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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

仏道は自己なり

2014-10-22 13:38:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

「仏道は自己なり」とは、浜松市半田山の龍泉寺参禅道場の門にある、道元禅師の言葉です。仏教も、非常に心理学的だと感じさせる言葉ですね。

 以前に、ここの道場の師家、井上哲玄さんのインタヴューを伺ったことがあります。それはほとんど、カウンセリングだと感じました。それは、井上さんが、ありのままを受け止めることが、自己を知ることになる、と述べていたからです。

 私どもは、自分の考えの枠組みに従って、自分や相手、其れに様々な環境についてあれやこれやと考えます。しかし、その自分の枠組みで受け取ることが、自分や相手だけではなく、環境を正しく受け止めることの邪魔になっていることが良くありますよね。

 それに対して、禅では、「人我の見を離れること」だと言います。この、「人我の見」とは、自分の考えの枠組み、自我だ、という訳ですね。これから自由になることが、リフレーミング(改めて、枠組みを広くとること)でありますから、自分を相手を、環境をありのままに見ることに通じるという訳です。

 自分の身勝手な見方を捨てることができれば、それは自由でしょ。井上さんによれば、禅はその自由を目指しているわけですから、これまもう、カウンセリングそのものだと言えるでしょうね。

 ことほど左様に、仏教も、自己の修練として、誠に臨床心理学だと言えると思います。面白いですね。

 

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人を大事にできるのは、自己愛から卒業して、信頼が豊かになった人だけ

2014-10-22 11:14:37 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人を大事にする人は、どんな人でも大事にできますし、人を客観的にみられる人なら、どなたに対しても客観的になれます。面白いですね。

 p112第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 人を大事にできる力は、自己愛から卒業することができるかどうかですし、母親や一門に対する、近親相姦的なこだわりから卒業しているかどうかです。人を大事にする力は、世の中と自分自身に対する関係において、創造的な心の構えを育て発展させることができるのかどうか、次第なんですね。その力が生成し、誕生し、覚醒する過程には、必要条件として1つの性質、すなわち、信頼が必要です。人を大事にする練習には、ですから、信頼を実地で訓練することが必要です。

 

 

 

 

 自己愛の人は、人の足を引っ張ることや、陰口をたたくことや、上司に媚びることには長けていますよね。でもね、それでは、自分自身を大事にすることも、人を大事にすることも、全くできません。“少しもできない“、という点に注意が必要です。

 信頼を練習するためには、大事な人とのやり取りを繰り返ししてもらうことが必要ですね。それはエリクソンが言う通りです。繰り返しのやり取りをしてもらうことが、自分と相手を信頼することとイコールですから、信頼を実地で練習できた人は、必ず、自分も人も、同じくらい大事にできるんですね。”必ず“、そうなることに注意が必要です。

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感覚を奪う暴力

2014-10-22 06:10:18 | アイデンティティの根源

 

 投影が起こると戦争ですから、無意識に投影せずに済むようにすることが、戦争を防いで平和をもたらす、真の「軍縮・非武装 disarmament」になるのですね。

 p357の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 暴力の挑発に対する応答を、こんな感じで示唆する以上に、荒々しくがま厚かましいことはないでしょう。面白いことに、事情通にとっては、左の頬を差し出すことは、けがをする侮辱にミスミス身をさらすことになります。マントまで与えることは、すなわち、裸になるということですし、あなたに1マイル行くように強要する部隊とはローマ軍の兵士たちでしょう。ここでは、ペリンでさえ幾分混乱して結論を急いでいる感じですが、その結論とは、「普通で自然な」人間性を「超えた、眼も覚めるほどの実例」になりがちなのは、「神のリアルな感じを真似る」ためだということです。でもね、ここでは、一度でいいから反対しなくちゃぁ、ならないんですが、イエスの現代の弟子、マハトマ・ガンジーの非暴力の策略を研究してきた基盤にたって、これが衝撃を与えたに違いなことが多いのは、攻撃的な敵が至極当然と考えている態度を大改造するためですし、攻撃的なはじめにある議論の余地のないほど明確で、ひとかけらの傷もないほど有利な立場を失うことであり、自分自身の行動を馬鹿げたほどにやりすぎなのはしいられたことだと、感じさせるためなんです。というのも、人間が暴力をふるうと、攻撃した自分自身に対してさえ「自然な」あらゆるものをほとんど全く感じなくなるからなんですね。それは、子どもに対する暴力であっても、大事な人々に対する暴力であっても、宣戦布告した敵たちが呼び起こした暴力であっても、変わらないんですね。

 

 

 

 

  カウンセリングの理想の状態が、感覚が研ぎ澄まされているのに、何も考えない無心な状態であるとすれば、その逆は、鈍感で感情を失っている状態でしょう。鈍感で感情を失うのは、まさに暴力をふるっている時であり、他者を攻撃している状態なんですね。

 内省をするためには、暴力や攻撃を避けなければならないゆえんは、まさにここのあるんですね。

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