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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

愛着セラピーの友(手引き)

2014-10-17 14:30:21 | エリクソンの発達臨床心理

             バーンズ・アンド・ノーブル書店アラモアナ支店にて                      

 

 バーンズ・アンド・ノーブル書店アラモアナ支店で買って来た一冊。『愛着セラピーの友(手引き)」。

 この本は現在進行形でreadingですから、その全体像から私なりに物申すことがまだできません。今回は現在完了形でhave read部分から、いつくかの点をご紹介することにとどめたいと思います。

 1つはアメリカ精神医学会(APA)は、発達トラウマ障害(DTD)の子どもは、「上から目線の指導は禁忌」だということです。いま日本の小学校で普通にやっている「指導」と言われていることは、この「上から目線の指導」です。小学校にごまんといる愛着障害の子どもに対して、ですから、「指導」はしてはならないことになるますね。あれは見ているこちらの気持ちが痛々しくなるものですから、APAがかくもはっきりと言ってくれてよかったと思います。「禁忌」ですから、「上から目線の指導」は絶対にやってはいけない。

 発達トラウマ障害(DTD)≒愛着障害の子どもとの関わりにおいて極めて大事なことを文字通り引用しておこうと思います。上の写真の本のp162から。

「子どもがしでかした良くないことを論じる時でさえ、『大人たちは、自分のことを悪いとは見ないんだ』と、子どもが理解できるように手助けすることが、治療の目標になります。『自分が悪いことをしても、「自分を悪い子」とは大人たちは見なさないんだ』ということを、子どもが知らないままで、大人を信頼することもなければ、行儀よく勉強することもないでしょう」

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自分の対人関係は、歪んでる?!

2014-10-17 11:59:14 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 私どもは、目元にやさしさをたたえた本物の大人になりたいものですね。

 p110第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 さほど極端でもなく、たぶんそれほど明らかでもないのが、対人関係で当たり前になっている歪みですね。どれほど多くの親たちが、子どもの反応を、子どもを従わせたり、子どもたちに喜びを与えたり、子どもを信頼したりするなどの面から経験はするけれども、子どもが、自分のために独力で感じたことを受け止めたり、関心を示したりする面からは経験しないでいることか? どれほど多くの夫たちが、妻に対するイメージを、尻に敷かれていると思っていることか? というのも、夫たちが、自分の母親に対する愛着の故に、妻からどんなことを求められても、自分の自由が制限されたと見なすことになるからです。どれほど多くの妻が、自分の亭主を、役立たずでバカだと思っていることか? というのも、妻たちが子どもの頃に作り上げた白馬の騎士という空想のイメージにふさわしい形では生きられないからなんですね。

 

 

 

 

 

 自分の対人関係は歪んでると感じたこと、ありますか? たいていは、相手が悪いと感じることが多いのじゃないかしら? 

 やり取りのない関係は、歪んだ関係です。「人間を上下2つに分けるウソ」に支配させた関係は、歪んだ関係です。そう言う場合でさえ、大体、「悪いのはヤツだ」と思っているのが、多くの人の心の構えです。

 ですから、自分の対人関係を、客観的に眺める視点が大事になります。自省的な視点が大事になります。ねっ!

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自分自身に出会う時

2014-10-17 00:28:00 | アイデンティティの根源

 

 神様はいついかなる時も≪いまここ≫に私どもひとりびとりと≪共にある≫存在なんですね。これを、良い知らせ=福音と呼ばない手はありません。

 p356の3行目から。

 

 

 

 

 

 ですから、この譬えの意味するところは、家父長制で、一神教の場では、父なる神様は、ひとりびとりを、親のように面倒を見てくださり、ひとりびとりを許してくださる、ということです。その許しのおかけで、父なる神は迷子になっている者たちに完全に信頼を寄せることができます。すなわち、危険を冒した者たちを完全に信頼することができます。それは、その迷子になった人たちが自分自身と神様を見つけるためなんですね。「放蕩息子」の物語は、このように、世代が継承され、いまを生き続けることを肯定してくれますし、食卓を共にする悦びによって肯定するんですね。

 

 

 

 

 

 

 「放蕩息子」の譬えの解き明かしですね。それは、自分自身と神様を見つけ出すことだと言います。反対から申し上げれば、人は神様を見出すときに、初めて、それと同時に自分自身を見出すことができる、という訳ですね。

 うまくできてんですね。

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