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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

子どもはエッチ?

2014-10-16 13:16:21 | エリクソンの発達臨床心理

 

 小学生低学年でも、女の子に触ったり、女性下着売り場で下着を触ったりして、それが「問題」として相談を受けることがあります。「子供なのにエッチで困る」という訳です。フロイトの幼児性欲を裏書きすることになる話ではありますね。

 その子をエッチと見るのは、エッチと見る人の見方を投影していることがほとんど。たいていは、女の子に触ったり、下着売り場の下着を触ったら、周りの大人の反応が見えますもんね。その子どもも大人の反応が読めんですね。ですから、その自分の「見通し」が「出来事」になるのが、何とも言えないくらい安心感があるし、嬉しいんですね。こういう子どもは、たいてい愛着障害、関係性の中で得られる安心感が極端に足りないことが多い。その足りないところを自分なりに補おうとしているんですね。たいていは。

 大人の賢い関わりとしては、その「エッチ」を止めることではないんですね。もっと肯定的な楽しいやり取りを、子どもとの間に、計画的な組み込むんですね。それを毎日毎日、計画的にやっていくと、子どもはその楽しいやり取りの中で感じる「信頼」を肌身に感じ、身に着けることができるようになります。

 この肯定的な楽しい、計画的な関わりこそ、文字通り「礼拝」なんですね。

 

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あなたの顔は大丈夫?

2014-10-16 11:31:30 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人は不安になったりすれば、物事を客観的に見ることなど望めません。

 p110第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 心が病んだ人や、夢想家は、外なる世界を客観的な見る見方を、「十分に」持つことができません。でもね、私どもでも、大なり小なり、心を病んでんですね。大なり小なり眠っています。私どもも、世界を客観的に見られない場合があります。それは自己愛に傾く、心の向きのためです。実例を挙げましょうか? 自分自身やお隣さん、を眺めてみたり、新聞を読んでみたりすれば、簡単にその実例が見つかるでしょう。その人たちは、自己愛の程度が、まちまちです。たとえば、1人の女性が、医者を呼んで、「今日の午後、病院に伺いたいんです」と言います。医者が「今日の午後は所用があります。明日でしたら、診察できますよ」と答えます。その女性の答えは「でもね、お医者さん、私は病院から五分の所に住んでんですね」です。その女性は医者の説明が理解できなかったんですね。医者の説明は、その女性にとっては、距離が短いことが、医者の時間を節約することにならない、ということです。その女性は状況を自己愛的に見てんですね。すなわち、自分は時間を節約できるんだから、医者も時間を節約できるはずだ、という訳ですね。その女性にとって唯一の現実は、自分自身だけなんですね。

 

 

 

 

 自己愛的な人は、自己中心の視点しかないんですね。それは意外にも、身の回りに結構存在しますよね。

 それは自分自身の自信のなさを、他者をコントロールして補おうとする心の傾きですね。その他者をコントロールする人が「人間を上下2つに分けるウソ」の猛毒にやられちゃってる場合、その他者をコントロールしようとする心の傾きが猛烈になるんです。

 大体そういう人は、「子どもっぽい顔」してんですね。齢60が近くなってもね。

 あなたも、子どもっぽい顔してませんか?

 

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大いなる福音 : ≪いまここ≫におられる神

2014-10-16 07:04:53 | アイデンティティの根源

 

 「放蕩息子」の譬え、長い譬えです。しかし、許しがはじめから予定されていることが何よりの福音であることが、ハッキリ示されます。

 p355第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 長い譬えなので、短い言い伝えに要約することもできます。「放蕩息子」の最後の10ほどの単語が、要約になるだろう、と私は考えます。「あなたの兄弟は死んでいたのに、生き返ったんです。あなたの兄弟は、迷子になっていたのに、見つかったんです」。 そして、再び、その「道」は、あなた方の「中」にあると同時に、「間」にあります。そして、お父さんは2人の息子たちを大事にする点で忠実です。2人は家族の中での立ち位置も、人柄も全く違っても、お父さんは2人を大事にしてくれます。ほとんど母親のようだと、読者の中には言いたくなる人もあるでしょうし、あるいはまた、この譬えのテーマ、世代間の関わりを癒すことを見直すときには、問わずにはいられないでしょう、「比べるというこの世的な見方では、母親は生きていたのか、死んでいたのか?」と。もし母親が生きているとすれば、その母親も「こんちは」とあいさつしないでしょうか、するはずです。しかし、譬えは事例史でもなければ、歴史でさえありません。神様と暗に比べると、覚えておかなくちゃぁならないことは、族長「制」や用語法の規定による、男らしさにおいては、神様の最も大事な性質は、その魂は、どんな性格描写という枠を超えて、どこにでも存在する、という性質です。すなわち、神様は、神様の名前が示すように、いついかなる場合でも、「≪いまここ≫におられる」のです。

 

 

 

 

 

 私どもにとって、圧倒的な福音は、神様がいつなんどきでも≪いまここ≫におられる、ということです。見捨てられることは、ひとかけらも、ない、と言い換えることができます。それは一見「見捨てられたなぁ」と感じざるを得ない状況に陥った時でさえ、神様は「見捨てられたなぁ」と思う、その≪いまここ≫におられる、ということです。その時には、神様が≪いまここ≫におられることに、私どもが気づけないだけ。

 読者のひとりひどりが、自分の来し方を振り返っていただきたいのですが、自分が最も苦しい、と感じた時にも、不思議に「道」は開けてませんでしたか?

 それに気づいた者は、

 本当に、「信頼」が深まりますこと、間違いなし。

 真実に、「自分」を確かにできること、間違いなし。

 

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