「嫌な時代だったなぁ。日本人の誰もが何かしら、不本意な選択を強いられていたんだ」。これは山田洋二監督の映画「小さいおうち」の中で、総轄的なシーンで、今は亡き米倉斉加年さんが言ったセリフです。満州事変から太平洋戦争に突入する時代、ほとんで全ての人が大なり小なり「不本意な選択を強いられていた」。そんな時代。
そのセリフのすべてはこうです。
「嫌な時代だったなぁ。日本人の誰もが何かしら、不本意な選択を強いられていたんだ。いや、強いられているものもいれば、自ら望む人もいて、それが不本意だったことすら気付かない。そういう時代だったんだ。」
あれ、これって、今のこと?
わが安倍晋三首相。「積極的平和主義」という名の、日本国民がアメリカ人と一緒に戦場に立ち、無垢な女子供を殺し、そして、自分も殺されるだろう社会にしようとする政権をいただき、また、「高度プロフェッショナル制度」という名の、それじゃぁなくても、「カローシ(過労死)」という日本にしかない非人間的で殺人的な働かせ方が当たり前の社会を、一層非人間的で、いっそう殺人的な、苛烈な社会のしようとする政権をいただいている今の日本。
日本の学校教育といえば、先ごろの岡田尊司さんが言うように、
「ヨーロッパの教育でとても重視されるもので、日本では軽んじられているものとして、主体性と責任感がある。主体性を尊重してはじめて、本来の責任というものが生じるし、育っていくことになる。教師が主導し、それに服従する生徒がよい生徒であるという意識が強い日本では、生徒の主体性は口先では称揚しつつも、態度や深層心理ではうっとうしがられるところがある。やはり教師の話をよく聞き、指示したとおり行動する生徒がよい生徒とみなされるのだ」
でしょ。自覚的な人よりも、「不本意な選択をしても、不本意だったことすら気付かない」人間を、組織的に大量生産しているのじゃないか? と訝しく感じる学校教育。
私どもはどうすればいいのかなぁ? それはね、不本意な選択はハッキリと拒否し、不本意な選択を強いる存在には、ハッキリと「NO」と言える、パレーシアな人間。人間らしい暮らしを日々の生活の中で創造し、隣人の悦びを自らの悦びと意識的にできる、自覚的な人間、そんな人間を育てるために、日々の生活を作り上げること。
さういうものに 私はなりたい