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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

真理に対する畏敬

2014-10-26 14:08:23 | エリクソンの発達臨床心理

 

 真理に対する畏敬。ヒューマンサービスを生業にしている人はもちろん、学問の世界や法と関わる仕事でも、非常に重要な態度、人品ということですね。

 学問を生業としている学者。大学や研究所で研究している研究者ですよね。しかも、その人の多くは、学生などを教える教育者。しかし、今どきの学者に、この真理に対する畏敬を感じることが、あまりない。それが今の日本の大学の退廃を示していると私は感じています。

 以前にも書きましたが、最近会う大学関係者の多くはサラリーマン。真理に対する畏敬など微塵も感じない人が、圧倒的多数ですね。真理に対する畏敬を感じる大学人は、ほんの一握り。今年あった人では、1人くらいでしたね。関根正雄先生のような謙虚さを、真理に対する畏敬が感じられない人には、全く感じない。それよりも売名よろしく、自分の大学人としてのメンツの臭いにまみれていますからね。

 人格の香とは真逆です。

 人格の香芳しい大学人、今や絶滅危惧種ですね。

 

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一貫 or コロコロ ?

2014-10-26 11:29:38 | エリクソンの発達臨床心理

 

 科学でも、「人間らしいヴィジョン」が必要なことが分かりましたよね。

 p113の下から2行目から。

 

 

 

 

 

 思考力と判断力は、合理的信念が証明される、唯一の経験領域ではありません。人とのやり取りの場面でも、信頼は、大事な友人関係やら、お互いに大事にしあう関係やらでは、欠くことのできないものです。相手を「信頼している」ことは、相手の根っこにある態度や、人格の核や、自分を大事に思ってくれる気持ちが、当てになるし、決して心変わりするものではない、と確信することです。このように申し仕上げることによって、私は、人は自分の意見を変えない、などと申し上げているんではありません。そうじゃぁなくて、人の根っこにある動機は同じだ、と申し上げているんです。すなわち、たとえば、その人が、人生や人間の尊厳に対する畏敬の念を持っていることは、その人自身の一部であって、変わるはずがない、ということです。

 

 

 

 ここは、人と関わるヒューマンサービスをしている人には、非常に重要なところですね。なぜなら、ユーザーとの関係において欠くべからざるものが、信頼であることを、フロムが明示してくれているところだからですね。信頼とは、エリクソンと同様に、相手が当てになる、心変わりしない、と信頼することです。ですから、この信頼は、確信と同義だ、といっても、言い過ぎになりませんよね。

 人の態度は、フリをしているわけでも、演じたものでもない、人格の香であるので、心変わりするはずがありません。でもその態度は、本当の自分との内省から出て来たものであって、ウソを演じているフリではないことが条件でしょ。内省のない人の態度は、逆に、本当の自分とはかかわりのない、多数派に同調したり、自分がお得だからしている偽装です。そういう人の態度は、当てになりませんし、コロコロ変わってしまいますから、長続きしません。上がったり、落っこちたり…。

 逆に申し上げれば、状況や時間の変化とは無関係で一貫している態度を取る人こそ、内省的な暮らしをして、本当の自分との日々の対話に努めている人だって分かります。

 あなたは、自分の態度が一貫している人ですか? それとも、コロコロ変わっちゃってる人ですか?

 

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キリストに対する信頼 < 人間を上下2つに分けるウソ ?

2014-10-26 10:38:00 | アイデンティティの根源

 

 イエスは、自分を見失っている者に対して、自分を取り戻す力を与えてくれるばかりではなく、自分を、より「その人ならでは」に磨きをかける際にも、全身全霊で、力づけてくれるんですね。

 p358の下から7行目から。

 

 

 

 

 

 これに続くのは、イエスの十字架ですし、イエスが復活したという話です。このようにしてイエスはキリスト 油塗られて聖化された救い主となりましたし、イエスの人生行路は、それで、神話化されました。ヘレニズム世界のために、キリスト教の母教会の中で書かれた記録は、もう1つ、別の権威を発展させました。その権威は勝利が現れる象徴によって一番良く示すことができます。勝利の象徴である十字架は、至極単純なのですが、人間が直立して両腕を大きく広げた形であると同時に、、救い主であることを証明するためたげに、最も脆い形で、予言通りに死んだ、人の子の形でもあるように見えます。あるいは、母なる聖母を考えるべきでしょうか。聖母は、輝ける儀式の中心を、徐々に占めるようになります。しかし、それに続く礼拝の歴史は、豊かに、社会的、文化的、芸術的な形を伴ってはいても、結局は、それ自体が強迫的な儀式主義をデッチアゲざるを得ませんでした。その強迫的な儀式主義には、「人間を上下2つに分けるウソ」が含まれていますが、そのウソのために、救いに与った人たちまでもが、キリスト教信仰さえも、十字軍、すなわち、人を殺すほどの憎しみを合理化することに利用するんですね。

 

 

 

 

 キリストが、至極残酷な十字架の死を死んで、救い主となって、キリスト教が生まれたのに、はじめは輝かしい再生の悦びを示していた礼拝が、その命を失って、形ばかりになった時には、「死から再生した悦び」を示していたはずの礼拝が、「人間を上下2つに分けるウソ」が忍び込んだ、形骸となります。すると、その形骸は、夥しい骸骨を生み出す、ケダモノのような人殺しと、猛烈な憎しみを、世の中にばらまくんです。

 ですから、ある形を行う時にはいつでも何度でも、私どもは「なんのためにうまれ、何をして生きるのか?」を問い続けておかなくちゃぁ、いけないってわけですね。

 アーメン(ホントだね or ホントにね)。

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