10月22日、吾妻山を知り尽くした猛者の先達により念願の秘境中の秘境、中吾妻山にある吾妻山神社(吾妻大権現)の参拝を実現した。
秋元湖畔の金堀集落から良く整備された秋元湖岸林道(延長4.7km)にはゲートがあり一般の車は入れない。
吾妻山神社登山口(標高930m)には、『奥姥神を経て吾妻神社奥の院に至る、片道7km、3~4時間、累積標高差700m、1,360m(2.5km)に水場あり。ヤケノママ→藤十郎及び中吾妻山→谷地平は登山道なし。毎年9月頭の「吾妻山神社参拝清掃登山」にて有志による登山道刈り払いを行っております。刈払い前はルート不明瞭となります』 との磐梯吾妻ホットラインクラブの親切なメッセージが。 (9:00)
登山口の近くには昭和39年建立の姥神石像が見守る。 (別名 橘姫神社)
中吾妻山を源流とする唐松沢を渡渉すると、対岸にはミズナラの巨木にしめ縄が張られた御神木が待ち受ける。 右手に林道跡 (約1時間で行き止り) があり参拝路と誤って迷い込む人も多いと聞く。
吾妻山神社歩道、の新しい道標からいきなりダケカンバ林の急直登が始まり先が思いやられる。
傾斜が緩くなると植林の手入れがされたカラマツ林の道が真っ直ぐに続く。
カラマツ林の道端にはハナイグチが、裏のスポンジを除いて味噌汁にすると美味しい。
伐採の後、見事に自然再生した二次林のブナ林の道は、道幅も広く明るく気持ちが良い。
ブナの木に、水の文字がある水場はここから右手の沢水を利用する。 奥の院まで4.5kmの標識も。 (10:05)
ブナの幹には、真新しいクマの爪痕と、古い爪痕が混在して残る。
見上げると、枝がへし折られ枯れたクマ棚があちこちに、ここはクマの住居なのだ。「お邪魔しま~す、クマさん」とあいさつを。
足元には真新しいホヤホヤのクマの落し物が、良く観察するとガマズミやナナカマドの赤い実が混じる。 登山道はしばらくクマの置き土産の地雷原となり踏まないようにお互いに声を掛け合い歩くのにも一苦労だ。(苦笑)
ブナ林からオオシラビソ(別名、アオモリトドマツ)の林に変わると、吾妻神社を示す古い標識も。
ダケカンバと真っ盛りのモミジの紅葉の対比が見事。撮影に追われペースの速い先行者に付いて行くのが大変だ。(汗)
シラビソが濃くなると両側のチシマザサの背丈も2m程になり、刈払いが途絶えたら道もたちまち消えるだろう。
一旦、中津川側に標高差100mほど下る道は、滑る石と倒木で悪路となり困難を極める。 地図上の点線と実際の道は食い違い、ここで登山路を外したら、GPSを持たない限り、99%は永久に戻れないだろう。 現に行方不明者の手掛かりを求める家族の切実な、お願い文のボロボロのビニール袋も存在する。
オオシラビソの原生林の岩場の洞窟に貴重な植物を発見! (10:55)
洞窟の奥で黄緑色に光っているヒカリゴケを見ると、中吾妻山のど真ん中だけに神秘的である。 和名は「光蘚」
薄暗い原生林のあちこちにゴゼンタチバナの実が。 「葉が6枚にならないと実を付けないんだ」と仲間が教えてくれた。(ナルホド)
苔むした倒木に生えたスギヒラタケ、純白の姿は遠くから見つけれる。優秀なキノコで豆腐と味噌汁にするとグー!
一旦上り返し、大岩を曲がるとシラビソ林の広場の一角の岩の上に真っ赤な衣装をまとった奥姥神が現世と来世の境を見守る。(11:20)
標高1,600mから一気に権現沢に向け100mの高さを転がるように降る。足元は苔むした滑る岩と木の根に集中しないと大怪我の危険が。
エ~!!ここを降るの?思わず立ち止まり、意を決して権現沢の谷底を目指す。
やったア~~、2時間50分のハイペスで吾妻神社に到達。ヤレヤレ一安心 (11:50)
ご神体の岩には、しめ縄が掛けられ、奉納 吾妻山 信夫郡平野村と中野村11名の名前と大正15年3月10日 と記した石碑も。 ご神体の岩の下からは、乳白色の霊泉が神秘的に湧き出ている。
昼食休憩の後、全員で吾妻神社参拝の記念写真(証拠写真)を撮影して帰路に。 (12:30)
再び奥姥神さまに帰路の安全をお願いして。
ブナの「あがりこ」 かって薪や炭の材料に雪の上に出た幹を伐採し、やがて残った幹から萌芽した奇形木。
やっぱり紅葉の主役はモミジだ。 見事に真っ赤に色づいたモミジは下山を急ぐ足をも引き止める。
人工林の薄暗い杉林を下りるとゴールは近い。
再び唐松沢に降りる道は朽ちた木とぬかるみに要注意、此処で転べば水浸し。
しめ縄の張られた御神木を回り込んで唐松沢を渡渉すれば、もうゴールは近い安全地帯。
無事登山口に下りて、清冽な沢水を蕗の葉で汲み緊張で渇いた喉を潤おせば安心と充実感が。(15:05)
今晩の晩酌の一品に、下山路で採ったキノコを土産に。
ゲートを閉じ、吾妻山神社に無事参拝を終えた感謝を捧げる。
吾妻山信仰登山のなごり (浄土平ビジターセンター掲示物を引用)
吾妻山は、古くより福島や会津の人々から、神のやどる山としてあがめられていた。
福島地方では、平安時代の延喜式名帳に、東屋国・吾屋沼の2神社の名が出ており、
水と天候の安定を中心とする農作物の豊作を願う神の山として信仰された。
会津地方では、仏の山として尊ばれ、集落や家族の安全を見守る仏の座と考えられ、
神仏につかえる修験者(山伏)が神仏の加護と霊験を得るにふさわしい、きびしい修業
の場となっていた。
平安末期の戦乱で焼打ちや封鎖にあったが、江戸時代に入って再興された。
江戸時代の中ごろからは、一般の人も山伏の先達のもとに山開きから一か月の間、
信仰登山できるようになり麓には宿坊もできた。
しかし、明治の神仏分離令と修験道の廃止で信仰登山はすっかりおとろえてしまった。
信仰登山のなごりは、今、地名や石塔・石碑などにわずかに残るのみである。