エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

スピリチュアルな人になるには

2015-02-23 12:34:13 | アイデンティティの根源

 

  自分が勝つことばかりを考え、実行する、エゴマニア。管理教育や虐殺をやる諜報人。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp184の9行目途中から。

 

 

 

 

 

というのも、人が自由意思を失うのは、人が人間として生まれ、生まれながらに(原罪に)失望している時です。キリストの犠牲の故に、人は洗礼を通して、先代からの罪からの救いを得ることができます。ところが、人間はいまだに情欲、すなわち、罪の朽木、火口の重荷を背負っています。人は、ただ単に生まれながらの自然人ですが、神の恵みを点滴されて心を入れ替えられるチャンスができます。そうして、その人はスピリチュアルな人になれます。

 

 

 

 

 罪の人も、洗礼で救いを得られた後も、欲情として罪の火口を抱えたままです。ですから、神の恵みを日々いただいてはしめて、生まれながらの人も、スピリチュアルな人に生まれ変わることができます。

 

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朝のハーモニー

2015-02-23 11:00:33 | 間奏曲

 

 夜明け前の悦び。

 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p85の8行目途中から。

 

 

 

 

 

森の少し離れた場所で、ヨタカが一本調子で、リズムよく、繰り返し、夜の歌を歌いつづけます。コマドリ、ツグミ、ウタスズメ、カケスも、声を合わせます。

 

 

 

 

 

 朝の鳥たちは、声を合わせて、ハーモニーをより豊かにしてくれます。

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2月中旬

2015-02-23 06:58:56 | エリクソンの発達臨床心理

                   2月中旬の雪山は、すでに春芽でピンク色

 

 夜明け前の悦びは、春先の悦びでもあります。そして、それは信頼と深く結びついた悦びなんですね。信頼は悦び。

 その絶妙な感じの悦びを、内村鑑三が、「2月中旬」という詩にしています。

 

 

           2月中旬   

                               内村鑑三

 

雪は降りつつある。 然し春は来りつつある。 寒さは強くある。 然し春は来りつつある。

 風はまだ寒くある。 土はまだ堅くある。 青きは未だ野を飾らない。

 清きは未だ空に響かない。 冬は未だ我等を去らない。

 彼の威力は今尚我等を圧する。

 然れど日はやや長くなった。 温かき風は時に来る。

 芹は泉のほとりに生えて、魚は時々巣を出て遊ぶ。

 冬の威力はすでに挫けた。

 春の到来は遠くない。

 

 

 

そんな悦び、味わいながら生きたいものですよね。

 

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「ただの人」として生きましょうよ。

2015-02-23 06:45:14 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 「ただの人」も、宮田光雄先生に教えられた視点です。「神のユーモア」と同様な視点です。

 「ただの人」とは、宮田光雄先生によれば、「自分は自分である」ということと同じだ、と言います。「自分は自分」。トートロジー、同語反復ですから、ナンセンス? でもね、深い意味があるはずではないですか。

 日本社会は、同調圧力が猛烈でしょ。親が、先生が、仲間の友達が望む自分になることの方が、「自分は自分である」ような自分になるよりも、大事にしますでしょ。また、とにかく、何かに追われるような暮らしをしている人が多いですからね。「自分と向き合う時間がない」と言いますね。もちろん口実ですけれども、こちらが “内省をしてほしいなぁ” と思う人ほど、そんな口実、言い訳を言いますね。「〇〇があって、忙しくして…」。そういう人は「自分がない」。常に周りに流されていくし、そうすると、弱い立場の子どもは、そういう人から一番蔑ろにされちゃいます。弱い者いじめロボット。

 「ただの人」として生きることは、自分と向き合いながら、生きること。それは他人の評価に左右されない自分です。「それはつまらない」という人もいるでしょう。選択、自己決定ですから、「他人の評価を気にする人」、「気兼ねの人」になる選択肢もあります。私は「自分は自分である」という自分になることを選択します。

 それはどんな自分でしょうか?

 宮田光雄先生の『メルヘンの知恵』(岩波新書 新赤版882, p48)によれば、それはこういうことです。

 「自分自身に即して生きる充実感、自分が本当に自由であるという解放感、自分がこうして生きるのを許されていることの静かな喜びなどを、こころに深くかみしめながら生きていけるのではないでしょうか。」

 そんな充実感、解放感、静かな喜びを、あなたも味わいながら、生きませんか?

 

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