ローマカトリックは、縦の関係を横の関係に繋ぎ止める役割を上手に定式化することができました。
Young Man Luther 『青年ルター』のp181の下から3行目途中から。
ローマカトリックは、恐怖政治を用いて、このあらゆる人を含む主張を全体主義的原則としたんですね。この場合も(他の場合と同じように)、恐怖政治は、必ずしも直接使つて、ブルブルと震え上がらせる訳じゃぁありません。恐怖政治は、将来の人々に対して、警告を与えたんですね。典型的には、その警告とは、誰に対して、いつ、その恐怖政治が襲い掛かるか誰にもわからない、というやり方です。1人の人が道徳的に人様に言えないことをしでかしたり、しでかしてしまったりしたことは、それは自分がいつも(永遠に)死後に滅びをもたらすかもしれないし、滅びとならないかもしれません。そのしでかしたことのために、自分の社会的立場や心の持ち様は、完全に、救いを独占している者たち(ローマカトリック)に頼ることになりますし、将来はダメ人間になるという自分を確かめることしか残りません。あらゆる恐怖政治の場合と同様に、全体主義の中央政府はいつでも、恐怖政治を実行する際の過熱にたいして、責任を負うはずもありません。実際は、恐怖政治が主張するのは、恐怖政治を実行する者を思い止まらせていることです。しかも、それは、恐怖政治を常々精力的に喧伝すると言うやり口です。しかしながら、こういった恐怖政治は、生の人間が、人々をお互いの迫害者にしてしまうような卑しい場をもたらす訳じゃぁない。卑しい生活は、むしろ、子どもたちに正しいことを押し付けることによって、すでに始まってます。
ここはルターの宗教改革前夜の話じゃない。現在の日本の、現在進行形の話です。子どもに正しいことを押し付けることを「教育」だと誤解している教員は山ほどもいるからです。少数ながら、そいじゃない教育もいることが、日本にも「教育」が辛くも守られてんですね。子どもたちに正しいことを押し付けてる「学校」、大川小学校ばかりではなく、たくさんの「学校」がすでに、「卑しい場」と化しています。
すでに何度かこのブログでも触れましたように、「卑しい場」と化した「学校」で流行るのは、ウソとゴマカシ、媚びと嘲り、子どもの委縮と「教員」の大声と嘲笑です。
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