況は存在しない、通らなかったのは”単に負けたから”だ、自己責任であり?その要求の、構築度の低さでしかない。テロ、暴動、そう言う懸念が無い限りは、反社会性を過剰に恐れ、否定する必要それは無い。
日本の、水と安全はタダ、というそう言う今までの、その環境での話、だが。
ミャンマーのクーデター、その後の民主的反発?を見ても、”それ”を言えるか?と言う、そんな事態でもある。軍部の主張にも個人的には同意してしまう、民主的選挙、と言うのがこの前のアメリカ大統領選で信用出来ないモノである事が、何となく解ってしまっている。その上で、”その”民主主義の帰結は、国家に対して何を齎すか。票をコントロールし得るパワーに国を玩具にされるよりは、多少の犠牲に目をつぶっても、今は。とは言え、100人以上の犠牲を出しても押し寄せるデモ隊それは、物理的脅威としてはある。
平和的に?犠牲を殆ど出さずに政権を奪った軍部か、”それ”を奪還する為なら甚大な犠牲さえ無視し扇動するデモ隊か。
等価な二択を前に、善悪は混沌としている。