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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

日本のワークシェアリングの「ウソとゴマカシ」

2014-10-01 13:14:50 | エリクソンの発達臨床心理

 

 昨日、「ヨーロッパのワークシェアリングは、日本で言われているワークシェアリングとは全く違います」と申し上げました。そこに「ウソとゴマカシ」があるんですね。それはちょうど、アメリカのフリーウェイと言うタダで乗れる高速道が、日本にやってくると、バカ高い料金をぶんどられる高価道になってしまうのと、似ています。日本人は、行政の「俺俺詐欺」に合うのがお好きのようですね。

 ヨーロッパで言うワークシェアリングは、公平フェアfareの一つの形なのです。つまり、7人が1時間サービス残業すると、1人を失業させることになりますでしょ。1日7時間の労働は、1人の人の労働時間だからですよね。ですから、残業、しかも、サービス残業をするものは、失業者を生み出す、労働者の裏切者なんですね。それは自分を、隣を、人間ひとりびとりを尊重する発想で、公平を大事にする態度でしょ。

 これが日本にやってくると、ワークシェアリングは1人の賃金を減らす話になっちゃうでしょ。おかしいでしょ? 妙じゃないですか? しかも、日本は賃金が低く抑えられ、景気に左右されるボーナスで、その低い賃金分を補てんしたり、しなかったりする(最近は補てんされないことの方がはるかに多い)制度。基本が、資本家有利、労働者不利のシステムなんですね。本来は労働時間短縮の話が、日本に来ると、賃金カットの話にすり替わっちゃう。御用学者と行政の「ウソとゴマカシ」ここにあり、です。

 「女性が輝く社会」と口先だけで言うそばから、「賃金カット」の「残業代ゼロ」の話でしょ。「女性が本当に輝く社会」は、法定労働時間を短縮し、正規職員と非正規職員の間の、社会的差別を解消しなくちゃなりません。

 私どもは、新聞やNHKや、わが安倍晋三首相の「ウソとゴマカシ」を見抜くだけの、教養と見識を、日々の生活の中で培うことが、社会人としても、子どもに、より良き社会を残すためにも、エッセンシャルに必要なんですね。

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息を感じると、自分自身になれる

2014-10-01 11:07:48 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 人は、1人にならない口実をいくつも数えやすい。1人になるのはそれだけオッカナイからです。でもね、ぞれじゃぁ、自分の花明りを灯すことにはなりません。自分自身を生きることができないんですね。それじゃぁ、もったいない。自分を大事にできなきゃぁ、人も大事にできないしね。

 p104の10行目途中から。

 

いくつかの簡単な練習をすると良いでしょう。たとえば、楽な姿勢(前かがみでもなく、こわばった感じでもなく)で座る、眼を閉じてみる、眼の前の白い幕を見てみる、邪魔な絵や考えすべてを取り除いて見る、そうしてから、自分の息に従って見る、息に従いながら息を感じることです。さらには、「≪私≫という感じ」、すなわち、私、自分自身であろうとします。自分自身とは、自分の力の中心であり、自分の世界を創り出す者です。少なくとも、毎朝20分、このような訓練の一つに集中するべきで、それができなければ、毎晩寝る前に訓練すべきでしょう。

 

 

 

 

 息というのも不思議ですね。息があるから、私どもは生かされています。息は例でもあるらしい。霊と訳されるプネウマ πνευμα も、その元々の意味は、息なんですからね。息を感じると、霊と出会い、自分自身になれるんですよね。

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声の不思議

2014-10-01 06:19:46 | アイデンティティの根源

 声には不思議な力があります。声は、人を非難する場合もありますが、自分や他者の生きる場での哲学を替える力だってあります。その哲学は物語からできていることが多い。

 p350の第4パラグラフ。

 

 

 

 

 

 ここで「声を掛ける」と呼んだのは、ガミガミ叱りつけることを言っているのに間違いありません。なぜって、この子どもたちは、「他の子どもたちは僕らの声に合わせて踊らないでしょう、声をあげて泣いたのに、胸を打って悲しんでくれないでしょう」と不平を言っているからです。別の言葉で申し上げれば、他の子どもたちは、その遊びの足りないところを補うように遊んでくれないだろう、ということです。この描写は、この言い伝えを聴いた者に、イエスが、あの人たちがイエスと、イエスの師であり、信頼するけじめの儀式を取り仕切った、バブティスマのヨハネに対してしたことをどう思っていたかを、切に訴えています。これは書き残しておこたいことなんですが、イエスは、ヨハネのことに話が及ぶと、いつでも、ヨハネのことを、深い敬意をこめて、自分自身の啓示的な使命になくてはならない段階であったと、言います。イエスがヨハネを自分の使命にとって欠くことができないと述べていた事実は、初期教会は軽視しましたが、初期教会は全面的に、イエスの使命が絶対的に特別なものであることに基づいています。

 

 

 

 

 

 

 声は実に不思議。思いを共有することになる場合もあれば、思いに分裂をもたらすものもある。その違いはどこから来るんでしょうか?

 

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