声には不思議な力があります。声は、人を非難する場合もありますが、自分や他者の生きる場での哲学を替える力だってあります。その哲学は物語からできていることが多い。
p350の第4パラグラフ。
ここで「声を掛ける」と呼んだのは、ガミガミ叱りつけることを言っているのに間違いありません。なぜって、この子どもたちは、「他の子どもたちは僕らの声に合わせて踊らないでしょう、声をあげて泣いたのに、胸を打って悲しんでくれないでしょう」と不平を言っているからです。別の言葉で申し上げれば、他の子どもたちは、その遊びの足りないところを補うように遊んでくれないだろう、ということです。この描写は、この言い伝えを聴いた者に、イエスが、あの人たちがイエスと、イエスの師であり、信頼するけじめの儀式を取り仕切った、バブティスマのヨハネに対してしたことをどう思っていたかを、切に訴えています。これは書き残しておこたいことなんですが、イエスは、ヨハネのことに話が及ぶと、いつでも、ヨハネのことを、深い敬意をこめて、自分自身の啓示的な使命になくてはならない段階であったと、言います。イエスがヨハネを自分の使命にとって欠くことができないと述べていた事実は、初期教会は軽視しましたが、初期教会は全面的に、イエスの使命が絶対的に特別なものであることに基づいています。
声は実に不思議。思いを共有することになる場合もあれば、思いに分裂をもたらすものもある。その違いはどこから来るんでしょうか?
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