自分は一体何のために生まれ、この世に生きているのだろうか、そして自分に一体、どんなことが出来るのだろうかと考えた。 すると一番の趣味である民謡でなんとか自分を素直に表現できないだろうかという思いが熱くなった。 この熱き思いは私にとって、とても大切な民謡魂である。 そこから湧き上がる心の熱は宝であり、私の生きる存在そのものなのだと感じている。
皆さん、皆さんは民謡を何のために行っていらっしゃいますか 日本一になるためですか いや、競技大会で入賞を目指すためですか それとも・・ 私はかつて民謡大会に出場をし始めていた頃、その頃は、いつの日か、大会で決勝に進むことでした その時、憧れていた決勝の舞台に上がられていた方々は憧れの雲の上の存在に感じていて、同じ人間という感じはしませんでした。
だけれども時は流れ、いつの間にか私も決勝の舞台の上に立てるようになっていたのです。 すると、最近、考え方が大きく変わってきました。 ある私の尊敬する観覧者さんが初めて観た民謡大会の素直な感想を私に伝えてくださった時、衝撃が私の中に走ったのでした。 「声をただ無理して声を張り上げ唄う歌に素直に聞き苦しく魅力を感じなかった」
その意見に私のどこかで感じていた気持ちにヒットした 私は音戸の舟唄をこれまで一生懸命に舞台上で歌ってきたのだったが、お客様に観ていただくと、「あなたの唄は喉の血管が張り裂けそうな歌い方に見えますね」 と言われた。 つまり、観ていても力が入ってしまう(歌い手に力が入りすぎているので観ている方も疲れるという意味だと思う)
だけれども、私は審査員さんの得点のつけ方に、声量という項目が存在し、だから迫力を出さなければならないのだと自分の中では考えていた。 だから毎年、舞台の上で精一杯、声を張り上げて頑張っていた。 だが、最近、私の中で考え方が大きく変わってきた この間、民謡魂で菅笠節が放映された。 大会時の歌い方とは、やや違っていたので違和感が少しあったのだったが・・ そのなんとも心の篭った、話しかけるような、ささやくような、わかりやすく全く力まない歌い方に感動 私は衝撃を受けた。
プロは上手だと言えば簡単だが、プロも私達と同じ人間である。 プロなら誰が歌っても人の心を感動させられるほど、民謡は甘くはないと私は考えている。 菅笠節を歌われた方は誠に素晴らしい 私は、そこから多くのヒントを頂いた 大きな声を出そうとする前に、まず発音が良くないと逆効果になる。 口の形がねじれていないか 歌う姿勢が正しいのか 心が緊張しすぎてはいないか それらを鏡やビデオ撮影を行い、自分で検証してみる必要があるように私は考えている。
私はお風呂で民謡を歌ったりして楽しんだりするのだが、その時には力んで唄ってはいない。 それは自分の声が反響し、声量が少なくても良く聴こえるからだと思う。 あのように大会時に歌えるようになりたいと思う。 もう力んで舞台で歌うのは卒業したいと考えるのだが、そんな簡単に思うようには唄えないであろう。 特に勝ちたいと考える心が大敵だ そんな欲望は私の目指す民謡には必要がない そもそも、例えば音戸の舟唄を大会会場で誰のために唄っているのだろうか
皆さんは大会でどなたのために民謡を表現されておられますか 自分の入賞のためでしょうか お師匠さんのため いや観覧者さんのため 私は、自分の民謡を愛する気持ちを、正しく舞台上で表現をし、その気持ちを観覧者さんに伝えたいためです。 もう勝つとか負けるというのは捨てたい。 今の自分から、その欲望を完全に捨てることなど出来ないかもしれませんけれども、そこを目指したい。
今、私は転換してゆく帰路に立っているのでございます 大会で勝つ人が優れているとは限りません。 私の思う本当に優れている民謡人は、民謡を一生懸命に取り組んでいる人に手を差し伸べることの出来る人なのです。 私の親族の叔父さん(80代)が、私に一言教えてくれました 「価値がないことに力を注ごうとすることが、実は最も価値があることである」 と。 人は価値が高いものに引かれがちです。 いつも価値を比較し、高いものの方へ動きがちです。 逆に言えば、価値が感じられないものに力は貸しません。
愛がある者へは無償の愛を注ぐと聞いたことがあります。 人が動くのは基本、動く価値がある時です。 が時に価値が低くても動くこともあります。 そんな時、実は自分が最も成長するのかもしれません。 見える価値に寄ることは簡単ですが、見えない価値に心がトキメキ動いてこそ、あなたの民謡は輝くのです この言葉は、あなたにささやいたのではありません。 私自身に、目指す意味でささやいたのです。 本日もご拝読、誠にありがとうございます
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皆さん、皆さんは民謡を何のために行っていらっしゃいますか 日本一になるためですか いや、競技大会で入賞を目指すためですか それとも・・ 私はかつて民謡大会に出場をし始めていた頃、その頃は、いつの日か、大会で決勝に進むことでした その時、憧れていた決勝の舞台に上がられていた方々は憧れの雲の上の存在に感じていて、同じ人間という感じはしませんでした。
だけれども時は流れ、いつの間にか私も決勝の舞台の上に立てるようになっていたのです。 すると、最近、考え方が大きく変わってきました。 ある私の尊敬する観覧者さんが初めて観た民謡大会の素直な感想を私に伝えてくださった時、衝撃が私の中に走ったのでした。 「声をただ無理して声を張り上げ唄う歌に素直に聞き苦しく魅力を感じなかった」
その意見に私のどこかで感じていた気持ちにヒットした 私は音戸の舟唄をこれまで一生懸命に舞台上で歌ってきたのだったが、お客様に観ていただくと、「あなたの唄は喉の血管が張り裂けそうな歌い方に見えますね」 と言われた。 つまり、観ていても力が入ってしまう(歌い手に力が入りすぎているので観ている方も疲れるという意味だと思う)
だけれども、私は審査員さんの得点のつけ方に、声量という項目が存在し、だから迫力を出さなければならないのだと自分の中では考えていた。 だから毎年、舞台の上で精一杯、声を張り上げて頑張っていた。 だが、最近、私の中で考え方が大きく変わってきた この間、民謡魂で菅笠節が放映された。 大会時の歌い方とは、やや違っていたので違和感が少しあったのだったが・・ そのなんとも心の篭った、話しかけるような、ささやくような、わかりやすく全く力まない歌い方に感動 私は衝撃を受けた。
プロは上手だと言えば簡単だが、プロも私達と同じ人間である。 プロなら誰が歌っても人の心を感動させられるほど、民謡は甘くはないと私は考えている。 菅笠節を歌われた方は誠に素晴らしい 私は、そこから多くのヒントを頂いた 大きな声を出そうとする前に、まず発音が良くないと逆効果になる。 口の形がねじれていないか 歌う姿勢が正しいのか 心が緊張しすぎてはいないか それらを鏡やビデオ撮影を行い、自分で検証してみる必要があるように私は考えている。
私はお風呂で民謡を歌ったりして楽しんだりするのだが、その時には力んで唄ってはいない。 それは自分の声が反響し、声量が少なくても良く聴こえるからだと思う。 あのように大会時に歌えるようになりたいと思う。 もう力んで舞台で歌うのは卒業したいと考えるのだが、そんな簡単に思うようには唄えないであろう。 特に勝ちたいと考える心が大敵だ そんな欲望は私の目指す民謡には必要がない そもそも、例えば音戸の舟唄を大会会場で誰のために唄っているのだろうか
皆さんは大会でどなたのために民謡を表現されておられますか 自分の入賞のためでしょうか お師匠さんのため いや観覧者さんのため 私は、自分の民謡を愛する気持ちを、正しく舞台上で表現をし、その気持ちを観覧者さんに伝えたいためです。 もう勝つとか負けるというのは捨てたい。 今の自分から、その欲望を完全に捨てることなど出来ないかもしれませんけれども、そこを目指したい。
今、私は転換してゆく帰路に立っているのでございます 大会で勝つ人が優れているとは限りません。 私の思う本当に優れている民謡人は、民謡を一生懸命に取り組んでいる人に手を差し伸べることの出来る人なのです。 私の親族の叔父さん(80代)が、私に一言教えてくれました 「価値がないことに力を注ごうとすることが、実は最も価値があることである」 と。 人は価値が高いものに引かれがちです。 いつも価値を比較し、高いものの方へ動きがちです。 逆に言えば、価値が感じられないものに力は貸しません。
愛がある者へは無償の愛を注ぐと聞いたことがあります。 人が動くのは基本、動く価値がある時です。 が時に価値が低くても動くこともあります。 そんな時、実は自分が最も成長するのかもしれません。 見える価値に寄ることは簡単ですが、見えない価値に心がトキメキ動いてこそ、あなたの民謡は輝くのです この言葉は、あなたにささやいたのではありません。 私自身に、目指す意味でささやいたのです。 本日もご拝読、誠にありがとうございます
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