「眼は口ほどに物を言う」という格言がありますよね。自分の気持ちを、言葉に表さずとも、人に伝えることができること、あるいは、眼には本心がハッキリ現れていること、を意味するそうですね。
小学生と関わることが多い私は、視線とは実に不思議だと感じることがとっても多い。それは、エリクソンが視線を非常に重視していることに、もちろん触発されたものです。また、視線とは、「今眼の前にあるものを見る、という意味 + 眼には見えないものを見通す」という二重の意味があるからでもあります。
もちろん、それだけではありません。視線は、人や物事に対する「評価」を意味することがあるからです。プラスの「評価」は、注目すること attentionアテンションが注がれること。評価されること、注目されることが極端に描けている子どもの場合、自分にアテンションが向いているのか、繰り返し確認します。「知らないおじさん」である私が学校に参りますと、こういう子どもが次々に見つかります。そういうお子さんは、ぼぼ例外なく「愛着障害」です。対人関係の基本の「基(キ)」は、見つめ合うこと。これが極端に欠けてると、考えてほぼ間違いない。見つめ合うことが足りずに、「愛着」や「信頼」を子どもにプレゼントすることなどできないからです。こういう子どは、授業中でも、何度も私を振り返り、「自分の眼と私の眼があうこと」を確認し、あるいは、言葉をかけて「私の目線を自分に引き付けよう」としてきますから、すぐにそれと分かります。
あるいは、マイナスの「評価」。日頃から、「否定的な」言葉かけ、心理的虐待になるような言葉をシャワーのように浴びている子どもたち。あるいは、マイナスの「評価」されるとき、「大人」からの、意識的、あるいは、無意識的な「無視」を、繰り返し体験してきた子どもたちです。もちろんこの子たちも「愛着障害」。肯定的な評価を繰り返し体験してもらわずに、「愛着」や「信頼」を、子どもにプレゼントすることなどできないからです。こういう子どもは、先ほどの子どもとは明らかに違います。伏し目がちで、表情が乏しく、「自分の眼と私の眼が合うこと」を避けようとします。表情が暗くて、目が流れている感じの子ですね。「やる気がない」と言われている子どもから、「リーダー」として認められている子どもまで、子どもによっていろいろですが、その子どもはいずれも「本当の自分」を生きられずに、苦戦している点で共通しています。そして、いずれも自己評価、自己肯定感が非常に低い点でも共通しています。ついでに申し上げれば、前段の子どもたちも、自己評価、自己肯定感が非常に低いんですね。
こういう子どもたちは、いずれも、「眼と眼と合わせるところ」から初めて、楽しく陽気な気分になれることを「共に見通す」約束を繰り返し体験することが、非常に有効なセラピーになりますよ。
