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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「ルター派は眠ってたけども、改革派は目覚めていた」 改訂版

2015-02-07 13:22:36 | アイデンティティの根源

 

 初期キリスト教徒は、当時支配的、自分を確かにする道を、偽物だと断じました。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp180の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 キリスト教も最初に組織化の時代がありました。キリスト教は、スピリチュアルな革命として始まりました。キリスト教は、この世で最も貧しい者たちが、間もなくこの世が枯れ果てた後で、あの世で勝利を得ることができる、という考えでした。しかし、いつものように、この世が枯れ果てることは延び延びになっていました。しばらく、お役人たちは、終わりに備えて、この世を維持しなくてはなりません。それで、二重の市民権のために、行政上の計画と理論的な定義が必要でした。二重の市民権とは、すなわち、1つは縦の市民権であり、「いつなのか」が肝心であり、もう1つは、横の市民権であり、いつでも「今」が肝心です。

 

 

 

 

 

 この二重の市民権の問題。ルターには、「二王国説」という考えがあるそうですが、そのことをエリクソンはここで言っているのだと考えられます。この世のこととあの世のことを分けて考えること。ナチスの時代に、ルター派が力がなく、改革派のカール・バルトが力を発揮したことの背景の一つが「二重国説」の有無があると言われています。「ルター派は眠っていたが、改革派は目覚めていた」。

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星がこんなに美しいと思ったことなどありません

2015-02-07 11:06:37 | 間奏曲

 

 夜空の星々を見つめたら、永遠を思わざるを得ないでしょう。

 『The Sense of Wonder 不思議を感じる心』から p67の最後の行途中から。

 

 

 

 

 

その夜は、静寂に包まれていたので、湾の出口から突き出た岩棚の端に浮かぶブイの音が聞えました。1、2度、はるかかなたの浜辺にいる誰かの話す言葉が、澄んだ空気を突いて聞えて来ました。チラチラと小屋の明かりが見えます。小屋の明かり以外は、人の暮らしを思い出させるものなど1つもありません。友人と私が一緒にいたのは、星とだけ。私はこれほど星が美しいものだと思ったためしがありません。霞がかった天の川が空にたなびき、星座たちが輝き、透き通っていました。キラキラ輝く星が水平線の近くで輝いていました。1、2度、流れ星が地球の大気に触れて輝くています。

 

 

 

 

 

 レイチェル・カーソンご本人が、非常に感性が鋭く、繊細な方だったことが分かります。いのちへの慈しみ、人間を超えるものへの畏敬が滲み出ている詩ですね。

 

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視線の不思議

2015-02-07 07:24:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 「眼は口ほどに物を言う」という格言がありますよね。自分の気持ちを、言葉に表さずとも、人に伝えることができること、あるいは、眼には本心がハッキリ現れていること、を意味するそうですね。

 小学生と関わることが多い私は、視線とは実に不思議だと感じることがとっても多い。それは、エリクソンが視線を非常に重視していることに、もちろん触発されたものです。また、視線とは、「今眼の前にあるものを見る、という意味 + 眼には見えないものを見通す」という二重の意味があるからでもあります。

 もちろん、それだけではありません。視線は、人や物事に対する「評価」を意味することがあるからです。プラスの「評価」は、注目すること attentionアテンションが注がれること。評価されること、注目されることが極端に描けている子どもの場合、自分にアテンションが向いているのか、繰り返し確認します。「知らないおじさん」である私が学校に参りますと、こういう子どもが次々に見つかります。そういうお子さんは、ぼぼ例外なく「愛着障害」です。対人関係の基本の「基(キ)」は、見つめ合うこと。これが極端に欠けてると、考えてほぼ間違いない。見つめ合うことが足りずに、「愛着」や「信頼」を子どもにプレゼントすることなどできないからです。こういう子どは、授業中でも、何度も私を振り返り、「自分の眼と私の眼があうこと」を確認し、あるいは、言葉をかけて「私の目線を自分に引き付けよう」としてきますから、すぐにそれと分かります。

 あるいは、マイナスの「評価」。日頃から、「否定的な」言葉かけ、心理的虐待になるような言葉をシャワーのように浴びている子どもたち。あるいは、マイナスの「評価」されるとき、「大人」からの、意識的、あるいは、無意識的な「無視」を、繰り返し体験してきた子どもたちです。もちろんこの子たちも「愛着障害」。肯定的な評価を繰り返し体験してもらわずに、「愛着」や「信頼」を、子どもにプレゼントすることなどできないからです。こういう子どもは、先ほどの子どもとは明らかに違います。伏し目がちで、表情が乏しく、「自分の眼と私の眼が合うこと」を避けようとします。表情が暗くて、目が流れている感じの子ですね。「やる気がない」と言われている子どもから、「リーダー」として認められている子どもまで、子どもによっていろいろですが、その子どもはいずれも「本当の自分」を生きられずに、苦戦している点で共通しています。そして、いずれも自己評価、自己肯定感が非常に低い点でも共通しています。ついでに申し上げれば、前段の子どもたちも、自己評価、自己肯定感が非常に低いんですね。

 こういう子どもたちは、いずれも、「眼と眼と合わせるところ」から初めて、楽しく陽気な気分になれることを「共に見通す」約束を繰り返し体験することが、非常に有効なセラピーになりますよ。

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