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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

子どもに「正しいこと」を教えることは、禁止事項

2014-10-23 15:34:04 | エリクソンの発達臨床心理

 

 子どもに「正しいこと」を教えることは、正しいことではありません。こう申し上げると、「この人何言ってるだろう」と思われる向きがおられるかもしれませんね。でもピィーンときた方もおられるかもしれません。

 「正しいこと」と申し上げても、別に「科学的真理を子どもに教えるな」などと申し上げているのじゃぁ、もちろんない。これは主として、人格的真理に関わることなんですね。

 最近読んだ中学生の新聞投書に、おおよそ次のような趣旨のことが書いてありました。「道徳の授業で、人間の美徳みたいなテーマで教員が話をするのだけれども、そんなことは教えられずとも、たいていは分かっている内容です。しかも、教員自身もできないようなことを、生徒ばかりに押し付けるな」という訳です。至極まっとうな投書だなぁと感心しました。こう感じたのは、私も同様な感触を道徳の授業に感じていたからかもしれませんね。

 でもね、それだけじゃぁ、ありませんね。先日こんなことがありました。ある学校の校長が、子どもの行事に参加した後のあいさつで、「さっきから土ばっかり触っている子どもが何人かいましたけれども、人が話をしている時には、顔を上げて、話を聴いてください」と言うんですね。私はここに何を感じたか。それは、こういうことです。「この人は、自分の自信のなさを、子どもに正しいことを強要することで補償してんなぁ」。

 教員、福祉従事者、医者その他の医療従事者、臨床心理士などなど、ヒューマンサービスを生業にする仕事には、マザーテレサや野村實先生のような、人格の香芳しい方もおられます。つまり、信頼が充実してる人です。しかし、ヒューマンサービスに来る、少なくなす割合の人が、自信のない人たちです。すなわち、信頼が脆弱な人たち。この人たちは、人を大事にすることなどできません。フロムが言っている通りなんですね。でも、人を大事にしているように見える。そう、実際は、人を大事にしているフリをしてるだけ。

 自信のない人、すなわち、信頼が弱い人には、「弱い立場」の人が「必要」です。なぜなら、自信のない人は、「弱い立場」の人を「下」に従えて、「正しいこと」を強制することで、自分の自信のなさを補うことができるからです。ここにこそ、学校でよく見る、見てられない、感情的で、強制的な「教育的指導」と「正しいことを教える」ことが生じる、心理的カラクリがあるんですね。

 そんなことを何百回言っても、子どもたちには全く届かないんですけれども、それさえお気づきでない。内省が足りないんですね。

 

 私どもは、なるべく「正しいことを教えること」は止めにして、子どもたちが自分の力で「正しいことができる」ように、陽気で楽しいことを子どもと一緒にやっていきましょうね。

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#人格の香

2014-10-23 12:24:03 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人を大事にできる人は、自己愛から卒業して、信頼が豊かになった人だけなんですね。それ以外は、大事にするフリをしているだけ。

 p112第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 信頼とは何でしょうか? 信頼とは、神様を信頼することなんでしょうか、それとも、宗教的ドクマを信頼することなんでしょうか? 信頼は、理性や合理的思考の反対なんでしょうか、信頼は理性や合理的思考とかけ離れているんでしょうか? 信頼という課題を理解しようとする時でさえ、合理的信念と、不合理的信念を区別しなくちゃぁ、いけません。不合理的信念によって、私は、不合理的権威に従属することに基づく信念(1人の人の信念、1つの考えの信念)が分かります。反対に、合理的信念は、何某かのことを信頼することが主じゃぁなくて、私どもの確信が確かで堅固なことなんですね。信頼とは、特別な信念だと言うよりは、全人格に漲る香なんですよね。

 

 

 

 

 フロムもさすがですね。信頼とは、何かを信頼していることじゃぁない。確信がもらたす人格の香なんですね。

 これを大江健三郎さんは、ディーセンシー decency気品、ないしは、ハビット・オブ・ビィーイング the habit  of being 人生の習慣と呼んでいます。同じことです。

 私はこの確信がもたらす「人格の香り」と言ってまず思い出すのは、野村實先生。物静かで、いつも笑みをたたえているのに、必要な時には短くズバッと核心を突いた言葉をおっしゃる。温もりと厳しさが同居している感じ。でもそれだけじゃぁ、とても言い尽くせない心和み、惹きつけられる感じ。

 また、関根正雄先生。「学識豊か」などと言った月並みな言葉じゃぁ、とても言い尽くせない業績があるのに、偉そうなそぶりは微塵もない。若者の話にも謙虚に耳を傾けてくださるのが、ハッキリわかる。偉大さと謙虚さが同居している感じ。でもそれだけじゃぁ、とても言い尽くせない、お近づきになって本物を教えていただきたい感じ。

 お二人とも、内村鑑三から、「単独之幸福」を学ばれたに違いありませんよね。

 

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善意の暴力

2014-10-23 05:25:27 | アイデンティティの根源

 

 暴力は、相手を傷つけるからいけないですが、自分の感覚を鈍化させるから、余計に避けなくっちゃぁね。

 p357下から5行目途中から。

 

 

 

 

 

ここで、フロイトが人間らしい超自我と呼んだものが、大人からの物理的な暴力だけではなくて、大人から正しいことを押し付けられることによって、強められてしまいます。かたや、大人になれば、その人間らしい超自我が、非常に抑圧的になっちゃいますから、自分が嫌いな自分を他者の中に見出しい悪をでっちあげたものに対して、超自我の暴力を差し向けることによって、自分の自尊心を維持しようとするんですね。こうなっちゃえば、私が全く非人間的な「人間を上下2つに分けるウソ」から生まれた「下劣な人間」と、他者の集団全体を呼ぶことになります。それは、「下劣な人間」である他者の集団を皆殺し(根扱ぎ)にすることが、神への奉仕になってしまいます。

 

 

 

 

 エリクソンは、ナチスを体験し、あの無慈悲な、ケダモノのような、人殺しを目の当たりにしたはずです。また、大戦後その記録を、映像で、文書で、目にしたことでしょう。そして、感じ、考えたことでしょう。念仏を唱えなくても、詩人のような眼を持っていたエリクソンのこと、その人殺しの事態を、その非人間的な事態を、鋭く感じ、心痛めていたことは、間違いありません。

 エリクソンは、実に人の心を見透かしている人なんですね。

 スドー・スピーシーズ。別に “須藤さん“ のことではないんですね。これは、私が「人間を上下2つに分けるウソ」と訳しているもともとの言葉、pseudo-species。そして、これは、あらゆる意地悪、あらゆる「教育的指導」、あらゆる虐め、あらゆるジェノサイド、あらゆる喧嘩、あらゆる戦争の背景に、間違いなく隠れてる心の構えなんです。しかも、これは「正義」や「神」まで持ち出して、その名のもとの行われる、人間が侵す最悪の悪行。それは、文字通り、相手の、他者の命を奪う場合もあれば、結局同じことですが、相手の、他者の「自分自身」を奪い去る悪行でもありえます。

 

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