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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

信頼こそ、民主主義の基

2014-10-25 13:55:24 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 「人間らしいヴィジョン」をはっきり自覚するためには、弛まぬ努力と、内省と観察が是非とも必要ですね。

 p113第2パラグラフ。

 

 

 

 

 科学史は、理性に対する信頼と真理というヴィジョンに対する信頼に満ち満ちています。コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンはみんな、理性に対するゆるぎない信頼を吹き込まれていたんですね。合理的なヴィジョンを概念化するところから、理論を創り出す所までのあらゆる段階で、「信頼」がなくてはなりません。理性というヴィジョンを信頼するのは、合理的に妥当な目的を追求するために必要だからですし、仮説を信頼するのは、真実らしく、もっともらしい主張をするために必要だからですし、最後的な理論を信頼するのは、少なくともその理論に妥当性があることに、一般的な共通理解が得られるまで必要だからです。この信頼は自分の経験に根差したものでして、自分の思考力、観察力、判断力に対する信頼に根差しているんですね。合理的でない信念が真実だと誤解されるのは、権力や多数派がそのように、デッチアゲル場合だけですし、合理的な信頼はと言えば、多数派に同調せずに、自分自身が建設的に、観察し考えたことに基づいて得た、独立した確信に根ざすものなんですね。

 

 

 

 NHkや新聞の言うことを鵜呑みにしたり、忙しさにかまけて、権力がすることをチャックせずにしまうと、その時には民主主義は死んでしまいます。権力の思う壺。わが安倍晋三首相もニヤリとすることでしょう。

 日本人は、大勢順応主義。多数派に同調するのが、処世術。忙しいと思考停止でいてくれることが、権力の思う壺なんですね。ひとりびとりの市民が自分の頭で考えて、独立的に行動しないから、わが安倍晋三政権は、「人間らしい暮らし」を、あからさまに踏み躙っているんですね。日本を人間らしい社会にするためには、自分の眼で観察し、自分の頭で考え、自分の信頼するヴィジョンに従って判断し、行動できる大人じゃぁないとね。

 

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全身全霊で、力が与えられる時

2014-10-25 10:25:19 | アイデンティティの根源

 

 私の意識レベルが上がると、必然的に私が所属しいる集団の意識レベルも上がる。覚えておきたい視点ですよね。

 p358第5章の9行目途中から。

 

 

 

 

 

ところが、私が選んだ文脈では、ユダヤの世界でこれらの言い伝えの根っこを遡ろうとすることはできませんでした。モーゼの宗教の古代的で幼児的な源や、そこから、スピリチュアルな部分や知性を通して、次第にその宗教が自己超越することに関して、フロイトがなした劇的な推測を少しも見直しすこともできませんでした。イエスの伝道に関して申し上げれば、私はユダヤの受難に行く手前でとどまらなければなりません。ユダヤの受難の前に、ローマと聖職者の特権階級との間で交わされた政治的・宗教的取引に隠れた暴力に対して、戦闘的に、しかも、非暴力で、対決しようと決断したイエスの決断の後にガリラヤの時期が来るのでした。その取引のおかげで、非常に危険な瀬戸際に立たされていたイスラエルが何とか生き延びたんですね。ここでこそ、今報告したばかりの譬え話を押し広げることができます。人の子は、迷子になった者にだけ全身全霊で関わってくれるばかりじゃなくて、より良く自分を確かにするためにふさわしい役割を、果敢に果たす者に対しても、全身全霊で関わって下さるんですね。

 

 

 

 

 ここもまさに福音ですね。イエスが力づけてくださるのは、自分自身を失って、ウロウロしている迷子だけじゃない。よりよく自分を確かにしようとする者にも、身体をはって、全身全霊で、力を与えて下さるんですから。

 

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1人の時間 ソリチュード

2014-10-25 06:12:19 | エリクソンの発達臨床心理

 

 愛着障害の子どものケア。感情的な対応と正しいことを強要する対応が禁忌。望ましいのは、穏やかな対応と、内省的な対応。最近の小学校は、愛着障害の子どもだらけ。夏休みに仕入れて来た『愛着セラピーの手引き』に従って、最近訪問する小学校では、からなず、この愛着障害の子どもに対する関わり方の話をします。それで時々聴くんです、「内省する時間ありますか?」と。すると、たいてい返ってくる答えは「そんな時間はありません」。

 教員の皆さんは、仕事に子育てに忙しい。定時の法定労働時間は、他の労働者と同様、一日8時間、週40時間と決められてます。しかし、経済協力開発機構(OECD)は、加盟34の国と地域の中学に相当する学校の教員の勤務と教育環境を調査して、2013年「国際教員指導環境調査」として発表しました。その調査結果によれば、加盟国の教員の1週間の平均勤務時間が38.3時間であったのに対して、日本の教員は53.9時間であったと言います。つまり法定労働時間よりも13.9時間、1日平均3時間、つまり、1日平均約11時間勤務をしている計算になります。+通勤時間でしょ。1日の半分は仕事、ということになりますよね。日本の学校は労働者の権利を著しく侵害する「ブラック企業」だとする見方もあるほど。現実問題、私が関わっている学校では、22時までくらい平気で多くの教員が残っているという小学校もあるくらいです。とにかく忙しい。

 自宅に返れば帰ったで、家事や子育てが待っていますでしょ。家についても行きつく暇がないらしい。とにかく忙しい。

 つまり、内省する時間もない、ということになっちゃう。

 でもね、「何のために生まれて、何をして生きるのか?」という問いを問うのは、1人の時間です。「教育とは何か?」、「子どもを教育するのは何のためか?」。それを問うのも1人の時間。こういう問いを問わずに、果たして教育はできるのか? できるはずがありませんよね。でも、忙しくて、1人の時間も持てない教育が実に多い。それは何も考えず、教育をすることになる。間違ってるでしょ?

 今の小学校は、その半分の子どもたちが「愛着障害の子どもたち」です。望ましい関わりが、穏やかな関わりと、内省的な関わり。1人の時間も持てないような教員は、その関わりができませんでしょ。1人の時間を持たずに内省することなど、言語矛盾だからです。

 私はハッキリと申し上げたいのですが、内省せずに愛着障害の子どもに関わるのは、それ自体が「悪」だ、ということです。ハンナ・アーレントは、ナチスの極悪非道な、ケダモノのような悪行は、「悪の凡庸さ」であると言います。極悪非道は、不思議なことに、「平凡」から生まれるのです。その「平凡」=「内省のない日常」です。

 内省のない教員は、思考なき官僚でしかありません。それは「平凡」=「悪の凡庸さ」であっても、ナチスと同様な「人類に対する犯罪」の元凶であることを肝に銘じてもらいたいんですね。

 忙しい毎日を過ごしているあなた、是非とも、1人の時間、クワイエット・タイムを、習慣にして、ソリチュード=「単独之幸福」を味わってくださいね。

 

 

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