子ども。
そう聞いて、何を想像しますか?
これは汲めども尽くせぬ、宝の源泉。
子どもは、大人じゃない
一人前じゃない
背もちっちゃいし、
わがままだもんね。
でもね、
「神の国はこんな人たちのものである。17本当にいう、子どものように神の国を受けな ければ決してそこに入れまい」。
神の国は子どもたちのもの。
「子どものように」ってどういうこと?
子ども。
そう聞いて、何を想像しますか?
これは汲めども尽くせぬ、宝の源泉。
子どもは、大人じゃない
一人前じゃない
背もちっちゃいし、
わがままだもんね。
でもね、
「神の国はこんな人たちのものである。17本当にいう、子どものように神の国を受けな ければ決してそこに入れまい」。
神の国は子どもたちのもの。
「子どものように」ってどういうこと?
感覚が研ぎ澄まされている状態。カウンセリングの理想的な状態ですね。
p107第3パラグラフ。
普通の人でも、自分の身体の変化に対する敏感さがありますね。身体のいろんな変化に気づきますし、小さな痛みでさえ気づきます。この身体の敏感さが、比較的体験しやすいのは、その身体が敏感に感じるとは、どういうことか、ということに対するイメージが、たいていの人にはあるからです。心の変化に対して同じように敏感であることは、はるかに難しい。というのも、こころを一番うまく働かせる人を知らない人が多いからなんですね。自分の親兄弟とか、自分が生まれ出た社会集団とかの心の働きが普通だと見なしている人が多いんですが、それは、自分が普通と思っている心の働きに異を唱えることもなければ、何かを観察することに関心を示さなかったりする限りでは、そうなんですね。たとえば、本当に人のことを大事にしてくれる人物だとか、高潔な人物だとか、勇気のある人物だとか、集中力のある人物だとか、に一度もあったことがな~い、っていう人が多い。自分自身に敏感であるためには、全うで、健全で、人間らしい生き方に対する1つのイメージを持ってなきゃあね。自分が子どもの頃か、その後くらいに、全うで、健全で、人間らしい生き方ってこうだってことをイメージできないで、そのイメージを一体どうやって手に入れるっていうんでしょうね。この問いに対して単純な答えは全くない。それは確か。でもね。この問いがハッキリと指摘してるのは、私どもの教育制度の、非常に大事な課題です。
私は極めてラッキーでしたね。人生のワンダーフォーゲルのおかげです。 大学三年で、西村秀夫先生の「聖書を学ぶ会」に加えていただいたおかげで、不思議な縁に導かれましたからね。野村實先生、関根正雄先生のように、直接内村鑑三の薫陶を受けた人や、西村先生の奥さんの董子さん、ギリシャ語を教えてくださった武藤陽一先生、その他お名前は挙げませんけれども、本当にいろんな人に出会えましたからね。
真実とは、真理とは、謙虚とは、ということについて、抽象的に学ぶことも大事でしょう。そういうことを声高に語る人に限って、「ウソとゴマカシ」の人だってことも、幸か不幸か、私は学ぶことになりましたしね。でもね、ここにお名前を挙げた人も挙げられなかった人も、その生き方を通して、やってることを通して、いいえ、その立ち居振る舞いや、その在り方を通して、教えてくださったこと。それが私の宝物。
トマスによる福音書では、見失った羊は、一番デカい羊。それは「本当の自分」だから。
p353第3パラグラフ。
羊飼いが見失って「いない」大多数の羊を危険にさらして、見失った一匹の羊を負うこと危険を議論することが従来多くありました。あるいは、エレミアスが示しているように、羊飼いは群れのその他の羊の安全を確保してから、見失った羊を追ったら良かったのに。私の集団心理的な向きのために、私は、動物がたくさんいるだけで「一定の」安全がある、と「ある種の」群衆的本能から、感じざるを得ません。でもね、神やらイエスやらが、見失いかけた一匹に、こんなに排他的な注意を払ったのは、果たして正しかったのか? と疑問に思わない方が不思議です。この一匹が見失ったものだと聞いて、もちろん、私どもが自分自身を思い起こさなければの話ですが。
見失った一匹が、いくらデッカクても、99匹よりも大事だ、というのでは、経済功利性の上からは、説明になりませんでょ。お金で考えたら、そうですもんね。でも、その見失った一匹が、自分自身だとしたら? それは自分を失って何かを得たとしても、それはすべてを失ったに等しいわけですから、その一匹を何が何でも、探し出すことになる訳でしょ。
ですから、ルカによる福音書第9章25節には次のように書かれています。前田護郎先生の翻訳でお示しします。
25人が全世界をかち得ても、自らを失いまたは損したら、何の利得があろう。