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臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

第17回市民講座の報告(2021年11月6日)≪加速していく命の線引きと切り捨て ――安楽死・『無益な治療』論・臓器移植のつながり》 2-2

2022-03-09 15:47:26 | 集会・学習会の報告

第17回市民講座講演録 2-2

 

23.コロナ禍におけるトリアージの議論(日本)

 日本でもトリアージをめぐって、いろいろな動きがある。上は、医療倫理関係の有志が出した人工呼吸器の配分についての提言。これを出した一人がメディアの取材で言っているのは、やっぱり「差別なく公平に」、「だから統一した基準で」。なので、結果的には高齢者や障害者が排除されることになるのは、米国の議論と同じではないかと思います。しかも、すでに呼吸器をつけた人から外して、より助かる可能性が高い人に付け替えるという、2人の患者の命を天秤にかける、あからさまな命の選別まで提案されています。それに対して、様々な批判が出ています。

 また、ある医師からは高齢者に対して、若い人に集中治療を譲りましょうと提案するカードまで提示されました。この医師は移植医療に関係のある人で、ドナーカードからの発想だな、と思いました。

 それにしても、日本のこういう議論の特徴の一つは、医師が患者に向かって医療を諦めるように説く、しかも自分で決めておけと誘導するところでしょう。本当は医師が誘導しているんだけど、形だけは患者の自己決定という形に持ち込もうとする。これ、医療現場でACPとか人生会議と言われて行われていることと重なります。専門職の誘導によって患者が自分で意思決定したような形に持ち込まれていく。

 また、今年1月には、杉並区長が東京都に対して、トリアージの基準を作るよう要望し、問題になりました。こちらの市民ネットの古賀典夫さんが批判を展開してくださっていますが、区長の個人的な偏見がそのままにじみ出ているような内容で、今コロナ禍でとても恐ろしいと思うのは、こういう時に、一人一人の中の内なる優生思想が共鳴して、こんな時だから高齢者や障害者が後回しになるのは仕方がないんだ、当たり前なんだ、という空気が広がっていくことだなと思います。

 

 

 

24.今年、日本で翻訳出版された、話題の書 『間違った医療ーー医学的無益性とは何か』 

 今年、日本で翻訳出版されて、日本の医療界で話題になっていると聞く本がこの本です。「無益な治療」論推進の立場から書かれていて、医師は、自分が無益と思う治療は断固として拒否するように、一貫して呼び掛けています。

 いちおう建前としては、特定の患者についての特定の治療をめぐる議論だと断ってあるのですが、でも、読んでいくとそれだけではないと思います。帯の裏表紙側に抜いてある個所には次のように書かれています。

 「もし患者が治療による利益に価値を認める能力を欠いているなら……治療は無益と見なされるべきである。……医療の目的は単に生物学的な生存にあるのではないし、機械とチューブに繋がれた患者にあるのでもない。最低でも、患者に人間のコミュニティに参加する能力を与えるようなものであることが求められる。」

 「無益」の定義には様々あって、最も厳密な定義は「治療としての生理学的な効果がないこと」です。その定義だと、その治療はどの患者にとっても無益ということになるのですが、このくだりに見られるように、この本の著者らは、仮にそうした効果はあっても、当該の患者がその治療の効果を利益と理解して、喜びを感じる能力を欠いているなら、その治療は無益だと言います。これは意識状態や知的レベルを意味しているわけですね。しかも、医師が一方的に判断する範囲での、意識状態や知的レベルです。これまでも家族や支援者が、いえ、この人は分かっています、と言っているのに、医師が認めない事例はたくさんありました。そういう場合、本当はどっちがわかっているのか、と私はいつも思うんですけど。

 で、著者らが言う「人間らしいコミュニティへの参加」とは、何か。この本の5ページで「仕事をする、愛する人と暮らす、友達に会う、食事をシェアする、子供や孫が遊ぶのを見る、噂話をする、議論をする、冗談を言う、愛し合う――」と説明されています。これを線引きにされたら、と身近で重い障害とともに生きている誰彼を頭に浮かべると、背筋が冷えますが、この本が日本の現場医師にずいぶん読まれているそうです。

 

 

25.日本では、尊厳死も安楽死も日本型「無益」論に終わるのでは 

 私は日本で安楽死を合法化するのは危険だと考えています。その理由の一つは、医療現場における患者主体の不在です。

 まず、医師と患者の関係性が圧倒的に不均衡で、日本では、終末期医療のはるか手前の一般的な医療にかかる際ですら、患者と家族は低姿勢に徹して、ものすごく気を使い、余計なことを言って医師の機嫌を損ねないように、お任せし、よろしくお願いします、と頭を下げる。インフォームドコンセントというと、コンセントは同意ですから、患者が主体の言葉です。患者が主体として医師にギブする、与えるものなんですけど、日本ではICは医師がするもの、ということになっている。主客が転倒しています。

 さらに、患者の側にも、権利意識が十分に成熟していない。欧米の無益訴訟では、家族は自分の身内が入院している病院を、入院したまま訴えたりします。そんなこと、日本の家族には無理です。欧米の家族の強靱な精神力の土台にあるのは強固な権利意識。十分な説明を受ける権利、自分で決める権利。治療を受ける権利、受けたくない治療は拒む権利。その強固な権利意識が土台にあって、その上に乗っかって、その究極の形として死ぬ権利があるのだとしても、その土台が日本にはいまだ存在しないと思います。

 今の日本の、この医療の文化のままで、尊厳死や安楽死が法制化されたら、それは日本型の「無益な治療」論にしかならない。誰が死んでもいい人で、誰は生きるべき人かを医師が決めていき、表向きの形だけは患者や家族の自己決定に落とし込まれていく。

 

 

26.無益論と移植医療の繋がり2000年以前

 この「無益な治療」論も移植医療と繋がっています。こちらについても、第1回の時に「循環死」概念の導入について、チラッと触れているのですが、今回そのあたりを調べて、追加資料もちょっと読んでみました。まず、米国で2000年までに両者が繋がっていく経緯を簡単にお話したい。

 ここら辺は市民ネットの皆さんには釈迦に説法ですが、60年代に脳死概念が導入されるまでは、心臓死した人からの臓器提供でした。それが、DCD。donation after cardiac death。Cardiacというのは、「心臓の」という形容詞です。

 その後、脳死概念が導入されて、心臓死に至っていなくても脳死になったらどうせまもなく心臓は止まるんだからということで、脳の機能不全の人が死んだことにされて、70年代から脳死ドナーからの提供が主流になっていく。これが、DBD。Donation after Brain Death。

 でも、もともと臓器は充足するような性格のものではないので、やっぱり臓器は足りない。そこで、90年代になると移植医らは「かつてのDCDを復活させた」という言い方があちこちでされています。

 ただ、心臓死から脳死へと死を前倒しにしてみたけど足りなかったのだから、昔のDCDを「復活」させるだけでは意味はない。さらに臓器を増やすためには、死を脳死よりもさらに前倒しにする必要がある。

 そこで、名前は心臓死後臓器提供DCDと同じですが、90年代から急速に広がっていくのは「人為的DCD」とか「ピッツバーグ方式」と呼ばれるもの。「人為的」というのは、脳死に至っていない患者から人工呼吸器を取り外すなどして、人為的に心停止に至らしめて、拍動が戻らないことを数分だけ待って確認してから臓器を摘出するプロトコルです。復活と言いながら、実は新たなことをやり始めた。あるいは、こそこそとやっていたことを「復活」と称して公然と広げていった、という方が実態なのかもしれません。

 90年代にかけて、こうした大きな流れがあったわけですが、それを後押ししたと思われる、別の動きが医療現場にあった。それが「無益な治療」論の広がりだろうと思います。先ほどちょっとお話ししたテキサスの「無益な治療」法ができたのが1999年です。2000年代にはいると、病院が無益として治療中止を決めて、それに対して家族が訴訟を起こして抵抗する、という事件が相次いで報道されます。無益として病院が治療の中止を言い渡すということが広がっていった時期だと思います。それらの事例の中には、無益として治療を一方的に中止すると言い渡されるプロセスのどこかで、臓器提供の話が出てきたと家族が語っている事例もあります。

 もちろん、訴訟になって報道されるのは氷山の一角です。抗いたくても、押し切られてしまったり、訴訟を超す財力がなかったりで、泣き寝入りした家族もいるだろうし、そのプロセスを家族がどのように受け止めていようと、結果的に医師と家族が治療中止に合意したことになれば、生命維持や積極治療が中止されて、その患者は亡くなります。

 これらの、無益として生命維持を中止される患者をドナーにするプロトコルが、90年代に復活したDCDの新ヴァージョンだったわけです。

 

 

27.「75秒ルール」論争(2008)

 それについては、たとえば、科学アカデミーをはじめ、いろんなDCDのガイドラインで、治療中止と臓器提供は、それぞれ独立した意思決定でないといけない、治療中止が先に決まらないといけない、心停止から少なくとも2分から5分間は手を触れずに待つことなどを、セーフガードとして決めていますが、実際には病院ごと医師ごとに、この待機時間を短くし始めます。

 2008年のデンバーこども病院の心臓移植チームの有名な論文があります。無益として生命維持を中止した乳児から心臓を採って移植した2例が報告されているのですが、心停止から75秒だけ待って臓器の摘出を開始した。成績が良いから、これで行こうと提案する論文です。その論文の中に書かれた一文が「両親が蘇生を望まない以上、その子の心臓は死んだのだ」。

 その後、この論文は多くの批判を浴びて、子ども病院は2分待つプロトコルに戻しました。

 

 

28.「デッド・ドナー・ルール」撤廃の提言(Truog, Savulescu他)

 この時は大論争になったのですが、その中で、「死者からしか臓器は取ってはならない」というルールをいっそ撤廃してしまおう、と、実際にはもとからあった声ですが、この時の論争でわっと噴出します。

 実はこれを言う人たちって、ものすごく正直なんです。75秒後に蘇生したら拍動は戻ると。もう小気味よいほどに、移植医療が繰り出してくるアリバイ的言説の欺瞞性を暴いてくれるんです。DCDドナーは死んでない、脳死者だって本当は死んでない、脳死概念は科学的な間違いだった、と正直に認める。

 でも、だからやめよう、というんじゃないんですね。どうせ今だってそうやって生きている人間から採っているんだから、こんなルールは撤廃して、堂々と生きている人から採ればいいんだ、と論理が展開する。

 片方にどうせ死ぬ命が1つあって、もう一方に、救われれば有益な生を生きられる命が複数あるなら、どうすべきかは明らかだ。こう言ったのは、生命倫理学者であり小児科医であるロバート・トゥルーグという人です。彼は、当時の講演で「75秒待つ必要すらない」と言い切っています。私はインターネットの動画でこの講演を見たのですが、トゥルーグは、我々はとっくに生きている人から採っているんだというくだりで、南アフリカで行われた心臓移植の第一例目の時、胸を開けると心臓が拍動していたので、移植医はビビッて採れなかったんだ、そこで彼は氷水をぶっかけて拍動を止めてから採ったんだと、ジョークのように話しました。そのとき会場から笑いが起きたのが私は忘れられません。

 この論理の先に見えてくるのは、先ほどの、臓器提供安楽死じゃないでしょうか。どうせ安楽死を決めた人なんだから、どうせ安楽死で死ぬ人なんだから、生きている内から麻酔をかけて臓器を採らせてもらったっていいじゃないか、と。これを本気で実現しようと考えている人たちが、今もう既にあちこちにいるんだろうかと思うと、ぞっとします。

 

 

29.10年前の分水嶺:「循環死」への名称変更

 10年前の市民講座でも「循環死」についてちょっと触れているのですが、このあたりに、やはり一つの境目があったんじゃないかという気がしています。

 この時に話した内容は、前の年にブログで拾ったWP(ワシントンポスト)の記事だったんですけどその記事のタイトルを文字通り訳すと、「物議をかもす臓器移植方法の変更が、不安を掻き立てている」。ただ、実際に提案されていたのは方法の変更ではなく、名前の変更です。議論にもthe name change、renamingという表現が使われており、名称を変更しようという話です。

 米国の臓器分配機関であるUNOSがこの名称変更を提案している、という記事だったのですが、これまではDonation after cardiac death, つまり心臓死後臓器提供と称されていた、このCのところをCirculatory に変更して、循環死後臓器提供と呼ぶことにしよう、という提案です。どちらも同じCなので、DCDという表記そのものは変わらないのと、今なお両方が併用されていて、文脈や人により、DCDという言葉でどの範囲が言われているのかが違い、ややこしい状況になっています。

 ともあれ、UNOSの名称変更の論理はどういうものか。記事からここが本質かな、と思う部分を四角に抜いてみました。「心臓が必ずしも「死んで」いなくても「死」を宣告できるとすれば、こっちの(名称の)方が正確。血流停止が脳死を引き起こすのだから」

 これに対しては、ロバート・ヴィーチをはじめ倫理学者から、死を構成するものは何か、という倫理的に難しい問題から目をそらせようとしている、その難題を名称変更で解決しようとするのは意図的な欺瞞にもなりうる、という批判が出ています。

 結局、UNOSが言っていることの本質とは、記事に引用されている「それら潜在的ドナーは(どうせ?)間違いなく死ぬ。すべての関係者がさらなる治療は無益だと合意しているのだから」のあたりじゃないか。                                                                         

 つまり、みんながこの人への積極的治療や生命維持は無益だから中止しようと合意している以上、この人は治療を引き上げられて、どうせ死ぬんだ、それなら、この人が死ぬ原因は治療の中止にあるのであって、この人は別に臓器提供によって死ぬことにはならない、と。

 でも、これって、医学的に死とは何かという、ヴィーチが言っている倫理問題とはまったく別の次元の話だと思う。ただ、みんなで死んでもらうことに決めた人なんだから、心臓はまだ死んでいなくても、もう死者として扱ってもいいんだ、と言っているだけなんじゃないのか。それって、さっきのデンバーこども病院の医師が言っていた、両親が蘇生しないと決めた以上、その子の心臓は死んだんだ、だから死んだことにしてもいいんだ、という、あれと同じなんじゃないか。つまるところ、医療現場に根深く潜んでいる「無益な治療」ならぬ、「無益な患者」論のホンネが剝き出しになっているという気がしてならない。(私は医療現場の隠れパーソン論だと言ってきたのですが)

 この名称変更の狙いは、ヴィ―チの言うように、それが本当に死なのかどうかという議論を避けながら、脳死からさらに死を前倒しすることの正当化だったんじゃないでしょうか。

 心臓死から死を前倒しにする時には、脳死概念を作って、脳死になったらどうせ心臓はいずれ止まると言った。今度は、まだ脳死に至っていない人に、循環死という概念を作って、血流が止まったらどうせいずれ脳死になる、といって、脳死よりもさらに死が前倒しにされていったんじゃないか。でも、脳死は何時間もかけて不可逆であることを確認するのに、循環死は数分間で不可逆を確認できるのか、という批判がこの時に出ています。

 

 

30.“Donation after circulatory deathA.R. Manara, et.al. British Journal of Anesthesia, 2012

 翌12年の英国のジャーナルの「循環死後臓器提供」というタイトルの論文によると、国際的には、5分間継続して血流と呼吸と意識がないことが確認されれば、死を診断してもよい、とされている、と書かれています。

 実はこの論文に、ちょっと違う視点から面白い情報があります。

 当時、このプロトコルの最先端は豪と英だった。対照的に、少ないのはスペイン。その一つの理由は、終末期医療のあり方の違いだと書かれている。英国では、「無益な治療」論による治療中止で死ぬ人がICUで死ぬ人の6割を占めている。一方カトリック国のスペインでは、生命維持の中止そのものが一般的ではない。それを受けて、ICUのベッド数そのものに、両国では大きな差があるという指摘がされています。

 

 

31.ところが現在は、スペインが最先端?(安楽死も2021年3月に合法化)                                 

 ところが、そのスペインが、驚いたことに10年の間にものすごい変貌を遂げる。今ではスペインが臓器移植のトップランナーだという。安楽死も、今年3月に合法化されました。

 ちょっと話が逸れますが、安楽死では、ポルトガルもスペインに先んじて法案を議会が通しました。カトリック教徒の大統領が抵抗して、まだ最終的に法律になっていませんが、他にも、オーストリアやイタリアで死の自己決定権を認めるような判決が出ていたり、アイルランドでも合法化が議論されていたりと、このところカトリック国が軒並み、安楽死の合法化に向けて動き始めているのが、不気味です。

 そういうこともあって、この夏に刊行された現代書館の『〈反延命主義〉の時代―安楽死・透析中止・トリアージ』では、小松美彦先生からスペインの安楽死のことを調べて書いてほしいというお話があり、安楽死法案の周辺を調べてみたんですけど、もともと私はスペインの政治や社会について知らないので、結局、なぜ、10年前には生命維持の中止も一般的でなかったというほどのカトリックの国が、10年でこんなに変わったのかは、よくわかりませんでした。

 実は、スペインが移植医療でトップランナーになっているという情報も、安楽死を調べている時に芋づる式に出てきたものなのですが、この10年間でスペインの移植件数の伸びがあまりに目覚ましいので、そのやり方が「スペイン・モデル」と称されているというんですね。

 今回調べた範囲で、そのモデルの要点を書きだしてみたのですが、(図31)上の青字の3つは、全体的な臓器獲得体制。いろんな職種にガンガン研修を受けさせて、病院ごとにチームを配置。その下の三つは、循環死ドナーの獲得に焦点化して打っている手。しかも、ICUで、無益論の対象になりそうな患者を潜在的ドナーに特定している。これ、実は11年に循環死への名称変更を提言した際に、米国のUNOSも言っていたことなんです。その時には、脊損や筋ジス、ALSの人たちを潜在的ドナーに特定しよう、と疾患名まで上がっていた。

 そういう患者の家族には、早期からこういう選択肢がありますよ、と情報提供しておく、そして緩和ケアへの切り替えとなった段階で即、提供意思を確認する。提供意思があれば、臓器の保存へと医療行為を切り替えていく。

 さっきもお話したように、倫理上のセーフガードとして、治療中止と臓器提供とは独立の意思決定ですよ、順番も中止が先ですよ、といわれていますが、実際には患者サイドの意思決定よりはるか先から、ICUやERでこの人とこの人は潜在的ドナーだとツバつけられていく。臓器移植推進の研修を受けた専門職があちこちに配置されて、そういう人たちは、自分たちがやっていることを、患者に臓器を提供する権利をきちんと行使してもらうための「家族への情報提供」だとか「意思決定支援」だと考えているわけですから、そんなふうに臓器提供へといざなうネットワークが張り巡らされているなら、意思決定のセーフガードにまだ意味があるんだろうか。

 コロナ禍でも、皆さんもご存じかもしれませんが、スペインは第1波で医療が逼迫した際に、高齢者と障害者を露骨に切り捨てました。マドリッドでは行政から、そういうあからさまな通達が個々の医療機関に対して出ていたことが判明して、スキャンダルになりました。これについては、「地域医療ジャーナル」というWebマガジンに記事を書いていますので、よろしければ。

 

 

32.米国の最近の動き

 で、米国の現在。ちょうどこのパワポを作っている時に守田さんから頂いた情報で、10月6日に米国の臓器調達組織学会AOPOが、26年までに移植年間5万件という目標を打ち出して、キャンペーンを始めている。

 内容をざっと読んで、スペイン・モデルがこれから国際標準になっていくな、と思いました。さらに臓器保存技術、医療機関の情報共有、臓器のマッチングと配送の技術の革新などなど。ちょっと息を飲むばかりの意気込みです。

 詳細は、いずれ守田さんが紹介されるかと思いますが、私が気になったのは、キャンペーンの文書の5ページにある「健康格差の削減」という見出しの内容。communities of color、いわゆるエスニック・マイノリティですね。その人たちと白人の間には臓器提供と臓器移植における格差がある、それは前者の人たちが平等な医療を保障されていないことに起因している、我々はこれらの人々に平等な医療を保障できるよう努めます、と書かれている。

 が、その後で具体的に策が挙げられているかというと、結局、AOPO内部に多様性を広げますといった内容が中心で、後ろに行くほど、結局はマイノリティからの提供を増やすための努力なのね、と思わせられる内容になっています。

 この項目を読んで、私はものすごく苦々しい思いになりました。ここに書かれていること、今日本で進行している、知的障害者等からの臓器提供を認めることにしようという方向の議論とがそっくり重なってくる。

 黒人などのエスニック・マイノリティと同じように、知的障害のある人たちは、おそらくはどこの国でも、日ごろから医療現場で差別されてきた。冷たい扱いを受け、障害についての知識も理解もなく、個々のニーズに応じた配慮もないまま、できれば引き受けたくない迷惑な患者とみなされて、適切な医療を受ける権利を奪われてきました。

 今コロナ禍でも、それが露骨になってきています。こちらのメンバーの古賀典夫さんが、Web論座のインタビューで詳細に語ってくださっていますが、まったくあそこで語られている通り、コロナ禍で障害者と高齢者の命はあからさまに切り捨てられています。

 私も、個人的にいろんな話を耳にしていますが、ある人から聞いて、ものすごく悲しかったのは、重度の子が熱を出したからお母さんが発熱外来に電話をしたら、電話の向こうで、医師が「このくそ忙しい時に、障害児なんか見ていられるか」と怒鳴るのが聞こえてきた、という話。これを聞いた時に、私は医療のホンネを聞いた、世の中のホンネを聞いたな、と思いました。

 そんなことが起こっている時に、厚労省が、まるでコロナのどさくさにまぎれるかのように、知的障害のある人たちから臓器を採れるようにしようと議論を進めている。憤りしかない。

 

 

33.コロナ禍での知的障害者の医療体験メンキャップ報告書

 英国では、知的障害者のアドボケイト団体メンキャップから報告書が出ていて、知的障害のある人がコロナで死ぬ確率は一般の3~4倍。属性の絞り方によっては6倍に上るとされています。

 こういうデータを日本の医師も知っておられるようなのですが、どうもツイッターなどで垣間見たところでは、知的障害を死亡リスクと捉えられるんですね。それは違います。医療現場に、個々の障害に対する理解や配慮があれば、死ぬ必要がない人たちが、それらがないために死んで来たんです。そちらも英国はデータを出しています。

 英国ではパンデミックにおける知的障害のある人の医療についてのガイドラインも出ており、患者のニーズに応じた配慮の必要も説かれていますが、日本では、ガイドラインどころか、障害のある人のことはむしろ語られなくなってしまった気がします。

*このスライドの箇所で「英国ではパンデミックにおける知的障害のある人の医療についてのガイドラインが出ている」と述べましたが、英国保健省やどこかの医学会からそうしたガイドラインが出ているという事実はありません。英国で2015年から毎年関連データを取りまとめて発表してきた知的障害者死亡調査プログラムが、コロナ禍での知的障害者の死亡率の高さについて報告書を出しており、その中で医療現場の改善点を提言しています。メンキャップの報告書がその提言に触れたくだりをガイドラインと読み誤っておりました。お詫びして訂正いたします。(児玉) 

 

 

34.知的障害者のコロナ死回避に必要な「合理的配慮」

 メンキャップは、病院と地域で働く知的障害看護師へのアンケート調査を行っており、その報告書で、必要な合理的配慮として、①専門的な知的障害サービスの提供、②個々のニーズに応じたケアの提供、③本人をよく知っている人から支援を受けられることの保証の3点を挙げています。

 日ごろの医療現場の状況が異なっている日本で、専門的な知的障害サービスや個々のニーズに応じたケア提供を求めても、すぐには到底無理という気がしますが、3点目の、本人をよく知っている人から支援を受けられることの保障は、日本でも可能ではないでしょうか。

 メンキャップは、知的障害のある人への付き添いは、命に係わるほど重要な合理的配慮である、と書いています。こうした合理的配慮があれば、死ななくて済む。知的障害そのものがコロナの死亡リスクではありません。医療現場に障害に対する知識や理解がないこと、そのために合理的配慮がされないことが、死亡リスクなんです。

 それを考えると、日本の知的障害者がコロナで死亡する確率は英国よりもはるかに高いのかもしれません。誰か、きちんと調査してくださらないでしょうか。

 

 

35.日本ケアラー連盟のフォーラムで語られた気がかりな事例

 ケアラー連盟が3月に行ったフォーラムで語られた事例です。母親ケアラーからの発表で、この方のお子さんではないのですが、重度知的障害のある人が持病で入院して、一人ではコミュニケーションが取れないのに付き添いも面会も認められなかったので、みんなで心配していたら、急変して亡くなってしまった。

 また、それとは別に、食事介助が難しい、いわゆる重心の人が持病で入院した際、付き添いが認められず1週間食べられなかったので、退院させるしかなかった、という事例など、私も身近で聞いています。

 知的障害のある人が日ごろから医療現場の理解不足と偏見によって適切な治療を受けられず、時に命すら落としているという問題を、私は「迷惑な患者」問題と呼んで、英国の動向を中心にさまざま書いてきましたが、まさにコロナ禍で、その問題があぶりだされていると思います。

 こんなふうに、知的障害のある人たちは適切な医療を受ける権利をこれまでも奪われてきたし、コロナ禍でもさらに医療から疎外されています。そんなときに、臓器を提供する権利だけを言われても、それならまず、医療現場で必要な合理的配慮を受けられて、適切な医療を受けられる権利を保障するのが先だろうと、思います。

 

 

36.さいごに

 限られた時間でお話しきれないこともいっぱいありますが、言い足りなかったこと、特に最近の世の中の動きについて言いたいことは、今年の夏に出た小松美彦先生、市野川容孝先生、堀江宗正先生の企画による『〈反延命〉主義の時代――安楽死・透析中止・トリアージ』と、10月に出たばかりの『見捨てられる〈いのち〉を考える――京都ALS殺人事件と人工呼吸器トリアージから』に、書いておりますので、よろしければ読んでいただければと思います。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

質  疑

 

川見)ありがとうございました。とても密度が濃くてもびっくりする話もたくさんあるし、怖いなあ、どうなっていくんだろうと思いながら聞かせていただきました。安楽死から治療中止そして臓器移植の具体的な事例をたくさん出していただいてお話ししてくださいましたが、まずは質問から受けたいと思います。

 

守田)質問ではありませんが、児玉さんがパワーポイント資料で“転換点としてのカナダの合法化(2016) 文言の変化 (緩和ケアの一旦として位置づけ) medical assistance/aid in dying(MAID)”と書かれていた部分に関連して情報提供をさせていただきます。医学書院から2020年に「救急・集中治療領域における緩和ケア」という単行本が出版されています。伊藤 香(帝京大学医学部救急医学講座講師)が書いた第6章“生命維持治療の中止とその後に行うべき緩和ケア”では、人工呼吸を中止する実際(準備、抜管時のマネジメント、症状コントロールに用いる鎮痛剤ほかの投与量)を詳しく書き、自施設で70代男性の遷延性意識障害患者の人工呼吸を終了しモルヒネを持続点滴しながら17時間後に死亡したことも紹介している。筆者は章末で以下を書いています。「日本では、未だに生命維持中止に関する医療者側の抵抗が強い。しかしながら、もし、真に患者中心の医療を行おうとするならば、医療者はその選択を受け入れ、そのための適切な治療を提供できなければならないだろう。筆者は生命維持中止後の緩和ケアに関する指針が必要であると考える。それがなければいくら『法的に問題がない』と言われても、生命維持装置中止に踏み切れるハードルは高いままだろう」と書かれています。

 ここから私が思ったことは、 日本でも昔から「終末期の持続的鎮静と安楽死はどうちがうんだ」と言われています。「救急・集中治療領域における緩和ケア」という入り方で、安楽死の実質的導入・拡大があると思いました。

 

児玉)それは生命維持の中止の話なので、むしろ無益な治療の方ですね。つまり消極的安楽死の話なので、カナダの合法化によって緩和ケアに位置付けられた、と私がお話ししたのは積極的な安楽死の方で、毒物を医師が投与して直接的に死なせる行為を行う積極的な安楽死が緩和ケアに位置付けられたということの意味合いと、生命維持を中止するのとは、議論の流れとしては別立てになるかなと思いましたが、守田さんがおっしゃる通り持続的鎮静と安楽死の違いという視点からはつながりもあり、とても興味深いので私自身、資料をいただければなと思います。

 

古賀)先に児玉さんから、今の厚労省の議論には被虐待児からの臓器提供までは含まれていないという指摘があったのでスライドから外したという話がありましたが、厚労省は被虐待児関係の条文(付帯決議)を外そうとしているようなので、やっぱり虐待児からの臓器摘出を進めようとしていると思われます。

 児玉さんの全体の話を聞きながら、本当にこの状況はどうしようかなとずっと思っていて、大きく言うと結局その市場を中心とした社会システムを肯定していると、結局はどれだけ市場価値があるか、社会に貢献したかという観点で人間を考えていく習慣が作られていくし、そこの中では支配している側からは価値がないとする人を切ろうとする側になるだろうし、支配されている側の中では、そこに支配的な価値観に自分が位置づかないと思うと希死念慮というか、東大の堀江さんなどがおっしゃっていられる方に行ってしまうような気がするんです。結局、根本的にはそういう価値観にとって作られていく社会じゃなくて、一人ひとりに向き合う人間関係を作り出せる社会にしないともどうにもなんないよねって言う、一番根底的ながら漠然としたことを考えていました。

 ということとともに具体的に言うと私たちがやってきた公立福生病院事件のような、ああいう個別の事件でのああいうやり方は許さないという方法、それからそれを推進していく人たちへの批判とそれを具体的にやっていくしかないんでしょうけど、本当に児玉さんから語られたこの滔々たる流れをどうしていったらいいのかなと考えながら聞いていました。

 

竹田)障害者を脳死移植に使おうなんて言ってる、とんでもない人権無視なことを厚労省で話し合ってるらしいんだけども、何でそんなことになるんだい。人間を大事にしなきゃいけないのに。厚生労働省っていうとこは本当は人権無視だからね。あの戦前の731部隊から来てる人ばっかり集まったから、そこから来てるのはわかってるからさ。なんで厚生労働省がそういう話し合いする場になっていくのか。

 

古賀)厚生労働省が明確に人の死を早める方向に転換していったのは、98年の臓器移植法もあるんですけども、とりわけ今世紀に入ってからと思われます。もともと元厚生労働省の医系技官として入って局長も務めた人が日本尊厳死協会の理事長に転身するということもありました。命を切る側に進んできている。典型的にはコロナ禍での問題としてですね、医系技官のトップに立ってきた人が、コロナ対策をやってきた人が「今後の感染対策はどうするんですか」と問われた時に「とにかく誰を助けるのかをはっきりさせるべきだと、どのような生産性があるのかないのかとか、男なのか女なのか、そういうふうに誰を助けるのか、みんなを助けるなんてことじゃなくて誰を助けるのかって発言してるんですが、そういう価値観に、特に医系技官が中心という感じがしてますが、厚労省がなっているんじゃないでしょうか。そういうところの医系技官の中でしばらく生活した人があの大久保という人です。京都のALSの方を殺害したという構図だと思いますね。そういう価値観が厚労省の中に非常に強く支配的に広がっているんじゃないかと思われます。

 

原)パーソン論という言葉が出てきましたが、簡単に説明していただきたい。それと、キリスト教圏ではそっちが主流だとは思うんですが、アジアの場合にはすんなり受け入れられにくいのではという気がします。日本の場合は家族というファクターが大きい、その危かしさもありますが、家族が決めればいいという面もあります。医療福祉の財政が厳しいという話が原動力としてあり、世論を動かす意味では大きいかなとも思っています。
【パーソン論について】
 生命倫理学でパーソン論という意見があります。要は人間の判断能力とか理性(感情は入るかどうか微妙ですが)、がない者は簡単に言うと人間と見なさなくても良いという考え方ですね。一番分かりやすいのは無脳児、胎児(まだ生まれていない)とか。もちろん障害とか高齢の場合でもそういう理性、判断能力がない者は人間じゃない、だから生命維持とかしなくてもいいし命を絶っても構わないんだと、人の命を奪うことあるいは打ち切ることの論拠にしている考え方だと思います。恐らく私の理解ではキリスト教圏では人間と動物を区別する考え方があると思います。日本でそう言われてすぐ受け入れられるかどうかと思うのですが。

 

児玉)私もそこが臓器移植とも重なるなと思うんですけど、日本の文化で平仮名の「いのち」ですよね。さっき最後のスライドで紹介した最近刊のタイトル『見捨てられる〈いのち〉を考える』も平仮名の「いのち」なんですけど、平仮名の「いのち」と捉える我々の感覚からすると、臓器を単なるモノと捉えることはとても難しいような感性がやっぱりあるのかなというような感じはしています。ただ世代が移るに連れて、パーソン論についても臓器を有効活用するべきモノと捉えられるかどうかっていうところが少しずつ変わってくるのかなというような気もしないでもないんですけど、私は自分の世代で考えた時にはちょっとなかなか簡単には受け入れられないところがあるんじゃないかなと考えたりします。

 また、原さんが家族が大きな要因だということを言ってくださったので、ついでにちょっと言わせていただくと、私は日本で安楽死を合法化することの危険性のひとつとして、家族の関係性が非常に密接であるということを思っています。それは両面あると思うんですけど、家族が良い形で転べばいいんですけど、密接な家族は息苦しいというところもありますし、家族関係が日本では非常に密だという事が一つリスクになるような気がします。

 もう一つは日本の障害者福祉が全く家族依存を前提にしていて、家族の密接な関係の中に介護負担だとか財産の問題が当然入ってきた時に、家族関係というのは決してきれいなものだけではない。そういうふうに考えた時に、やはり家族の問題というのは難しい。家族介護それからジェンダーの問題が潜んでいるということも、この最近刊の中に同時に書いているところです。

 

川見)チャットに「こうした命の線引きには、功利主義的な思想史がどの程度関わっていると思われますか。功利主義的な思想史自体よりもむしろ生命倫理分野の特性なのでしょうか」という質問がきています。ご自身で質問願います。

 

對島)對島です。ケアのニーズを把握する、もしくはその命に関わるようなニーズを扱うとなった時に、この功利主義的な思想史は、(もちろんいろんな功利主義の理論家たちがいて、昔の功利主義だった社会のためにある程度の犠牲は、みたいな感じで公衆衛生と結びつくと言ってる人もいると思いますが)、途中から権利の議論が入ってきて、むしろ個人の権利とかニーズを犠牲にしないような形で言われたりもして、私は功利主義的なニーズの捉え方が、社会の方から飲み込まれてしまうようなニーズ把握になってしまうのかなと思っています。今日の議論で功利主義的な考え方がどの程度関わってるのか伺いたいのですが。

 

児玉)私は功利主義の思想史には全く素人ですから、発言しにくいんですけど、功利主義的な考え方っていうのが先ほども原さんがおっしゃったような形で、もう根っこに続いているんだろうと思います。功利主義がこの中にどういう風に関わっている、みたいな複雑な話をここでできるほどの能力も知識もありませんが、功利主義でよく名前が挙がるシンガーとかサブレスキューにも触れながら本には書いておりますので、できれば読んでいただければ私がどういう風に考えているかは分かっていただけるかなとは思います。ただ私は専門的な知識があるわけではないのでむしろ教えていただければと思います。

 

對島)ちなみにどの本を特に読み始めたらいいでしょうか。

 

児玉)『死の自己決定権のゆくえ』とか『アシュリー事件』あたりかなと思います。

 

對島)ありがとうございます。

 

神野)最近、動物の臓器を脳死の方に入れたという、すごくショックな事件がありました。これは、科学者・技術者の倫理が問われると思うんですけど、子どもの時からの教育がこういう科学者・技術者を生んでいるんじゃないかと思うんです。畏敬の念が無くなったんじゃないかと危機感を感じています。科学者・技術者倫理をどうしたらいいのか、というのが課題ですよね。

 

児玉)神野さんは先程、最後にご紹介した『見捨てられる〈いのち〉を考える』、10月末に出た本なんですけど、あの本の仕掛け人の方です。去年の12月にあの京都のALSの事件を受けて、3回に分けて Web でセミナーを企画して下さったんですね。神野さんの企画にお招きいただいて私が3回目を話して3回分の内容があの書籍にまとめられた、あの本の仕掛け人の方です。私も本当におっしゃる通りだと思っていて、医学教育とか科学の領域で働く人たちのそもそもの教育があまりにも狭いと思うんですよね。医学的な知識だけじゃなくって、もうちょっと広く知見を広めてもらう、もっと問題を深く考えてみるとか、臓器とか病気とかじゃなくて人間について深く考えるような能力を涵養してもらう教育が必要だなということをすごく感じています。

 

川見)急速な変化はゲノム編集技術が出てきてからでしょうか。動物集合胚、臓器移植でも動物の中で人間の臓器を作るという研究も進んでいます。「助けたい」ということから始まったはずなんですが「殺す」ことの方が主流になっているのではと感じてしまいますね。

 

竹田)臓器移植は一人死ななきゃいけないから動物の臓器を使うんだとか、IPS 細胞を使って動物の中で臓器に育ててそれを人間に使うとかって話なんだけど、それどうなってるんですか。

 

神野)動物集合胚は、豚に豚の組織が作れないようにして、そこにネズミとかマウスの臓器を作る、そういう研究のようですけど、サルとかの霊長類はできないそうです、今のところ。でも中国でこの前やっちゃったんですね。今回のニュースはそれではなくて、ブタの臓器を人間につないだんですよ。それも脳死の方を実験材料にした。その方は57時間後に亡くなった。脳死の方を使うのも怖いですよね。前には子宮移植も出ていました。どんどん進んでいく感じで科学者・技術者の生命倫理意識が欠けてきていると思います。そこを何とかしなければ、皆さんと考えていかなければいけない問題だと思います。

 

竹田)生命倫理を考えた上でやって欲しいよね。

 

神野)今の科学者は、生命倫理はやるために言っている、決してモラトリアムのためじゃないと思います。

 

竹田)もし豚の臓器を人間に移植できるようになって、人間の臓器を使わないで移植する技術がもしできたらどうなるんですか。

 

神野)臓器移植のために畜産業するというものを考えているようです。ゲノム検討会議のホームページに、動物性集合胚の勉強会の要約を載せてますのでご覧ください。

 

川見)突然お願いして申し訳ないんですが、西村理佐さんいらっしゃいますか。来年、帆花(ほのか)ちゃんの映画の劇場上映が始まるということで、そのお知らせも含めて一言を頂けないでしょうか。

 

西村)うちの娘はここに今、横になっていますけれども、生まれた時に「脳波がフラットで脳死の状態に近い」と言われて、川見さんの団体に呼んでいただいてお話させていただいた事があったんですが、その講演に私の話を聞きに来てくれてた映画学校の学生さんだった人が3年間、うちでカメラを回してうちの生活について撮ったフィルムが今回、劇場公開されます。来年1月2日、ポレポレ東中野というドキュメンタリー専門の映画館を皮切りに、その後いろんな所で公開になると思います。特に何かを訴えるとか問題を提起するというような映画ではなくて、先ほど児玉さんがおっしゃっていましたけれども平仮名の「いのち」というものについて静かに考えていただくような、ただのうちの生活の映画となっていますが、よろしければ皆さんご覧になってください。

 

川見)「生まれてきてくれて、ありがとう 帆花」という映画ですね。監督が國友勇吾さん。帆花ちゃんは何歳になりましたか。

 

西村)中学2年生、14歳ですね。(西村さんにカメラを動かしてもらって、帆花ちゃんが大きく成長した様子を見せてくれました)

 

川見)出産時のトラブルで仮死状態で生まれ脳死に近い状態と診断されたということでしたね。西村さんには2011年の院内集会でお話ししていただきました。改悪された臓器移植法が施行されるときの抗議の記者会見にも来ていただいて帆花ちゃんのことを話していただきました。皆さんどうぞ映画をご覧になってください。

 

打出)僕は今、金城大学で医療者の PT、OTそして看護師さんの学生さんを教えてるんですけど、講義の時に脳死とか臓器移植とかのテーマも話しています。最初は臓器移植を肯定的にとらえるんですけど、例えば生きるために心臓を手術で入れる、それは心臓移植その前提には脳死があるんですけど、でも「生きるために人間の心臓を手術で入れるんじゃなしに食べる、人間の心臓を口から食べる、それで自分の命が生きながらえるっていうことがあったとしたら、そういうことってみんなどう?する?」って学生に聞くと、急に場がざわざわしてきます。臓器移植とか脳死とかっていうとものすごくきれいな言葉でまとめられているものの実態は、まあそんなもんじゃないかなってことを学生に伝えるようにしています。

 

川見)先ほど大塚さんが紹介してくれた冊子“「脳死」って本当に死んでるの?「臓器移植推進」って本当にだいじょうぶ?”を市民ネットワークで作成しました。

 臓器移植法改定法が施行されて10年が経ち、移植推進の動きが活発になっています。知的障害者からの臓器提供は、「改定法の国会審議で拒否の意思表示を確認できない」とされ、現在は禁止になっています。しかし「15歳未満の小児と同じ家族承諾で」とか「知的障害者の中にも意思表示ができる者がいる」という主張がだされ、臓器提供を可能にしようと審議されています。「知的障害者からの臓器提供を禁止するのは逆差別だ」と言う意見も出ています。

 また被虐待児からも今のところは「虐待された子供からの臓器提供は禁止」という臓器移植法の付帯決議があるので、出来ません。しかし「被虐待児マニュアル」を改訂して要件を緩和する、医者が悩まないで提供へと進められるようにマニュアルを変える。要件を緩和をした「虐待児マニュアル」の改訂で提供者の拡大が検討されているのです。ゆくゆくは法律の付帯決議をなくす方向に議論が進むのではないかと私達は考えています。

 また、心停止後臓器摘出の拡大も進められています。心停止から5分後にエクモ(人工心肺)を装着し体外循環させ心臓が生きている形(血流がある状態)で腎臓以外の臓器も摘出するなどの意見が出されています。

 臓器移植の推進・対象拡大のための改訂作業が進められ、2021年12月までに案をまとめると厚労省は発表しています。私たちも冊子を作って議員周りをして訴えていきたいと考えているので、今後の活動もご注目ください。

 

 児玉さん本日は本当にありがとうございました。お話を聞いてすごく怖い思いがしました。「死ぬ権利」の主張が、命が切り捨て、医療が人を殺すことをよしとしていく。価値のない人間のいのちを切り捨てることが法律で認められ、坂道を転がるように要件が緩和されて広がっていく。そういったことがどういう流れで進められているのか、非常によくわかりました。

 ありがとうございました。

 

 


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第16回市民講座の報告(2020年9月26日) 2-1 「いのちが軽くなる」ということ 生命操作と「死」の選択をめぐって

2021-03-02 19:26:07 | 集会・学習会の報告

臓器移植法を問い直す市民ネットワーク 第16回市民講座講演録 2-1

日時:2020年9月26日(土) オンライン開催

 

「いのちが軽くなる」ということ

生命操作と「死」の選択をめぐって

 

講師 安藤泰至さん(あんどう やすのり 鳥取大学医学部准教授 宗教学/死生学)

 

 

講演概要(講師より):7月末、ALSを患う女性の求めによる嘱託殺人容疑で医師二人が逮捕された事件が報じられ、昨年安楽死についての小著を出した私も、さまざまなところでコメントを求められました。8月初めには、私も議論と執筆に加わった日本学術会議の提言「人の生殖にゲノム編集技術を用いることの倫理的正当性について」が発出されました。コロナ禍のなかでの二つの出来事は一見関係がないように見えますが、そこに「いのちの選別」や「優生思想」という補助線を引いてみることで、たちまちそのつながりが見えてきます。「生命操作」という言葉は、どちらかというと先端技術による出産・誕生をめぐる人為的介入を連想させますが、私は現代医療における生命操作のシステムでは、一見正反対に見える「死なせないベクトル(不死へのベクトル)」と「死なせるベクトル」が一体となっていると考えています。安楽死や尊厳死、そして脳死臓器移植をめぐる「よい死」の物語もまた、こうした生命操作システムの一部です。この講演では、社会に張り巡らされたこのシステムの網の目が、私たちが本当の意味で「いのち」に向き合うことを妨げていることについて、みなさんと共に考えたいと思います。

 

はじめに
京都のALS女性嘱託殺人事件をめぐって
 安藤です。こんにちは。この事件が起きたのは、つまりALS患者の林優里さんという女性が亡くなられたのは2019年の11月でしたが、7月23日にその第一報を聞いたとき、「ついにこういうことが起こったか・・・」と思いました。たまたま私は、その10日くらい前にNHK大阪の記者から、ALS患者のサポートについての番組を企画しているとのことで、取材を受けていました。その関係で当日朝、電話があり、事件についてZoomでのインタビュー依頼を受けました。その映像がNHKの夜9時のニュースで流れたために、それからどっと新聞各社から取材がきました。当初、私が恐れたのは、これがきっかけとなって一気に安楽死合法化への議論に進むのではないかということでした。実際、事件直後に一部の維新の政治家がツイッターで「すぐに国会で議論すべきだ」と発言したりしたのですが、概してマスコミの反応は慎重で、ALSの当事者の方たちも新聞等に登場し、今のところすぐにそういう方向に行くという気配はないようです。しかし、インターネットの掲示板やSNSを見ると、「生きる権利があるのに、なぜ死ぬ権利はないのか」などと書いている人が多く、そういう反応を見ていると、非常に怖いと思いますし、いのちが軽くなっているな、と実感します。

 

オウム真理教事件13人の死刑囚の死刑執行(2018年7月6日、26日)
 話は違いますが、「いのちが軽くなっている」という現実におののいてしまったのが、この時の報道でした。オウム真理教事件は私が30代半ばの時でしたが、幹部の多くが私と同年代で、私が宗教学の専門ということもあって、「下手したらあの中に自分もいたかもしれない」という思いが消えず、ずっと関心をもち続けてきました。2018年、麻原彰晃ら6名が最初に処刑され、その後7名が処刑されましたが、その様子がテレビのワイドショーでまるで公開処刑のように放送されているのがなんとも気持ち悪く、「こんな時代になっているんだ・・・」と感じました。

 

いのちが軽くなる/言葉が軽くなる
 私は、「いのちが軽くなる」ということと「言葉が軽くなる」ということとは連動していると思っています。私は35才の時に、米子工業高専から今の鳥取大学医学部に転勤してきました。医学や医療は人間相手の仕事だから、工業高専のようにモノを作るところより話が通じるのではないかと思っていたのですが、実際に勤めてみると、それはまったくの幻想だったということがわかりました。医学・医療の世界では、言葉というのがなんとぞんざいに扱われているのか(!)とビックリしました。私は、言葉に対する関心や繊細さと人間についての関心や繊細さとは正比例すると考えていたので、医学・医療の世界にいる人たちの多くは実は人間に関心がないのだと知って、非常にショックを受けたわけです。そういう医師や医学研究者が人間の生命を扱っていることについて、とても気味悪く感じました。安楽死の問題も、いくら個人の自己決定と言っても、その決定の基盤になる情報を提供するのは医師ですし、最終的に致死薬を注射したり処方したりするのも医師です。そういう、人間に関心を持っていない医師たちにある意味で自分のいのちを預けてしまうことになる気味悪さについて、わかっている人は少ないのではないでしょうか。

 

 

1、「生命操作」について
 さて、本日は「生命操作」ということについてお話ししたいと思います。このテーマについては4年ほど前からいろいろ書いてきたのですが、学術会議叢書の『〈いのち〉はいかに語りうるか?』(2018年)に収められている私の論考「生命操作システムのなかの〈いのち〉」や、角川から出した共著『宗教と生命』(2018年)などがあります。「生命操作」とは、基本的には、進展する医療技術や生命科学技術による人の生命や身体への介入に対する批判的立場から使われる言葉だと思います。

 

いのちの始まりをめぐる生命操作といのちの終わりをめぐる生命操作
 さて、「生命操作」についての私のとらえ方の特徴としては、いのちの始まりをめぐる生命操作といのちの終わりをめぐる生命操作は相似形になっているということ、その両方を同時に見るということがあると思います。通常、「生命操作」という言葉は生殖補助技術や出生前診断、着床前診断、遺伝子操作など、いのちの始まりや出産をめぐる操作的介入について使われることが多いのですが、こういうものと、脳死臓器移植や安楽死・尊厳死など、いのちの終わりをめぐる操作的介入は相似形になっていて、その両方を「生命操作」ととらえることで初めて見えてくるものがあると感じています。人がこの世に生まれてくるときにどのように迎え入れるかということと、人が亡くなるときにその人にどのように接するかといくことは、結局はいま生きている人間がどういう社会を作り、どういう人と「共に生きる」かということなので、基本的に同じことであるはずなんですね。現代の社会では、そうした人が生まれるところ、死ぬところの全体が「生命操作システム」というものに絡め取られている、と私は考えています。「生命操作」というのは個々の技術というだけでなくて、一つの大きなシステムになっている。誰かがそのシステム作っているわけではないけれども、あたかも自動的にシステムが動いているかのように世の中が進み、そこに私たちが自覚しないまま絡め取られてしまっているように思います。

 

「生命操作」と聞くとなぜ気持ち悪いのか?
 そのように私たちが生命操作のシステムに絡め取られてしまっているという事態を批判的にとらえているからといって、私は何も「生命操作は(すべて)いけない」とか「生命操作だからやってはいけない」と考えているわけではありません。ただ、「生命操作」という言葉を聞くと、一般的には「どこか気持ち悪い」というイメージを抱くのではないでしょうか。その「気持ち悪さ」は一体どこからくるのか、ということです。むかし、写真という技術が初めて出てきたときに、多くの人は写真に写るのを気持ち悪がったと言われています。なぜ気持ち悪かったのでしょうか? 普通、人というのは一瞬たりとも完全に静止はしていません。じっとしているような時でも、目とか口とかは動いていますよね。そういう「常に動いているもの」が写真という形で二次元上の平面に固定されて出てきたときに、そのことが気持ち悪かったのではないかと思います(今では画像を編集できたりもするわけですが)。当時の人は写真に写ると魂が抜けてしまうとか言って、写ろうとしなかったそうです。生命というものは常に動いているものなのに、それを切り取って静止した形にすることで、なにか生命のエキスのようなものが抜けてしまう。それは、今日の私たちが「生命操作」という言葉を聞いて感じる「気持ち悪さ」の本質に近いものではないかと思います。

 

「人が生きる」ということの四つの次元
 生命操作という問題を考えるにあたって、日本語というものはある意味で便利です。たとえば英語だと、「生きる」という動詞liveの名詞形は一つ(life)しかありませんが、日本語では「生命」「生活」「人生」「いのち」という少なくとも四つの語があり、日常語のなかである程度使い分けられています。たとえば「生命の危機」と「生活の危機」と「人生の危機」という三つの言葉では、人はそれぞれ違うものを思い浮かべるのではないでしょうか。また、「命」という語は「生命」と同じ意味で使われることもありますが、特に「いのち」とひらがなで書くと、「生命」とも「生活」や「人生」とも違う、それらを全部含んだような独自の語感が出てくるように思います。
 「生命操作」とは、科学によって対象化され要素に分解された「生命」が技術的な操作の対象となることですが、そこに生身の人間の「生活」や「人生」が巻き込まれてしまうことで、私たちが「技術を使っている」つもりで「技術に使われる」ような事態が生じること、技術の進展によって新しい可能性が開けたように見えて、実は私たちが自分自身の生の主体になれないようなそういう事態が起こってくること、これが生命操作が引き起こす本質的な問題なのではないかと。私が「いのち」と呼んでいるのは、現実に生きている私たちの生の経験そのもののことなのですが、そうした「いのち」へのまなざしが削がれていっているということです。

 

生命操作における「要素」への分解・還元
 生命操作では、人間の生の営みというのが単純な要素の組み合わせに還元されることによって、それが「操作」の対象になります。たとえばいわゆる「不妊治療」として推進されていっている生殖補助技術では、子どもを作る(生殖)という営みが精子と卵子と産む女性の組み合わせに還元されます。生殖がそうした要素の操作になることで、不妊の人たち(特に女性)の「生活」や「人生」がそこに大きく巻き込まれます。また、精子や卵子の提供、代理出産のように、夫婦以外の第三者(ドナー)も入れてこうした技術が使われると、生まれてくる子どもの人生もまた(たとえば遺伝上の親が違うというような形で)大きく左右されることになります。
 出生前診断で異常が見つかったときに、よく「胎児に障害がある」という言い方がされますが、この言い方はおかしいということを、ある時、友人の医師に教えられました(それまでは私もそのことを意識せずにこの言い方を使っていたのですが、それ以後は使わなくなりました)。障害というのは人と人の間で、社会のなかで生じるものです。胎児は社会生活をしているわけではありませんから、たとえばダウン症のように21番目の染色体が3本あっても、あるいは足が一本欠けていようが、生まれてくるまではそれは「障害」ではないわけです。本来、生活のなかで、人と人の交わりのなかで現れてくる「障害」というものが、なにか胎児という個体に内在しているもののようにイメージされている、ということが大きな問題なのではないでしょうか。
 さらに、問題が生の特定の要素に還元され、それが技術的操作の対象になることによって、異なった人の人生がドッキングされてしまうような事態を生み出すのが脳死臓器移植です。「脳死」になったと言われる人と移植を必要としていると言われる人はまったく別の人なわけですが、その両者の「生」「いのち」がドッキングされる。前者の死が早められ、移植がうまく行くようにその最期の時が管理され、ドナーの家族も含めて、そのシステムのなかに巻き込まれてしまうのです。臓器をもらう側の人もまた、「移植によってしか助からない」と言われたときにこのシステムのなかに巻き込まれてしまいます。生きるためには誰かが「脳死」にならなければならない、あるいは自分より待機リストの上位にいる人が一人でも多く死んでくれなければいけない、そのように自分が生き延びるためには他人の死を待たなければいけないという苦しい状況に入れられてしまうのです。そしてドナーやその家族と、レシピエントの両方の生の経験が、「いのちの贈り物」とか「いのちのリレー」といった紋切り型の物語によって美化されていきます。ドナーの側もレシピエントの側もこうした生命操作に巻き込まれる「弱者」なわけですが、レシピエントの弱者性は見えやすいのに対し、ドナーの側のそれは圧倒的に見えにくいのです。

 

生命操作の進む方向
 4年前に亡くなられた科学哲学者の金森 修先生が『遺伝子改造』という本の中で、生命操作というのは次のような三段階で進んでいくものだと言われています。第一段階がscreening out 、つまり(人間にとって都合の)悪いものを排除していくということ。第二段階がchoosing in、つまり(人間にとって都合の)良いものを選んでいくということ。そして第三段階がfixing up、つまり生物自体の遺伝子を改造するということです。すでに行われている植物とか家畜などの生命操作を考えれば、こういう方向は誰の目にも明らかですね。人間の場合も、これまで①や②(出生前診断による選別的中絶や、着床前診断による胚の廃棄や選別)がもっぱらであったものが、今やゲノム編集という画期的な遺伝子操作技術の登場で、すでに③の段階にまで来たということです。
 なお、ゲノム編集をめぐる倫理問題については、今年の8月4日に、私もメンバーの一人である日本学術会議の「いのちと心を考える分科会」による提言「人の生殖にゲノム編集技術を用いることの倫理的正当性について」が出ました。今日はそのお話しはできませんが、この提言の骨子は、(1)ゲノム編集技術を使う生殖の法的禁止、(2)臨床研究を目指す基礎研究についても禁止、(3)より包括的な生殖医療法に向けた国民的議論の開始、ということです。下記でその全文が読めますので、ぜひお読みいただきたいと思います。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-t292-5.pdf
                                                 
 

 

2、生命操作というシステム
体外受精には問題はなくなったのか?
 さきほど、生命操作は一つのシステムだという話をしましたが、このシステムには見える部分と見えない部分があります。2018年の暮れに中国でゲノム編集された子どもが生まれたというニュースがセンセーショナルに報じられましたが、そのちょうど40年前、1978年には、世界初の試験管ベビー(体外受精児のこと)が生まれたというニュースが同じような形で大きく報道され、反対する人々は「神の領域への侵犯」だと言ったりしました。ところが今や体外受精は不妊治療の一つとしてまったくの「通常医療」になっていて、日本(実は世界一の不妊治療大国)では新生児の16人に1人が体外受精によって生まれています。
 このように体外受精が一般に普及したことで、それがもたらす倫理的問題はクリアされたのでしょうか。そうではありません。このような「不妊治療」(この言葉は括弧付きでしか使えませんが)が私たちの生活や人生にどんな影響を与えているか、それがどんな苦悩をもたらすのか、について伝えられるようになったのは、むしろずいぶん後になってからなのです。「不妊治療」を受ける女性の離職率が高いということは、不妊治療を受ける女性の間では常識だったのですが、本格的な調査が行われ、報道されるようになったのはここ7-8年前からです。1980年代に使われはじめた技術が実際にどのような影響を与えているかという調査が行われるようになったのは、30年以上後になってからのことなのです。

 

生命操作がもたらす問題は遅れて顕わになる 
 このように生命操作がもたらす問題というのは、ずいぶん時間が経ってから顕わになることが多々あります。たとえば、夫が無精子症などのときなどにドナーの精子を使って人工授精をするAIDという技術は、日本では1949年から、もう70年以上にわたって実施されているわけですが、生まれてきた子どもは、遺伝上の父親と育ててくれる父親が違うわけです。親はほとんどその事実を子どもに隠していますので、なんらかのきっかけでそのことを知ったときの子どもの苦悩はたいへん大きいわけですが、そうしたAIDで生まれた当事者の苦悩というものが語られるようになったのは、欧米では1980年代、日本では1990年代になってからのことでした。
 また、2008年に香川県で体外受精の受精卵を取り違えて別の女性に移植してしまい、結局中絶することになったという事件がありました。受精卵を誤って廃棄してしまったという事件もありましたし、たとえばES細胞研究などで、体外受精の際に子宮に戻さなかった「余剰胚」を研究に利用することの是非も問われるようになりました。こういう一連の出来事を見ていると、受精卵(胚)が女性の身体の外にあって、人工的な管理の下に置かれているということはどういうことか、ということについての想像力を私たちは失っているのではないかと感じます。そのような事件が起きてから、はじめて気づくのです。
 「不妊治療」という言葉自体が、こうした生命操作の実態を隠す働きをしているように思います。そもそも不妊は病気なのか、「不妊治療」は治療なのか、といった根本的な問いが問われないままに、不妊の人を助ける「治療=よいもの」として当たり前のように流通されていく。私のいう生命操作システムは、そうした「言説のシステム」に支えられています。

 

「不妊治療」と一般的な病気の「治療」の異質性
 一般的な病気の「治療」の目標としては、もちろん完全に治癒するというのが理想ではありますが、それが不可能な場合であっても、たとえば病気の進行を止めるとか、少しでも緩やかにするとか、あるいは症状を緩和するとか、個々のケースに応じていろいろあるわけです。ところが、不妊治療の目標とするゴールは一つしかないのですね。実際に元気な子どもが生まれることだけです。そこに至らないものはすべて失敗、子どもができなければ治療の効果はなかったということになります。この違いを考えるだけで、体外受精のような技術(厳密な成功率は現在でもせいぜい15~20%程度)を使うことを「治療」という名で語ることに大きな問題があることがわかります。そうした「不妊治療」を受けることで、その後の自分たちの人生にどのような影響があるかということについての情報がある意味隠されている中で、個々の当事者が選択をさせられている訳です。不妊の人たちのなかには、きちんとした情報を得たとしても、最後まであきらめずにそうした治療に賭けたいという人ももちろんいるでしょうが、今よりはずっと減ると思います。さきほど言ったように体外受精の成功率は低いわけで(私は今でも人体実験のレベルじゃないかと言っているぐらいですが)、数をこなさないと技術力は上がっていかないので、ある意味、不妊に悩んでいる人たちがみな実験台にされている。不妊治療として体外受精を求める人が少ないと技術力も上がっていかないし、余った受精卵を研究に使うなどということもできなくなる。つまり、私の言う「生命操作システム」というのは、もし人々がきちんとした情報を得て、本当に「選択」してしまったら、そうしたシステム自体が稼働しなくなるような仕組みになっているわけです。「生命操作システム」に、その本質を隠す働きをする「言説システム」が必ず付随しているのは、このシステムが稼働するための特定の選択(上記の例だと不妊治療として体外受精を受けるという選択)の方に人々を押しやるためだ、と言えるかもしれません。

 

脳死臓器移植というシステム
 脳死臓器移植という生命操作システムについても、これとまったく同じことが言えます。一般の人々がその実態を知らない(人々に実態を知らせない)ことで、それがシステムとして稼働可能になるのです。そもそも「脳死」という言葉自体がそうした言説システムの一部であって、私たちは「脳死」という言葉を使った時点で、もうすでにこのシステムの中に取り込まれてしまっているとすら言えるのです。
 たとえば、超昏睡患者、脳死患者、脳死の人、脳死者、脳死体、という語を横に並べてみましょう。この5つの語が指している対象はすべて同じなのですが、左に行けば行くほど「生きている人」という感じが強くなり、右に行けば行くほど「死んでいる人」という感じになりますね。ちょっとした言葉の違いでイメージががらっと変わってくるわけです。
 脳死臓器移植というのは人体実験とよく似た構造をもっています。つまりある人の治療のために、別のある人の身体を手段、道具として用いるわけですね。人体実験というのは、医学的な知識を増やし、将来の患者をできるだけ多く助けるために、被験者となる人(いま生きている人)を手段、道具として用いて、その人に危害を与えるわけですから。また精子や卵子の提供、代理出産といった夫婦以外の第三者が関わる生殖補助技術もこれと似ています。こういうものが商業化されているところでは、どういう人がドナーにさせられるかというと、社会の中で弱い立場にある人が多いわけで、一国のなかでドナーが得にくい場合は、より貧困な国の人々をドナーにした国際的マーケットが形成されるわけです。臓器売買も生殖ツーリズムでも同じです。「家族愛」という美名のもと、日本では脳死臓器移植よりずっと多く行われている生体移植でも、実際には家族の中で弱い立場の人がドナーにさせられてしまうことが多いようです。こういうところも、ひどい人体実験の歴史で、犠牲にされてきた人々が、黒人であったり、知的障害者だったり、精神病患者だったりすることと相似的です。

 

ケアやそれをめぐる言説までもがシステムの一部に
 脳死臓器移植という生命操作システムは、もっと複雑な形になっていて、そのなかには「ケア」技術やそれをめぐる言説システムも組み込まれています。たとえば、脳死の人が亡くなっていくときの看取りのプロセスに、心理学的な言説が入り込んでくる。そこでは、遺族の人たちへの「グリーフケア」という名のもとで、心理の専門家がドナー家族の悲嘆プロセスに介入して、脳死臓器移植のシステムに奉仕する形で、ケアのための技術が用いられるのです。実際、ヨーロッパで脳死臓器移植の数が非常に多いスペインでは、そこに心理カウンセラーが制度的に組み込まれていて、脳死となった人の家族に対して「臓器を提供して役立てることはその人のためにも役立つし、遺族の心の負担も軽くなる」といった誘導的な説明をしていたりするわけです。
 また、救急医療に携わる医師が脳死判定をすることが多いわけですが、交通事故などで急を聞いて駆けつけてきた家族が取り乱しているなかで、脳死について説明をしたり、臓器提供という選択肢があると伝えることは、心理的負担が大きい。そうすると、救急医たちがそういった説明を渋ることによって、ドナーがなかなか現れないのではないかという言説が出てくる。それに対する対策のようなものとして、逆に臓器提供に協力することが家族の悲嘆プロセスにプラスになるという心理学的言説が出てきて、それに協力する形でカウンセリングの知識や技能をもった専門家が脳死臓器移植の現場に動員されていくという形になっていくわけです。このようなケアの技術を含め、多種多様なものが脳死臓器移植という全体のシステムを稼働させるために利用されているということです。
 山口研一郎さんに聞いたのですが、日本で臓器移植法が変わってから(2009年)、救急医は必ず臓器提供のオプションがあるということを脳死になった人の家族に説明しないといけないということになって、救急医療がパンクしそうになってしまったために、救急医学会のお偉いさんが小中学校の校長先生たちに「子どもたちに脳死は人の死なんだと教えてくれ」と頼みに回っているそうです。このように、みんながそのシステムに取り込まれていき、利用されていくという構造になっているのです。以前この市民講座で私の友人の看護師・MOTOKOさん(仮名)が話されたと思いますが、脳死臓器移植でドナーとなる患者の看取りに携わる看護師の悲嘆の問題もここに関わります。つまり、看護師にとって、その患者の死を看取るという営みと、移植手術に向けてドナーの身体を管理するという営みは両立しがたい。それを同時に行わなければいけない看護師たちは、その引き裂かれた悲しみのやり場がない。いわゆる「公認されない悲嘆」の問題ですね。

 

 

3、なぜ安楽死・尊厳死が「生命操作」の一部としてとらえられるのか?
 普通、安楽死や尊厳死を生命操作の一部としてとらえられることはないと思います。脳死臓器移植を可能にした人工呼吸器にしても免疫抑制剤にしても、あるいは体外受精にしてもIVH(中心静脈栄養補給)にしても、「生命操作」というのは新しく登場してきた技術によるものということでいけば、別に人を「死なせる」ためには特に新しい技術はいらないわけですから、安楽死や尊厳死は生命操作とは関係なさそうに思えてしまうわけですね。
 しかしそこに、「優生思想」とか「いのちの選別」といった補助線を引いてみることで、実はこれまでお話ししてきたような生命操作技術、あるいは遺伝子操作のようなものと安楽死・尊厳死に共通するものが浮かび上がってきます。つまり望ましい生命をデザインしていこうとすると、必然的に望ましくない生命を排除・抹消する方向に行くわけですし、その逆も同じです。生殖をめぐる生命操作では、出生前診断とそれに基づいた選別的中絶から始まって、着床前診断で特定の病気の遺伝子をもった胚を子宮に戻さない方法が開発され、さらには体外受精におけるすべての胚を対象に遺伝子のスクリーニングする方向が出てきて、ゲノム編集(遺伝子操作)で子どもを作ることも可能になってきました。

 

「優生思想」のとらえ方
 優生思想を学問的に定義するのはなかなか難しいですが、「優れた人と劣った人というレイベリングに基づいて、後者を排除し、前者を拡大する選別」というよりも、むしろ「優れた生(命)と劣った生(命)というレイベリングに基づいて、後者を排除し、前者を拡大する選別」というふうにとらえた方がいい、と私は考えています。なぜ「人」の選別ではなくて「生(命)」の選別だととらえる方がいいかというと、まず、優生思想イコール(実際に生きている)病者や障害者に対する差別ではない、ということが挙げられます。もちろんこれは「イコールではない」というだけであって、そうした「差別ではまったくない」とか「差別とは関係ない」ということではありません。次に、出生前診断による選別的中絶や着床前診断のような、生まれる前のいのちの選別というのは、(生まれてくるであろう)子どもを選別しているだけでも、そこで排除されるのと同じ病気や障害のある人々を選別しているだけでもなくて、そうした「生(命)」をもった人と出会い、共に生きることで開かれてくるような、すべての人にとっての「いのち」の可能性を断つ、ということでもあるという点が挙げられます。親にとっても社会にとってもそうですが、そういう人たちと出会い、共に生きることで、気づくような大事なものに気づく可能性をみんなが断たれてしまうということです。このことについては、以前に見たテレビ番組で、あるダウン症の子どもの親御さんが語っていた言葉が印象的でした。「障害のある子どもと暮らす生活は『絵に描いた幸せ』ではなかったが、いまは『幸せ』だ。なぜかと言われたら、絵の描き方が悪かったかもしれない」。
 さらに、こうした選別や排除は「自分自身の未来の生」にも向けられています。つまり、たとえば重度の障害のある人や重度の認知症の人を見て、「自分があのようになったら死にたい」とか「死を選ぶ」ということもまた、同じように優生思想やいのちの選別に直結しています。こういう言葉がもっている差別性や暴力性に気づいていない人が多いように感じます。

 

安楽死・尊厳死をめぐる言葉のトリック
 さて、拙著『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』(岩波ブックレット、2019年)で詳しく書きましたが、「安楽死」や「尊厳死」といった言葉は非常にトリッキーな言葉です。まず、「安楽死」というのは「安楽な死」と同じではないし、「尊厳死」というのは「尊厳ある死」と同じではありません。安楽死や尊厳死という言葉で意味しているのは、なんらかの形で「死なせる」「死をもたらす」行為によって、安楽でない生(耐え難い苦痛に満ちた生)や尊厳がないとか尊厳が奪われた(ように見える)生から解放するということだからです。
 安楽死や尊厳死を定義する際に、その一部として「死期を早める」という言葉を使う人が多いのですが、これはとても怪しい言葉です。医師でも(正直な人は)死期や余命についてはなかなかわからないと言います。そもそも、私たちはいつか必ず死ぬわけですから、殺人であろうが自殺であろうが、あるいは医療ネグレクトのようなものでも、「死期を早めている」だけです。別に安楽死にだけに当てはまるものではありません。そういう言葉をわざわざ使うのは、「殺す」という言葉はもちろんのこと、「死なせる」とか「死をもたらす」という言葉も「悪いもの」というイメージがあるから、「安楽死=よい死」を定義するときに使いたくない、ということなんだと思いますが、とても不自然ですね。
 また、死なせることによって苦痛から解放するというのは、問題の解決というよりは問題そのものの抹消にすぎません。たとえば、耐え難いほどの苦痛を覚えている人に対して、薬剤によってであれ、他のケアやサポートによってであれ、何らかの対処、介入を行った結果、苦痛が緩和されたということは証明できますね。しかし、死なせることで苦痛がなくなったというのは、死んだ後のことであれば意味がないし、死んでいくときに、その人は苦痛がなくて「安楽」なのかというと、何一つその証拠はありません。むしろ反証になる報告はいくつかあります。たとえばは自殺の名所と言われるサンフランシスコのゴールデンブリッジから、飛び降りた人の100人に1人は助かるそうです。助かった人の話を聞くと、飛び降りた瞬間にものすごい後悔と苦痛が襲ってくるようで、助かった人で再度自殺を試みる人はいないそうです。
 安楽死に使う薬でも、たとえば筋肉弛緩剤を使うと、死の直前に全身の筋肉の強烈な収縮が起こるから、とても苦しいはずだという医師もいます。でも、苦しくてももうその人はそれを表現できないわけです。だから安楽死というのは別にその「死」の瞬間に安楽かどうかはまったくわからないし、たぶん安楽ではないのではないかと思います。
 ではなぜ、死にたいくらいの苦痛にある人や、その不安におびえる人にとって、安楽死が救いになるのかというと、「安楽死」という選択肢があることで、それまでを安心して生きられるということではないでしょうか。つまりそれは死の安楽でなくて、「生の安楽」なのです。そうすると、安楽死以外の手段によってもそういう精神的な転換は起こるはずであって、「このような苦痛からの解放のためには安楽死しか手段がない」という言悦は怪しいし、論理的に誤りだと思います。

 

安楽死・尊厳死の周りにある怪しげな言葉の数々
 他にも安楽死・尊厳死の周りには怪しげな言葉がたくさんあります。たとえば「治らない」とか「回復が望めない」という言葉もそうです。「治る」というのは「病気がない元の状態に戻る」ということだとすれば、慢性的な病気はすべて治らないわけです。また、がんであれ、神経難病のようなものであれ、病気が進行していくとQOLが一方的に下がっていくと誤解している人が多いのですが、これは間違いです。QOL(生活の質)をどのようにとらえるかにもよりけりですが、私は国立新潟病院の神経内科医・中島 孝先生が説かれているように、QOLを患者本人の主観的な満足度ととらえています。そうすると、「できることが少なくなることで、一方的にQOLが下がっていく」というのは間違いだとわかります。たしかに病気の進行によって、それまでできていたことができなくなると、その時にはQOLは下がるのですが、その状態に慣れて、機械の助けを借りたり、いろんな工夫をしたりして、安定して生活できるようになると、またQOLは上がるのです。ALS患者の場合も、呼吸困難になってくるとQOLは下がりますが、人工呼吸器をつければ楽になるのでQOLはまた上がります。病気が進むと一方的にQOLが下がっていくというのは、元気な人にありがちな誤解であって、そういう誤解が「安楽死」肯定言説を支えている面があります。
 また、安楽死や尊厳死には「過剰医療」という前提が置かれていることが多いですが、「私たちが(治療はもういらないという)はっきりとした意思を示さないかぎり、医師は最期の一分一秒まで延命しようとする」などというのは今や時代錯誤のフィクションです。
 私の知り合いで、大阪に住んでいる人(79歳)が、先日コロナで入院しました。持病(糖尿病)があるため、入院直後に「悪化したときには延命治療をどうするか」について意思決定を求められ、書類に記入させられたとのことで、
本人は深く考えず、「もう80近いし、延命治療なんていやだ」ということで×を書いたそうです。入院してから徐々に病状が悪化して、人工呼吸器のある重症患者専門の病院に移らないといけなくなるかもしれない、という状況になったようですが、医師がその息子さんに、「ご本人が延命治療はいらないと言っているので、そうなっても重症者の病院に移すことはできない」と言われたそうです。(コロナで病室には入れませんから)息子さんは何度も電話をし、母親を説得して書類を書き換えさせ、そのときには病院を移れるようにしたとのことですが、幸いなことにこの方はそこまで悪くならないで回復に向かったので、その必要もなくなりました。でも、ある意味、延命治療という言葉の悪いイメージを利用して、医療の側が高齢者への治療をやめる方向に誘導していく。今はもうそういう時代なんだということを知っておく必要があります。

 

「選択の自由」というワナ
 安楽死や尊厳死をめぐる「選択」というのは、出生前診断と選別的中絶における「選択」とよく似ています。一見、強制はまったくない「自由な選択」のように見えて、一方の選択肢を選んだ場合には自分自身や家族に大きな負担がかかってくるような状況のもとで「選択」を強要される、という形になっています。それはすなわち、もう一方の選択肢への強いドライブがかかっているということです。私はよくこういうたとえ話をしています。たとえば、テーマパークのようなところで一つしかレストランがないとする。そこのランチメニューは500円のカレーライスと、3000円のAランチと5000円のBランチ、1万円のCランチしかないと。そうすると、ほとんどの客はみんなカレーを選びます。それは別にカレーが好きだからでも、このレストランのカレーが特に美味しいからでもなくて、他のメニューを選んだときの経済的負担が大きすぎるから、それを選ぶしかない、ということです。
 たとえばALSの人が24時間介護の体制が準備できていない中で、人工呼吸器をつけるかつけないかという選択を迫られると、ほとんどの人はつけないということになってしまいます。詳しくは先に挙げた私のいくつかの論考をお読みいただきたいのですが、私は生命操作システムには、「死なさない(不死の)ベクトル」と「死なせるベクトル」が一体になっている、と考えています。一方で、さまざまな技術を開発して何とか命を延ばし、死なさないようにしようとするのですが、いくらそういうことをしても、人はいつか死にますから、それと同時に、そういう効果が尽きたときには「さっさと死なせる」「死を受容させ、あきらめさせる」ような言説がそれとセットになっている。一見、自由な選択のふりをして、ALS患者が人工呼吸器をつけないように誘導していくような言説はまさにこうした「死なせるベクトル」の働きです。「脳死」の人は「死んでいるのだ」と思い込ませることも、安楽死を美化することも、同じです。
 人が生まれてくるところでもまったく同じです。言い換えれば、「死なせないベクトル」は「煽り」の言説で、新しい生命操作技術の開発によって私たちの欲望をどんどん煽っていく。それに対して「死なせるベクトル」は「鎮め」の言説。満たされない欲望を鎮め、あきらめさせていく。私はよく、現代の医療や生命科学における生命操作システムというのは「タチの悪い宗教」のようなものだと言っています。タチの悪い宗教というのはマッチポンプになっていて、片方の手で人の不安を煽り、もう片方の手でその不安を鎮める救済を保証するのです。生命操作システムも一方で人々の不安を煽る。たとえば障害児が生まれたら大変だろう、とか、死ぬときにこんな苦しい死に方はいやだろう、と。そして、それを回避するためには出生前診断という方法がありますよ、安楽死という方法がありますよ、というわけです。私たちはそういうシステムに絡め取られることで、人生のなかでさまざまな形で訪れる生死の課題や試練のなかで、「いのち」に向き合うということができにくくなっているのではないでしょうか。

 

さいごに
 最後に、私(安藤)が小さい頃に、私の言うような「いのち」というものを初めて意識した出来事を紹介することで、今日の話を締めたいと思います。私は一人っ子ですが、当時(1970年前後)は今と違って、クラスに2~3人しか一人っ子はいませんでした。私は自己主張が強いので、「お前は一人っ子だからわがままだ」とか「協調性がない」などと非難されることが多かったため、親に「ぼくにはなぜ兄弟がいないのか」と聞いたことがあります。母が話してくれたところによると、両親は結婚してから10年近く子どもが出来なかった。妊娠はするものの、いつも流産していたそうです。あるとき、母が腹痛がひどくて病院で診てもらったら、盲腸が慢性化していて、子宮を圧迫しそれが原因で流産していたのだろうということがわかり、盲腸を手術で切除した結果、私が生まれたということでした。その時は、もっと早く原因がわかって母が手術を受けていたら、私にもお兄ちゃんかお姉ちゃんがいたのになあ、と残念で、母にもそう言ったのですが、後でよく考えてみて、あることに気づいたのです。もしそのときに流産の原因がわかって、母が手術を受けて子どもが生まれていたら、その子どもが「私」だったかもしれない、と思ったのです。そうするよ、私はずっと上の学年で、今の友達とは出会えなかっただろうと。そう考えると怖くなってしまい、それ以降は「私にも兄弟がいたら」ということを親に言わなくなったのを覚えています。
 このときに私が感じたのは、なにか「いのち」の大きな流れの中に「私」が「私として」生きている、そういう流れのなかでたまたま「私のいのち」があるという感覚だったと思います。もちろんそのときにそういう表現ができたわけではありませんが、このことは強く印象に残っていますし、今でも私の「いのち」についての考えはそういう感覚に基づいています。「私のいのち」は私のものでもなければ、私がコントロールできるようなものでもない。もちろん、自分の人生や生死に関することを他人に勝手に決められるのは避けたいし、そういう意味で「自分のいのちは自分のもの」と主張しなければいけない場面はあると思います。しかし、「自分のいのちは自分のもの」というのは、(そのように、あるときには有用で必要な)一つのフィクションにすぎないのではないでしょうか。
   ご静聴ありがとうございました。

 

質疑を次のページ(第16回市民講座講演録2-2)に掲載しています。


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第16回市民講座の報告(2020年9月26日) 2-2 「いのちが軽くなる」ということ 生命操作と「死」の選択をめぐって

2021-03-02 19:25:32 | 集会・学習会の報告


第16回市民講座講演録 2-2

 

 

質疑

 

司会)最初に京都から参加されている小泉さんにご発言をお願いします。NHKのドキュメンタリーに対する抗議文や、BPOに対する審査要請文について、また京都で起きたALS嘱託殺人事件についても触れていただきたいと思います。

小泉)私は、京都の障害者団体、日本自立生活センターで活動している小泉浩子と申します。
 日本生活自立センターでは2019年6月5日にNHKで報道されました『彼女は安楽死を選んだ』が、私たちの尊厳や生命を脅かすような内容だったため、NHKに対して抗議し質問状を出しました。これに対してNHKから真摯な回答をもらえなかったため、BPOに対して審査請求の要望を出しました。安藤先生にも専門家としてのご意見を頂きました。ありがとうございました。残念ながらBPOは私たちの訴えを無視しました。NHKのあのドキュメントを何度も再放送し報道の問題点を理解しようとしませんでした。私たち障害者は社会から常に邪魔者扱いにされています。いのちすら否定され続けてきました。その中であの番組は、人の死を美しく描き苦しむ人はこのように死んでいけるよ、社会から邪魔者扱いされるなら死んだ方がいいというメッセージを与えました。また人工呼吸器使用者や病院に長期入院中の人に対して、あんな姿になって生きたくないというような、その人たち本人も傷つけるひどい言葉もそのまま放送されていました。私だってもちろん苦しいと思うときがあります。それでも仲間たちや支援する人たちと支え合いながら、時に幸せを感じる瞬間を歩みながら生き続けています。このような生き方があることを報道せず、生きていれば家族の迷惑、社会の迷惑になると受け取られかねない報道を、私たちは許せませんでした。同時に死にたい、死なせたい、このように感じる人がいるのではないかと危惧しました。実際にNHKに寄せられた視聴者の声を読むとドキュメンタリーに対する意見として、安楽死を受けているスイスの団体の連絡先などを教えて欲しい、など、民間の安楽死団体についての問い合わせが59件もありました。そしてまさに私たちが危惧したとおり、京都の地で嘱託殺人が起きました。NHKのドキュメントも大きな引き金になっているとの新聞報道もありました。私は障害当事者でヘルパー派遣事業所の管理者でもあります。そのためヘルパーが24時間入る形での暮らしも見てきています。ですから林さんがヘルパーと共に苦労していくことも想像がつきます。死にたいと思うこともあったと思います。死にたいとそう思うときに逆に死ねると思わせたら、自分自身の中で自然と凍えてしまうのだと思います。医者は人の命を救うことを全うして下さい。報道は生きる可能性を見いだせる報道をして下さい。国は人が生きるための手助けをするような制度を作って下さい。これ以上私たちを死へと追いやらないで下さい。よろしくお願いいたします。以上です。

 

司会)ありがとうございました。小泉さんに思いを語っていただきました。小泉さんのお話、安藤先生の講演について、ご質問やご意見はないでしょうか。

質問1)初めてオンラインに参加していて戸惑っています。安藤先生のお話を聞きながらいくつか確かめたいことがありました。ひとつはQOLという言葉ですが、僕は知能テスト批判をやってきた経過があって、その中で知能指数―IQが高いとか低いとか、隔離という話があって、IQからQOLへの繋がりでQOL概念を捉え、QOL批判をしてきたつもりです。
 確かに生きがいとか快適さとか生きる喜びなど個人のある状態という文脈で安藤先生はQOL概念を使われていると思いました。私は、「意識がある・考えることが出来る・世の中に貢献できる・役に立つ」と「生産性がない・迷惑をかける・役に立たない」という文脈の中で、「生きるに値するいのち」と「生きるに値しないいのち」を仕分けると理解してきました。QOLという概念がIQからQOLへという僕の理解と安藤先生の話された概念がどう関わるのか、すこしちがうなと思いました。その辺をもう少し詳しくお聞きしたいと思います。

安藤) QOLという概念は医学医療の分野でいろんな形で使われていますが、それを数値化するときには専門分野ごとに少しずつ違っています。もともとは建築とかデザインとかで使われてきた言葉のようです。私は、QOLという言葉を使う際には、次の二つを区別しないといけないと考えています。
 一つはある個人について、そのQOLを上げるあるいは下げない、維持することが治療やケアの目標になるというような、QOLという言葉の使い方です。たとえば、ある人が腰の骨を骨折したとして、もし手術を受けて辛いリハビリをしたら、再び自分の足で歩けるようになるとします。手術を受けなかったり、リハビリをしない場合、一生車椅子の生活になってしまうと。そういう場合に、その人にとって、手術を受けたりリハビリをすることでQOLが上がる、という言い方は医療の範疇で使っていいと思います。ところが、こういうことと、実際に自分の足で歩いている人と車椅子で生活している人を比べて、自分の足で歩いている人の方がQOLが高い、ということとはまったく別のことで、後者は言ってはいけないんです。QOLは治療的な介入によってある特定の人がどれだけプラスの影響を受けるか、その生の可能性がどれだけ開けるかとしての指標であって、別の人同士のQOLを比べて、どちらが高いとか低いとか言うことは、明らかな優生思想になるのではないかと思います。
 むかしから生命倫理学では、QOLという言葉が、それ(質)が低い場合に「生きる価値のない生命」というものを連想させるので危険だと言われていて、1970年代には、SOL(=生命の神聖さ)の倫理とQOL(=生命の質)の倫理の対立ということが語られました。つまり生命は無条件に尊いのか、質の低い生命は生きる価値がないから絶ってもいいのか、ということです。QOL(生命の質)の倫理を主張する人は、安楽死や治療停止を肯定する根拠としてQOL(が低いこと)を持ち出したわけです。
 このように、先に挙げたQOLという言葉の二つの使い方、すなわち治療効果としてQOLを上げましょうということと、別の人同士のQOLを比較して、QOLの高低を生きる価値の大小と結びつけることとはまったく別のことです。たとえば、医療資源を投入するときに、QOLがそんなに低くない人が治療によってQOLがここまで上がるのであれば大いに意味があるが、もともとQOLの低い人を治療してそれをほんのちょっとだけ上げるのは、それに比べて意味がない(から有限な医療資源をそこに投入するのは無益である)などとするのは、実は後者の使い方です。要するにこの概念は使い方次第だと思います。講演のなかでお話ししたように、今日私が述べたQOLという言葉の意味は、国立新潟病院の中島孝先生が提唱しているQOL概念(患者本人の主観的満足度)に近いです。QOLをこのようにとらえると、どんどん進行していき、できることが少なくなっていくような病気であっても、一方的にQOLが下がっていくことはありません。特にそういう病気の人については、さきほど述べた後者のようなQOLという言葉の使い方を避ける、すなわち生命の質の高低次第で、生命の価値や医療的介入の価値を判断するということを避ける、そういう考え方を批判していくことが重要だと思います。

 

質問2・小泉)BPOにだした後、たくさんの声が届きました。その中に「あんたらは生きていていいけども、私たち死にたいと思っている人の気持ちをあんたらはわかってないから、邪魔しないでくれ」という抗議の声です。安藤先生は「死を選ぶ」ことで問題を解決するのでない、「死んでいく人はほんとに苦しい」といわれましたが、安楽死したい、死なせて欲しいと思う人が多い中で、安藤先生ならそういう人にどんな言葉をかけられますか、お聞かせ下さい。

安藤)それはどういう人がそう言っているかによって違ってくると思います。実際に病気が進行して不安を感じている人なのか、そういう当事者ではない人なのか、あるいは家族とかなのか。京都の事件の後で多くのメディアから取材を受けて、記者の方との話で「実際に死にたいと安楽死を求めている人に対して、安藤さんならどうするんですか」と何度も聞かれました。そういう聞き方自体が、人をある属性でもって型にはめている、たとえば「ALSで病気が進行した人」という一般形で語っていると思います。しかし、「死にたい」と言っている人にどのように接するかは、その人との関係が違えば、当然違ってきます。たとえば、林さんは私の知り合いではありませんが、その人が私の知り合いであるなら、まずはコンタクトするだろうと思います。人の中には死にたいという要素はたくさんあるでしょう。要因は一人一人違います。今回の林さんについて言うと、報道でわかっているところだと、17の事業所からヘルパーが来ていたと言われています。こんなことは普通あり得ないことで、その中には未熟なヘルパーもいるし、男性のヘルパーが入浴介助したときには「尊厳を傷つけられた」と語っているようですね。17の事業所のヘルパーのローテをやりくりするだけで気の休まる時がない状態、この方が安楽死したいと思っていったのは、病気が進行しているからだけでなく、他にもいろいろな要因があるわけで、それは「死にたい」と思う人それぞれで違っている。逆に「生きたい」という方向に向かわせる要因も人によって違います。社会とか他の人との関わりの中で、それぞれの人の「死にたい」要因の方が強くなったり、「生きたい」要因の方が強くなったりします。小泉さんが挙げられたNHKのドキュメント番組は、実際に林さんの「死にたい」という要因を強め、その背中を押してしまいました。嘱託殺人を実行した大久保医師自身も何回も自殺未遂をしていて、「死にたい」と思っていたようですが、SNSでの林さんとやりとりのなかで、お互いの「死にたい」という部分が共振し合ったというか、ある種の不幸な化学反応が起こり、林さんは「わかってもらえた」という思いを抱いて、「死にたい」思いがさらに強まったように思います。誰とのどういう出会いの中で、その人のどういう「死にたい」思いと「生きたい」思いの要因が引き出され、そこでどういう反応を起こすかは、個別的問題です。同じALSの方で私も一緒に講演したことがある竹田主子さんは、死にたいという思いから生きたいという思いになるのに4年かかったとおっしゃっています。それは常に変わりうるのです。安楽死を肯定する人は、個人の死生観や価値観次第で、同じ状態になったときに死にたいと思う人も生きたいと思う人もいるので、死にたいと思う人の死生観や価値観も尊重しなさい、などと言うことが多いですが、これは間違いです。何がどう変わるかはわからないが、生きている限り、人はいつでも変わる可能性があるのです。大事なのは、今日一日を生きることだと思います。生きるか死ぬかという決定を先延ばしする中で、何かが変わるかもしれない。自分が変わるかもしれないし、新しい出会いがあるかもしれない。それを信じるしかない。「死にたい」と言っている人をこちら(生)の側に引っ張ってくるのは無理なことでしょうが、それは「死にたい」のだから生きる可能性を閉じてしまってもよいということとは違います。まずは今日一日を生きることです。

小泉)ありがとうございます。

司会)死ぬ方向に持って行く風潮とか、戦時中に潔く死ぬことが美学であるという時代があったように、個人の思いだけでなく、政策そのものがその方向に向かっているように感じます。

古賀)死にたいことを選ぶことを何故邪魔するのかという声について、この間、林さんのALS嘱託殺人事件の声明を書く時に、考えてしまった所です。個人が死ぬことを選ぶのは個人に限定されないと思います。その方が死ぬことによって死ぬ人を増やしてしまうことがあるんですよね。スイスの自殺幇助団体にかなりの日本人が登録しています。ディグニタスに2019年末の段階で47人登録している。その人たちの動きを次々に報道されてしまったら社会がどうなってしまうのか。危うさがある。死んで欲しくないと言いたいし、死にたい人に一緒に生きようよといえない社会はおかしいと思うし、他の人の死を呼び寄せてしまう社会的影響もある。24時間の介助が京都市でどう作られてきたのか。生き抜こうとした人がいたから出来てきたと思います。死にたいという人が次々に出てくると、生きるための基盤も壊れてしまうのではないかと思っています。

 

質問3)生きるために遺伝子操作に期待するという人がいますが、後になって予期しないことが起こるかもしれません。そういう人にはどう声をかけていくのか聞かせて頂きたいと思います。

安藤)遺伝子操作というと、本人ではなくて、これから生まれてくる子どもについてのことですか。たとえば親がその遺伝的素因をもっていて、子どもがそれを受け継ぐと致死的な病気が発症する可能性が高い場合にということでしょうか? 今のところ現に生きている人の遺伝子治療は成功していないと思いますが。

古賀)パーキンソン病などでもiPS細胞を大量に突っ込んだり、かなり実験していますよね。その辺のことも含めて。

安藤)本人に対する遺伝子治療ということでいうと、新しい治療はほとんど全部そうですが、要するに(広義の)人体実験の被験者になるということですね。その場合は、新しい抗がん剤の実験などと基本的には同じことで、被験者になることによるメリットとデメリット(リスク)を正しく伝えられた上で、本人が同意をしていれば、大きな問題はないと思います。もちろん、医師や研究者の側から、リスクを過小評価したような情報が与えられ、実験台になるように誘導するような形で進められる可能性は結構あるので、それは批判していかないといけませんが、本人がそういう実験的治療(によるメリット)を求めること自体は批判できないと思います。
しかし、これが遺伝子操作をして特定の病気の遺伝子をもたない子どもを産むということになると、話は違ってきます。子どもにその遺伝子を受け継がせないというためだけなら、現在でも着床前診断で、その遺伝子をもたない胚を選んで子どもを産むことができるわけですから。それを越えて、遺伝子を改変してまで産むということになれば、倫理的なハードルはすごく高くなります。つまり、その病気にならない子どもやその遺伝子をもたない子どもを産むための他の方策があるにもかかわらず、オフターゲット効果などによって生まれてくる子どもに将来どんな有害なことが起きるかわからないような、そういうリスクを子どもに背負わせる遺伝子操作を親が決定するというのは、よほどのことがないと正当化されないでしょう。つまりこれは本人ではなく(これから生まれてくる)子どもを非常にリスクの高い人体実験の被験者にするということですから。

 

大塚)先ほどのQOLとか、バクバクの会で認識しているのは、生活の質を高めましょうと言うことであり、生命の質という面でのQOLは考えたこともなかったので、そう考える人もいるんだなと気づかされ、びっくりしました。
 自分のいのちだから自分で決めていいと言う人がいると言うことですが、いのちは自分だけのものではない。バクバクの会の「いのちの宣言」に、「皆つながっているいのち」とありますが、過去から現代にそして次の世代につながる、自分だけのいのちではないんだから死んではいけないと宣言文の中でも言っています。いのちを生き切ると。本日は考えさせられ、整理が出来たような気がしました。

利光)ひとつだけ、「胎児に障害がある」という言い方は問題と提起されたこと、私も「胎児に障害がある場合」と言ってしまっていたけれど、ああそうだなと、気づきがありました。

 

司会)最後に安藤先生から一言お願いします。

安藤)「生命操作」というテーマでお話しさせていただきましたが、究極的には「生命は操作できていないし、できない(のではないか)」と思います。体外受精もせいぜい20%の成功率、40年以上経ってこのレベルだし、臓器移植も一生免疫抑制剤を飲み続けなければいけないわけだし。「生命」というものは私たちが本質的にコントロールできないもので成り立っています。先ほどの「いのちはつながっている」というのはまさにその通りで、誕生の前後で切れているわけでもないし、亡くなる前後で切れているわけでもない。DNAのレベルでは人間の生命と他の動物の生命だって、どこかで切れているわけではありません。私が言うようなそうした「『いのち』の大きな流れ」のなかで、私たちはたまたま自分の人生を生きているに過ぎないのです。そういう意味では、「生命(いのち)」についての科学的知見がなかった昔の人の認識と、生物学、遺伝学による詳しい知識によって気づかされる認識というのは、そんなにずれていないとも言えます。むしろ「生命」を科学的に探究していけばいくほど、それは簡単に操作などできるわけがないということに行き着くかもしれません。科学的な認識と古来からの宗教的・文化的感覚は、必ずしも矛盾したり対立したりするものではないと考えています。

 


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第15回市民講座の報告(2019年11月10日) 2-1 活発化する新たな臓器作り、その問題点とは?

2020-06-14 18:46:07 | 集会・学習会の報告

第15回市民講座講演録
 
日時:2019年11月10日(日)午後2時~5時 
会場:江東区亀戸文化センター(カメリアプラザ)第2研修室 
 
 
講演  天笠 啓祐さん (ジャーナリスト/市民バイオテクノロジー代表) 
 
≪活発化する新たな臓器作り、その問題点とは?≫ 

 


    
【天笠啓祐さんのプロフィール】 1970年早大理工学部卒、雑誌編集長を経て、現在、ジャーナリスト、市民バイオテクノロジー情報室代表、日本消費者連盟共同代表、DNA 問題研究会会員。主な著書に『ゲノム操作食品の争 点』(緑風出版)、『地球とからだに優しい生き方・暮らし方』(柘植 書房新社)、『遺伝子組み換えとクローン技術 100 の疑問』(東洋経済新報社)、『この国のミライ図を描こう』(現代書館)、『暴走するバイオテクノロジー』(金曜日)ほか多数。 

【講演概要】
 ゲノム編集と iPS 細胞(人工多能性幹細胞)、それに動物を組み合わせることで、 従来とは異なる臓器づくりができることから、新たな臓器移植に向けた動きが活発になっている。従来の臓器移植は、基本的に人間から人間への臓器や組織の移植である。最近は、それに代わる新たな動きが強まってきた。それがゲノム編集、iPS細胞、ES細胞、そして動物の利用の組み合わせである。これまで異 種移植では、拒絶反応の問題に加えて、豚などに内在するウイルスの人への感染が問題になってきた。そのいずれもが、ゲノム編集技術の登場で解決の道筋が見えてきたというのである。iPS 細胞や ES 細部を組み合わせることで、動物に人間の臓器を生産させることも可能になってきた。しかし、そのためには人間と動物のキメラを作るという生命倫理上の大きな問題が出てくる。臓器移植の世 界が、これまでは踏み込んでこなかった領域に入り始めたといえる。それに伴い、 移植臓器の幅も拡大しそうである。それは新たな問題を生じることにもなる。

 

目 次 
【講演】活発化する新たな臓器作り、その問題点とは? 
はじめに
1,生命操作の現状
2,ゲノム編集とは?
3,ES 細胞から iPS 細胞へ
4,動物性集合胚とは?
5,変わる臓器移植の世界
6,では何が問題か?
【質疑】 


活発化する新たな臓器づくり、その問題点とは? 


講師 天笠啓祐さん 
あまがさけいすけさん はじめに

 私は、ジャーナリストとして生命操作問題に取り組んできましたが、同時に市民運動としても取り組んできました。出発点は 1972 年に創刊した『技術と人間』という雑誌にあります。その中で、環境問題や原発などと並び、医療問題、遺伝子組み換え問題などに取り組んできました。その後、1980 年にスタートした DNA 問題研究会で、一緒に立ち上げた福本英子さんなどとともに、遺伝子組み換え、脳死臓器移植問題、体外受精など、バイオテクノロジーと人間とのかかわり、社会とのかかわりを追いかけ、取り組み、いまに至っています。また、臓器移植法を問い直す市民ネットワ ークの連絡先になっている日本消費者連盟の共同代表、遺伝子組み換え食品いらないキャンペーンの代表にもなっています。最近では、ゲノム編集技術の問題点やその応用の危険性について訴え続けています。 
 本日は「活発化する新たな臓器作り―その問題点とは?」というテーマでお話しします。臓器移植の最前線は、以前と比べて大きく変わったと思います。私もこれまでは、バイオテクノロジーによっていのちを操作するのはそう簡単にはいかないと言い続けてきたのですが、それが ES 細胞の登場、iPS 細胞の登場、さらにゲノム編集技術が登場することで、さまざまな操作が可能になり、大きく変わったとい う印象をもっています。新たな臓器移植は、さまざまなバイオテクノロジーの応用が進み、それらを組み合わせることで可能になりました。そのため、そのさまざまなバイオテクノロジーの数々を紹介したいと思います。これら一つ一つが、新たな 臓器移植にかかわり、かつ今後はさらに活用され、範囲も広がっていくことになりそうです。 
 
                               

1、生命操作の現状 
さまざまなバイオテクノロジー(生殖への介入が当たり前に)
 さまざまなバイオテクノロジーがあります。とくに出生にかかわる操作の展開が活発です。そのひとつ生殖操作に関して見てみますと、人工授精から始まりましたが、とくに体外受精の段階で大きく変わったといえます。これによって操作の範囲 が一挙に拡大しました。体外に卵子を取り出し受精卵を作り出すことができるようになったからです。精子銀行、卵子銀行に加えて、受精卵の凍結保存もできるようになりました。X 染色体と Y 染色体の重量差を利用した男女の産み分けもできるよ うになりました。受精卵移植は、体内で受精したものをいったん体外に出して行います。受精卵が体外で作られたり、取り出したりすることで、代理出産が可能にな りました。代理出産は女性に大きな負担をもたらしています。
 受精卵の凍結保存では、こんな問題も起きました。オーストラリアでのことです、 体外受精のため受精卵の凍結保存を依頼していた金持ちの夫婦が飛行機事故で亡くなったのです。このとき、残された凍結受精卵に相続権があるか否かと大きな議論になりました。大金持ちでなければ議論が起きなかったと思います。キリスト教の世界では、受精の際が生命の始まりということもあるため、大きな議論になりましたが、最終的には相続権なしという判断に落ち着きました。このような形で宗教的に、倫理的に、社会的に問題を引き起こしてきました。
 精母細胞、卵母細胞があります。精子や卵子の基になる細胞ですが、これも体外で培養し操作できるようになりました。するとこういう問題が起きました。これはネズミのケースですが、人間にあてはめて考えてみてください。雄と雌の死亡した胎児のネズミの精母細胞と卵母細胞を取り出し培養して精子や卵子をつくり、受精して代理出産させました。そこで生まれてきた子は、精母細胞・卵母細胞を提供し たラットは死んでいますので、死んだ胎児の子どもが生まれたことになります。こ の世に生まれなかった親の子どもということになります。これを人間に置き換えて考えると、大変に深刻な問題を投げかけます。 

 
 
生殖への介入は優生学的世界観をもたらす
 生殖への介入は優生学的世界観をもたらします。その代表がデザイナー・ベイビ ーあるいはパーフェクト・ベィビーといわれるものです。
 
望む子どもを産みたいという要望があり、精子銀行や卵子銀行が登場し、陳列棚に並ぶように商品化されていくのです。どの精子とどの卵子を組み合わせるとどんな子どもが生まれてくるかがわかるようになり、望む子どもや理想的な子どもを作ることができるようになりました。このことが優生学的な世界観の基板になっていきます。スポーツ分野では、世界記録を生むスポーツ選手になれる子どもにと、デ ザイナー・ベイビーで相方を見つけ出す動きも出てきています。このように、人間における「品種改良」の動きがあるのです。
 優れたスポーツ選手づくりで、遺伝子レベルでできるようになってきたものに、 遺伝子ドーピングがあります。筋肉量を抑制すると筋肉もりもり人間が生まれます。例えば、社会主義国の人が愛国心を盛り上げるためにスポーツ選手のドーピングを行ってきましたが、これまでは主に、たんぱく同化作用を利用したものが多かった のです。たんぱく同化作用というのは何かというと、魚や肉、大豆とかのたんぱく質を食べると、胃や腸でそのたんぱく質は分解されてアミノ酸になり、吸収されます。そのアミノ酸が体内で再構成されてたんぱく質が合成され、体を構成するものになります。これをたんぱく同化作用といいます。その際、さまざまなホルモンが働きますが、特に重要なのが性ホルモンの働きです。男性ホルモンが働くと筋肉がついて男性らしい体になり、女性の場合は女性らしい体になります。そのため女性に男性ホルモンを投与するとたんぱく同化作用で筋肉質の男性的体ができます。男 性に男性ホルモンを投与すると、より筋肉質の体になります。ドーピングではそのような操作が多かったのです。 

 

生殖操作とあわさり、いのちの始まりへの介入が始まる
 このような操作もゲノム編集技術が登場することで、変化すると同時に生命への 介入も一段と進みます。本日はそれについてお話ししようと思います。

 

細胞操作 
  細胞融合とは、異なった細胞をくっつける技術です。植物の世界では進んでいて、トマトとポテトの細胞をくっつけたのがポマト。オレンジとカラタチをくっつけたのがオレタチですが、この技術は、例えばクローン技術などのさまざまなバイオテ クノロジーによる操作で活用されています。 
 そのクローン技術には、受精卵クローンと体細胞クローンがあります。前者は受精卵が細胞分裂を繰り返しますが、4 分裂になったときに、その4つの細胞をバラ バラにします。そうすると、それぞれの細胞が分裂を繰り返し、4つの個体が誕生します。同じ遺伝子のクローンが4つできるのです。この場合、8 細胞期くらいまでの初期胚の段階で分割しないとできないといわれます。
 それに対して体細胞クローンは、体細胞を使って行うクローン技術で、受精卵ク ローンに比べて大変に難しい技術です。1996 年にクローン羊のドリーが誕生しま した。除核した受精卵に体細胞を入れて細胞分裂させ、生命体を誕生させる技術で 。ドリーの場合は、雌の羊の乳腺の細胞を使って羊を誕生させました。そのため グラマーな女優のドリー・バートンから名づけられました。この体細胞クローン技術によって赤ちゃんを誕生させることは大変難しく、やっと誕生した家畜にも異常が多く長生きできないなど、問題が多く現在は行われていません。
 なぜうまくいかないのか。エピジェネティクスという概念が出てきて、理由が分かったわけです。遺伝子はいつも発現しているわけではなく、働いたり休んだりしています。その働いたり休んだりといったコントロールを行っているのは遺伝子で はなく、主に遺伝子を取り巻いているヒストンなどのたんぱく質です。
 私たちの体は受精卵から始まり、細胞分裂を繰り返します。受精卵の段階では、 全部の遺伝子が働いていますが、やがて臓器や組織に分化していきます。分化していく際に、例えば心臓を作るところで骨を作れと指令する遺伝子が働いていると都合が悪いわけです。そのように遺伝子は、細胞分裂とともにどんどん止められていくわけです。その際にヒストンなどが働きを止める目印をつけていくわけです。そ のエピジェネティクスの働きと遺伝子の働きがかみ合わないため、体細胞クローンの場合はうまく働かないということです。

 

キメラ 
 キメラはギリシャ神話に出てくる動物です。ライオンの頭、蛇の尾、山羊の胴を 持った怪獣です。異なる生物の細胞や組織が存在している生物のことです。羊と山 羊のキメラである「ギープ」が作られたことがあります。後でお話しする動物性集 合胚はこのキメラ技術です。これが今、積極的に活用される状況になってきました。

 

ES細胞、iPS細胞
 幹細胞と呼ばれる細胞の基となる細胞の利用には ES 細胞(胚性幹細胞)と iPS 細 胞(人工多能性幹細胞)があります。ES 細胞とは何かといいますと、受精卵がある程度細胞分裂が進みますと、胚盤胞期という段階になり、周りの部分と内部細胞塊に分かれていきます。周りの部分は胎盤を作り、中の部分が体を作り出すのです。その中の部分を取り出して培養すると無限に増殖する細胞になり、それにスイッチ を与えると心臓や肺になる。これを ES 細胞といいます。しかし、中から内部細胞塊を取り出すために受精卵を壊さなければならず倫理的に大きな問題に直面したわけです。最近になり、ES 細胞利用もゴーサインが出されており、倫理的問題も無視されてきています。
 それに対して iPS 細胞は、人工多能性幹細胞といい、体の中に細胞の基となる増殖する細胞(幹細胞)がありますが、それを利用しています。これを胚性幹細胞に対して体性幹細胞といいます。例えば血液を作る細胞のことを造血幹細胞といいま す。山中伸弥さんは、ES 細胞とこの体性幹細胞の遺伝子でどこが違うかを解析し たわけです、その結果、浮かび上がってきた4つの遺伝子に注目しました。その4つに遺伝子を組み換えると、ES 細胞と同じような細胞ができたわけです。それが iPS 細胞です。iPS 細胞は受精卵を壊さなくてもよく、そのため倫理的壁がないということで応用が進んできました。
 しかし、無限に増殖する細胞というところが問題で、それはがん細胞と紙一重なのです。遅々として進まない最大の理由は細胞のがん化が起きる可能性があることです。一度失敗すると iPS 細胞の応用が止まる可能性があるので、推進側も慎重に 進めてきましたが、最近はその慎重さが失われているような気がします。

 

遺伝子操作
  遺伝子操作の基本は遺伝子組み換えです。遺伝子組み換えとは、種の壁を越えて他の生物の遺伝子を挿入することです。犬と猫が仲良くても雑種はできなかったの ですが、犬の遺伝子を猫に入れることができるようになった。それが遺伝子組み換えです。遺伝子の「子」は単位を意味します。人間の遺伝子は約 22000 あるのです が、一つ一つの遺伝子を操作するのが遺伝子組み換えです。
 最近は、ゲノム編集が活発になり、遺伝子組み換えに置き換わりつつあります。ゲノム編集のゲノムとは、すべての遺伝子を指します。それを自由自在に編集・操
作できるようになったのです。遺伝子組み換えと違い、遺伝子を操作するスケールがはるかにアップしています。米国では遺伝子のライブラリーができていますが、 そこにそれぞれの生物の遺伝子情報が集まる仕組みになっています。人間の遺伝子 はほぼ解明され、研究者がデータを図書館に蓄積させているわけです。その遺伝子全体を操作できるようになりました。
 ゲノム編集技術とは、特定の遺伝子を壊す技術として登場しました。この遺伝子を壊したいと言うときにその遺伝子を壊せるようになったのです。米国にある遺伝子ライブラリーに「この遺伝子を壊したい」と注文すると、そこから壊す仕組みがセットで送られてきます。そこには交換条件があります。世界の研究者が遺伝子の情報をライブラリーに送るため、ライブラリーの情報が日々豊かになっていくわけです。遺伝子の情報を送ることと交換条件で、ゲノム編集のセットが、無料で注文すると送られてくるのです。これにより日々、さまざまな遺伝子が壊されているのです。遺伝子を壊すことで、さまざまなことが可能になりました。この技術がなければ新たな臓器移植はできませんでした。詳しくは後程お話しします。 

 RNA 干渉法(RNAi)という方法も応用が広がっています。DNAに遺伝子があり、その情報によりたんぱく質が作られていきます。そのたんぱく質が作られる流れをみてみると、DNA にある遺伝子の情報は、いったんRNA に移されます。RNAに移された情報が、アミノ酸をつないでたんぱく質を作る。DNA―RNA―アミノ酸 ―たんぱく質という流れがあります。ゲノム編集では DNA に乗っかっている遺伝子を壊しますが、RNA 干渉法は RNA に移された遺伝子情報を壊すことで、たん ぱく質ができないようにする方法です。
 米国にモンサント社という多国籍企業があります。現在はドイツのバイエル社によって買収されましたが、その会社が開発した RNA 農薬があります。外からばら まいて、吸収させて虫を殺したり植物を枯らす農薬を開発しています。昆虫を殺す農薬では、突然死をもたらすようにこの技術を利用しています。昆虫には突然死をおこす遺伝子があります。この遺伝子が働くと大変ですので、働かないようにする遺伝子もまたあるのです。外から RNA を撒いて、突然死を引き起こす遺伝子を抑 えている遺伝子を壊すのです。そうすると虫が死ぬわけです。人間と昆虫は神経シ ステムが同じなので人間が被曝すると同じことが起きる可能性があり、大変なことになります。 

合成生物学
 生物を人工合成しようという動きがあります。研究者は「生命とは何か?」を解明しようとして、さまざまな手法で取り組んできました。これまでは地球、森林、木、 細胞、DNA といったように、より細かく見ていくと生命の本質がわかると思ったのです。しかし DNA が分かったのに生命が何かがわからなかったわけです。次に考えたのが、これまでとは逆に DNA から生物を作り上げていくことで生命を解明 しようと考えました。その学問が合成生物学です。

合成生命の誕生 
 生物の合成を目指して動いている人物の一人が、 J.クレイグ・ベンターです。1990 年代に人間の全遺伝子を解読しようという「ヒトゲノム解析プロジェクト」があり、実際に解析されました。それを記念して2000年代初め、米国のホワイトハウスで、当時大統領だったクリントンが記念イベントを行いました。そのときに列席したの が、この J.クレイグ.ベンターです。人間の全 DNA を解析した人物です。今何をやっているかというと、生命を作りたいと取り組み、2015 年にその端緒になるものを作りました。
 まだ初歩的な段階ですが、他の生物の人工合成した遺伝子で生きている生物を作り出したのです。用いた微生物は、「マイコプラズマ・ジェニタリウム」と「マイコプラズマ・カプリコルム」です。二つの種類のそれぞれの DNA を入れ替えて、 他の生物の DNA を持った微生物を誕生させた。これが第一段階。次に「マイコプラズマ・ジェニタリウム」の DNA を全部人工合成しました。これが第二段階です。そしてこの人工合成した DNA を「マイコプラズマ・カプリコルム」に入れたのです。これが第三段階です。これにより全DNA を人工合成して、しかもそれを他の 生物に入れて働かせたことになります。これこそがグレイク・ベンダーが作り出した人工合成生物なのです。さらにこのプロジェクトは、DNA を変更して入れることを考えています。
 人間の全 DNA を人工合成しようというプロジェクトも動き始めています。こういう世界を見ていくと、バイオテクノロジーはどこに行ってしまうのか、すごい世界になってきたなと思います。最近になって加速し始めた最大の要因がゲノム編集の登場です。

 

2、 ゲノム編集技術とは
クリスパー・キャスナイン(CRISPR-Cas9)法(2012年)
 ゲノム編集技術とは、DNA を切断して遺伝子を壊す技術です。この遺伝子を壊したいというと、指定して壊せるようになりました。この技術はもともと 1990 年代に登場しました。それが 2012 年にクリスパー・キャスナイン(CRISPR-Cas9)が 登場して、実に簡単になり、一挙に応用が広まりました。このクリスパー・キャスナインは、目的とした遺伝子を壊すために、その遺伝子までの案内役であるガイド RNA と、DNA を切断するハサミの役割をする制限酵素(キャスナイン)を組み合わせたものです。いわば案内役とハサミの組み合わせです(図)。 

ゲノム編集の仕組み
  ゲノム編集技術は、遺伝子をピンポイントで壊す技術です。目的の遺伝子の位置に誘導するのがガイドRNA で、DNA を切断するのが制限酵素です。この仕組みがクリスパー・キャスナイン法で 2012 年に確立するわけです。 このクリスパー・キャスナインの仕組みは細菌のウイルスからの防御システムを応用していますが、制限酵素を用いて DNA を切断して、遺伝子の働きを止めるこ とをノックアウトといいます。切断後、修復までの過程で遺伝子を導入することをノックインといいます。 


生命が持つバランスを崩す技術として登場
 遺伝子を壊すことで、さまざまなことができます。例えば、豚を例に考えてみたいと思います。成長を抑制する遺伝子を壊すと「大きなマッチョ豚」が誕生し、成長を促進する遺伝子を壊すと小さな「マイクロ豚」が誕生します。こ のように用いるのが、ゲノム編集です。生命が持つバランスを崩す技術が登場したと言うことです。意図的に障害や病気をもたらすことを意味します。私たちの遺伝子ですが、100%完全な人などいません。必ず傷を持っています。それがたまたま現れた場合、障害や病気になります。偶然によるものです。それを意図的にもたらすのが、ゲノム編集技術です。以前から遺伝子組み換え技術でノックアウ ト・マウスが作られていましたが、作成が難しくマウスだけでした。それがゲノム編集で簡単にできるようになり、さまざまな動物でできるようになってしまったのです。このノックアウト・ マウスは、疾患モデル動物として用いられてきました。
 マッチョ豚と私が呼んでいる、大きくて筋肉量の多い豚を、テキサス A&M 大学 (チャールス・ロング)が開発しましたが、その後、さまざまな研究者が開発してい ます。マイクロ豚は、通常の豚が 100kg 超あり、ミニ豚でも 30~50kg 前後ありますが、わずか 15kg 前後しかありません。これは中国 BGI(北京ゲノム研究所)がペ ット用に開発しました。成長ホルモン受容体を壊して作成しています。 

  テキサス A&M 大学が開発したマッチョ豚は筋肉の発達を制御する蛋白質「ミオス タチン」遺伝子を壊していますが、この遺伝子を壊す操作が増えています。日本でも京都大学が成長を早めた肉の多いトラフグやマダイを作成しています。 角のない牛も作られました。この牛は、米国ではゲノム編集技術の成果を誇る広告塔の役割を負っていましたが、問題が発見され、堕ちた偶像になってしま いました。

 

ゲノム編集技術とは
 ゲノム編集は、現段階では特定の遺伝子を破壊する技術として登場しています。どのように壊すのでしょうか。モノレールを考えるとよくわかります。レールが DNA、車両がクリスパー・キャスナイン(CRISPR-Cas9)と考えてください。壊したい目的のDNAにまで運転して到達させようと設計します。案内役がガイドRNA です。その案内役の指示に従って車両が走って行き、目的の場所に到達します。そ こで働くのが、キャスナインというハサミの役割をする制限酵素です。それが DNA を切断して遺伝子を壊すわけです。これがゲノム編集の仕組みです。切断したままだと細胞は死んでしまいますが、自然に癒着します。さらに切断した場所に DNA を入れることもできます。まだほとんど行われていませんが、これから盛んに行われるようになると思います。
 これまでの遺伝子組み換えの場合、遺伝子を導入するだけで、遺伝子を追加したに過ぎません。導入された側の生物の遺伝子はみんな働いているのです。そのため遺伝子組み換えという言葉は正確ではありません。組み換えではなく追加ということになる。しかしゲノム編集は切って壊したところに入れられる、文字通り組み換えが可能になる。これが臓器移植などに活用される話につながります。例えばネズミの皮膚を作る遺伝子を壊し、そこに人間の皮膚の遺伝子を入れる。すると、人間の皮膚をもったネズミが誕生する。塗り薬とか化粧品の毒性を見る際、いままでは 動物の皮膚を用いて行っていたのが、実際の人間の皮膚を使って反応を見ることができます。このように遺伝子の入れ替えができるのが、ゲノム編集の特徴です。

 

遺伝子を壊すことの問題点 
 実際に実験を行っている研究者は面白がっているのではないかと思うほどですが、生命を操作する問題を考えると、いつも思うのは、実験室でやっている単純さ と結果的に起きる問題点の大きさ、そのギャップが大きいと感じます。 
 
*意図的に壊してよい遺伝子などない
 問題点の第一は、意図的に壊してよい遺伝子などないことです。すでに述べまし たように、人間には完璧な遺伝子を持った人などいません。必ずどこか壊れているのです。それがたまたま体の形に表われたり、病気で表れるケースもあるが、それ はあくまでも多様性であり個性であり、意図的に壊していいものではないのです。 それを考えて欲しいと思います。 

 
*生命をもてあそび、複雑な生命ネットワークをかき乱す
 問題の第二は、生命をもてあそぶことです。生命は複雑なネットワークを作って います。NHK で「人体」「遺伝子」という番組を作られましたが、その番組をご覧 になった方でしたらお分かりだと思いますが、人体は複雑なネットワークを作っていて、臓器や組織、遺伝子がネットワークを作り、情報の交換を行っているのです。ある臓器で起きたことが、思いがけない臓器に働きかけるといった複雑な仕組みがあります。遺伝子でも同様で、複雑なネットワークを通してどんな問題が出るかわかりません。

*オフターゲット(様々な遺伝子を壊す)をもたらす
 それからオフターゲットと呼ばれる、意図しない場所の DNA を切断して遺伝子を壊してしまう現象で、これは必ず起きます。先ほどのモノレールの話を使って、お話ししたいと思います。DNA というレールを走っていく車両が、壊したいという DNA のところで止まるのですが、似たような構造をしたところも止まって壊してしまう現象です。ターゲットでない遺伝子を壊すことが必ず起きる。これが問題なんです。此の点に関しては、米国コロンビア大学、英国ウェルカム・サンガー研 究所、中国神経科学研究所、米国マサチューセッツ大学など、多くの研究所が報告を出しています。また豪州のアデレード大学などの研究チームは、オフターゲット がなかったという実験を再実験し、多数のオフターゲットを確認したと報告しています。英国サルク研究所はエピジェネティックな変異を報告しています。

*モザイクをもたらすことも分かっています。モザイクとは、ゲノム編集された細胞とされない細胞が入り乱れて細胞分裂を繰り返し、体を作っていく現象です。 これもまた複雑な臓器や組織の仕組みやネットワークにどのような影響が出るか わかりません。

さらには発がん性を増すことも分かってきました。クリスパー・キャスナイン は反応のスピードが遅いため、それをアップしようとしたところ、がん抑制遺伝子が抑制されてしまうことが分かったのです。これはスウェーデン・カロリンスカ研究所、ノヴァルティス社での研究で判明しました。いずれも効率を上げる研究をしていて、効率を上げるほど、がん抑制遺伝子を抑制することがわかったというもの です。

ついに 人間でも適用される 
 ゲノム編集技術の適用が、ついに人間でも行われてしまいました。中国でのことです。中国の研究者・賀 建奎さんが双子の赤ちゃんを誕生させました。エイズ・ウイル スに感染しない赤ちゃんということです。どういう操作をしたかとい うと、ウイルスが細胞に侵入する際の、足がかりを壊したのです。ウイ ルスは半生物といわれています。何かに感染していないと生きておられず、感染先 を見いださないと死んでしまうのです。ウイルスは感染先を見いだすと、その細胞にある足がかりを見出し、そこから侵入します。エイズ・ウイルスの侵入口は、 CCR5 たんぱく質と呼ばれるものです。その侵入口から細胞に入り、核の中の DNA に潜り込む。一定の潜伏期間を経て、ウイルスは感染先の人間の DNA を利用して 増殖します。そして細胞を食い破って出てくるのです。それが発病の時です。これがウイルス感染の仕組みです。このようにウイルスは何かに感染してないと生きていけないわけです。細胞にはウイルスごとに異なる進入口がある。
 この場合、父がエイズ感染者で母は感染者でありませんでした。そこには性差別も見られます。ロシアでもデニス・レブリコフが、同じ操作を行おうとしています。 この赤ちゃん誕生に関して、さまざまな問題点が分かってきました。まず西ナイ ルウイルスに感染しやすくなることです。インフルエンザが重症化しやすくなる ことも分かりました。脳の認知機能が改善されるという影響も分かってきました。 短寿命化も起きるようです。
 
この中で、認知機能に影響、改善されるという研究の話が出てきたことで、この 実験を主目的に行ったのではないかということも、指摘されるようになりました。ゲノム編集でプラスになるような優生操作的な話が出てきているのです。
 赤ちゃんは生まれたばかりなのに、なぜこのようなことが分かるかというと、 CCR5 たんぱく質の遺伝子が壊れている人が世界中に結構いるからです。 エイズが広がったときエイズ・ウイルスに感染しても発病しない人がいたのです。 いまはビッグデータの時代です。そういう人たちを調べ解析したところ、実はこれ らの問題点がわかってきたというわけです。 

 

2-2に続く


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第15回市民講座の報告(2019年11月10日) 2-2 活発化する新たな臓器作り、その問題点とは?

2020-06-14 18:45:10 | 集会・学習会の報告

2-1の続き

 

3、ES細胞からiPS細胞へ

ES細胞とiPS細胞
 重要なことは、これまでお話ししてきたことが臓器移植につながっていることです。中でも直接つながっているのが、ES細胞とiPS細胞です。ES細胞とは胚性幹細胞といい胚から作りだし、iPS細胞は体性幹細胞を遺伝子操作でES細胞と同 じような細胞にしたものです。ES細胞とiPS細胞は、無限に増殖する細胞で、さまざまな臓器や組織に分化しますが、がん細胞と紙一重の細胞で、慎重な扱いが必要であり、これまではあまりうまくいってなかったわけです。ところが最近になっ て、強引に推進力が働き始めました。その背景には、政府によるイノベーション戦略がありますし、ゲノム編集技術の登場が大きかったといえます。中でもES細胞かiPS細胞と組み合わせて臓器を作る仕組みの最短にあるのが、 動物性集合胚といわれる技術です。動物に人間の臓器を作らせるという技術です。

 

 

4、 動物性集合胚とは

動物性集合胚と動物性融合胚
 動物性集合胚を理解するには動物性融合胚がわからないといけません。では動物性融合胚とは何かというと、動物の体細胞、動物の胚(受精卵)または胚性細胞(ES細胞や iPS細胞のこと)を、人間の除核した卵子と融合して作り出す胚です。卵子には核があります。それを取り除き、動物の胚などを入れるのです。外は人間の卵子だけれど、核は動物である、ということになります。
*動物性集合胚の分類は次のようになります。
1)2 つ以上の動物性融合胚が集合して1つになったもの
2)1つ以上の動物融合胚と、1つ以上の動物胚または体細胞もしくは胚性細胞が人間の卵子と融合して一体になったもの
3)1 つ以上の動物胚と次のものが一体になったもの。人間の体細胞、人間の受精胚、人間の受精卵を分割したもの。人間の受精卵で核を移植したもの、人間のクローン 胚、人間の集合胚、人間と動物の交雑胚、ヒト性融合胚、ヒト性集合胚、動物性融 合胚の胚性細胞
4)以上の1~3 の胚から作られた胚性細胞(核を持つ)が、人間の除核卵子、あるい は動物の除核卵子と融合して作られた胚 
 
 何を言っているのか、分からなくなってきましたが、これが法律で示されている定義なのです。このように人間と動物のキメラを作るのが動物性集合胚です。主体は動物ですが人間の卵子とか ES細胞とかiPS細胞とかが絡んでくるのです。この動物性集合胚は、移植用臓器づくりが最大の目的です。
 それの応用のようなものですが、豚の体内で人の膵臓を作る実験を東大医科学研究所の中内啓光特任教授を中心とした研究チームが行っています。豚の受精卵の中 に人間のiPS細胞を注入して豚の子宮に移植して出産させる方法です。これによ り人間の細胞(膵臓)を持った豚を誕生させることができます。
 東京慈恵医大と大日本住友製薬が開発を始める腎臓移植は、人間のiPS細胞と豚の胎児組織を組み合わせて、腎臓の元となる組織を作り出 し、それを患者に移植して患者の体内で腎臓にまで成長させるというものです。腎臓移植というよ り、腎臓の再生医療といった方がよいかもしれません。患者本人の細胞からiPS細胞を作りだし、豚の胎児から腎臓の元になる組織を取り出 し、そこにその iPS 細胞を注入して、腎臓の種を作り出します。その種を患者本人に移植して、腎臓にまで成長したら尿管につなぎ機能させるというのが、その シナリオです。 

 

 

 5、変わる臓器移植の世界

 臓器移植の世界
 臓器移植自体も大きく変わりつつあるように思います。これまでは他人の臓器、自分の臓器とか機械(人工臓器、ハイブリッド臓器)がありましたが、これに動物の臓器、あるいは動物と人間の臓器を合わせたものを加えることになったわけです。そのために、動物性集合胚という考え方を導入したわけです。さらに政府は、動物そのものの臓器移植を認めたケースもあります。認めたのは、膵臓にあるランゲル ハウス島の移植です。2016年4月10日、厚労省の研究班(異種移植の臨床研究の実施に関する安全確保についての研究班)は、これまで事実上、異種移植を認めてこなかった指針(異種移植の実施に伴う公衆衛生上の感染症問題に関する指針)を見直し、新指針案が厚労省審議会にかけました。対象は、1 型糖尿病にブタの膵臓にあるランゲルハンス島(膵島)の人間への細胞移植を認めるものでした。改定された指針が同年 6 月 13 日に各都道府県の保健担当者に示されました。それを受けて、大塚製薬の研究者が、アルゼンチンでブタのランゲルハウス島の移植を行う人体実験を行っています。
 なぜ動物からの移植が困難だったかというと、人間同士の移植に比べて、拒絶反応が大きいからです。超急性拒絶反応といいます。もうひとつが動物に内在しているウイルスが、人間に持ち込まれるのではないかという問題です。今回動物からの臓器移植を認めた背景に、ゲノム編集技術によって、拒絶反応やウイルス対策が可能なるだろうという考え方が出てきたことがあります。臓器移植の中で、子宮移植・脳移植は移植してはいけない、タブーとされてきた分野です。その中で子宮移植にゴーサインが出ました。タブーが徐々に取り払われています。脳に関しても、外国では、サルで頭部移植を行った例も出ています。 

 

脳死問題(死の操作)に生殖への操作が加わる 
 何が変わったかというと、脳死問題(死の操作)に生殖操作が加わってきたといっていいのではないでしょうか。ES 細胞、iPS 細胞にゲノム編集技術が加わったこ とで、新たな臓器移植の世界が作られてきた、といえます。まだ ES 細胞、iPS 細 胞は立体構造がとれないので膜とか皮膚移植は得意です。そのため動物性集合胚など動物の臓器を利用して立体構造を作ろうとしているのです。しかし両細胞ともがん細胞と紙一重ですし、拒絶反応の問題は必ず起きるのです。自分の細胞であっても必ず起きます。問題点は残ったまま、推進力ばかりが強まっています。 

 

ゲノム編集技術の応用 
*臓器生産を動物に、拒絶反応の克服
 動物の臓器を人間に移植する場合、2 つの大きな壁があると述べました。超急性拒絶反応が起きるなど、拒絶反応が大きいのです。もう一つが、動物のゲノムの中 に内在するウイルスです。それが人間世界に持ち込まれるという問題です。最初の拒絶反応ですが、それを克服するために、ゲノム編集技術を用いるという考えが示されます。拒絶反応が起き難い臓器移植をハーバード大学は実験しています。それは人間の免疫細胞が豚の臓器を異物ととらえないように、ブタの細胞の表面にあるマーカーの遺伝子を破壊し、認識しないようにする方法です。日本では、ゲノム編集ではなく、ブタの細胞の表面を特殊な膜で包み、免疫細胞が攻撃しないようにする方法を用いて、国立国際医療研究センターが異種移植を計画してきてい ます。
 内在ウイルスの対策ですが、これもゲノム編集技術を用いてウイルス遺伝子の不活化を行おうというのです。ハーバード大学の研究チームがやはり、ブタがもつ病 気をもたらす可能性があるウイルス関連遺伝子を同時に多数破壊して、ウイルスの感染力を大幅に低下させる研究を進めてきました。このケースで破壊したのはブタ 内在性レトロウイルスだそうです。異種移植もまた、ゲノム編集技術で進もうとしているのです。 

 

 

6、では何が問題か?

臓器移植に次いで、新たな形での生命の根本が問われています。
 この新たな臓器移植は、生命への介入はどこまで許されるのか? このことが強く突き付けられているのです。同時に生命の始まりはいつかという問題も提起されています。産科婦人科学会が受精卵を培養できる期間は2週間であると言ったことがあります。では生命の始まりは2週間かという質問状を以前に出したことがあるのですが、返事はありませんでした。動物集合胚を見ると、人間と人間以外の動物の境目があいまいになり、人間とは何かと言う問いも突きつけられます。
 この臓器移植の世界を見ていくと、生殖操作と一体であり、ゲノム編集と一体であり、生命操作に拍車が加えられ、障害や病気の人を排除する優生学的世界がつくられつつある、ということを強く感じます。また、臓器移植が進めば進むほど臓器をほしがる人が増え、臓器の増産化を図ろうという経済の論理が出てくるのではないかと思うわけです。

 

 

質疑


質問) 脳と子宮の移植はこれまでタブーとされてきたということですが、脳の移植の研究も行われているのですか。
天笠) 昔、サルの頭部移植のニュースがありましたが、これは守田さんが詳しいのではと思います。頭部移植がその後進んでいるとは聞いていませんが、子宮移植は進んでいます。日本医学会で検討が始まり、東京女子医大ではサルを使った実験が行われています。
守田) 2年前にイタリア人の学者が中国で死亡した人間の頭部をつなげたという報道がありました。頭部移植は神経や骨や血管もつなぎ合わせるので技術的に難しい。頭をつけ替えても寝たきりで動けないことも想定され、動物実験でも成功していないのをいきなり人間でというのは危ないと、移植を希望していたロシア人の富豪は希望を取り下げました。

質問) ビッグサイエンスはお金がかかるので、個人の探求心ではなくお金をモチベーションとして特許も絡んで、経済の問題になる。経済とは何かというところから議論するべきだと思います。
天笠) 同感です。何万円、何十万円もする薬がありますが、その薬の値段の大半が特許料です。特許を取得することでメーカーは儲けるのです。大学の研究者も今やベンチャー企業を立ち上げて特許を押さえようとするなど、特許は金儲けの源になっています。ゲノム編集も特許の数が多く、クリスパー・キャスナインでは激しい特許権争いが起きています。それを制したのがモンサント社で、同社が最も多く特許権を抑えています。次いで、モンサント社と争ったデュポン社が押さえています。米国を本拠に置く多国籍化学企業はこの分野で、特に特許を押さえてもうけの源泉にしている。ビッグサイエンスになるとお金がかかるので、特許を取得して金儲けをしていかないといけないというのはあると思います。

質問) 今度日本学術会議でもゲノム編集が取り上げられます。日本学術会議は、戦争協力をした反省から戦争協力はしないと表明しつつも、防衛省が汎用性のある研究にお金を出すと誘導する中で部分的に応じる大学が出ており、危機感を持っているようです。そうした中でゲノム編集技術にも注目していく状況のようです。
ところで、スタップ細胞とES細胞の違いはどういうものでしょうか。
天笠) 騒がれたスタップ細胞問題は、結局、ES細胞が混じっていたのではないか、ということになりました。小保方さんの周りにいた人たちがすごい人で、真実性があると思わされたのでしょう。しかし、生命の問題を知っている人なら、現実的には不可能な細胞だということは分かると思います。

質問) 動物で人間の腎臓ができたら、透析より医療費が安くなるし流れは止められないと思いました。
天笠) おそらく臓器が作れるという幻想ができると市場原理が働いて圧力が強まり、倫理感は薄くなると思います。量産すると安くなるからまた広がる。腎臓を痛めても移植すればいいと悪循環が起き、さらに商業化が進めば、必要でない人にまで移植となることも起こりうるでしょうね。

質問) 治る人がいるという建前で脳死臓器移植が進められてきました。それに対して私たちは切り捨てられる命をどうするのかと反撃してきたのですが、ゲノム編集で臓器を作るとなると反撃しにくくなりはしないか。がんとか難病対策として全ゲノム解析を進めるといわれるとどう対抗するのかという思いもあります。当会では臓器移植に頼らない医療をと言ってきたが、今後どういうスタンスをとればいいか苦しむところです。今日の論議の焦点になるところかなと思いながら聞いていました。
拒絶反応を克服する遺伝子を改変してしまうと他の微生物からの感染はどうなるのか。RNAをばらまいて突然死を引き起こすとは実際にどのように起こるということですか。
天笠) 脳死臓器移植問題が、生殖操作や幅広いバイオテクノロジーの問題と重なってきました。生とは何か、死とは何か、生命を操作するとは何か、さらには優生学、人権といった問題をさらに突っ込んで考えなくてはならなくなったといえるでしょう。
 拒絶反応は移植された臓器の目印に対して免疫システムが作動して起こします。他人の臓器を移植するとその臓器に対して目印が存在し、免疫システムが作動して拒絶反応が起きる。その目印を認識する遺伝子を壊してしまおうというのです。それとウィルスなどの微生物が感染した時に作動する免疫システムは基本的には異なると思いますが、しかし、同じだったり、近かったりするケースも考えられます。さらに、拒絶反応に係る遺伝子を壊し作動しないようにすると、さまざまな問題が起き、免疫力全体に影響が出る可能性はあります。免疫抑制剤を飲むと免疫力が抑制され病気になりやすい。それと似たような問題が起きる可能性はあります。現在は、動物で作った腎臓を人間に移植した場合どんな拒絶反応が起きるのか、どの遺伝子を壊すと拒絶反応は起きないだろか、という考え方で研究が進んでいるのです。研究や開発が先行すると、さまざまな問題が起きる危険性があります。
 RNA干渉法というのはRNAという生体物質を、界面活性剤を加えてばらまき、植物や動物の細胞の中に侵入させます。動物も植物も表面は脂分で守られているので簡単には侵入できませんが、そこで界面活性剤を加え侵入させます。生物には突然死をもたらす遺伝子があります。しかし、それが働くと大変ですので、その遺伝子が働かないように抑える遺伝子もあります。その抑える遺伝子の働きを止めてしまうのです。そうすると突然死が起きる。もし人間に降りかかったらと考えると、大変に怖い技術だと思います。

質問) 安倍やアメリカがゲノム研究を進める目的は何か?須田桃子さんの投稿記事を読みましたが、アメリカ国防省がゲノム研究にお金を出しているというのは事実か。
天笠) 安倍内閣がイノベーションという言葉を使って盛んに科学技術を推進する政策をとってきました。技術革新と言うより科学技術戦略だと思います。ゲノム編集で研究を進める最大の目的は特許だと思います。今のままだと他の国の企業に特許を取られ、経済戦争で遅れをとるから、規制緩和して研究開発をやりやすくして、特許を取得しようという戦略です。イノベーションの目的は経済だと思います。例えば、薬を開発したとき、高額の特許料を請求されると、薬価は高くなり競争力を失い、負けてしまう。経済戦争に打ち勝つために特許を取得し、先行して特許を押さえた企業と、特許権を交換する「クロスライセンス」によって競争力を持つことができる、というものです。世界の経済に打ち勝たないと三流国になるという脅しもよく言われることです。
 須田桃子さんは合成生物学が軍事研究に使われるのではないかと危惧しています。DARPA(米国国防総省・国防高等研究計画局)が予算をつけているからです。そのDARPAが、とくに予算を付けて進めているのがゲノム編集技術を応用した「遺伝子ドライブ」という技術です。例えば、猛毒性を高めた蚊を放ち野生の蚊を交雑させると、猛毒を持った蚊が生まれる確率は2分の1です。そのため交雑を繰り返すうちに徐々に数は相対的に減少していきます。しかし、遺伝子ドライブはゲノム編集を使って生まれてくる蚊をすべて猛毒性を持つようにした技術であり、そのためわずかな数の蚊を放出するだけで、あたり一帯のすべての蚊が猛毒性を持ってしまう。すでにネズミを使って太平洋の諸島で、遺伝子ドライブを用いて生物兵器の開発実験をしている。そのような形で軍事研究は進められています。

守田) 先ほどの子宮移植ですが、海外では数十例で、日本ではまだです。私は異種移植はそんなに簡単ではないと思います。異種移植を受けた方は感染症の危険があるので生涯にわたって追跡されると言われている。隔離され、結婚しても子孫を残せないかもしれない。また豚と人間は血圧が違うので、豚で機能する臓器を作ったとしても、そのまま人に移しても機能するかどうかは不明です。移植した途端に破裂するかもしれない。感染症も含めてそんなに簡単にできるものでは無いと思います。
天笠) ご指摘の通りだと思いますが、難しいと思っていた技術的問題が次々と解決されてきているのも事実です。生命は複雑で奥深いので操作できないだろうと思っていたのが、技術的に一歩一歩解決されるのを見て、先を見ておかないとまずいという側面もあると思います。

意見) 蚊の話ですが、地球上で最も多くの人間を殺している生き物は蚊といいます。蚊を絶滅させるのは悪いのかという話も出てくるし、臓器移植も人を死なせて臓器を獲得するより、豚に死んでいただいた方がましではないかという考えもあるかもしれない。利害を調べて技術的なことも踏まえて判断すべきだと思います。
質問) 恐ろしい話ばかりが出ていますが生態系は今後どうなっていくのでしょうか。
天笠) 大きな問題になっています。生態系を守るために生物多様性条約という国際条約があります。そこでは遺伝子ドライブ技術と合成生物学が議論になっています。合成生物学については結論が出てないのですが、遺伝子ドライブに関しては予防原則で、あらかじめ影響を示さないと野外で使用することは控えるという合意が得られています。しかし締約国に、アメリカ、ブラジル、アルゼンチンなどの推進国が入っていないのが問題です。
 蚊の話ですが、途上国の人たちから、ある人たちにとって蚊は害になるかもしれないが、蚊が重要な役割を果たしている人たちもいることを忘れてはいけない、という発言があります。蚊やボウフラを餌にしている生物もいます。蚊がいなくなるとその生物が滅び、さらにその生物が滅びると他の生物が滅び、やがて人間も影響が出てくることが考えられます。生態系全体の中で見ていかないといけない。このように蚊を増やしたり減らしたりすると生物多様性に影響をおこす可能性もあると議論はされていますが、むしろ生命倫理の方が議論されていないのではないかと思います。

質問) 天笠さんと川見さんに質問します。
天笠さんに、ゲノム編集技術の問題点としてオフターゲットの問題、目的でない誤った遺伝子を壊す問題があると言われました。しかし、技術的な問題が解決されるとそれは理由にならなくなるのではないか?技術的問題ではなく、意図的に壊してよい遺伝子はないと訴えた方が説得力があるのではと思っています。そこを自分の言葉で話したいが、広く伝えるためにはどう言う言葉で伝えて行けばいいでしょうか。
川見さんに、市民ネットワークは脳死からの臓器移植を問題にしているが、脳死ではない臓器移植はどう考えているのか?自分が持って生まれた臓器を他人に譲ることに対してどう考えているのか伺いたい。
天笠) 確かに技術的問題というのはやがて解決される可能性があります。説得力のある回答にはならないかもしれませんが、私たちの考え方を少し述べさせてもらいます。私たちDNA問題研究会の内部では、遺伝子不可侵の原則があるのではないかと議論されてきました。そもそも遺伝子への介入に反対と始めた研究会です。この考えは一貫しているが根拠を示すというのはなかなか難しくて、福本さんの言葉を借りれば「いやなものはいや」ということです。それでいいのではないかと思うのです。今の社会は生きることが経済の論理になり、金儲けにつながる社会となっています。それに対して、命は経済の論理ではないといってきました。
川見) 私たちは「脳死を人の死としない、脳死からの臓器移植に反対する、臓器移植以外の治療法の確立を求めていく」という三つを目的に掲げてきました。前回の市民講座では、守田さんが「心停止下での臓器移植は問題ないのか」という問題提起をされました。
 心臓移植医で人工心臓の開発も研究している医師は「生きた人から取る(生体移植)のは侵襲があるが死んだ人からならいいのではないか」といい、議論になりました。目の前の自分の患者を救いたいという医師とは、「脳死は人の死か」の見方で違いがありました。脳死からの臓器移植は、他人の命を犠牲にする医療であり、心臓の動いている脳不全患者は死としてもいいという優生的観点にたった医療です。生体移植については、腎臓、肝臓、肺移植が行われていますが、家族間の心情もあるので、黙認する立場を取っています。基本的にはもって生まれた臓器で生きる、臓器不全になっても、透析や人工臓器で長く生きられるようになっているし、そうした開発研究を進めて欲しいと考えています。
古賀) いずれにしても臓器移植は差別医療だと思います。ドナーとレシピエントの命の選別、レシピエント間でも差別があります。生きるために何とかしようよと言うことはあるし、生体移植は提供者の健康状態が悪化する問題もあると思います。今「治る治す」をどう考えるかは、難病患者や障害者運動の中でも問われています。動物の体内で人間の臓器を作るという動きの中で、未来のために人体実験の対象になってくれという脅迫感を感じます。わからないことなのに、「病気を治す」からとなだれ込むのか、せめぎ合いにどう対抗するかを考えていきたい。

質問) 怖いと言うことだけはわかったけれど、お話がよく理解できなかったのです。僕でもわかるサイトがあれば教えていただきたい。
天笠) おそらくサイトは無いと思います。この問題は言葉がまず難しい。動物性融合胚と動物性集合胚をどう説明しようかと悩みました。このような話をしたのは、私も初めてですし、どこにも出ていないテーマだと思います。

質問) 科学の進化や自発的探究心とお金もうけの話は本来関係ないと思いますが、人工透析が増えたのはお金になるから、生体移植もお金になると一気に広がってしまう。臓器売買もある。お金の話で一般化されてしまう現実がある。
天笠) 大義名分をもうける。進める側はそれがうまい。

質問) 幼稚園児が車にひかれた事件がありましたが、事故に遭った子供の臓器を提供しますかと聞かれたとすると、命の尊さが、そういう局面にたった時にわかるのではないか。
川見) 6歳未満の臓器提供者が15件ですか、これまでにありましたが、その親のコメントが「自分の子供の命が誰かの体の中で受け継がれている」というものがほとんどです。心臓が動いている状態なのに臓器を取り出すことに親が同意できるのかどうか、その辺は私は疑問に思いますね。

天笠) 難病の方が血液を提供して将来的に難病の克服のために情報提供を行っているという話が出たましが、それは議論すべき重要な課題だと思います。南大西洋のトリスタンダ・クーニャ島は、近親結婚でぜんそくの方が多かった。それに目を付けたカナダの大学の研究者が、住民から血液を採取し喘息の遺伝子をつき止めた。それに資金を提供していたのが米国のベンチャー企業で、その企業がぜんそくの遺伝子を特許にし、企業が特許料でもうけることになった。喘息の遺伝子が分かったのだからいいのでは、という意見があるかもしれませんが、特許料が高いと診断とか治療を受けられない事態になります。島の人は血液だけ持っていかれて何のメリットもありませんでした。将来の治療に役立てたいと言うが、実際の構造は、企業の金もうけが優先されて、そうなっていません。

質問) 雨宮処凛さんの「生命倫理」の中で、イギリスのALS患者は人工呼吸器を切ると書いてあったが、ALS患者への治療は日本は先進国なのですか。
古賀) 欧州では人工呼吸器をつけずに死んでしまう人が多いようです。日本はつける人の割合が多いと言われますがそれでも2-3割。社会保障的にやっていけば人工呼吸器をつけていても生きていかれるし橋本みさおさんは、人工呼吸器をつけたら終末期というなら私は終末期を20年やっていますといっていますね。

質問) 生態系という話があったが、人間の意識がどこで作られているかは置いておいて、臓器を部品化する形で進んできていると思うがどう考えられるか。
天笠) 人体部品化というか人類最後の資源は人体そのものではないかと言ってきました。資源化は進んでいるという認識です。生命を操作するのは限界があると言い続けてきました。体細胞クローンはあり得ないと思っていたのに出てきたし、歯止めをかけないとどうしようもない。進めたい人がいっぱいいるのに批判する人がいない。慎重にと言う科学者声明に協力してくれる人は大半が人文系の人です。自然科学系の人はほんのわずかです。真面目に研究している人で協力してくれる人は皆無です。原発の事故が起きながら原発に批判的な人は限られているでしょう。それでも原発に対して批判的な科学者はかなりいます。しかし、この分野はごくわずかです。

大塚) バクバクの会(人工呼吸器と共に生きる)をやっています。日本が一番人工呼吸器をつけているというのは事実です。他の国では選択もさせてくれずに看取るという報告が多いですね。ALSの患者もつけてもらえない。日本では訪問介護の制度を利用して人工呼吸器をつけて生活する人もいるので、まだ住みやすいのかなと思います。今後薬の開発で難病の子に呼吸器をつけなくてすむ子供も出てくるのかなという期待もありますが、まだまだ発展途上です。それより社会が受け入れてくれる状況を作った方がいいと思っています。
司会) 長時間にわたってありがとうございました。「ゲノム編集技術を取り入れた新しい臓器作りが病気を治す、移植用の臓器が足りない」を大義名分にして研究が行われていること、国も容認認可して推進されていること、他国との経済戦争に負けないように特許を取ることにやっきになり、一部には軍事研究も進められているなどのお話がありました。私たちは、人と人との関係の中に命があり、いのちを操作するのはいやだと自分の言葉で言えるように、今後の市民講座でも議論を深めたいと思います。また当市民ネットワークの三つの目的がこれでいいのかということについても、議論していきたいと思います。 


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