異化 ロシア語でオストラニェーニェ остранение レイチェル・カーソンの翻訳の件で今日出てきましたね。それはとても大事です。
ふつうは文学や芸術で話題にします。私が最初にこの言葉に出合ったのは、かれこれ20年以上前、大江健三郎さんの『新しい文学のために』(岩波新書 新赤版 1)で、でした。カーソンが言うように、私どもは、自分が見慣れているもの、聴きなれているものなどは、見逃しやすく、聞き逃しやすいものですね。日常的には、あるいは、日常的に使う言葉はそれてもいい。しかし、文学や演劇、おしなべて芸術と、そこで用いられる言葉は、それでは不十分でしょう。それは、芸術は、いつものように世の中の物事を自動的に、馴れ合いで体験するのではなく、能動的に、意識的に対象をハッキリ見る(明視する)行為だからです。それは心の眼、一隻眼を得る体験と共通するものがあります。
異化とは、当たり前のものを「見なれない、不思議なものにする」ことです。それによって、見逃しやすいこと、聞き逃しやすいことをハッキリと明視することができます。それは、その対象の個性をハッキリと知ることにも通じますし、新鮮な感覚を得ることにもなりますでしょ。
この異化は、臨床でもとっても大事。常識、通年では、心の無意識裡の表現は、見抜けない場合がほとんどだからです。たとえば、暴力と暴言。これを子どもがやれず、例外なく、「指導」や「厳罰」の対象になりますもんね。しかし、これはエリクソンに倣ったことですが、攻撃性を示すaggressionは、「前に進む」<「歩み寄る」が語源の意味です。すなわち、子どもの「攻撃」すなわち、子どもの「暴力」と「暴言」は、仲良くなろうとして、歩み寄ることだとエリクソンは言うのです。赤ちゃんで、打ったり、蹴ったりする人はない。触る程度。触る程度で、母親や周りの大人が振り向いてくれるのが普通であれば、「触れる程度」のままでいられます。しかし、それでは大人たちが振り向いてくれない方が普通な場合は、次第に力が入りますでしょ。あなただってそうでしょ。そして、力が次第に強くなっていくと、ある段階から「暴力」や「暴言」になりますでしょ。
ですから、「触る程度」で大人が振り返ることが、普通になる関わりを続けていくと、「暴力」「暴言」の子どもも、「触る程度」の子どもになります。