goo blog サービス終了のお知らせ 

エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

神谷美恵子さんの場合

2015-02-27 07:14:18 | エリクソンの発達臨床心理

 

 イメージの力。神谷美恵子さんの場合はどうだったんでしょうか?

 神谷美恵子さん。内村鑑三の弟子であると同時に、五千円札だった?新渡戸稲造の弟子でもある 前田多門の長女。この前田多門は、1909年(明治42年)、第一高等学校(後の東大教養学部)校長だった新渡戸稲造の推薦状を持って、内村鑑三の弟子になった「柏会」のメンバーの一人。「柏会」のことは、また別に取り上げましょうね。

 神谷美恵子さんは、国際連盟勤務の父親、多門と共に、ジュネーブで小学校四年~中学一年まで過ごしています。津田塾大で学んだ後、医学を志して、ハンセン氏病の療養施設で、精神科医として勤務しています。

 何故なんでしょうか?

 神谷美恵子さんが最初に、ライと呼ばれたハンセン氏病の人に出会ったのは、無教会独立伝道者で叔父の金沢常雄に連れられて、東京の多磨全生園を訪問したときであったと言います。この時の出会いが衝撃的であったので、医学を志すようになったと言います。

 その神谷美恵子さんの著作集は、みすず書房から出てますでしょ。全10巻、別巻1、補巻2。一番売れているのが著作集の第1巻、『生きがいについて』かもしれません。その末尾に、何故「生きがい」について考えるようになったのか? が、短く記されてます。上記の多磨全生園を訪れた件も、そこにあります。神谷さん、津田塾を卒業して間もなく、当時は不治の病であった、結核に侵されました。軽井沢で療養して、自分は病が癒えたが、そこで自分と同じような年恰好の人が何人も亡くなったらしい。「なぜ自分は生かされ、あの人たちはなくなったのか?」。それが負い目になったと言います。それで、生と死の問題を早くから考えるようになった。

 自分が生き残り、療養仲間は死んだ。その時の、活かされたことによる苦しみ、残された者の苦しみ、サバイバー・コンプレックス。そのことが、ハンセン氏病の人の苦しみを理解することに繋がった訳ですね…。同じ苦しみではないけれども、相通じるものが、掘り下げれば出てくるからでしょう。

 掘り下げるためにはね、「観照の目」が必要らしい。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虫のヴァイオリン弾き

2015-02-26 13:22:44 | 間奏曲

 

 雲からも、風からも、透明な力を感じていたい。

 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p90から。

 

 

 

 

 

 他にも、息吹感じる音楽がありますよ。私がロジャーと約束していることは、この秋に懐中電灯を持って、庭に出て、虫たちを捕まえよう、ということです。虫たちは、草の中や、イチゴの茂みの中で、あるいは、花々の縁で、小さなヴァイオリンを奏でます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創造と人間の自由

2015-02-26 11:36:31 | アイデンティティの根源

 

 私どもはいつでも、慈しみの母乳、その自分の分け前か、あるいは、分け前以上を分けていただけると期待することを許されているのですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp184のブランクの後から。

 

 

 

 

 

 

 聖アウグスティヌスは、プラトン主義を包み込み、キリスト教化することによって、プラトン主義から教会を守りました。聖トマスは、中世において再興したアリストテレス哲学に対して、(聖アウグスティヌスと)全く同じことをしました。アリストテレス哲学は、アラブ人とユダヤ人の医学と神秘学によって、新たな知的装いをしていました。プラトン主義は、イデア志向ですが、聖トマスの業績を通して、自然の諸々の事実と諸々の力へ向かう、新たなオリエンテーションによって、広まっていました。神は、プリマ・ベリタス 最高の真理であり、最高善であるがゆえに、天地創造において、最初の計画者、最初の建設者として、自らを示しました。神は同時に、カウサ・カウサンス、すなわち、直接原因です。もっとも、人間は1つの カウサ・セコンダ、すなわち、第2原因ですから、この想像された世界のご計画の端くれとして、だれではなく、それと同時に、熟考者としても、理論家としても、感じる必要があります。

 

 

 

 

 

 神学の難しい部分です。ようするに、神がすべてを作るけれども、人間には自由に振る舞える部分もある、ということらしい。それをどのように秩序付けるのか? という議論のようですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イメージの力

2015-02-26 07:27:57 | エリクソンの発達臨床心理

 

 イメージ。心理臨床をしていますとね、このイメージの力を感じずにはいられません。河合隼雄先生は、『臨床心理学ノート』(p44)で、このイメージを、「心像として視覚的に把えられることに臭いや体感など、人間の存在全体としての言語以前の体験を指している」と指摘しています。それはそれは「深い体験」と結びついているわけですね。

 ですから、このイメージは、簡単に概念化、言語化はできません。たとえ概念化、言語化できたとしても、それは最初の体験が宿していた体験の生命力を削ぎ落としてしまいかねません。近代科学を模範とするような概念化には、むしろ、警戒することが必要です。

 心理臨床は、このイメージの力を使って、進んでいきます。それはまず、心理臨床家の個人的体験と深く結びついたものでなければなりません。すなわち、臨床家自身の体験が必要なんですね。でも、それはただ単に「体験していればいい」というたぐいのものではないんですね。その体験を、その多くの体験は、受け入れがたい体験、許しがたい体験、耐え難い体験…であるんですね。そのままでは、「いただけない」。その体験を「物語」にして、自分の中で折り合いがつく体験、いいえ、もっとはっきり申し上げれば、「またのない恵み」として位置付けることができる「物語」にしておくことが必要です。

 そのためには、繰り返し繰り返し、その「2度と見たくもない体験」を繰り返し繰り返し見つめ直す、という内省、自己内対話が必要です。まるで難しい本をリリード、繰り返し読むのと似ています。

 そうしておくと、クライアントの話や箱庭などから感じるイメージが、「物語」として見えてきやすくなりますね。それはクライアントが心深く抱え込んでいる、「否定的な情動がべったりと付いた体験」と深く結びついたイメージです。でも、そのクライアントは、そのイメージを「物語」にして受け止めるまでには至っていない。

 心理臨床家は、しかし、そのクライアントの「否定的な情動がべったりと付いた体験」を体験したことはないのですが、臨床家自身の「否定的な情動がべったりと付いた体験」は体験し、それを「物語」にして「宝物」にしていますから、その「宝物」にした体験そのものが物を言います。少なくとも、そう考えると合点がいき易い。もちろん、クライアントの体験と臨床家の体験が同じではないことが普通です。それでも、物を言います。

 それは、「否定的な情動がべったりと付いた体験」を「物語」にするに至るイメージの力だと私は考えます。ですから、表向き臨床家は、何にもしないんですね。そして、表立っては何もしないで、心の中で「物語」のイメージが湧いてくるときに、最も素晴らしいセラピーができる、という訳です。そのイメージは心理臨床家が作りだしたものじゃない。何しろ「湧いてくる」のですからね。

 

 

 

 

イメージは時として、水平線から登る太陽のように、「湧いて」来ます。そう、「まれびと」のように、向こうから「やって来る」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「透明な力」

2015-02-25 13:16:11 | 間奏曲

 

 いのちの鼓動に耳を傾けるものでありたいですね。

 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p87から。

 

 

 

 

 

 大地の美しさをよく見つめている者は、いのちが続く限り続く(透明な)力の在り処が見つかります。

 

 

 

 

 

 宮沢賢治の詩「稲作挿話」の1節のようですね。

 

 雲からも

 風からも

 透明な力が

 その子にうつれ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする