ネコのヒトビト

ネコにまつわるヒトビトについてのお話等

ガクレキとコトバ

2021-10-10 22:24:02 | 思ったこと
中卒の母がいつもきく
「てれわーくってなに?」
「ねがてぃぶってなに?」
「えびでんす て なに?」

今日は、
「くらぶってなに」と言っているように聞こえたけど
不明瞭だったので
もいちど聞き直すと
「ふらぐってなに」になっていた。
クラブなのか フラグなのかわからないので
一緒にテレビを見ていなかったから、わからないと答えた

母が 中卒なのは 母のせいではない。
そして
そのあと、労働力として雇われて言葉を覚えるチャンスがなかったのは
母のせいではない。

そして、
一生懸命 子育てをしながら、仕事もやって、
数字もわからないのに 帳簿を書いて
文字もわからないのに 様々な仕事をこなしてきたのだ

しょっちゅう怒られても、だまって我慢して、
騙そうと近づいてくる輩は 上手に撃退した。
時には誰もが凍りつくような相手の勧誘を断り、その「しるし」をまとめて
送り返したりもした。


最近の コロナ の事情についても、よく観察している。
いろいろな人が普通に受け入れていることも、なぜかな?おかしいな?という目で見ている。全般に言えることだが、形だけで受け取らず、現象の真理を見抜くよう探求する心ももっている 実は、賢い人なのだ。

だけれども、カタカナのコトバがいくつかわからない。
それが、彼女にとってはこの年齢になるまでコンプレックスだったにちがいない
人と話すのに、どこまで正直に自分の思っていることを伝えていいのかわからない。ときには、呆れられ(それぐらい知らないの?と、なってしまうので)
その様子をみた身内から「恥ずかしいから喋るな」と遮られ
いつも自分の想いを語る場がなかった。ただ黙っていることが多かった。

今になって私にカタカナ言葉を聞いてくるのは
もう人生の終盤になってはいるものの
まだ知的好奇心が旺盛なのだという事を物語っている
そして、ようやっと「言葉がわからない」ことについて
私には言っても大丈夫という信頼関係ができたのだろうということ。
介護をすることになるまでは 私は母親とあまり向き合ってこなかった。
だれからも バカにされ、侮られていた。
だから、私も彼女のことを 知らず侮っていた。
しかし、
彼女こそ偉大だったのだ。
本当のことというのは、時がたたないとわからないことがある。
母についても父についても、そのときわかったふうでも
あとになって、もっともっと深いものがあったことに気づくことがある。
親の想いというのは底知れない深さがある
それになかなか気づけないでいる。

私は母にいった
「だれにでもわかることばをつかって、短い文章で人に真意が伝わるように喋る人が、本当に頭のいい人だと思う。」
「カタカナの言葉をつかって喋ってる人が頭のいい人だとは限らないし、
相手がわかるようにという言葉選びができない人は、あまり優しくないのではないかと思う」
「私は、専門用語を使って患者をケムにまいて説明したつもりになっている医療従事者を何人か見てきたけど、個人的にはそういう人は大嫌い」
「相手のわからない言葉をつかって説明してわからないやつが悪いという考えの人は、根性悪いし、意地悪だと思う」

最終的には、優しさが人を救う。
理論だとか 知識は、その優しさの先にあってこそ生きるもの
最初にある動機が大事
同じ誰かを救い上げる行為でも、
相手からの見返りを期待しての行為か
本当の親切心からくる行為かで
価値が全然違うと 私は思う。

なんだか カタカナ言葉というところから離れて自論を言ってしまった。
つまり
母はけして、言葉をしらないからといって頭の悪い人ではないよ
という、励ましの意味があったのだ。
本当に大切にしなければならない本質がわからないと、
頑張って頑張って東大をでて せっかくすごい役人になったのに、
痴漢行為などで逮捕されたりするのだ。
頭がいい=学歴ではないと思う。

本当に大切なことはなにかを
わかっているか、いないか。

学歴があるから、
言葉をたくさん知っているから

それだけで 人の価値は きまらないのだ、
強く思った。

すくなくとも
言葉を伝える立場の人たちは、
もうすこし 言葉を知らない人たちにも伝わるように
優しい心で 言葉を選んでほしいと切に願う

今お年寄りの人たちは、戦後の時代を一番苦労して今の日本を築いてきたのだ。
もう少し敬意を持って 言葉を尽くしてほしいと切に願う。


最新の画像もっと見る