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●首里城焼失…安里進さん《再建は急がなくていい。左右も上下もなく、多くの県民が参加できるようにしてほしい》

2019年11月07日 00時00分16秒 | Weblog

[※【電子号外】首里城正殿と北殿が全焼 他建物への延焼続く けが人の情報なし (琉球新報 2019年10月31日)↑]



阿部岳さんよる、沖縄タイムスのコラム【[大弦小弦]首里城「計算されたゆがみ」】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/493286)。

 《▼今また、失って初めて存在の大きさを知った、と話す人が多い。27年間立ち続けた正殿はその姿で県民の心を支え、県民が思いを投影してアイデンティティーの象徴になった。… ▼前回の復元が国中心だったのに対し、今は県民の熱が高まる。安里さんは「最大の変化。再建は急がなくていい。左右も上下もなく、多くの県民が参加できるようにしてほしい」と望む》。


         

   『●《首里城正殿と北殿、南殿など6棟が全焼》…大変に残念だ
   『●首里城焼失…《戦後を含め、沖縄の再起を象徴する建物でも
       あろうか。今回も、と強く願わずにいられない》(筆洗)

 《県民の心のよりどころとなってきた宝》の再建を願います。
 先のブログでは…国はドブガネな辺野古破壊を直ちに止め、《思いやる》先を番犬様ではなく、真に沖縄の皆さんのために向けるべきだ。国はもちろん、多くの皆さんが支援して下さり、1日も早い《県民の心のよりどころとなってきた宝》の再びの復元を強く勁く願っています…と言いました。しかし、阿部岳さんのこのコラムで、安里進さんは《再建は急がなくていい左右も上下もなく、多くの県民が参加できるようにしてほしい》と仰っています。是非、沖縄の多くの皆さんが納得される形で、《戦後を含め、沖縄の再起を象徴する建物》が再建されることを願っています、ゆっくりでも着実に。

   『●「政府は沖縄を分断し、苦渋の判断をさせ続けている」:
            「住民分断」「沖縄差別」を恥じぬアベ様ら
    《明治期まで四百五十年続いた琉球王朝に仕えた家系の出。敗戦翌年、
     台湾から沖縄へ戻った。日本軍が司令部壕(ごう)を置いた首里城は
     跡形もなく、足元に転がる軍靴から人骨がのぞいた。一緒にいた母は
     「国破れて山河あり、というけれど山河もないわね」と肩を落とした》

   『●現在進行形の「身代わり」: 「反省と不戦の誓いを…
            沖縄を二度と、身代わりにしてはならない」
    《沖縄は先の大戦で、日本国内で唯一、住民を巻き込んだ凄惨
     (せいさん)な地上戦の舞台となりました。今は復元されましたが、
     司馬さんが那覇を訪れた四十二年前、旧琉球王府の首里城は
     ありませんでした。日本軍が高台の首里を陣地とし<兵も石垣も
     樹(き)も建造物もこなごなに砕かれた>(…)からです》

   『●「沖縄は米国の植民地ではない。私たち沖縄県民は、
      米国民との友好は望むが、服従は望んでいない」――。
    《明治維新後の政府は琉球を南の関門と位置付け、正式に日本に併合する
     ため一八七二(明治五)年、王国を琉球藩とする旨宣告。対中関係の
     断絶などを要求し抵抗されるや七九年、王府・首里城に処分官が
     六百人近い軍と警官隊とともに乗り込み服従を迫った。最後の国王、
     尚泰(しょうたい)は三月末、ついに城を明け渡し、約四百五十年
     続いた琉球王国は滅亡。四月四日、沖縄県設置が布告された》
    《万国津梁は、世界の懸け橋の意味。琉球王国の尚泰久
     (しょうたいきゅう)王が一四五八年に鋳造させ、首里城に掲げた
     「万国津梁の鐘」に由来する》
    《明治政府は1879年4月4日、琉球藩を廃し、沖縄県を置く旨を
     全国に布告した。琉球処分」(琉球併合)といわれる廃琉置県である。
     これに先立ち政府は先鋭の武装警官や兵士ら約600人で首里城を
     包囲し、武力で威圧した上、尚泰王や官員らを城から追い出し占拠した》

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https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/493286

[大弦小弦]首里城「計算されたゆがみ」
2019年11月4日 08:27

 首里城の御庭(うなー)は真四角ではない。創建当初は真四角だったが、17~18世紀ごろにずれた。県立博物館・美術館の前館長、安里進さん(72)は「計算されたゆがみ」と表現する

▼「直線は緊張を生む。あえて逃げ道をつくり、緊張を避ける琉球独自の美意識が育った」。城壁も緩やかな弧を描く。角が鋭い本土の城壁とは対照的だ

▼安里さんは龍潭のほとりで生まれ育った。復帰直前、首里城の復元が持ち上がったころは琉球大生で、現場の発掘調査に抗議したことがある。城は搾取の象徴に映った。国事業で完成した時も、派手な朱色を奇異に感じた

▼その後、歴史研究者として25年間復元に関わり、自宅から毎日見るうちに気づいた。琉球の美を美と感じられなかったのは、象徴的な「形」がなかったから。首里城だけでなく感性や文化も戦争に奪われていた

▼今また、失って初めて存在の大きさを知った、と話す人が多い。27年間立ち続けた正殿はその姿で県民の心を支え、県民が思いを投影してアイデンティティーの象徴になった。こう書くと故人の評伝のようだが、それがふさわしいように感じる

▼前回の復元が国中心だったのに対し、今は県民の熱が高まる。安里さんは「最大の変化。再建は急がなくていい左右も上下もなく、多くの県民が参加できるようにしてほしい」と望む。(阿部岳
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●首里城焼失…《戦後を含め、沖縄の再起を象徴する建物でもあろうか。今回も、と強く願わずにいられない》(筆洗)

2019年11月02日 00時00分02秒 | Weblog

[※【電子号外】首里城正殿と北殿が全焼 他建物への延焼続く けが人の情報なし琉球新報 2019年10月31日)↑]



琉球新報のコラム【<金口木舌>県民の苦難なぞる】(https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1018089.html)と、
同紙の【<社説>首里城焼失  県民の力合わせて再建を】(https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1018088.html)。
東京新聞のコラム【筆洗】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2019110102000150.html)。

 《首里城公園の開園式で当時の大田昌秀知事は「県民の心のよりどころ」と述べた。県民がさまざまな思いを託してきた首里城が31日、焼失した…県民が何度も立ち上がったように、鮮やかな朱色の姿が再び見られることを信じている》。
 《首里城が焼け落ちた。沖縄戦で破壊された琉球王国の象徴を取り戻そうと情熱を注いだ多くの人の努力で復元を果たし、県民の心のよりどころとなってきた宝が一夜にして灰になった。なすすべのない光景に、わが身を引き裂かれたような悲しみと喪失感に沖縄全体が包まれている》。
 《▼柳宗悦がたたえた後、首里城は沖縄戦の砲撃で、破壊されている。それを含めて少なくとも過去に四度、壊滅的な被害を受けた▼そのたびに再建されている。戦後を含め、沖縄の再起を象徴する建物でもあろうか。今回も、と強く願わずにいられない》。


       

   『●《首里城正殿と北殿、南殿など6棟が全焼》…大変に残念だ

 沖縄タイムスの【社説 [首里城焼失]説明と原因究明を急げ】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/491926)より、《未明、真っ赤に燃える首里城。目撃した住民は立ちすくんだ。崩れ落ちた正殿の姿に、登校する子どもたちは涙した。「またこんな光景を見るなんて」。かつて戦火に焼かれる首里城を見た高齢者は悲嘆に暮れた。多くの県民が惨劇を悲しみ、驚きを隠さなかった。なぜこんなことが起きたのか。》

 また、同紙の記事【「言い表せない喪失感」 首里城焼失に打ちひしがれる沖縄知事 復元予算「想定難しい」】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/491960)では、《沖縄県の玉城デニー知事は首里城が焼失した31日の対策会議や記者会見で、首里城を訪れた感想として「大変なショックを受けた。アイデンティティーのよりどころを失ってしまった」と語った。沖縄戦後、首里城を復元したいという県民の強い思いが実現したことにも触れ、「言葉で言い表すことのできない喪失感に包まれ、胸が痛む思いでいっぱい」と打ちひしがれた》。

 《今こそ、その底力を見せよう》。
 西江昭吾記者による、同紙のコラム【[大弦小弦]首里城大火】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/491925)では、《▼悲しんでばかりはいられない。首里城再建へ一歩ずつ踏み出したい。市民から寄付の申し出が相次いだ那覇市は募金箱を設置。国内外で支援の呼び掛けがあるのも心強い。逆境にへこたれず、乗り越えてきたのがウチナーの歴史今こそ、その底力を見せよう。(西江昭吾)》。

 《県民の心のよりどころとなってきた宝》が、一瞬にして、焼失…。沖縄の多くの皆さんがショックを受けられ、悲嘆に暮れ、《言い表せない喪失感》を感じておられると思います。

 《鮮やかな朱色の姿が再び見られることを信じている》、《今度の首里城焼失も必ず乗り越えられる》《戦後を含め、沖縄の再起を象徴する建物でもあろうか。今回も、と強く願わずにいられない》。
 国はドブガネな辺野古破壊を直ちに止め、《思いやる》先を番犬様ではなく、真に沖縄の皆さんのために向けるべきだ。国はもちろん、多くの皆さんが支援して下さり、1日も早い《県民の心のよりどころとなってきた宝》の再びの復元を強く勁く願っています。

   『●「政府は沖縄を分断し、苦渋の判断をさせ続けている」:
            「住民分断」「沖縄差別」を恥じぬアベ様ら
    《明治期まで四百五十年続いた琉球王朝に仕えた家系の出。敗戦翌年、
     台湾から沖縄へ戻った。日本軍が司令部壕(ごう)を置いた首里城は
     跡形もなく、足元に転がる軍靴から人骨がのぞいた。一緒にいた母は
     「国破れて山河あり、というけれど山河もないわね」と肩を落とした》

   『●現在進行形の「身代わり」: 「反省と不戦の誓いを…
            沖縄を二度と、身代わりにしてはならない」
    《沖縄は先の大戦で、日本国内で唯一、住民を巻き込んだ凄惨
     (せいさん)な地上戦の舞台となりました。今は復元されましたが、
     司馬さんが那覇を訪れた四十二年前、旧琉球王府の首里城は
     ありませんでした。日本軍が高台の首里を陣地とし<兵も石垣も
     樹(き)も建造物もこなごなに砕かれた>(…)からです》

   『●「沖縄は米国の植民地ではない。私たち沖縄県民は、
      米国民との友好は望むが、服従は望んでいない」――。
    《明治維新後の政府は琉球を南の関門と位置付け、正式に日本に併合する
     ため一八七二(明治五)年、王国を琉球藩とする旨宣告。対中関係の
     断絶などを要求し抵抗されるや七九年、王府・首里城に処分官が
     六百人近い軍と警官隊とともに乗り込み服従を迫った。最後の国王、
     尚泰(しょうたい)は三月末、ついに城を明け渡し、約四百五十年
     続いた琉球王国は滅亡。四月四日、沖縄県設置が布告された》
    《万国津梁は、世界の懸け橋の意味。琉球王国の尚泰久
     (しょうたいきゅう)王が一四五八年に鋳造させ、首里城に掲げた
     「万国津梁の鐘」に由来する》
    《明治政府は1879年4月4日、琉球藩を廃し、沖縄県を置く旨を
     全国に布告した。「琉球処分」(琉球併合)といわれる廃琉置県である。
     これに先立ち政府は先鋭の武装警官や兵士ら約600人で首里城を
     包囲し、武力で威圧した上、尚泰王や官員らを城から追い出し占拠した》

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https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1018089.html

<金口木舌>県民の苦難なぞる
2019年11月1日 06:00
首里城火災 金口木舌

 「戦前のゆったりとした時間の流れる首里の景観を鮮明に覚えている。復元に立ち会えることがうれしい」。1989年11月、首里城正殿復元に向けた「首里城木遣(きやり)」に参加した91歳の女性の言葉を本紙が伝えている

▼木遣行列は古謡「クェーナ」を歌って復元をたたえ、平和を祈った。首里城は92年に復元された。首里城公園の開園式で当時の大田昌秀知事は「県民の心のよりどころ」と述べた。県民がさまざまな思いを託してきた首里城が31日、焼失した

▼三山統一から日本政府による琉球併合(「琉球処分」)まで約450年間、琉球の王府だった。併合後は日本軍の拠点とされ、国宝に指定されたものの神社と位置付けられた

▼戦前は改修もままならず、荒廃して取り壊しも議論されたという。そして沖縄戦で徹底的に破壊された。戦後、米国が跡地に琉球大学を設置した。首里城復元は大学移転後の80年代にようやく進んだ

▼近代の同化政策、戦災、戦後の米統治。首里城の歴史は県民の苦しみをなぞるようでもある。近年は成長する沖縄観光の目玉として県経済を支えてきた

▼再び復元されることを願い、支援の声も上がっている。50年に焼失した金閣寺など、貴重な建築物の復元に向けて官民を問わず支援が広がった例は多い。県民が何度も立ち上がったように、鮮やかな朱色の姿が再び見られることを信じている
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https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1018088.html

<社説>首里城焼失  県民の力合わせて再建を
2019年11月1日 06:01

 首里城が焼け落ちた。沖縄戦で破壊された琉球王国の象徴を取り戻そうと情熱を注いだ多くの人の努力で復元を果たし、県民の心のよりどころとなってきた宝が一夜にして灰になった。なすすべのない光景に、わが身を引き裂かれたような悲しみと喪失感に沖縄全体が包まれている。

 沖縄最大の文化遺産を失った損失は計り知れない。だが打ちひしがれてばかりもいられない。鮮やかな朱に彩られた姿をもう一度復元させるため、県民の力を一つにし、再建へと立ち上がりたい。

 琉球王国の歴史そのものである首里城は、国王の居城として政治・文化の中心だった。正殿には「舟楫(しゅうしゅう)をもって万国の津梁(しんりょう)となし、異産至宝は十方刹(じっぽうさつ)に充満せり」と刻まれた「万国津梁の鐘」を掲げ、独立した国としてアジア各地へ繰り出す外交・貿易の拠点であった。

 近代以降は王国の崩壊とともに苦難の歴史をたどった。1879年に松田道之琉球処分官が日本陸軍熊本鎮台分遣隊の一個中隊を伴い首里城に入城し、国王を追放して日本軍の駐屯地として占拠した。

 1925年に国宝となったものの、沖縄戦で第32軍の司令部壕が地下に設けられたことで米軍の砲撃にさらされ、国宝は灰燼(かいじん)に帰した。

 一度失われた文化財の整備復元は困難の多いプロジェクトだった。文献や写真資料を基に瓦や柱の一つ一つに至るまで当時の技術を再現し、歴史家、工芸家、技術者らの英知を結集した施設として復元は成し遂げられた。

 首里城の復元で県民は沖縄の歴史・文化を再認識した。ウチナーンチュのアイデンティティーを強め、誇りをもたらした。2000年には主要国首脳会議の夕食会開催、首里城跡の世界遺産登録を果たし、新しい時代へ繰り出す沖縄を国際社会に発信した。

 その正殿、南殿、北殿の主要施設が火災で崩れ落ちてしまった。展示収蔵していた文化財はどうなったのか。心配だ。首里城は2月に国の許可を得て県に管理が移ったばかりだ。県の責任が問われる。

 火元は何だったのか。管理状況や消火体制に不備はなかったか。出火原因を突き止めるとともに文化財の防災対応について検証しなければならない。沖縄の貴重な文化財を二度と焼失の危機にさらさないためにも、徹底した究明が不可欠だ。

 沖縄戦による破壊を含め、首里城は歴史上4回ほど全焼したことがあったという。そのたびに再建されてきた

 幸い30年前に始まった復元事業の成果は残っている。しっかりした体制が整えられれば、再び首里城をよみがえらせることは十分に可能だ。

 火災で焼失したフランスの世界遺産ノートルダム寺院、熊本地震で被災した熊本城も、早期復旧を願う多くの寄付や支援があり、修復へ向かっている。今度の首里城焼失も必ず乗り越えられる
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https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2019110102000150.html

【コラム】
筆洗
2019年11月1日

 調和の取れたたたずまいと堂々とした様子のその城を、琉球の古歌はたたえている。<首里杜(しよりもり) げらへて げらへたる 清(きよ)らや 上下(かみしも)の世 揃(そろ)える ぐすく>(歌謡集『おもろさうし』)。つくり上げた様の美しいことよ、琉球の世の中をひとつにあわせる城よ▼沖縄の首里城である。五百年以上前に建てられて以来、丘の上から、日常も戦禍も、沖縄の歴史を見てきた。人々にとっては、ひとつの文化や歴史の象徴であろう▼外から訪れる人にとっても、沖縄の美の象徴だった。民芸運動の創始者、柳宗悦(むねよし)は、日本のほぼすべての城下町を訪ねたが、美しさはここが一番であると断言している。<世界に誇り得る美しいものは非常に少(すくな)くなりました。その間に在(あ)って…首里は特筆されてよい>(『琉球の人文』)。その城が、焼け落ちた▼古語は知らなくても、「清らや」という言葉の響きが似合うと感じさせる建物が、火を噴いている。細工で飾られた朱色のあの外観が失われていくのを多くの人が泣きながらみつめていた。テレビの映像で、喪失感を味わった人も多いだろう▼柳宗悦がたたえた後、首里城は沖縄戦の砲撃で、破壊されている。それを含めて少なくとも過去に四度、壊滅的な被害を受けた▼そのたびに再建されている。戦後を含め、沖縄の再起を象徴する建物でもあろうか。今回も、と強く願わずにいられない
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