エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「触る程度」の子どもになりますよ。

2015-02-08 14:43:42 | エリクソンの発達臨床心理

 

 異化 ロシア語でオストラニェーニェ остранение レイチェル・カーソンの翻訳の件で今日出てきましたね。それはとても大事です。

 ふつうは文学や芸術で話題にします。私が最初にこの言葉に出合ったのは、かれこれ20年以上前、大江健三郎さんの『新しい文学のために』(岩波新書 新赤版 1)で、でした。カーソンが言うように、私どもは、自分が見慣れているもの、聴きなれているものなどは、見逃しやすく、聞き逃しやすいものですね。日常的には、あるいは、日常的に使う言葉はそれてもいい。しかし、文学や演劇、おしなべて芸術と、そこで用いられる言葉は、それでは不十分でしょう。それは、芸術は、いつものように世の中の物事を自動的に、馴れ合いで体験するのではなく、能動的に、意識的に対象をハッキリ見る(明視する)行為だからです。それは心の眼、一隻眼を得る体験と共通するものがあります。

 異化とは、当たり前のものを「見なれない、不思議なものにする」ことです。それによって、見逃しやすいこと、聞き逃しやすいことをハッキリと明視することができます。それは、その対象の個性をハッキリと知ることにも通じますし、新鮮な感覚を得ることにもなりますでしょ。

 この異化は、臨床でもとっても大事。常識、通年では、心の無意識裡の表現は、見抜けない場合がほとんどだからです。たとえば、暴力と暴言。これを子どもがやれず、例外なく、「指導」や「厳罰」の対象になりますもんね。しかし、これはエリクソンに倣ったことですが、攻撃性を示すaggressionは、「前に進む」<「歩み寄る」が語源の意味です。すなわち、子どもの「攻撃」すなわち、子どもの「暴力」と「暴言」は、仲良くなろうとして、歩み寄ることだとエリクソンは言うのです。赤ちゃんで、打ったり、蹴ったりする人はない。触る程度。触る程度で、母親や周りの大人が振り向いてくれるのが普通であれば、「触れる程度」のままでいられます。しかし、それでは大人たちが振り向いてくれない方が普通な場合は、次第に力が入りますでしょ。あなただってそうでしょ。そして、力が次第に強くなっていくと、ある段階から「暴力」や「暴言」になりますでしょ。

 ですから、「触る程度」で大人が振り返ることが、普通になる関わりを続けていくと、「暴力」「暴言」の子どもも、「触る程度」の子どもになります。

 

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縦の関係と横の関係の交差点 エクレシア

2015-02-08 12:54:07 | アイデンティティの根源

 

 二王国説、はまずい。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp180の下から4行目途中から。

 

 

 

 

 

横の関係と縦の関係に、最初に想いを巡らせて、2つの交差点をあわただしく作りだしたのは、聖パウロその人でした。聖パウロは、ユダヤ教の教師、ローマ市民、ギリシャ哲学者という相いれない自分を確かにする道を抱え込んだ所から、心を180度転回させたのは、帝国を作りだすためでもなければ、教義を作りだすためでもありませんでした。彼はたくさんの旅の果てに、ローマに来たのは、断頭台に立つためだけでした。しかし、聖パウロが集会を作るのに心を砕いた、新約聖書の手紙は、キリストが選んだ後継者の、頑丈者のペテロと一緒になって、ローマ帝国という横の関係の首都に、人のあらゆる縦の関係をずっとこの世に繋ぎ止める停泊地、この世の終着駅を作りだしたんですね(ルターは、最初のカトリック教会に対する修正声明の中で、パウロが福音のおかげで自分を確かにする道を、自分の道としてました。ただし、それが押し付けられるまで、パウロの管理熱や、福音のおかげで自分を確かにする道に、いかに自分自身、心構えができていたか、知りませんでした)。

 

 

 

 

 パウロは、ローマやコリントやガラテヤなどにキリスト教徒たちの集会を作りました。その手紙が新約聖書の中にあります。縦の関係を横の関係の中に繋ぎ止めるもの、それがエクレシア、集会(教会)です。

 

 

 

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東京人がはとバスに乗らないのに似ています

2015-02-08 07:06:00 | 間奏曲

 

 夜空の星々は、私どもの心と繋がっているのかもしれませんね。

 『The Sense of Wonder 不思議を感じる心』から p68の下から3行目から。

 

 

 

 

 

 もしも、星がこんなに美しいと思ったことはない、と感じるような光景が、100年に一度しか見られないものだとしたら、あるいは、一生に一度のことでさえあるとすれば、この小さな岬は見物客でごった返すことでしょう。ところが、この光景は、毎年毎年、数えきれないくらいの夜に見られるものなんですね。小屋に瞬く光も、同様にいつものことですから、その住民たちも、頭の真上に、そんなに美しいものがあるなんてことに想いを馳せることなど、おそらくなかったでしょうね。ほとんど毎晩、あの夜空が見られるからこそ、その住民たちは、あの言い尽くせない美しい夜空を一度も見たためしがないでしょう。

 

 

 

 

 

 東京の人が、はとバスにはなかなか乗らないのに似ています。いつでも見られる、と思うものは、人は取り立ててみようとしませんね。「珍しい」、「めったに見られない」と思うからこそ、人は時間とお金をかけて、見ようとするんですね。当たり前です。

 いつものこと。毎日のこと。それは、見ているように、聴いているようで、感じているようで、実際は、見ても、聴いても、感じてもない。その方が普通です。毎日をルーティーン・ワークの自動操縦で生きているからですね。日常的なことを感じるためには、非常に研ぎ澄まされた感性が必要です。

 その一つの方法が、異化。あるいは、意識的に見ることです。

 

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