エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

隠されている恵み 改訂版

2015-02-11 13:10:48 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「救い」というと、日常世界とはかけ離れた、遠い宗教的世界だと誤解する人が多いですね。でも私はかねがね、それは何気ない日常世界に、隠れされている、と感じています。誰が隠したんでしょうか?

 約束と言えば、日常的にするものですね。仕事でも、家庭でも、学校でも、いろんな場面で約束がたくさんありますよね。切符を買った時でも、よく考えてみると、それは約束をしたことになります。130円の切符を買って、電車に乗って、130円区間の駅を降りたのに、改札機に切符を入れてもバーが開かなければ…。それは、約束違反。駅員に文句を言いたくなりますもんね。

 自動運転でやってることにも、たくさんな約束が隠されています。私は、いつも、苦戦している小学生とその母親や教員にお話するのは、母子関係、教員・生徒関係での≪約束≫。それは、子どもが抱く≪見通し≫を、「ホントだよ(アーメン)」と、1人の大人が≪話し言葉≫にして受け合い、それを一緒に≪出来事・実行・態度≫にすることです。子どもが心からの信頼を育んでいく時とは、その子どもが抱く≪見通し≫を、1人の大人が、一緒に≪話し言葉≫にした後で、陽気で楽しい気分で≪出来事・実行・態度≫に一緒に実現する時だけなんですね。

 キリスト教も、仏教も、多分イスラム教も、母子関係、教員・生徒関係でやるような≪約束≫を体系づけたものだ、と言っても大過ではない、と私は考えます。そして、だからこそ、私どもの日常生活からかけ離れている、と思われがちな「救い」と、それに伴う≪圧倒的な悦び≫は、ささやかで、ありふれた日常生活の中にあるんですね。

 あなたも、隠された恵みを、今日も見つけてくださいね。

 

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不思議の国のアリスちゃん 改訂版

2015-02-11 11:26:08 | 間奏曲

 

 虫眼鏡の向こうの世界は、子どもと歩む「不思議の国のアリス」ちゃん。

 『The Sense of Wonder 不思議を感じる心』から p76の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 手持ちレンズか虫眼鏡の良いものを200円~300円で買えば、1つの新世界がやってきます。あなたのお子さんと一緒に、ありふれたもの、つまんないものと思って来たものを改めて見てください。一握の砂粒が、バラ色や透明にキラキラと輝く宝石に思えてくるかもしれません。あるいは、黒光りするビーズやら、まぜこぜの小人の国の岩やらに思えて来たり、ウニのとげやら巻貝のかけらに見えて来るかもしれませんよ。

 

 

 

 

 虫眼鏡の先には、マハトマ・まど・みちおさんが教えて下さるように、不思議の国のアリスちゃんが1人待っていてくれます。それは、かつて一人ぼっちの豊かな世界だったかもわかりません。その豊かな世界が、子どもと共にする、またとない慈しみと悦びの世界にもなりますよ。

 

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恐怖政治と正しいこと

2015-02-11 07:05:01 | アイデンティティの根源

 

 ローマカトリックは、縦の関係を横の関係に繋ぎ止める役割を上手に定式化することができました。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp181の下から3行目途中から。

 

 

 

 

 

ローマカトリックは、恐怖政治を用いて、このあらゆる人を含む主張を全体主義的原則としたんですね。この場合も(他の場合と同じように)、恐怖政治は、必ずしも直接使つて、ブルブルと震え上がらせる訳じゃぁありません。恐怖政治は、将来の人々に対して、警告を与えたんですね。典型的には、その警告とは、誰に対して、いつ、その恐怖政治が襲い掛かるか誰にもわからない、というやり方です。1人の人が道徳的に人様に言えないことをしでかしたり、しでかしてしまったりしたことは、それは自分がいつも(永遠に)死後に滅びをもたらすかもしれないし、滅びとならないかもしれません。そのしでかしたことのために、自分の社会的立場や心の持ち様は、完全に、救いを独占している者たち(ローマカトリック)に頼ることになりますし、将来はダメ人間になるという自分を確かめることしか残りません。あらゆる恐怖政治の場合と同様に、全体主義の中央政府はいつでも、恐怖政治を実行する際の過熱にたいして、責任を負うはずもありません。実際は、恐怖政治が主張するのは、恐怖政治を実行する者を思い止まらせていることです。しかも、それは、恐怖政治を常々精力的に喧伝すると言うやり口です。しかしながら、こういった恐怖政治は、生の人間が、人々をお互いの迫害者にしてしまうような卑しい場をもたらす訳じゃぁない。卑しい生活は、むしろ、子どもたちに正しいことを押し付けることによって、すでに始まってます

 

 

 

 

 ここはルターの宗教改革前夜の話じゃない。現在の日本の、現在進行形の話です。子どもに正しいことを押し付けることを「教育」だと誤解している教員は山ほどもいるからです。少数ながら、そいじゃない教育もいることが、日本にも「教育」が辛くも守られてんですね。子どもたちに正しいことを押し付けてる「学校」、大川小学校ばかりではなく、たくさんの「学校」がすでに、「卑しい場」と化しています

 すでに何度かこのブログでも触れましたように、「卑しい場」と化した「学校」で流行るのは、ウソとゴマカシ、媚びと嘲り、子どもの委縮と「教員」の大声と嘲笑です。

 

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