いのちの鼓動に耳を傾けるものでありたいですね。
The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p87から。
大地の美しさをよく見つめている者は、いのちが続く限り続く(透明な)力の在り処が見つかります。
宮沢賢治の詩「稲作挿話」の1節のようですね。
雲からも
風からも
透明な力が
その子にうつれ
いのちの鼓動に耳を傾けるものでありたいですね。
The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p87から。
大地の美しさをよく見つめている者は、いのちが続く限り続く(透明な)力の在り処が見つかります。
宮沢賢治の詩「稲作挿話」の1節のようですね。
雲からも
風からも
透明な力が
その子にうつれ
神様からの憐れみは、相応しくない者にも、もらえます。大きな福音。
Young Man Luther 『青年ルター』のp184のブランクの上9行目途中から。
このように、私どもが現在どうであろうとも、また、今後どうなろうとも、今何ができ、今後何ができるようになるかは、どの一つとってみても、神様からのプレゼントになります。エクソ・ディオ・ノービス・エステ ノン・エクソ・ノービス、「神様から私たちに、であって、私たちからではありません」。しかし、自由意思を放棄することに対して、アウグスティヌスは、縦の関係への径を示しています。その径の標識は、果実と完璧です。アウグスティヌス神学は、アウグスティヌス学派と比べると、母性的です。母性性において、みじめな人間がいつでも確信するのは、キリストの犠牲の故に、自分は、生まれながら、人生のおけるチャンスを貰っている、ということです。すなわち、成長と成果、それから成功の可能性が、自分にも開かれている、ということです。人はいつでも、慈しみの母乳、その自分の分け前か、あるいは、分け前以上を分けていただけると期待することを許されています。
慈しみ深い神様は、分け前以上を、いつも下さいます。その恵みに気付く者の幸い。アウグスティヌス神学は、恵みの神学です。
心理臨床の仕事は、聴く仕事です。おしゃべりの私が言うのですから、本当です。一番いい心理臨床ができている時は、こちらはほとんど話をしない。クライアントもあんまり話をしないこともあるくらい。その場合は、話し言葉ではなくて、箱庭やコラージュなどが、クライアントの自己表現になっているので、話し言葉を発する必要がない。それで、心理臨床の仕事は、聴く仕事と言われます。
かたや、祈り。ギリシャ語で、祈るは、προσευχομαι。織田昭さんの『新約聖書ギリシア語小辞典』によれば、「祈る、祈祷する、祈願する」などの意味があるとされます。προσεχωも祈ること。でも、προσεχωは、織田昭さんの『新約聖書ギリシア語小辞典』によれば、「注目する、眼をとめる、耳を傾ける」とあります。祈ることは、聴くことです。祈ることは、通常誤解されているように、お願いをすることではない。
それは、ユダヤ人たちの日々の祈りを考えると、いっそうハッキリ分かります。ユダヤ教徒の朝夕の祈りの中心は「シェマー イスラエル」、すなわち、「聴け、イスラエル」と呼ばれる祈りなんですね。やはり、祈りは、神様の言葉を聴くことで、神様に対して自分の願いを伝えることではない。ですから、私どもは黙って、神の言葉に耳を澄まします。
心理臨床で、子どもの言葉にならない言葉に耳を傾けることも、神様の言葉に耳を傾けることと通じています。ですから、子どもの言葉にならない言葉に耳を傾ける時には、神の言葉に耳を傾ける時のように、大らかで、謙遜で、それでいて自由と相亘る態度が必要です。