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●長周新聞【『命どう宝県民の会』設立 沖縄の知識人やジャーナリスト 琉球弧の島々を攻撃の標的にさせない為に】《…事務局長・山城博冶》

2022年02月23日 00時00分24秒 | Weblog

[↑ 辺野古破壊反対広告 (2021年06月06日、朝日新聞)]


(20220213[])
長周新聞の記事【『命どう宝県民の会』設立 沖縄の知識人やジャーナリスト 琉球弧の島々を攻撃の標的にさせない為に】(https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/22640)。

 《呼びかけ人=新川明、高嶺朝一、石原昌家、桜井国俊、ダグラス・ラミス前泊博盛、伊佐眞一、大城貞俊、具志堅隆松三上智恵、与那覇有羽。事務局長・山城博冶》。

   『●《日本全土を米軍の鉄砲玉として…》…【解決策ない辺野古の軟弱地盤
         できもせぬ基地建設で翻弄する一方、日本全土の基地化が進行】
   『●《沖大東島での実弾射撃、宮古島のミサイル部隊による対艦攻撃、
     電子戦部隊配備計画がある与那国島での電子戦などの各訓練が展開》
   『●《SACO合意とは、事件に対する沖縄県民の怒りをはぐらかし、沖縄の
      中で基地をたらいまわしする欺瞞でしかなかった》(目取真俊さん)
   『●本土と沖縄を一緒にするなとでも? 《…燃料タンクと数十センチの
      水筒という落下物によって事故の重大性を比較するのは無意味だ》
    《稲嶺恵一元知事は在任中、基地に対する県民感情をマグマにたとえ
     「一度、穴が開くと大きく噴出する」と指摘した。コザ騒動から
     半世紀たってもなお、基地があるゆえの不条理に苦しめられている
     沖縄のマグマは足元にたまったままだ

   『●《メディアが名実ともに戦争の道具にされていく》…《日本全土を米軍の
      鉄砲玉として…日本全土の基地化が進行》黙殺する《全国紙やテレビ》
   『●<金口木舌>《コロナ感染再拡大後も米軍は詳細を説明せず、米兵は
     基地の街をマスクをせず闊歩している。これが復帰から半世紀の沖縄》
   『●無謀な辺野古破壊開始から3年…たとえ万に一つも新基地が完成しても、
       普天間飛行場は返還されることは無く、辺野古は単なる破壊「損」
   『●沖縄タイムス《自衛隊と米軍が、台湾有事を想定した新たな日米共同
     作戦計画の原案を策定…南西諸島に臨時の攻撃用軍事拠点を置く…》
   『●「思いやり予算」として小さく生んで、いまや「同盟強靱化予算」
    として大きく育った番犬様の「お財布」、とっても気前の良いニッポン
   『●日刊ゲンダイ【卑劣すぎる! 玉城知事憎しの岸田政権「沖縄振興予算」
       330億円削減の非情】…破壊「損」な辺野古にはドブガネしつつ…
   『●在りもしない特権には大騒ぎするくせに、明確に存在する #在日米軍特権
       には沈黙する…《米軍の在日特権こそ問題にすべき》(長周新聞)
   『●《「本土復帰50年に予算の大幅減額とは驚いた。政府は…県内選挙を
       優位に進めるために『与党が勝てば予算はつく』という兵糧攻め》
   『●長周新聞《まるで地獄の沙汰もカネ次第 名護市を丸ごと買収する国
     ミサイルの標的と引き換えの「繁栄」》…渡具知武豊名護市長再選の闇

 《標的》…《基地を置くから戦争が起こる》(島袋文子さん) ―――― この一言で十分ではないだろうか。
 《県民の皆さま。私たちは「命どぅ宝 沖縄・琉球弧を戦場にさせない県民の会命どぅ宝県民の会)」を立ち上げます。「二度と沖縄を戦場にさせない」「琉球弧の島々を攻撃の標的にさせない」ための会です。多くの皆様の賛同を呼びかけます》。

 台湾の人々も中国も望まぬ《台湾有事》を煽る番犬様と自公政権、自公お維議員ら。な~にが、《安全保障》か。戦争したくて仕方ない、戦争中毒者じゃないか。
 長周新聞の記事【沖縄・南西諸島を戦場にするな 日本列島を対中攻撃の盾にする米国 煽られる台湾有事】(https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/22637)によると、《自衛隊と米軍が台湾有事を想定した日米共同作戦計画原案を作り、年明けの日米安全保障協議委員会(2+2)で正式な計画策定作業開始を決定したことが表面化している。この日米共同作戦計画は有事の初動段階で、米海兵隊が鹿児島県から沖縄の南西諸島に攻撃用臨時拠点を約40カ所設置し、そこから対艦ミサイルで洋上の中国艦隊を攻撃する実戦シナリオだ辺野古への新基地建設計画も、馬毛島への米軍空母艦載機訓練場建設も、台湾に近い離島にミサイル部隊を配備する計画も、みなこの南西諸島一帯を戦場にするシナリオの具体化である。こうした戦争準備が地元住民の意志を無視して本格化しており、全国でも座視できない問題になっている》。
 《沖縄・南西諸島を戦場に》されるのは迷惑だ。そんなにやりたきゃ、米本土ででもやってくれ。

 ところで、アメリカ施政権下の沖縄で…。
 同紙のコラム【警察署を取り囲んだ若者たち/コラム 狙撃兵】(https://www.chosyu-journal.jp/column/22665)によると、《沖縄市といえば、アメリカ施政権下だった前身のコザ市におけるコザ騒動が今も語り継がれている沖縄県民の誇りである。それは1970年12月、地元民を車でひいた米兵を引き取りに来たMP(米軍の基地警察)が事故処理するさい、コザの歓楽街から出てきて抗議する群衆に向かって威嚇発砲したのをきっかけにして、堪忍袋の緒が切れた群衆5000人が80台の米軍車両をひっくり返したり焼き払うなどした騒動であった》。

   『●(琉球新報社説)《「ウチナーンチュ(沖縄人)だって人間
     じゃないのか」。コザ騒動の現場で人々が叫んだ言葉は今も変わらない》
    「玉城デニー知事は、《1970年に起きた米軍施設への焼き打ち事件
     「コザ騒動」》後、《72年に沖縄が日本に返還された時、
     「これでやっと日本人になれる本気で思い、もう米国の言いなりに
     ならないで済む、というおぼろげな期待がありました》と。」

   『●<金口木舌>《「私たちはウサギやヤギと同じだった」…人々の怒りは、
       半世紀前に米軍車を取り囲んだウチナーンチュの叫びと地続きだ》
    《「ウチナーンチュ(沖縄人)だって人間じゃないのか」。コザ騒動
     現場で人々が叫んだ言葉は今も変わらない》。<金口木舌>
     《「私たちはウサギやヤギと同じだった」…人々の怒りは、半世紀前に
      米軍車を取り囲んだウチナーンチュの叫びと地続きだ》。
    「琉球新報《「ウチナーンチュ(沖縄人)だって人間じゃないのか」。
     コザ騒動の現場で人々が叫んだ言葉は今も変わらない
     《50年前と今の県民の思いにどれだけの違いがあるだろうか
     「ばかやろう、この沖縄人の涙を分かるのか」》。50年経って、
     何か変わったのだろうか?」

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https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/22640

『命どぅ宝県民の会』設立 沖縄の知識人やジャーナリスト 琉球弧の島々を攻撃の標的にさせない為に
平和運動 2022年1月30日

 沖縄県下の知識人・ジャーナリストが呼びかけ人となって1月11日、「命どぅ宝 沖縄・琉球弧を戦場にさせない県民の会」の設立趣意書・賛同呼びかけ文を発表した。呼びかけ人には前泊博盛・沖縄国際大学教授、沖縄戦の遺骨収集にとりくむ具志堅隆松氏ら11氏が名を連ねている。

 呼びかけ文は次の通り。


 県民の皆さま。私たちは「命どぅ宝 沖縄・琉球弧を戦場にさせない県民の会(命どぅ宝県民の会)」を立ち上げます。「二度と沖縄を戦場にさせない」「琉球弧の島々を攻撃の標的にさせない」ための会です。多くの皆様の賛同を呼びかけます。

 あの沖縄戦で県民の4人に1人が犠牲になりました。摩文仁の「平和の礎」には14万9584人の県民の名前が刻まれています。現在の沖縄県の人口はおよそ146万9000人。今度、沖縄戦が起きれば、どれほど多くの県民の命が犠牲になるかしれません。

 空想でなく、いままさにその恐れが高まっています。自衛隊と米軍は琉球弧の島々(与那国石垣宮古―沖縄―奄美)にミサイル部隊の配備を計画しています。南西諸島に攻撃拠点」「住民巻き添えの可能性」「米軍台湾有事で展開、日米が計画」―。昨年12月24日の共同通信配信による沖縄二紙のトップ報道は県民に衝撃を与えました。自衛隊と米軍が、琉球弧の島々を戦場とする「日米共同作戦計画」原案を策定し、日米両政府がそれを正式な戦争計画に作り上げようとしています

 私たちは琉球弧の島々が戦場になることを断じて許しません。「台湾有事」、「尖閣有事」と称して住民の命を犠牲にすることは許されないことです。「日米共同作戦計画」原案の策定に強く抗議し、撤回を要求します。台湾、尖閣有事を想定するミサイル部隊の配備、ミサイル弾薬の搬入、日米合同訓練など一切の戦争準備の中止を求めます

 私たちの島々は無人島ではありません。百数十万の人々が暮らしている島々です。日米両政府、自衛隊、米軍に住民の命を犠牲にする権限はありませんいかなる理由によっても決して戦争を引き起こしてはならないのですそれが国家最大の責務です。私たちは日米両政府そして国際社会に対して琉球弧の島々を戦場にさせないこと、決して武力に訴えることなく対話によって、この東アジア地域に平和実現を図っていくことを強く求めます

 沖縄戦から77年。これまで沖縄は朝鮮ベトナムイラクアフガニスタンなど米国の戦争の出撃拠点とされてきました。今度の戦争は沖縄島をはじめ琉球弧全体が戦場となることが想定されるだけに、私たちはこの県民の会への参加を、保革の立場を超えて広く呼びかけます。ひとたび戦争が始まれば保守も革新もないからです。誰彼を問わない戦争の惨劇は先の沖縄戦が如実に示しています。今こそ、それぞれの多様な政治的立場を乗り越えて「戦争断固阻止」、この一点の立場で手を取り合い、ともに声を上げていきましょう。とりわけ若い世代のみなさん! みなさんの未来を殺戮のない平和な世界にするため、ぜひともこの県民運動に参加してほしいと強く希望し、心からの呼びかけを致します。

 「命どう宝 沖縄・琉球弧を戦場にさせない県民の会

 呼びかけ人=新川明、高嶺朝一、石原昌家、桜井国俊、ダグラス・ラミス前泊博盛、伊佐眞一、大城貞俊、具志堅隆松三上智恵、与那覇有羽。事務局長・山城博冶
 ほか「県民の会」準備会一同。
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https://www.chosyu-journal.jp/column/22665

警察署を取り囲んだ若者たち
コラム 狙撃兵 2022年2月1日

 沖縄市で「高校生が警察官に殴られ大けがをした」との情報を見た若者ら300人が、怒りに震えて警察署を取り囲み、石や瓶を投げつけるなどして襲撃する前代未聞の騒動が起こった。

 当初の報道では、まるで警察発表を鵜呑みにして、SNS上のデマに乗せられた若者の襲撃のような扱いであった。警察は大けがをした少年がバイクで単独事故を起こしていたように発表していたが、沖縄における批判世論の高まりのなかで、その説明はフラフラと二転三転。少年は救急隊員や親族にも「警察官に棒のようなもので殴られた」と話しており、その後のメディアによる警察への取材で少年と接触した警察官は当時一人だったことや、「肩にぶつかった」といってみたり、はたまた「体のどの部分が接触したかはっきりわからない」と説明していることが新たにわかっている。警棒で殴ったのは29歳の警察官であることなど、コミュニティーのつながりが濃密な沖縄現地では、既に名前も含めて知れ渡り、事実関係は大方判明しているのであろう。いずれにせよ真相解明が待たれるところである。

 警察署を取り囲んで襲撃をする--。それはなかなか日本国内では見かけない光景で、戦後からこの方の沖縄でも恐らく例がない出来事だろう。この一件について、「暴動はいけない」「石を投げた者は全員逮捕されなければ法治国家ではない」などといった批判もあるものの、仲間が警棒で殴られて片目を失ったのに対して、相手が警察だろうが何だろうが権威などなんのその、300人もの仲間たちが束になって「出てこい!」と包囲するのだから、たいへん気合いが入った若者たちであることは疑いない。

 率直に、仲間思いで正義感の強い若者たちなのだろうと感じた相手が警察という絶対的権力だからといって泣き寝入りして逃げていくのではなく、逆に無関係の者までが、どんな権威であろうと、いけないことはいけないと怒りに震えて警察を取り囲む行動に出るわけだから、それは「オレ、関係ないんで…」「警察に石投げたら捕まっちゃうじゃん」といってシレッとしているよりは、はるかに仲間思いで任侠心溢れる若者たちなのだろうと思う。また、そうでもしなければ収まらない感情が、沖縄の若者たちのなかに渦巻いていることを伺わせるのである。

 沖縄市といえば、アメリカ施政権下だった前身のコザ市におけるコザ騒動が今も語り継がれている沖縄県民の誇りである。それは1970年12月、地元民を車でひいた米兵を引き取りに来たMP(米軍の基地警察)が事故処理するさい、コザの歓楽街から出てきて抗議する群衆に向かって威嚇発砲したのをきっかけにして、堪忍袋の緒が切れた群衆5000人が80台の米軍車両をひっくり返したり焼き払うなどした騒動であった。

 アメリカによる圧政のなかで沖縄が蹂躙され、それに対して沖縄人も人間じゃないかの鬱積した思いが爆発したものだったという。相手が圧倒的武力を持ち合わせた米軍であろうが、ウチナーの誇りにかけて体を張って抗議したのだ。沖縄の人たち曰く「日頃は優しく温厚そうに見えるウチナーも、怒らせたら手が付けられないんだよ」--というのである。

 今回の騒動を見て、同じくコザすなわち沖縄市での出来事だけに、まるでコザ騒動の再来かと思わずにはいられなかったのもそのためだ。相手が警察であろうが、ひるむことなくいけないことはいけないと主張し、行動に移すことは、手段の善し悪しこそあれど、一方的に非難されるものでもない。そんな仲間思いの若者たちの力が警察の供述を二転三転させているのであろう。それは力関係において、警察が取り調べられていることをあらわしているように思う。

  武蔵坊五郎
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●<金口木舌>《「私たちはウサギやヤギと同じだった」…人々の怒りは、半世紀前に米軍車を取り囲んだウチナーンチュの叫びと地続きだ》

2021年02月11日 00時00分24秒 | Weblog

[※ 辺野古は破壊「損」 【米軍飛行場の移設先として工事が進む沖縄県名護市の海岸】(東京新聞 2020年4月3日)↑]


(2021年01月23日[土])
琉球新報のコラム【<金口木舌>くすぶり続ける怒り】(https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1256529.html)。

 《▼米軍知花弾薬庫にあった毒ガス貯蔵庫の周辺では、ウサギが飼育されていた。ガスの漏出を検知するためだろう。基地従業員は安全を確保するためのマスクも渡されず、そのそばで働いていた ▼当時、従業員だった新垣昇さん(82)が「私たちはウサギやヤギと同じだった」と証言している。50年を経て取材に応じた人々は情報を隠し、住民を欺いてきた米軍への怒りを口にした》。

   『●《思いやり予算日本要請…必死に米軍を引き留めつつ、沖縄に負担を
     押し付け続ける日本政府の手法はかつての植民地主義をほうふつさせる》
   『●《埋め立てに使う土砂を、沖縄戦の激戦地だった沖縄本島南部から
      採取することが新たに盛り込まれた…「戦没者に対する冒とくです」》
   『●《戦争で亡くなった人の血や肉が染みこんだ土や石を、新たな軍事基地
      建設に使用するのは人間のやることじゃない》…《人柱》でいいのか?
   『●《1995年9月4日…あれから25年…沖縄の「負担軽減」といい
     ながら、日本政府は事件が起こった沖縄島北部東海岸に新たな基地…》
   『●沖縄イジメ、辺野古は破壊「損」の張本人が元最低の官房長官。
     そして今、さらなるデタラメ・ヒトデナシをやろうとしているオジサン
   『●(琉球新報社説)《「ウチナーンチュ(沖縄人)だって人間じゃ
     ないのか」。コザ騒動の現場で人々が叫んだ言葉は今も変わらない》
    《第2次世界大戦後の、米国の植民地主義の問題も指摘した。
     「米国による、世界規模の植民地主義の一端が沖縄だった
     と振り返った。国吉さんは基地問題に翻弄(ほんろう)された
     沖縄戦後史を振り返り、長年の抑圧に抵抗したコザ騒動について
     「伝えないと風化してしまう」と継承の大切さを強調した》

 《「ウチナーンチュ(沖縄人)だって人間じゃないのか」。コザ騒動の現場で人々が叫んだ言葉は今も変わらない》。<金口木舌>《「私たちはウサギやヤギと同じだった」…人々の怒りは、半世紀前に米軍車を取り囲んだウチナーンチュの叫びと地続きだ》。
 琉球新報《「ウチナーンチュ(沖縄人)だって人間じゃないのか」。コザ騒動の現場で人々が叫んだ言葉は今も変わらない》《50年前と今の県民の思いにどれだけの違いがあるだろうか。「ばかやろう、この沖縄人の涙を分かるのか」》。50年経って、何か変わったのだろうか? 番犬様は、相変わらず、やりたい放題。沖縄イジメや破壊「損」の辺野古・美ら海破壊の張本人が、いまや、首相だ。《不条理》《理不尽な現実は今も続く》。《沖縄の忍耐に甘え続けている》。「本土」の《日本人が何を犠牲にして繁栄を手にしてきたのか》?

 琉球新報の【<社説>毒ガス移送50年 今も危険と隣り合わせ】(https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1255945.html)によると、《米国統治時代に行われた化学兵器(毒ガス)の第1次移送から50年を迎えた。1969年7月、米紙報道により沖縄がアジア最大の毒ガス貯蔵基地であることが明らかになった。住民は即時撤去を求め立ち上がり毒ガスを撤去させた。米軍による基地の自由使用を住民が初めて阻んだ歴史的出来事といえる。しかし、毒ガスは撤去されたが、米軍基地内にどのような危険物質が保有されているか現在も明らかにされていない米軍が持ち込んだ汚染物質によって沖縄の環境が汚染される事態は後を絶たない。米軍基地の過重負担と自由使用を許す限り、危険と隣り合わせの構図は今も変わらないことを忘れてはならない》。
 沖縄タイムスの【社説[毒ガス移送50年]基地の重圧 今もなお…】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/691710)によると、《1969年7月18日付の米紙ウォールストリート・ジャーナルに、沖縄を揺るがす衝撃的な記事が掲載された。本島中部の知花弾薬庫で、毒ガスのコンテナからガスが漏れる事故が発生し、これを吸った米兵二十数人が病院で手当てを受けた、というものだ。米軍は毒ガス貯蔵の事実を認め、沖縄から撤去することを明らかにした。だが、実際に第1次移送作業が始まったのは、事故発覚から1年半もたった71年1月13日のことである。住民5千人が避難するというものものしい移送作戦だった。あの日から、きょうでちょうど50年になる》。

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https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1256529.html

<金口木舌>くすぶり続ける怒り
2021年1月15日 06:00
金口木舌 コザ騒動 毒ガス

 「火を付けろ」。路上で数百人の群衆が米兵の車や米憲兵隊のパトカーを取り囲み、叫ぶ。1971年10月、宜野湾市であった交通事故直後の状況だ。酒に酔った米兵が運転する車が女性2人をひき殺した。住民が集まり、加害者の米兵を引き渡すよう憲兵に求めた。普天間署の警察官がなだめ、群衆は散っていった

▼71年の新聞は、この事件だけでなく1月や8月にも似たような状況があったことを伝えている。前年12月のコザ騒動以降も、住民の怒りはくすぶり続けていたことがわかる

▼復帰を前に米軍関係のさまざまな事実も明らかになった。その一つが毒ガスだ。米紙報道で貯蔵が発覚した毒ガスは71年1~9月、米領ジョンストン島に移送された

▼米軍知花弾薬庫にあった毒ガス貯蔵庫の周辺では、ウサギが飼育されていた。ガスの漏出を検知するためだろう。基地従業員は安全を確保するためのマスクも渡されず、そのそばで働いていた

▼当時、従業員だった新垣昇さん(82)が「私たちはウサギやヤギと同じだった」と証言している。50年を経て取材に応じた人々は情報を隠し、住民を欺いてきた米軍への怒りを口にした

▼基地周辺住民は現在も事件・事故だけでなく、有機フッ素化合物による水源の汚染などに悩まされる人々の怒りは、半世紀前に米軍車を取り囲んだウチナーンチュの叫びと地続きだ
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●(琉球新報社説)《「ウチナーンチュ(沖縄人)だって人間じゃないのか」。コザ騒動の現場で人々が叫んだ言葉は今も変わらない》

2021年01月09日 00時00分31秒 | Weblog

[※ 辺野古は破壊「損」 【米軍飛行場の移設先として工事が進む沖縄県名護市の海岸】(東京新聞 2020年4月3日)↑]


(2020年12月22日[火])
沖縄タイムスの【社説[コザ騒動50年]「不条理」への怒り今も】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/681199)。
琉球新報の【<社説>「コザ騒動」50年 今も理不尽な現実続く】(https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1243957.html)。
琉球新報のコラム【<金口木舌>変わらぬ不条理】(https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1244403.html)。
永田健特別論説委員による、西日本新聞のコラム【一線を守った「暴動」】(https://www.nishinippon.co.jp/item/n/675181/)。

 《「アメリカーを許すな」「事故をうやむやにするな」。殺気立った群衆が口々に叫び、米軍車両を手当たり次第ひっくり返し火を放っていく。怒号が飛び交う深夜の街のそこここで車両が炎上した。1970年12月20日未明に基地の街コザ市(現沖縄市)で起きた「コザ騒動」からきょうで50年になる》。
 《「コザ騒動」から50年を迎える。交通事故処理をきっかけに数千人の住民が米憲兵や外国人の車両を次々焼き払った。先導者がいたわけではない。自然発生だった。住民の直接抵抗は米国の沖縄統治の破綻を象徴していた。米国はやがて沖縄の施政権を返還するが、日本政府合意の下で基地の自由使用は手放さなかった》。
 《速度超過の車がふらつきながら走行し、歩いていた54歳の女性をひいて電柱に激突した。女性は「アンマー(お母さん)」と叫び、搬送中に亡くなった。1970年9月に糸満町(現在の糸満市)であった女性れき殺事件だ ▼近所の男性が8年前、本紙に証言している。飲酒運転の米兵は無罪となり、同年12月のコザ騒動の引き金になった。他にも米軍関係の事件・事故が相次ぎ、十分に裁かれない不条理は騒動の参加者に共有されていた》。
 《1970年といえば、日本では「万博の年」である。国民が高度成長の夢に浮かれていた時代だった。沖縄にとっての1970年は「コザ暴動」の年だ。日本復帰前の沖縄で、統治者である米軍の横暴に対する住民の怒りが爆発。大きな暴動に発展した》。

 玉城デニー知事は、《1970年に起きた米軍施設への焼き打ち事件「コザ騒動」》後、《72年に沖縄が日本に返還された時、「これでやっと日本人になれる本気で思い、もう米国の言いなりにならないで済む、というおぼろげな期待がありました》と。
 琉球新報《「ウチナーンチュ(沖縄人)だって人間じゃないのか」。コザ騒動の現場で人々が叫んだ言葉は今も変わらない》《50年前と今の県民の思いにどれだけの違いがあるだろうか。「ばかやろう、この沖縄人の涙を分かるのか」》。50年経って、何か変わったのだろうか? 番犬様は、相変わらず、やりたい放題。沖縄イジメや破壊「損」の辺野古・美ら海破壊の張本人が、いまや、首相だ。《不条理》《理不尽な現実は今も続く》。《沖縄の忍耐に甘え続けている》。「本土」の《日本人が何を犠牲にして繁栄を手にしてきたのか》?

   『●《思いやり予算日本要請…必死に米軍を引き留めつつ、沖縄に負担を
     押し付け続ける日本政府の手法はかつての植民地主義をほうふつさせる》
   『●《埋め立てに使う土砂を、沖縄戦の激戦地だった沖縄本島南部から
      採取することが新たに盛り込まれた…「戦没者に対する冒とくです」》
   『●《戦争で亡くなった人の血や肉が染みこんだ土や石を、新たな軍事基地
      建設に使用するのは人間のやることじゃない》…《人柱》でいいのか?
   『●《1995年9月4日…あれから25年…沖縄の「負担軽減」といい
     ながら、日本政府は事件が起こった沖縄島北部東海岸に新たな基地…》
   『●沖縄イジメ、辺野古は破壊「損」の張本人が元最低の官房長官。
     そして今、さらなるデタラメ・ヒトデナシをやろうとしているオジサン

 琉球新報の記事【カメラマンや元米兵…コザ騒動の背景を世界の視点で考える オンラインセミナー】(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1244884.html)によると、《コザ市(現沖縄市)で50年前に発生したコザ騒動について理解を深めようと、米カリフォルニア大学サンタクルーズ校は20日、オンラインセミナー「コザ騒動を世界の視点で」を開催した。現場となった沖縄市と世界各地をつなぎ、約250人が参加した。写真家の国吉和夫さんが撮影した写真などを通して当時の様子を振り返り、騒動の背景を人種差別や植民地主義などの問題と照らして考察した。セミナーは研究チーム「オキナワ・メモリーズ・イニシアティブ」のプロジェクトの一環で実施した。国吉さんのほか、沖縄駐留経験がある退役米兵、県系米国人などが発言した。それぞれの視点から当時の沖縄の置かれた状況を語った。退役米兵のスタン・ラッシュワースさんは1963年8月から約2年間、沖縄に滞在した。当時の軍隊内部の人種差別や、人種間の対立について語った。第2次世界大戦後の、米国の植民地主義の問題も指摘した。「米国による、世界規模の植民地主義の一端が沖縄だった」と振り返った。国吉さんは基地問題に翻弄(ほんろう)された沖縄戦後史を振り返り、長年の抑圧に抵抗したコザ騒動について「伝えないと風化してしまう」と継承の大切さを強調した》。

   『●石牟礼道子さん亡くなる…「戦後日本の裏面… 
      日本人が何を犠牲にして繁栄を手にしてきたのか」?

    《石牟礼道子さん、伊佐千尋さんが相次いで他界した。2人とも沖縄を
     題材とした著作を残した…▼沖縄で少年期を過ごした伊佐さんは敗戦
     から2年後、米軍の通訳として伊江島に渡った。地上戦の最中、住民が
     自ら命を絶ったことを知る。「誰が好んで死ぬのか。死にたくて
     死んだんじゃないという住民の悲痛な声を聞いた
     ▼民を虐げる為政者に厳しい目を向けた。米兵殺傷事件の裁判で陪審員
     となった体験に基づく作品「逆転」は78年の第9回大宅賞受賞作。
     コザ騒動を描いた「炎上」も米統治下の人権侵害に迫った
     ▼石牟礼さん、伊佐さんの作品は、戦後日本の裏面で呻吟(しんぎん)
     する人々に光を当てた。日本人が何を犠牲にして繁栄を手にしてきた
     のか、私たちに問い掛けている》

   『●「#美ら海の色の候補者」…「辺野古に普天間の代わりの
         新基地をつくるという根本的な理由」が存在しない
    《特に記憶に残っているのが1970年に起きた米軍施設への
     焼き打ち事件「コザ騒動」で、あれは土曜の夜から日曜の朝に
     かけてのことでした。現場を見に行ったら、車はひっくり返されて
     焼けただれ、オイルやタイヤの焦げたにおいが漂っていた。
     嘉手納基地ゲート前で起こった暴動ですから、本当に戦争じゃないか
     と思いましたね。非常に衝撃的でした。
     …あの時は沖縄は日本ではなかったんですね。米国が治めている
     と学校で習っていたので、ウチナーンチュが何か言っても、最後は
     米国が決めるからしょうがないかなという空気がありました。
     ところが、72年に沖縄が日本に返還された時、
     「これでやっと日本人になれる本気で思い、もう米国の言いなりに
     ならないで済む、というおぼろげな期待がありました》

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https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/681199

社説[コザ騒動50年]「不条理」への怒り今も
2020年12月20日 08:17

 「アメリカーを許すな」「事故をうやむやにするな」。殺気立った群衆が口々に叫び、米軍車両を手当たり次第ひっくり返し火を放っていく。怒号が飛び交う深夜の街のそこここで車両が炎上した。

 1970年12月20日未明に基地の街コザ市(現沖縄市)で起きた「コザ騒動」からきょうで50年になる。

 米兵の車両が住民をはねた人身事故が発端となり、80台以上の車の焼き打ちへと拡大した。米国の資料によると関わったのは数百人、取り巻いていた住民らは数千人から1万人に上った。

 群衆からは「糸満の事故の二の舞いを繰り返すな」との声も上がった。糸満町(当時)で3カ月前、酒に酔い速度超過の運転で女性をひいて死亡させた米兵に対し、軍法会議は「証拠不十分」として無罪を言い渡したばかりだった。

 5月には下校中の女子高校生が米兵にナイフで複数箇所刺される事件も起きた。

 前年には米軍知花弾薬庫(現嘉手納弾薬庫)で毒ガスのサリンが漏れる事故が起き、毒ガス撤去を求める闘いが続いていた。

 当時の沖縄は、全てにおいて米軍が優先される事実上の軍事植民地だった。米軍人・軍属による事件は65年以降、69年まで毎年千件を超えた沖縄の人々の命が軽んじられ、人としての尊厳が踏みにじられる事件が頻発していた。

 鬱(うっ)(せき)していた沖縄の怒りに火がつき、住民が起こした自然発生的な行動、軍事支配に向けられた抗議の意志、それがコザ騒動だ。

■    ■

 2年後に沖縄は復帰した。だが、米軍の地位は日米安保や地位協定によって引き続き保障されている日本の捜査権や裁判権は地位協定で制約され、県が繰り返し求める抜本的な見直しは実現していない

 宜野湾市の緑ヶ丘保育園の屋根に米軍ヘリの部品が落下した3年前の事故は、地位協定が壁となって解明できなかった

 今も在日米軍専用施設面積の7割が沖縄に集中する。県民は軍用機の墜落や部品落下の危険にさらされ、激しい騒音に悩まされ続けている。

 稲嶺恵一元知事は在任中、基地に対する県民感情をマグマにたとえ「一度、穴が開くと大きく噴出する」と指摘した。

 コザ騒動から半世紀たってもなお、基地があるゆえの不条理に苦しめられている沖縄のマグマは足元にたまったままだ

■    ■

 日本政府は沖縄の民意に背を向け、名護市辺野古への新基地建設へとひたすら突き進んでいる

 「辺野古が唯一」と固執した安倍晋三前首相は「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げていた。しかし基地の島であることを強いられている沖縄は、戦後レジームそのものだ

 コザ騒動から50年、復帰から48年もたつのに、政府は沖縄に横たわる問題を解決できない当事者能力を欠いている。沖縄の怒りの声に改めて耳を傾けるべきだ。
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https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1243957.html

<社説>「コザ騒動」50年 今も理不尽な現実続く
2020年12月19日 06:01

 「コザ騒動」から50年を迎える。交通事故処理をきっかけに数千人の住民が米憲兵や外国人の車両を次々焼き払った。先導者がいたわけではない。自然発生だった。

 住民の直接抵抗は米国の沖縄統治の破綻を象徴していた。米国はやがて沖縄の施政権を返還するが、日本政府合意の下で基地の自由使用は手放さなかった

 理不尽な現実は今も続く。日本政府は民意を無視して米軍のために辺野古新基地建設を強行している。騒動で示された怒りの爆発は、過去の出来事ではない。

 米国統治下の沖縄は、すべてが軍事優先で住民の安全、人権はないがしろにされた。米軍人・軍属による犯罪は、ベトナム戦争がエスカレートする1960年代半ばに年間千件を超えている

 しかし、琉球警察は、米軍人・軍属を逮捕できないし、沖縄側に裁判権もなかった。立法院は、捜査権・逮捕権・裁判権の沖縄への移管を求め続けたが無視された

 そしてコザ騒動の3カ月前、主婦をひき殺した米兵が上級軍法会議で無罪になった。怒りは頂点に達した。

 米軍には沖縄住民が「おとなしく従順」という固定観念があった。このため沖縄住民が我慢の限界を超えたとき、騒動という形で物理的破壊を伴う怒りを爆発させることなど予期していない。

 騒動から4日後、衆院議員の瀬長亀次郎氏は国会で質問に立った。現場で拾った焼けただれた車両のバンパーを手に「アメリカに対する県民の決起、これはほんとに怒りが爆発したものである。この怒りの強さは鉄をも溶かす強さだ」と訴えている。

 沖縄を統治する最高責任者ランパート高等弁務官は、駐日米国大使館に「都合のよくない時代の始まり」と報告。統治の限界を自ら認めている。その上で「日本政府による施政権行使が開始され、日米地位協定が効力を発揮するまで続く」と指摘した。

 日米地位協定は、米軍が日本に駐留するための取り決めだ。日本の国内法が適用されず罪を犯した米兵の身柄すら確保できない。米軍機の墜落や不時着事故が民間地域で発生しても、日本の警察による初動捜査は阻止される。米兵犯罪で重大事件以外は裁判権を放棄する密約も明らかになっている。

 日本復帰の後、沖縄に地位協定が適用された。この不平等条約が効力を発揮することによって、米国統治下と錯覚するような軍事優先の環境に置かれることになる。しかも対米従属に終始する日本政府は、地位協定を抜本的に改定する努力を怠ってきた

 復帰後、米軍による事件・事故がどれほど繰り返され、真相究明が地位協定の壁にどれだけ阻まれただろう。

 「ウチナーンチュ(沖縄人)だって人間じゃないのか」。コザ騒動の現場で人々が叫んだ言葉は今も変わらない
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https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1244403.html

<金口木舌>変わらぬ不条理
2020年12月20日 06:00


 速度超過の車がふらつきながら走行し、歩いていた54歳の女性をひいて電柱に激突した。女性は「アンマー(お母さん)」と叫び、搬送中に亡くなった。1970年9月に糸満町(現在の糸満市)であった女性れき殺事件だ

▼近所の男性が8年前、本紙に証言している。飲酒運転の米兵は無罪となり、同年12月のコザ騒動の引き金になった。他にも米軍関係の事件・事故が相次ぎ、十分に裁かれない不条理は騒動の参加者に共有されていた

▼コザ騒動で放火などの罪に問われた4人は有罪となったが、執行猶予が付いた。一審の判決文は糸満の事件にも触れて「犯行に加担するに至った心情は理解するに難くない」と書いている

▼弁護団は米統治下の圧政に苦しむ人々による「抵抗権の行使」だとして無罪を求めた。沖縄の人々の願いは基本的人権の尊重を明記した日本国憲法の下への復帰だった

▼だが復帰後も基地は残り、米軍関連の事件・事故は続く辺野古新基地建設は民意に反して止まらない。嘉手納、普天間の両爆音訴訟は騒音被害への賠償は認められるが、原因行為である米軍機の飛行差し止めは退けられる

50年前と今の県民の思いにどれだけの違いがあるだろうか。「ばかやろう、この沖縄人の涙を分かるのか」。ラジオ沖縄が騒動に加わった人々の言葉を記録している。現在の不条理をも照らす叫びだ。
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https://www.nishinippon.co.jp/item/n/675181/

一線を守った「暴動」
2020/12/20 11:00
西日本新聞 オピニオン面 永田 健

 1970年といえば、日本では「万博の年」である。国民が高度成長の夢に浮かれていた時代だった。

 沖縄にとっての1970年は「コザ暴動」の年だ。日本復帰前の沖縄で、統治者である米軍の横暴に対する住民の怒りが爆発。大きな暴動に発展した。

 今からちょうど50年前のこの出来事を振り返る。

   ◇    ◇

 当時の沖縄では、米兵による飲酒事故や強盗、レイプ事件が頻発。それが米軍の軍事裁判でまともに処罰されないという事態が日常化していた。同年9月にも糸満で飲酒運転の米兵が主婦をはね死亡させたが、軍事法廷が言い渡した判決は何と無罪。沖縄住民の忍耐は限界に達していた。

 12月20日の未明、コザ市(現沖縄市)で米兵の運転する車が人身事故を起こした。目撃した群衆は駆けつけたMP(軍警察)と米兵を取り囲んだ。これにMPが威嚇発砲をした。

 群衆は反発し、MPの車や米国人ナンバーの車を次々とひっくり返し火を付けた。怒りの矛先を向けられ袋だたきにされた米兵も多かった。一部の集団は基地に押しかけ、武装した米兵との間でにらみ合いになった。騒動は同日朝まで続き、米国人車両約80台、基地の事務所などが焼かれた。

 一夜明けても、コザの目抜き通りには裏返しになった多くの車がくすぶっていた。従順と思っていた沖縄住民が暴力で反抗したことに米軍は衝撃を受けた。

   ◇    ◇

 ただ興味深いのは、暴動の規模が大きく、多くの米国人が襲われたにもかかわらず、死者はゼロ、米側には深刻な重傷者も出ていないとされることだ。混乱に乗じた略奪もなかった。

 住民は「たっくるせー(やっちまえ)!」「(占領)25年の恨みを晴らせ!」と叫んだが、攻撃の方法は運転者のいない車両への放火にほぼ集中していた。

 地元紙・琉球新報の記者だった岡田輝雄さん(80)は自らの体験や現場に出た同僚記者の証言を基に、コザ暴動の経緯を「沖縄記者物語 1970」(ペンネーム与並岳生・新星出版)という本にまとめている。

 その記録によれば、騒動の最中、ある青年がブロックを頭上に掲げ、倒れている米兵の頭に振り下ろそうとした。そばにいた青年がとっさに「それだけはやめろ」と叫んで止めたという。あわやという場面はいくつもあったが、群衆は血だらけになった米兵たちを「それぐらいでいい」と逃がしたらしい。

   ◇    ◇

 「米軍の人権無視の支配には怒っていたが、米兵個人を憎んでいたわけではなかったから」と岡田さんは当時の思いを説明する。

 本土の反応はどうだったか。当時の新聞の社説は「沖縄米軍の深い反省を望む(読売)」「人権思想不在の在沖米軍(日経)」と、沖縄の人々に同情的だ。

 怒りと興奮の渦の中でも、人間としての一線を守った沖縄住民に、私はある種の矜持(きょうじ)を見て取る。

 それから50年。日本復帰から48年が経過した今でも、日本国内の米軍専用施設の約7割が沖縄に集中したままだ。駐留米軍による事件事故も後を絶たない。日本政府は、米軍に特権的な立場を保障する日米地位協定の改定を米国に要求することすらしていない。沖縄の忍耐に甘え続けている。 (特別論説委員・永田健
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