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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

羯帝羯帝波羅羯帝

2014-10-02 12:21:20 | エリクソンの発達臨床心理

                            上を向いて生きていたい

 

 

 「羯帝羯帝波羅羯帝」。漢字読めますか?  私は読めませんでした。「ぎゃていぎゃていはらぎゃてい」と読むんだそうです。何を言っているのか? 音が分かっても、その意味は分かりませんね。

 私の父親がなくなって、数年間は、母親が毎朝仏壇の前で、「羯帝羯帝波羅羯帝」と言っていましたが、それを文字で確かめたこともありませんでしたから、初めて見た時は「こんな難しい漢字なんだぁ」と思いました。ご存じの方もあると思いますが、「般若心経」の終わりの方の件ですね。当時は、ここら辺りは「リズムが良いね」とは感じておりました。ただそれだけ。

 つい先日、「100分 de 名著 般若心経」の「第4回 見えない力を信じる」をたまたま見ていましたら、この件が出てきました。そして、僧侶で作家の玄侑宗久さんが、「これは呪文だ」と言うんですね。それだけなら「あっ、そう」と言いう感じだったかもしれませんが、それに加えて、「意味は分からなくても、(音を)唱えることに力がある」と言うんですね。それは、「『私』が消えて、『無』になれる」んだと言います。

 フロムが集中力の件で、今この瞬間に集中していることが難しいと言いますね。そこと、「羯帝羯帝波羅羯帝」呪文を唱えると、「無心」になれる、と言うのは、真逆の関係でしょ。集中できないのは、いろいろ考えちゃうから、「無心」は、「非常に覚醒しているけれども、何も考えていない状況で、感覚が研ぎ澄まされた状態」とも言います。

 「無心」の状態は、カウンセラーとして最高の段階ですし、「叡智」が生まれる時、だとも感じますね。

 

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集中力を付けるには?

2014-10-02 10:12:12 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 息や声に集中することには、不思議な力がある

 

 p104第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 こういった訓練の他にも、自分がしていること、たとえば、音楽鑑賞、読書、おしゃべり、眺望などに集中することも学ばなきゃね。今この瞬間にしている活動だけ、大事にしなくっちゃ。 人が集中していると、何やってんのかは分からなくなりますね。大事でないこともそうですが、大事なのことも、新しい次元の現実のように見えます。というのも、それは私どもの注意力全部を引き付けるからです。集中力を学ぼうと思ったなら、つまらない会話、すなわち、れっきとし対話でないことは、避けなくっちゃいけませんよね。

 

 

 

 

 おしゃべりしながら、何かに集中することはできませんね。ですから、「お御堂の中では静粛に」とカソリックのお御堂には書いてありますもんね。

 

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「人間皆兄弟」の実践上の注意点

2014-10-02 06:56:37 | アイデンティティの根源

 

 声には、「自分」「自分」と言っている「自分」から、解き放ってくれる力がある

 それは≪本当の自分≫になるための、

 呼びかけ。

 p351の2行目途中から。

 

 

 

 

 

とにかく、ここではさらに、イエスは、「洗礼者ヨハネが、自分の物語の中の自分に関わるところで、革新的な禁欲を強調したのは、正しかった」と訴えます。その一方、イエスは「税金泥棒やあらゆる種類の『人でなし』と、食譚を心底喜んで共にするという、イエス流の礼拝を活用することが、妥当なものだ」とも、主張しています。この手の人たちを食卓に招くなど、当時は言語道断でしたから、誰からも食卓に呼ばれることもなければ、それゆえに、誰の家にも招かれることも、ありませんでした。このようにして、いわば、イエスがしたことと言えば、あらゆる形式の日常的な礼拝は、歴史的に相対的なものにすぎない、と宣言したことでありますし、掛け声に応じて踊るように強要する権利は誰にもないし、誰に対しても強迫的に嘆き悲しむように強制する権利も誰にもない、ということを強調しました。もちろん、自分が選んだどのような礼拝でも、≪将来(救い主の再臨)≫の働きを反映している、ということも、イエスは決めたのでした。

 

 

 

 

 それまでの宗教的な慣習とは、鋭く対立的に、したがって、革新的な礼拝の形を、あえてイエスは選択したことが述べられていますよね。なぜなのか? それは、これまでのユダヤ教の慣習では、次第に細々とした細則が出来上がっていて、しかも、それができないものは「ダメた」、「人でなし」というレッテルを張られていたからです。人数から申し上げれば、その細則を守れる人は、一部の特権階級に限られられていた、とも言われます。すなわち、大多数が「人でなし」呼ばわりされ、厳しく差別することが、むしろ「正しいこと」とされていたわけですね。

 これが、あらゆる儀式主義の特色です。細々とした細則の方が、1人の人間よりも、まるで価値がある、と言わんばかりの態度がその特色になりますね。こう考えると、今でも、学校現場や職場でも、そのような細々とした細則の方を、1人の人間よりも、まるで価値がある、と言わんばかりの態度の人って、結構いませんか?

 私の周りにも結構いますし、私も油断していると、その「井の中」にオッコッチャイますね。ですから、「人間皆兄弟」ということを意識して、「良く見なさい」という教えに忠実でありたい、と思うわけですね。

 

 

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