あげちうのブロマガ

美しい醜悪と歪んだ綺麗

要するに「自由度」って何か?って事だが、この辺から実は、有る。

形式的には、「ストリード」としてオーダーが出る時、一旦「大衆」神様、その意識の中に入れられ、フィルタされる。「選抜」は、良くも悪くもその結果として決定するモノであり、現場のディレクターは”それ”を、見えない暗黒の深淵の中から視て「描かれている通りに」絵にしている、そう言うのが理想だ。この時、神様以外にはその「独裁性」それは発揮できない。神様にしろ、「自分からは提案出来ない」と言う不足は有って。良くも悪くもこの形式上、「誰一人としてその思い通りには成らない」と言う、逆に言えば「誰であろうと絶対者ではない」その、期待される自由が得られる、訳だが。

”これ”を超えようとすると?やっぱり「自分の思い通りに全て創る!」事になる。それがどれだけ美しいモノだろうと、”それ”は単純に自由の喪失ではあって現状、利益に成らない、と言う結論があり。そしてこの時、最も独裁性に対して懸念されるのはディレクターだ。構造の中で「これで良い」そう、断言してしまう決定権を持つ存在であり、その感覚次第で是非が決まってしまう。これが成果を出せば出すほど、その言葉は神の言葉の如くに成ってしまい、強力な思想誘導性を発生させるようにはなって。だから、一応好意的な視点では今、”この”スキルを持つ人のネット的なカウントは制御され、総じて低く抑えられてはいる訳だ。

とは言え、「誰の自由にも成らない」誰も決定権を持たない、この状態を、「何も解らない!」問題がある!そう、見る意向が無い訳では、無い。


要するにシニア世代特有?の、「なんで私の言う通りにしないの?」”それ”を、今も止めるか、防ぐ事が出来ずに居る…訳で。結果が出ようが利益に成ろうが、ともかく私の思い通りで無ければそれは間違いである、そう言う歴史を背にした強力な独裁性がまだ、懸念としてあって。それは或いは、昭和の頃の昭和天皇その真の姿、王の権威を持った皇帝、それの言っていた言葉なのかもしれず。言霊使いと言うのが居るなら彼らは”それ”を楯に、その横暴を今も貫こうとしている、のだろうか。

現状の構造、ストリードの連携によって出来た作品が「成功した」ら、それが正解であり、それ以上は無い。それに対して文句を言う意向は、シニア世代から時々出てくるそれは、ちょっと問題であり、抑止するべきではあるのだが。今の民進党の様に、経済的には回復基調ではあるが、決して認めない様な。それは「誰かにとって理想じゃないから」だ、そう言うのが実は後ろに有るのではあるまいか。それは、実際には好ましくないしかし。今もまだ、暗雲の様な物として”それ”はただよう。

ゲームセンターの理想とは、絵にすると、一夫多妻のハーレムではあるのだが。


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